第一章 -8
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とかくこの世は女に不利にできている。
統治をするのも男、戦争をするのも男、命の危険を冒さず欲望を追求できるのも男だ。そんな独善主義者どもに、女は支配されている。男による統治の都合で結婚させられ、離婚させられる。男に求められて子どもを作り、男による戦争でその子どもを失う。結婚とは女の墓場だ。ローマ人の法律を見るがいい。夫は、奴隷や娼婦であればなん人抱こうが孕ませようが、罰せられることはない。一方妻は、夫以外の男との関係が露見した途端、財産没収のうえ終身追放と決まる。最悪の場合、夫か父親の命令で殺される。彼らにとっては当然の権利なのだそうだ。
ならば一生独身でいればよい。そうすれば女も好きな男と好きなだけ交際できる。自由に生きられる。だが、ローマ法は独身女に税金を課すのだ。そのうえ五十歳を過ぎれば、財産相続と遺贈の権利さえ奪われてしまう。こんな法律を作ったのはほかでもない、あのアウグストゥスだ。ピュートドリスは、この件でだいぶ彼への感謝の思いがゆらいだと言わざるをえない。
しかしピュートドリスはローマ女ではない。それどころか、女王だ。小国で属国だが、一国の主だ。デュナミスとただ二人だけ、この世で女の最高位に就いている。
だが女王でさえ、最も恋しい男と結ばれることは叶わない。デュナミスもおそらくそうであっただろう。
気の毒なデュナミス。その最初の夫アサンドロスは、婚姻時すでに六十歳に達していた。彼女は十四歳でしかなかったのに。そして夫は岳父を裏切り、その手にかけたのだ。以後デュナミスは三十年余りも、父親の仇を伴侶として生きてきた。
彼女がポレモンを殺さなければ、ピュートドリスはそれほど彼女を恨めしく思わなかったかもしれない。
そしてセレネ叔母だ。彼女は王妃だ。女王に次ぐ女の地位に就いている。だがそれは決して安泰を意味しない。
一例は、ユダヤ王国を見れば十分だ。かの国の大王ヘロデは、四年前に死んだが、数えきれないほどの妻と子どもがいた。ヘロデはまず自らの正妻を殺した。彼女がヘロデに父親と弟を殺されたことを恨んでいたためである。そして妾腹の長男と、正妻腹の次男三男が骨肉の争いを繰り広げた末、父親は結局その息子三人ともを処刑した。
パルティアでもアルメニアでもかつてのポントスでも、王国となれば事情は変わらない。一夫多妻と血みどろの王位継承争いの世界だ。こんな悲劇に見舞われる危険がいつもついてまわるのだ。
だが、セレネ叔母は最高の夫を持ったはずだった。同じ王でも、好戦的なヘロデとは似ても似つかない、世界一温厚で心優しい夫。マウリタニア王ユバ二世。
「一目でわかったわ! あなたが私の姪っ子ちゃんね」
二十年前、ティベリウス・ネロとのあの運命的な出会いのあと、セレネ叔母はにこにことユバの腕を引きながら現れた。それが初見だった。ユバはティベリウスのアルメニア遠征に、同盟国の王として参加していたのである。当時、ユバは三十歳、セレネ叔母は二十歳。
夫妻は、似た境涯にあった。ユバの父親は、ヌミディアの国王であったが、先代ユリウス・カエサルと戦って敗れ、自刃した。そして息子ユバは四歳でローマに連れていかれ、凱旋式の見世物にされた。しかしその後はカエサル家で手厚い教育を受け、東方世界にまで名の知られた学者に成長したのだった。
セレネ叔母もまた、父母がエジプトで最期を遂げたあと、ローマで凱旋式に引き出された。そしてその後カエサル家で、アウグストゥスの姉でアントニウスの妻であったオクタヴィアの養育下に置かれた。彼女の双子の兄と弟も、同様の待遇を受けたという。アウグストゥスは、敵の子どもたちを自らの家に住まわせ、ローマ人と同様に教育し、ついには王位まで与えたのだった。
初めて会ったその日、夫妻はピュートドロス家別荘の客人になった。
「ねえ、ピュリスには好きな人がいるの?」
年頃の姪に、セレネ叔母は早速尋ねてきた。もちろんだった。ピュートドリスはまだ夢見心地でいたが、焦がれる思いを隠さずに伝えた。
するとセレネ叔母は、
「私もよ! 私もティベリウスが初恋の人だったの!」
などと表明してきたのだった。
するとユバが、たちまちしょんぼりと眉毛を下げた。
「セレネ…そんなこと言われたら、私はどうしたらいいんだい? 私じゃティベリウスに逆立ちしたって勝てないのに」
「逆立ちなんてできないくせに」
セレネ叔母は夫へ片目を閉じてみせた。ユバが底抜けの運動音痴であることを、ピュートドリスはあとで知った。
「馬鹿ね。あなたより先にティベリウスに出会ったってだけなのに。安心して。私が世界でいちばん愛しているのはあなた。私を世界でいちばん幸せにしてくれるのはあなたよ」
そう言うと、ピュートドロス一家全員が見守る前で、夫と熱い接吻を交わしたのだった。
ピュートドリスはうらやましくてたまらなかった。
唇が離れたとき、ユバはうっとりと頬を紅潮させていたが、ピュートドリスとアントニオスの凝視に気づき、あたふたと背筋を伸ばした。
