第一章 -9
9
キリキア属州の州都タルソスから、およそ七十キロ西に進み、それから少しばかり舟を漕ぐと、そこに現カッパドキア王が贅を凝らして造り上げた、新しい宮殿がある。アルケラオスの理想の結晶、エライウッサ島。
ポレモンと死に別れたピュートドリスは、七年前に再婚し、ここへ移り住んだ。ポレモンの遺児二男一女を、アルケラオスは当然のように迎え入れてくれた。夫婦のあいだにはアルケラオス二世が誕生し、すくすくと育っているところだった。
この島をマウリタニア国王夫妻が訪れた理由は、二十年前とよく似ていた。ユバが、このたびはガイウス・カエサルのアルメニア遠征に随行してきたのである。
ガイウス・カエサルは、おそらく次にローマの頂に登るであろうこと確実な、二十歳の若者だった。なぜなら彼はローマの第一人者アウグストゥスの実の孫であり、息子である。アグリッパとユリアに授かった三男二女の長男は、幼くして祖父の養子とされた。以後、若者の第一人者として破格の待遇を受けて育ち、とうとう本年は、ローマ最高位の官職である執政官にまでなっていた。
彼が東方に派遣されてきたのは、去年だった。理由は、アルメニアが王位継承問題でもめた末、暴動騒ぎを起こしたことだった。そのうえそこへ大国パルティアが介入してきた。ローマとしては、アルメニアには親ローマ派の王を置き、パルティアと距離を置いてもらわねばならない。さもなくば東方の防衛線が危機に瀕する。
ピュートドリスとしてもこれは重大な問題だった。アルメニアはポントスの隣国である。もしもアルメニアがパルティア側へつこうものなら、ポントスは東方防衛の矢面に立たされ、平穏を脅かされる。同国で大規模な戦が起こっても同じことだ。前夫ポレモンから受け継いだ王国を、ピュートドリスは守らねばならなかった。
カッパドキア王であるアルケラオスも、事情は同じだった。そしてもちろん夫婦ともに、パルティアへ寝返ってローマの同盟国をやめるつもりはなかった。事実上の属国であれ、平穏な統治ができていることに違いはないのだから。
それで、ガイウス・カエサルがエーゲ海に浮かぶサモス島で越冬するつもりであるとの情報が入るや否や、アルケラオスはさっそく礼を尽くしに出かけると言った。ピュートドリスは驚いた。礼を尽くしに参上することに対してではない。それはむしろ一刻もおかずやるべきことで、まったく正しい。が、夫は六十歳になってますます重くなっていた腰を、いとも軽々と上げたように見えたのだ。六年も前にロードス島に来たティベリウス・ネロには、一度も会いに行こうとしなかったにも関わらず。
ピュートドリスはポントス女王として、自分も赴くと言った。けれどもアルケラオスは首を振った。
「心配無用だよ。君の分の挨拶は、私が済ませてくる。それよりも君は、小さいアルケラオスと国を守っていておくれ。おそらく私も、この冬はサモス島で越すことになるであろうからな。春には、ガイウス・カエサルを案内して、ここへ戻ってくる。そのときにはカッパドキアとポントスの威信をかけて、盛大にもてなさねばならんぞ。そのための支度も、任せてゆくからな」
ピュートドリスはそれを承った。ガイウス・カエサルの件に関してならば、まったく理にかなった手筈だった。
寒がりの夫のために、ピュートドリスは馬車に上着と毛布を積めるだけ積み込んだ。中で窒息でもしかけているような夫に、体に気をつけるよう念押ししつつ、送り出したのだった。
結局、ティベリウス・ネロのことには触れなかった。
年が明けて三月、予定どおり、アルケラオスはガイウス一行を招いて、エライウッサ島に帰還した。以後、ピュートドリスは連夜の宴のために忙しく過ごさねばならなかった。
セレネ叔母と二人、ゆっくり話す機会を持てたのは、四日目の昼だった。
「ティベリウスに会ってきたのよ」
宮殿の庭を散歩しながら、セレネ叔母が知らせた。ピュートドリスは猫を追いかける二歳の息子に手を引かれているところだった。思わず足を止め、叔母へ振り返った。
「ロードス島を訪ねたの?」
「いいえ、ティベリウスがサモス島に来たのよ。ガイウスに会いに」
今度は、宮殿の小窓へ首を向けたピュートドリスだった。様々な濃さの青い色ガラスの向こう。そこでカッパドキア国王夫妻の主賓が、もう昼過ぎではあったが、この日明け方まで続けた宴の疲れを取るために、今も休んでいるはずだった。
幼いアルケラオスの手が離れていった。
