ケルベロス・システム 2
画面が揺らいだことに、誰も気が付かなかった。ケルベロス・システムを直接に見ることができるのはカリムだけなのだが、そのカリムがいない。主のいない部屋の中で、画面が揺らいだことに気がつく者がいるはずがないのだ。
だが、不在であることを誰も責められない。生理現象で部屋を出ることもあるだろうし、それにそれを踏まえてヤミを検知した際は司令室へのアラートを行うことなどは、既に設定済みなのだ。
ということは、今現在起きているこのモニター異常は、ヤミの出現とは無関係なのだろうか? それはまだ誰にもわからない。
・・・
カオルとカリムは夕方の東都へ出ていた。足が悪いだけで他はまったく問題のないカリムは、高性能の自動車椅子でカオルを置いてとっとと先を進んでいた。人通りも多い中をジム・カーナのように巧みに進んでいくカリムを見て、いつも素晴らしい運転技術だとカオルは舌を巻くのだ。
二人は夕暮れの街を進み、新大久保にある韓国料理の店に入った。二人にとって通い慣れた店であり、よく出前も頼む場所でもあった。
「やっぱりここはいつ来ても外れがないね」
「そうね」
骨つき肉にチーズを巻きつけタッカルビを食べる。普段は高カロリーの食品を避けるカオルも、ここの高カロリー食品だけは遠慮なく食べることにしているのは、この店の食べ物が望郷の物だからだ。もちろんそれ以外にも故郷を懐かしむのモノはもちろんあるにはあるが。
「いつ食べても懐かしいなぁ……。思い出すよ」
「あ、マスター。あとクッパね」
店のマスターにクッパを二人分注文する。カオルがここへ来てたらふく食べるのには他にも理由があった。それは……。
「あのさ、カオル。僕の奢りだからって食べすぎないでよ」
「え? あぁ、うん」
これは今日もたらふくコースだな、とカリムはため息をついた。だが、カリムはこうやって家族と食事に出かけるという行為そのものが、かつて自分を満たしていたものだったから本当は嬉しいのだ。彼の姉も良く食事をする人だった。だからそんなカオルも好きだった。
充分過ぎるほどに食事をして二人は店を出ると、すっかり太陽は落ち、東都は夜の帳が下りていた。街中にネオンが光り、人々は幸せの中で会話をしていた。日本に来た当初、カリムはこんな光景が嫌で嫌で仕方がなかった。自分が失ったものが、この街にあふれていたからだ。街に出るのが嫌で結局、システムの自室に閉じこもって出てこれず、心配したべスパに声をかけられてもそっけなく返すだけだった。
カオルが来て、やっと彼は自分というものを取り戻し始めたのだ。
『ヤミ出現』
二人がのんびり歩いていた時、同時にそのメッセージがスマートフォンに届いた。二人は顔を見合せてから若干少なくなった人通りをかき分けながらシステムへ戻った。
・・・
カリムは自室に戻り、カオル一人で司令室に戻ると、そこはいつもの様子と変わっていた。皆が慌てながら右往左往し、モニターを睨みながら指示を出しあっていた。いつもはこんなに騒がしくなるはずはない。少なくともこれまでの二体の時はこうはならなかったはずだ。
「キャップ、戻りました。なぜこんなに混乱してるんですか」
「カオル。戻ったか」
キャップもいつもより心なしか慌てている。
「ケルベロス・システムをかいくぐってヤミが出現したんだ。おかげで、一般監視システムと民間からの通報で判明して、そこそこの被害が出ている。お前も準備して出発してくれ。先にラディが向かっている。べスパもラオも出張中だ。お前のシフトでないと多少きついかもしれん」
「了解です。準備が整い次第出発します。場所のナビを送ってください」
それだけ言うと、カオルは司令室を後にした。
カリムは自室でケルベロス・システムのモニター前に座り、飛んでもない事態に直面していた。四つあるモニターのうち三つがノイズが走り、残りの一つも画面が不明瞭となっている、モニターの破損のはずがない。壊れたとしても同時に全て不調になるはずがないのだ。問題はシステムそのものにある。
「ケルベロス・システムがジャックされている。普通ではこんなこと出来ないのに……」
カリムは司令室のキャップに内線を繋ぎ、事の次第を告げる。キャップはしばらく黙り、カリムはその沈黙が非常に心地悪かった。目を離した隙にこうなった。これは僕のせいなのだ、と。ちゃんとメンテナンスをしていたとかそんなものは言い訳だったからだ。
そんなカリムを見透かしてか、キャップは内線越しにカリムに告げた。
『カリム。状況は分かった。ジャックなのは間違いないんだな?』
「はい」
『なら原因を探れ。どこの誰がシステムに入り込んでジャックしたのか。普通では出来ないことだからな。あと同時にカオルとのシフトも準備しておけ。カオルは現場に既に向かった』
「了解しました。……キャップ、すみません」
とりあえず優先順位を考えて動け。そう言って内線は切られた。
カリムはウイルスサーチ用のディフェンスワームをサーバーまで流した。ディフェンスワームが原因を見つけ出すまでの間に、カオルとのシフト用の回線の準備に入った。
カオルの左手首に、通信デバイスが取り付けできるステーが巻かれている。ここへ通信デバイスをつける事によって、遠隔でカリムはカオルへシフトできる。そしてそれも特別な回線であり厳重にプロテクトが掛けられている、はずだった。
「そ、そんな。こっちもジャックだって!? このままだとシフトが出来ない!」
カリムはシフト用回線にも大至急ディフェンスワームを放った。そして経過を見るがどこにもヒットしない。このままでは大変な事になる。カリムは自室を飛び出した。
「キャップ!」
司令室に戻りキャップに詰め寄った。
「どうしたカリム。何があった」
「シフト用の回線までジャックされてるんです! ディフェンスワームも帰ってこないんです!」
「何だって!?」
ここにきてキャップも焦燥の声をあげた。これはただ事ではない。何の力が意図的に、シフト能力者の二人であるカオルとカリムに向けられていた。
「キャップ、僕を現場に連れて行って下さい。直接シフトします!」
「……わかった。そうするより他ならないな。ワームは飛ばしたままにしておけ。だが問題は……」
カリムはキャップが何を言わんとしているか分かっている。この混乱のさなかにある司令室にいる人間の誰が、カリムを送ることができるのだろうか。このとき、カリムは自分が不自由であり、ひねくれてリハビリを怠ってきたことを後悔した。足が動けばこんな事にはならなかった。
「カリム、私と行きましょう」
その声は二人の後ろから聞こえた。振り返るとそこにはライダースーツを着込んだマスターが腕を組んで立っていた。
「マ、マスター、正気ですか? あなたの運転で私が何回死に──」
「ほら、カリム。行きますよ」
「わわっ!」
マスターは喋っているキャップを遮り、カリムの車椅子を押して司令室を出ていった。扉が閉まると、キャップはカリムの身の安全を祈った。




