序・漂流の社 Ⅱ
憶は目を開けた。視界にはいつもの天井が見える。
視線を横にやると目覚まし時計。何故かセットした時間に鳴らず沈黙していた。
いつも通りにベッドから降り、立ち上がる。体を伸ばして深呼吸を一つ。ドアを開けて廊下へ、廊下から一階へ。
灯りに誘われるように、台所のある方向へと向かう。そこには両親と姉が居り、既に席についている。テーブルには、ありふれた朝食が湯気の立つ状態で並んでいる。
「――――――?」
「――――――」
父親と母親が、憶に向けて何かを語り掛けている。ただ口調こそ平素の雰囲気だったが、それは言葉として理解できるような発音ではなかった。
「……」
ただ、憶自身は特に違和感を覚えることもなく、席について食事を始めてしまった。
そのまま団らんの一時。
全てを終えたあと、自分の部屋へと戻り、着替えを済ませ、再びベッドに腰かけた。
(二度寝、したい気分だなぁ……。でも時間がもったいないなぁ)
思考を働かせ、眠気に抗ってみるものの、しかし、睡魔の誘惑と言う名の衝動には勝てず、ベッドに倒れるように横になった。そして、一瞬にして微睡みの淵へと沈んでいくのだった。
「ん……んぅ?」
目を開けた。見知らぬ天井が見える。
「夢?」
段々と視点が現実を向き始め、そのまま、夢の中でそうしたように視線を横にやると、そこには。
「お、やっと起きた。よほど疲れてたんだな、お前」
目覚まし時計ではなく、喋る三毛猫が居た。
「……」
「うん? どうした? オレの顔になんかついてるか?」
当然ながら猫髭、猫目、猫耳が付いている。そしてそれが喋っている。
「お、おーい? 大丈夫かー? オレが見えてるかー?」
前脚を器用に使い、私の目先を探すようにフリフリと振っている。しかし、目線は目の前の三毛猫を凝視して離さない。
「ね……ね……」
「ね?」
「猫がっ! 喋ってるぅ!?」
そうして、憶がようやく口に出来た言葉は、目覚めたばかりの頭では、容易には受け入れ難い事象に対する驚愕の絶叫だった。
「八尋、お前。オレのこと話してなかったのかよ!? オレぁてっきり……」
「いやぁ、ははは。当たり前になりすぎていて、すっかり忘れていました」
「こンの馬鹿野郎。どうりで反応が変だと思ったぜ……」
憶の絶叫を聞いて、慌てて部屋を訪れた割烹着姿八尋と、先ほどの三毛猫が話をしている。二人、いや一人と一匹は馴染みらしく、自嘲気味に苦笑を浮かべる八尋に向けて三毛猫が苦言を述べている。
「あ、いえ。私も大声を出し過ぎました。ごめんなさい……」
「あー、お前さんは気にすんな。そりゃあ、びっくりもするさ。人語喋る猫とか滅多にいないからな」
「本当にごめんなさい。この世界には様々な住民が居て、中にはこの三毛猫フウのように、人間の言葉を介した交流のできる種族も居るのです」
心底申し訳なさそうに、八尋が憶に頭を下げている。フウと呼ばれた三毛猫は、八尋の脚を前脚で叩き、反省せよと促している。
「それにしても何と言うか。フウって、凄く滑らかに喋るんだね?」
「おう。一緒に喋りたかった奴がいたから、血反吐吐きそうになるくらい練習したぞ。お陰で今は、この通りだ」
そう言うと、フウは後脚二本で自立し、前脚を、まるで人が両腕を広げるようにして見せた。
「器用だね」
「だろう? まるで犬みたいな真似も出来るようになったぜ。オレ、猫だけどな」
「フウは可愛いですね。口は悪いですが」
そう言うと、八尋はフウの頭を撫でた。
「口が悪いのは放っておけ。それより、撫でるのは別にいいけど、飯作ってんだから、ちゃんと手を洗い直せよ?あと、飯食う時にでも、ちゃんとこの界のこと説明してやれ。危ない場所もあンだから」
「分かってますよ。大丈夫、そこまでは抜けていませんから」
「本当かよ……?」
「ええ。それではボクは夕食の支度に戻りますね。もうすぐで終わりますから、先に居間の方で待っていてください。フウ、案内を任せます。連れて行ってあげてください」
「あいよ。ほれ、ついてきな」
八尋が部屋を出たのと同時に、フウも部屋を出る。憶はその後ろをついていくように歩き、長い廊下を共に進む。
所々に別の部屋へと通じる襖や扉があり、想像以上にこの離れが広大だという事を思い知らされる。
