第四章 -10 -完ー
10
九月も中旬に差しかかると、陽が少し短くなったことが感じられた。暑さもまたやわらぐ気配を見せた。それでもアウグストゥスは、少しも心をやわらげる気はなかった。家の応接間にでんと座り、向かい側の二人へ容赦しなかった。
前も奥も天幕を下ろし、パラティーノの丘に吹きつける涼しい風を遮断した。じりじりと蒸し風呂と化していく応接間を、気にも留めていないふうに腕を組んだ。自らのじっとりとした視線で、周囲を陽炎のように歪ませんとした。並んで身をすくませている男二人が、溶けて消え果てるか消し炭になるのを、今か今かと待ち構えた。
「…………で?」
アウグストゥスが小さくうながすと、ピソとレントゥルスは同時にびくりと引きつった。が、わざとらしかった。
「申し訳ありませんでした」
すでにこの日五度目くらいだったが、二人は平身低頭そろって詫びを入れてきた。アウグストゥスの気持ちは微動だにしなかったが。
「…………だから、で?」
ピソとレントゥルスはこそこそと視線を交わした。
「……ティベリウスは優勝しました」
「それはもう聞いた。ドルーススから」
ドルーススは先に下がらせていた。実際、本当になにも知らなかったのだろうし、行って帰ってこられた今となってはどうしようもない。責める気はないし、無駄である。ドルーススも言い訳しなかった。この二人と一緒に身を縮こまらせながら謝罪し、あとはしょんぼりと殊勝にしていた。
それでも、腹の前になにかを大事そうに抱えていた。それはなにかとアウグストゥスが尋ねると、とたんに双眸を輝かせた。
「ファレラエです! 父上と戦車を彫った――」
そこではっと我に返り、たちまちまたしおれていった。冷淡な無表情のまま、アウグストゥスは内心薄ら笑った。
ファレラエとは、ローマ軍の百人隊長が甲冑を飾るのに使う、金属製の円盤である。上官から勲章として授与されるが、ドルーススのそれは父親の優勝記念として個人的に求めたのだろう。当人か、だれかが。今更どうでもよいが。
アウグストゥスがそれを見せるように言うと、ドルーススは露骨に顔を白くした。叩き折られるのを恐れてでもいるようだった。だったらなぜ持ってきたのか。結局誇りたい心が勝ったのではないのか。震える手から受け取り、アウグストゥスはあちらへこちらへ掲げて眺めるふりをしながら、今にも泣き出しそうな目で追いかけてくるドルーススを横目で見ていた。それで許してやることにした。
それにしてもファレラエのなかのこの男ときたら――。
アウグストゥスは丁重に、ドルーススに宝物を返した。祖母リヴィアに挨拶するように言って、応接間から解放した。義理の孫はこれで放免だが、良い年をした大人二人はそうもいかなかった。
「…………それで?」
アウグストゥスは静かに訊いた。
「自ら手綱を取りました」
亀のように首を引きながら、レントゥルスが答えた。
「それもさっき聞いた。あれは頭がおかしくなったのか?」
「いえ……」
「自分の年齢もわからなくなったか? 年甲斐もないとなぜだれも教えてやらなかった」
「……直前で御者が怪我をしました」
「ほう、つまりあれは、自分も怪我をしてもかまわないと思ったのだな。四年に一度の名誉のために」
アウグストゥスはつい声色を苦くした。言ってやりたいことがたくさんあった。
「い、いえ…、御者が怪我をしたのは、競技祭とは関係のないところです」
「ふうん……」蛇のように二人をにらんだまま、アウグストゥスは肘掛をこつこつと指で叩いた。「そう言えばだが、あれがフィリッピの野でクレオパトラ・セレネと気勢を上げたなどという話も聞こえてきたが」
「それは偽者です」ピソとレントゥルスは同時に言った。レントゥルスが続けた。「カエサルもよくご存じのはず。ティベリウスはそのような軽率な男ではありません」
「戦車が押し合いへし合い猛然とひっくり返るなかを疾走したという男の、いったいどこが軽率でないのか、君たちは説明できるのか?」
「……すみませんでした」
二人はまたひれ伏した。アウグストゥスはそっけなくため息を吐いた。
「つくづく優雅なものだな。こちとら老体であるのに、酷暑のなかを休まず仕事だ」
「お察しします」
ピソが神妙に言った。
「ガイウスのアルメニア遠征など我関せずか。そもそも六年前にあれが放棄した任務だぞ」
「ごもっともです」
「六年も好き勝手して、まだ足りないのか」
「弁解もできません」ピソはうんうんとうなずき、それからトーガの中に手を入れた。「ですが、ここに本人からの手紙が」