「アルケラオスは、ティベリウス殿のことを話していなかったわ」
「アルケラオス殿が到着する前だったのよ。ティベリウスもサモス島に一泊しただけで、すぐ帰ってしまったわ」
そう、とピュートドリスはぼんやりとうなずいた。やはりそういうことだった。
夫はティベリウスに会えなかった。いや、会わずに済んだわけだ。
ピュートドリスがゆっくり歩みを再開すると、セレネ叔母も肩を並べた。心配そうに顔を覗き込んできた。
「ねえ、どうしてあなたたち二人はティベリウスに会いに行かないの? もちろん、そんな義務はないのだけれど、でもあなたはティベリウスのことが好きだって、ずっと言っていたじゃない」
「アルケラオスが行きたがらないのよ。私は私で行ってもいいのだけれど、やっぱり夫を差し置いていくのもどうかしらと思ってね…」
そう首をすくめて答えた。実際、理由はアルケラオスへの遠慮も多分にあった。夫とのあいだに波風を立ててまで、少女時代の思い出を更新しようと思いきれなかったのだ。
それに万一、会って気持ちを押さえられなくなったらどうするのか。
セレネ叔母はこくりと首をかしげてきた。
「どうしてアルケラオス殿は、ティベリウスに会いたがらないのかしら?」
「以前、一度会ったことがあるそうよ。そのとき、どうも馬が合わなかったみたいで……」
ピュートドリスは言葉を濁したが、実際詳しいいきさつは知らなかったのだ。
「とにかく今は、会いに行かなくてよかったと思っているようよ。ガイウス・カエサル殿に、自分はあなたの味方であると明示できたからって」
これを聞くと、セレネ叔母は足を止めた。ピュートドリスがまた振り向くと、叔母は悲しげなまなざしで首を振っていた。
「ガイウスとティベリウスは、対立などしていないわ」
「当人たちはどうだか知らないけれど、周りの者は大乗り気みたいよ。叔母様は聞いてないの? 昨日の宴の席でも、『お望みとあらば、今すぐにでもあの流罪人の首を持って参りましょう』とか話して、大盛り上がりしていたわよ。『流罪人』とは、ティベリウス殿のことでしょう?」
ピュートドリスは少し離れた卓にいたが、ガイウスとアルケラオスを囲む集団から聞こえてきた言葉だった。ローマから従ってきたガイウスの側近、そして東方各地からせっせと若き未来の第一人者にお追従しにやってきたどこぞの某たち。
セレネ叔母の話で確信した今となっては、もっとひどかった。なにしろ連中は、その「流罪人」がいかにガイウスにへこへこと頭を下げたか、そればかりかその側近たちにまでいかに腰を低くして顔色をうかがってきたかを、延々と自慢していたからだ。
全部サモス島での出来事だったのだ。
なぜ連中の料理に毒を盛ってやらなかったのだろう。
ピュートドリスは信じなかった。ティベリウス・ネロが自らを辱める真似をしたなどと。我が胸に残る彼は、決してそんな男ではない。
それとも、二十年の歳月が、人を変えてしまったのだろうか――。
だがピュートドリスがその話を続けると、セレネ叔母も首を振り続けた。
「そんなところ見なかったわ。ティベリウスはいつもどおりだったわよ」
それで、ひとまずはほっとした。だがセレネ叔母はたまたま居合わせなかっただけかもしれない。そうでなくとも、すでにティベリウス・ネロがわざわざサモス島まで出向いた時点で、連中が大得意になるに十分だったのだろう。
「だいたいひどいわ。ティベリウスは『流罪人』なんかじゃないのに」
セレネ叔母は憤慨した口調で言ったが、それはピュートドリスも知っていた。ティベリウス・ネロは自発的にロードス島に引っ込んだのだ。
以来六年、ピュートドリスの目にも、ティベリウスの立場は日に日に危うくなっているように見えた。
側近の頭は、マルクス・ロリウスという元老院議員だった。政務・軍事ともに熟練であるというこの五十四歳に、アウグストゥスは直々に孫を託したという。彼はガイウスに言っていた。
――ネロに温情を見せてはなりませぬぞ。彼はもはやあなたとはなんの関係もない男。お父上は、まだ彼を許しておりませんぞ。
――かつてゲルマニアで尊大に軍を指揮していた男が、哀れにも命乞いする様をまだご覧になりたいのもわかります。ですが今は、できる限り距離を置くのがよろしい。あの男を孤独にして、さらに不安がらせるのです。そうすれば、あるいは向こうのほうから尻尾を出すやもしれませぬ。すでにあの男には、陰謀を企んだ疑いがありますからな。