「デカい家だろう?最初に来たときは、オレも度肝抜かれたもんさ」
まるで憶の心を読んだかのように、フウが笑う。
「住み慣れていても迷いそうだね。よく私みたいな人が来るのかな?何人来ても大丈夫そうだし、八尋さん、面倒見良さそうだから」
前を行くフウの尻尾の揺れを楽しそうに見ながら、率直な感想を口にする。見ず知らずの人間に、ここまで世話を焼いてくれるような人物は、そうそうお目に掛かれないだろう、と感じたからだったが、フウは、いや、と前置きする。
「前に八尋に聞いた話だけど、ここにはお前さんのように、元の場所に帰りたいって考える奴は、滅多に来ないらしい」
「え?」
意外なフウの言葉に、憶は一瞬言葉が遅れる。
「オレも詳しいことは知らんし、分からん。ただ、ここは基本的に、そう言う連中が来る場所のようだぞ?」
「そう、なんだ」
「まあ、詳しい話はあいつに聞け。あいつはオレなんかよりも、もっと前からここに居るみたいだしな。少なくとも、オレよりかは何か知ってンだろ」
「うん、分かったよ。有難う、フウ」
もう少し話を聞きたい欲求が首をもたげていた憶だったが、そうこうと話をしているうちに、ゆったりと複数人が座れそうな卓が並ぶ部屋にたどり着いていた。
「ほい、着いた。まあ、適当に座りな。オレは定位置に居るからよ」
それだけ言うと、フウは二つ置かれている座布団の内、窓際に近い所の横にある手ぬぐいの上で丸くなり、前脚を舐め始めた。
「えっと……」
憶は、フウが丸くなった場所とは反対の座布団に座り、待つことにする。
居間として使われている部屋は広く、客間と同様の内装をしている。ただ一つだけ違う点があり、部屋の隅に蓄音機と、掛けるためのレコードが収められた棚が置かれている。
(レコード? 音楽聴くのが好きなのかな?)
気にはなったものの、そう言えば手を洗うことを忘れていたと思い、座ってすぐだが手洗いに立つのだった。
その日の献立は、白米、味噌汁、川魚を焼いたもの、ほうれん草の白和え。フウにはそのうちでは焼き魚が与えられ、食事が始まった。
「なるほど。それで家出なさったんですね」
「はい。冷静になって考えると、喧嘩する必要もなかったと言うか……。恥ずかしい話です」
「いいえ、誰しも譲り難いことはありますから。それが、どんなに些細なものだとしても」
「有難う御座います。そう言ってもらえると、助かります」
わいわいと、夢の中でそうしたように団らんする。まずは憶の身の上話から始まり、それが一段落すると、次に八尋の話に移った。
「八尋さんは、ここには、どのくらい住んでいるんですか?」
そう尋ねると、八尋は少し困った表情を浮かべてから、数秒の思考のあと。
「具体的にこれくらい、という数字で示すことは出来ないんです。時間の単位をよく、知らないので……」
そう答えた。すると、フウが助け船を出す。
「なら、巡った季節で例えればいいんじゃないかね。ほら、なんつったか。“芽生えの季”とかいう、お前が四つの季節に付けた呼び名で」
「なるほど……。それなら」
フウの提案に、八尋は何かを思い出すように考え始め、そして。
「少なくとも、一つの季節を千は数えていますね。ただ、最初は数えることを考えもしなかったので、もっと重ねているかも知れませんが」
「千……!?」
絶句し、憶の飯を運ぶ手が止まる。
「オレも初耳だ。お前さん、想像以上に婆さんだったんだなぁ。ここだと老けることもないから、全然分からん」
「笑われるようなことは話していませんけど……」
フウが笑い、八尋は苦笑を浮かべる。
「ああ、そうでした。ついでなので、この界のお話でも。ここには、四つの大きな変わり目があって、それぞれに、ボクなりに名前を付けたのです」
憶が絶句し続けている原因を、知識の不足からと誤解した八尋が、漂流界についての説明を始めた。
「一つを“芽生えの季”。文字通り植物が芽吹く時期だからです。二つに“青葉の季”。山々や森に、一番多く青葉が見られる時期だからです。また、暑い時期でもありますね。三つが“紅葉の季”。これも、紅色や黄色に色付く葉が多く見られる時期だからです。最後が“枯葉の季”。これも文字通り、枯れ葉が多い季節だからです。また、とても寒い時期でもあります。これらの季節が順々に訪れ、巡っています」