「そ、それにしても、ピュリスちゃん。君の気持ちはわかるよ。本当に、ティベリウスはかっこよかったものね。私も、一応国王なのだから、あれくらいたくましさと威厳を備えられればと思うんだけど、なかなかね。まったくうらやましいやら、ちょっと妬ましいやら…」
「よく言うわ」
セレネ叔母はにやにやと夫を見上げた。
「ローマ軍に合流して、ティベリウスに会うなり大泣きしたのは、どこのどなただったかしら? その後も行軍中に、背中を見るだけで涙が止まらなくなるから、とうとうティベリウスがしんがりを任せて遠ざけざるをえなくなったのは、どなたのことかしら?」
ユバははたと妻を見た。じわじわとその両眼に涙があふれ、ついにはそれを肘でぬぐいつつ鼻をすすり出したのだった。
「…だって……ティベリウスが…あんなっ…立派になって……。ついこのあいだまで…私の膝の上で…本を読んであげていたのにっ……。マルケルスの分まで…よくぞ生きて……」
カエサル家で育ったということは、つまりユバもセレネ叔母も、ティベリウスと同じ屋根の下で育ったということだ。特にユバは、長くティベリウスを弟のように可愛がっていたらしい。
やれやれと微笑みながら、セレネ叔母は優しく夫の頭を抱いてあげていた。ピュートドリスはまたうらやましさに悶える心地がしたが、今度はティベリウス・ネロのことを考えたのではなかった。叔母夫婦の親しみが、愛につながれた姿そのものが、目に染み入った。
ティベリウス・ネロが、あのときのユバのような姿を見せるなど想像できない。それでもピュートドリスは、いつか叔母夫婦のように伴侶と結ばれたいと、本心から願ったのだった。
その後、ユバはティベリウス・ネロとともにアルメニアへ向かったが、セレネ叔母はそのままピュートドロスの家に滞在し、夫の帰りを待つことになった。
「大丈夫よ」
セレネ叔母は苦笑してうなずいていた。
「ティベリウスが『ユバのことは必ず守る』と約束してくれたもの」
ユバは、セレネ叔母の父アントニウスとは真逆の男なのだろう。戦に向かない男という点では、むしろアウグストゥスと同類の男なのだろう。
「心配なのは、女のほうよ」
と、セレネ叔母は頬を膨らませてみせた。出立の前夜、ユバは宴席の踊り子に鼻の下を伸ばして、セレネ叔母に思いきり頬をつねられていたのだ。
「もしもアルメニア女と浮気なんかしたら、クレオパトラお母様直伝の毒をたんまりと盛ってあげるんだから」
だがこのときも、セレネ叔母はそれほど深刻に不安を感じてはいなかったのだろう。その日は夜がふけてもなお、ピュートドリスと陽気に話し込んだ。所々で神話を引き合いに出して、古来より悩ましき恋の話を盛り上げた。ユバとの馴れ初めも聞かせてくれた。
ピュートドリスはこの叔母が大好きになった。女王の娘で、今は王妃であるのに、少しも気取ったところがない。笑顔は遠慮なく大きく、気さくそのもの。それでいて優美で、あでやかで、王家の者たる気品は完璧に備えている。金だけはある者が、その財の半分を投げ打ってでも欲すべき抜群のセンスでもって、頭から足先まで装う。
その教養は、学者として名高い夫に引けをとらなかった。そのうえ気配りもさりげなく、現れる先々で会話に花を咲かせることができた。高尚な学問の話から巷の噂話まで、決して気品を失わずに応じるかと思えば、十歳のアントニオスには目の行き届く女教師のように、優しく噛み砕いて語り聞かせるのだった。
父母を自死で失い、故国からさらわれて継母に預けられ、セレネ叔母は数奇な運命を歩んできた。だが彼女は一瞬たりともその蔭を感じさせはしなかった。悲痛に無感覚だったからではない。それを胸に置いてなお立っている強さが、彼女の美しさと聡明を裏打ちしていたのだろう。
この人のような女性になれば、ティベリウス・ネロの心を射止められるかもしれない。ピュートドリスはそう思った。今でもセレネ叔母は、自分の未来はこうであれと願う、あこがれの女性だ。
以来、二人は手紙を交わし合う仲になった。ユバが、国王であるのに暇をつくってはギリシア本土を旅し、アジアにまで足を伸ばすこともしばしばだったので、数年おきには会うことができた。セレネ叔母はいつも幸せいっぱいに見えた。ユバとのあいだには一男二女を授かっていた。
夫妻の仲が脅かされたことはなかったのだろうか。ユバももしかしたら侍女に手を出す類のことはしていたかもしれないが、少なくともセレネ叔母の手紙には、踊り子に鼻の下を伸ばすこと以上の文句は見られなかった。ともかくセレネ叔母のほかに、王宮に妻を迎え入れはしなかった。国王にしてはまれなことだ。だが彼は一夫一妻制度のローマで育てられた。それに実際、セレネ叔母に夢中だったに違いない。
「セレネ、どこへ行くんだい? 私も連れていっておくれ」
ピュートドリスがよく見た光景がこれだった。無類のギリシア文化愛好家であるユバの旅に、セレネ叔母が同行してきたはずなのだが。
ピュートドリスにとって、ユバとセレネ叔母は理想の夫婦だった。少なくとも今年の春、エライウッサ島で出迎えたときは、この気持ちに変わりはなかった。