ピュートドリスがセレネ叔母に訊いたところ、その疑いとは、ティベリウスがサモス島を訪ねたとき、彼の宿に一部のガイウスの側近や軍団兵たちが集まったことであるらしい。
ロリウスは真剣な面持ちで、さらに続けていた。
――彼はあなたの敵です。今はそう見えずとも、いずれ必ずあなたの前に立ちはだかりましょう。リヴィアの威を借り、大いなる野望を胸にたぎらすあの男が。
――ガイウス、よく考えておかれよ。あなたがた一族のため、国家ローマのため、いずれ為さねばならぬ一事を、いつ為すのか――。
ユバはこんな男の仲間をしているのか。ティベリウスの成長ぶりに涙していた過去も忘れ、時流に追従し、ガイウスに鞍替えしたというわけか。
刺々しくならないように努めながら、ピュートドリスはそのことをセレネ叔母に指摘してみた。セレネ叔母はほっそりとした眉を下げた。
「ユバは、ティベリウスとガイウスがどうにかなるなんて思ってないわ」
「でも、ああいった会話が耳に入らないわけがないでしょ」
「ユバは大丈夫だと信じているのよ」
ピュートドリスは結局それ以上追及しなかった なぜならティベリウスを「流罪人」呼ばわりする人間には、夫アルケラオスも含まれる。そしてピュートドリス自身も然りだ。もしもポントス女王として、あるいは別の立場で、行動を起こさないならば。
ユバに関しては、どうも無邪気にガイウス=ティベリウス間の緊張を無きものと信じているようにも見えた。アルメニア遠征自体、実のところ彼にはついでであるようだ。彼の最大の目的は、それにかこつけて東方各地を練り歩き、『地誌』を著すことであるらしい。
そんなことをする暇があるのか。実のところ、今年いっぱいはたっぷりあるようだった。なぜならガイウス一行は、すぐにアルメニア遠征に取りかかるつもりはないとのことだった。ガイウスたっての希望で、なんとエジプトへ向かうのだという。
ピュートドリスは内心あっけにとられたのだった。だがガイウス一行が言うに、ガイウスは執政官であり、アウグストゥスの代理として東方を統べる者なのだから、各地を視察してまわるのは当然の職務であるらしい。現に行く道のユダヤは、ヘロデが死んで以来ずっと不穏な状態が続いていているので、一度にらみを利かせておかねばならない、と。
確かに、ユダヤは不安定だった。つい先ごろも、父親に処刑されたはずの正妻の子アレクサンドロスが、再び現れた。彼はエーゲ海の島々で熱烈な歓待を受けまくった末、とうとうローマのアウグストゥスの御前までたどり着いてしまった。王子の顔を知っていたアウグストゥスは、愉快がってその偽者を船漕ぎにしたそうだが、そんな笑い話で済まない事態も起こるかもしれない。
だが、肝心なのはアルメニアのはずだ。それに、果たしてガイウス・カエサルが東方を統べる者であって良いのか。ピュートドリスはこのたびガイウスをもてなした。二十年前、ティベリウス・ネロにも会った。二人はほぼ同じ年齢だった。
この目は恋情にくらんでいるのだろうか。それにしても明白ではないのか。ローマにもアジアにも、この事実を指摘できる人間がだれもいないのか。
だいたいそのティベリウスのときでさえ、アウグストゥス自身がサモス島まで来て、万一の事態に備えていたのだ。今回その役を務めるのはロリウスか。ロリウスがいれば良いのか。二十年前とは比べるべくもない若輩が、東方を統べる真似事をしても。
ピュートドリスも一役買ったのだが、ガイウス一行はローマを出て以来、盛大なもてなしを受けない日は一日となく過ごしてきたらしい。その規模と浴びた歓声の数たるや、偽アレクサンドロスの比ではなかっただろう。
結局のところガイウスは、ただ羽を伸ばしたいだけなのかもしれない。ローマでは、祖父の愛と期待を一身に受け、息が詰まる思いもしていただろう。まだ二十歳の、遊びたい盛りだ。祖父の厳しい監視を逃れ、富あふれる東方世界を旅したいと思うのも無理はない。
そういうわけで、ガイウス一行の今年の目的地はエジプトとなった。おかげでユバは大はりきりだった。なにしろシリアからエジプトまで、もしかしたらアラビアやエチオピアくんだりまで足を伸ばせるかもしれないのだから。
エジプトへは三十年前、同じ道を通って行ったことがあるそうだった。それはまさにアントニウスとクレオパトラを追いつめる遠征で、ユバは、敵国の王子に生まれた身分であったが、ローマ軍に参加していた。そしてアウグストゥスによって制圧されたエジプトで、初めてセレネ叔母に会ったという。