「ちなみに、今は“青葉の季”だな。この時期は、爽快な日和と雨の日とが交互に来るようになってる。明日は晴れらしいが。な、八尋」
「はい、晴れですね。明日、貴方の事を紹介するために人里に向かいますが、道中にガクアジサイの自生する道を紹介できそうで良かったです」
なかなか言葉を紡げずにいる憶をよそに、楽しそうに話し込む一人と一匹。
「えっと、そうなんですね。それはそうとして……。今、人里って聞こえましたけど、人間の町があるんですか?」
ようやくそれだけ口にし、憶は食事に戻った。
「はい。ここに流れ着いた人々の一部が集まり、一つの町として成立させました。皆そこで自給自足の生活をしています。顔ぶれが限られるので、要らぬ混乱を招かぬよう、もし新しく人が訪れた場合には、彼らに紹介しておく必要があるのです」
「あいつら、ことごとく訳ありばっかりで余所者には敏感だからな。ま、大丈夫だとは思うが、お前さんに不逞を働く奴が出てこないとも限らん。面倒くせーが、必要な手続きさ」
「そうなんですか……。もしかして、結構危ない場所もあるんですか?」
「ええまあ、残念ながら……」
八尋は、憶と自分の湯飲みに茶を注ぐと、神妙な表情を浮かべた。
「この漂流界に開いた“門”の周辺では、その“門”の先にある界の特色に合わせた変化が起こります。過去に起きた例では、海の界に繋がった“門”近辺の川から、突如、鱶が飛び出してきたことがありましたから」
「鱶?」
「あー、えっと。大形のサメの事です。ワニザメとも呼ばれるみたいですね」
「大きいサメが突然、川から飛び出してくるんですか!? それは怖いどころじゃないですね……」
思わず想像してしまい、憶は湯呑みを取り落としそうになる。しかし、興味をすぐに別の方向に向けることで驚きを誤魔化した。
「色々と気を付けないといけないんですね。他には何か、注意点はありますか?」
「ならオレから一つ。この社から出て動きたいときは、必ず八尋かオレを連れていけ」
先に食事を終えていたフウは、一つあくびをすると、思い切り体を伸ばした。
「さっきの“門”の事一つとっても何があるか分からんし、お前さんを襲おうとする奴がいないとも限らん。加えてお前さんにはまだ土地勘がない。要するに、案内人兼護衛さ」
「護衛……」
そう言われ、憶は思わず八尋とフウを見てしまった。八尋はにこやかに微笑み、フウはのんびりと寝転んでいる。案内人としてはこの上なく頼りになりそうではあるが、護衛としてはどうか、と思ったからだ。
「はははは! 気持ちは分かるぜ!」
すると、フウは憶の視線に何かを察したのか、大笑いした。
「オレだって最初は意味が分からなかった。例の人里には、八尋よりよほど体格の良い腕自慢な奴が何人もいるが、こいつには絶対に歯向わねぇし、言うことにも従順だ。お前さん、何でだと思う?」
「八尋さんが、滅茶苦茶に強い?」
そうとしか考えられなかった。
「おう」
その通りとフウは肯き、八尋は照れるように頭を掻いた。
「こいつはこうだし、信じられないかもしれんがね。まあ、そのうち凄さを見られるだろ。あ、ちなみにオレは腕っ節がどうとかいうアレじゃなくて、この首輪に付いてる鈴の力で、直ぐにこの社に戻るための道を作ることが出来る。ま、役には立つぜ?」
人間で例えるなら、少々自慢げにも感じられる雰囲気で、フウは首輪の鈴を鳴らす。
「ボクは、フウの言うほど凄いわけでもないですけど、少しでもお手伝いできればと思います」
一方の八尋は、あくまでも謙虚に、何処か恥ずかしそうに表情を緩めている。
「有難う御座います。どうか、宜しくお願いします」
そんな二人に向けて、憶はゆっくりと頭を下げる。いずれにせよ、二人の助力無しに目的の達成は不可能なのだ。
多少の不安を抱えつつも、憶はそれらを咀嚼し飲み込むように、碗に残されている残りの夕食をかき込むのだった。
序章はこれで終わりとなります。
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