この度は『地誌』のために、さらに詳しく調べてまわると意気込んでいた。地勢に、歴史に、風俗もと、目を輝かせっぱなしだった。すでに作品を何巻も出版し、今後も執筆するつもりである彼だ。実際、このたびピュートドリスがユバに再会して早々に語られた話題が、マカロンは健勝でいるかどうかだった。マカロンとは、ピュートドリスが親しくしているポントスの学者である。世界各地を渡り歩いているため、大抵故郷にいないのだが、ローマも一度ならず訪ねたことがあるという。ユバとはそのときに知り合ったようだ。
最後に会ったとき、マカロンもすでに『地誌』を書きはじめていると話していた。それで、ユバは彼と切磋琢磨することを望んでいた。六十三歳の先輩に大いに敬意を払いながら。
ユバのために、ピュートドリスはすでに手紙を書いていた。マカロンに届けよと使者に命じ、慌てて訂正した。マカロンとは、彼がなにかの冗談で始めた自称だったと思い出した。
だが当のユバは、もうすぐガイウス一行と出立する。ひとまずの目的地は東方世界の核、シリアのアンティオキアである。遠征の主力となるローマ軍団兵が、そこに常駐していた。
ピュートドリスとしても、ユバはともかく、なかなかに傍若無人に振る舞うガイウス一行にうんざりしていたので、出立は歓迎だった。マカロンには、エライウッサ島でのんびり待ってもらえばいい。どの道すぐに捕まるとも限らない男だ。
だが問題が一つあった。ユバは、セレネ叔母をエジプトへは連れていけないのだ。
なにもかもこの一事からはじまったと、ピュートドリスは思い返す。
セレネ叔母自身も、エジプトへの帰還はあきらめていた。父母の仇とはいえ、命を奪わず、高い教育を与え、王妃にまでしてくれたアウグストゥスに、わざわざ願い出るつもりもなかっただろう。
それでもやはり、恋しくてたまらなかったに違いない。せめて父母と兄たちの墓に花を手向けられたら、と。
「いつまでもここにいてちょうだい」
同情の言葉は一切かけず、ピュートドリスはそう言った。すでにユバがしかと抱擁して何日もなぐさめたに違いないし、陳腐な言葉をかけて自己満足に浸りたくないと思った。そんなもので楽になるのか、家族も故国も永久に奪われたセレネ叔母の悲しみが。
「お話ししたいことがいっぱいあるのよ。年頃の息子たちへの教育とか、アントニアの嫁入り先とか。アルケラオスも歓迎すると言っているわ」
「アルケラオス殿は、シリアへ行かないのね?」
「ええ、もうガイウスをもてなす義務は果たしたからって。あとはアルメニア遠征がはじまるまで、エライウッサから一歩もでないでしょうよ」
カッパドキアもポントスも、ローマが戦をするのなら同盟国として兵を出さねばならない。けれどもアルケラオスは、おそらく配下の将に任せるつもりだろう。ピュートドリスも同様だった。各方面からアマゾン呼ばわりされる人生を送ってきたが、万が一にもまだ子どもたちを孤児にはできなかった。戦場へ行ったきり、ポレモンは二度と戻ってこなかったのだ。
セレネ叔母はうなずいた。
「ここは素敵な島だものね」
「ええ。でもいくらなんでも十何年もこもっていたら退屈しそうなものだわ」
アルケラオスはポレモンとは対照的な男だった。似たような出自で、同じくアントニウスの友人に連なり、彼から王位を与えられたのだが。ポレモンは陽気で話し好きで、活動しないことに耐えられないような男だった。一方アルケラオスは口数少なく、内向的で、引きこもりがちだ。もう一緒になって七年になるピュートドリスも、彼がなにを考えているのかよくわからないと思うことがある。
「ねえ、叔母様、エライウッサで退屈したら、ポントスへご案内するわ。今年ももう少し暖かくなったら戻るつもりなの」
道の突き当たりで、幼いアルケラオスが泣いていた。薔薇の生垣に手を突っ込んだらしい。
「お馬鹿さんね。猫ちゃんはここを上手いこと避けてたでしょ?」
駆け寄り、抱き上げ、小さな手指に接吻してやる。
痛い思いをしなければわからないこともある。親としては、それがなるべく軽度で済むよう注意してやるしかない。
幼いアルケラオスはすぐに泣き声を引っ込めた。代わりにまばたきもしない涙目で自分と母の手指を見つめ、母のほうをぱくりと口に入れた。
何人産んでも、子どもというものは可愛いと思った。