「ほほう」
「きっと此度の件を説明しているはず」額に汗の粒を浮かべつつ、あたかも事も無げに、ピソは書簡を卓に置いた。「それから、カエサルのお心にかなう言葉もあるかと」
「はて、なんの心当たりもないな。あれの言葉など読みたくもない」
「どうかそうおっしゃらず」
書簡が押し出された。アウグストゥスはそれを虫の死骸であるかのように眺めた。肘掛を打つ以外なにもしないでいると、二人はそわそわしはじめた。レントゥルスが先に屈した。
「カエサル、ティベリウスの勇姿ときたらすばらしかったです。ご覧になるべきでした」
「あいにくと、そんな暇もなければ義理もなくてな」
「四十八年生きてきて、これほどの興奮はありませんでした」
ピソはいかなる皮肉も知らないというふりをし続けていた。ひっそりと息を吸い込んでから、身投げでもするように卓へ乗り出した。
「カエサル。どうかよく考えてもみてください。我らのティベリウスが、ローマ人初優勝ですよ。オリュンピアで!」
「ふうん……ふうん……」
「ここにその証明がございます」
ピソはトーガからさらにかさばるものを取り出した。
「本物では傷めてしまうし、長持ちしないと思いまして、模型を作りました。ご覧ください、この黄金のオリーブ冠! 中は青銅ですけど。これをカエサルにと、彼の――」
「こんなもの、だれが要るか!」
アウグストゥスはついに怒鳴りつけた。飛び起きた拍子に黄金が宙に浮いた。
「そんな暇があったら、男に生まれた義務の一つも果たせ!」
二人はあわあわと長椅子をゆらした。アウグストゥスはぶんと腕をふりまわした。
「君たちもだ! いつまで元老院を怠けている気か!」
「は、はいっ! すみませんでしたぁーーーー!」
二人は応接間を飛び出していった。振り返れば、天幕とひっくり返った長椅子越しに、憎々しげに黄金のオリーブ冠をにらみ下ろすアウグストゥスが見えたはずだった。
二人はアトリウムの彼方へ消えた。アウグストゥスは肩で息をしながらたたずんでいた。
マルスの野には、オベリスクが立てられていた。ローマ軍がエジプトから持ち出したものだが、新しい土地になじむべく、日時計として実用的な務めを担っていた。無論、パラティーノの丘から目を凝らしても、その細微な動きまでとらえることは困難だったが、ともあれアウグストゥスが応接間から出てきたときには、入ったときよりも子どもの頭二つ分ほど影が短くなっていた。
それでも、奴隷たちは次々に寄り来た。主人が元老院の重鎮二人を怒鳴り散らして追い返したのだから、事情を確かめたがるのは当然だろう。アウグストゥスは渋い顔をした。私になにも訊くなと命じれば済む話だったが、ただ目につきたくないだけだった。天幕からそっと顔を出し、何度も気配をうかがったのだ。ようやく隙を見つけたつもりだった。
背中を丸めたのは、腹まわりのトーガの膨れを目立たなくしようと努めたからだった。足音を念入りに忍ばせたのだが、無駄だったらしい。むしろ平常よりも余計に多くの奴隷たちが、声までかけてこずとも、いかにももの問いたげな視線をそこらじゅうから注いでくるのだった。
アウグストゥスは彼らにいちいち首を振り続けた。なんでもない、なんの問題もないと、ぶつくさ言った。もぞがゆい視線の中を、家父長の威厳もないがしろにこそこそと歩いた。おなかをどうかしましたかと訊いてくる者がいた。柱廊に入ると、落ちましたよと書簡を拾い上げてくる者もいた。アウグストゥスは彼にわけのわからない罵倒を吐いた。運びましょうとの申し出には、頑として首を振った。けれども我が手で持つことができないそれは、結局顎で挟む羽目になった。
執事はさすがになにも訊かなかった。主人のうなり声一つで、屋根裏部屋の階段を下ろす程度には察していた。リヴィアを呼べという次のうなり声も、しかと聞き取った。しかし終始気まずそうに目線を合わせてこなかった。
リヴィアはまもなく来た。おそらくは孫ドルーススからたくさんの土産を渡され、ファレラエを見せびらかされ、旅の思い出話を怒涛のごとく聞かされたあとだった。階段を上る足音がためらいがちだったのは、夫のこの仕事部屋に招かれた経験がこれまでになかったからかもしれない。
「どうかしましたか、あなた?」
馴染んだ声は、やはり訝っていた。
「リヴィア!」
背伸びをしたまま、振り返った。頭上の吊り棚では、黄金のオリーブ冠が誇らしくきらめいていた。アウグストゥスもまたまったく負けるつもりはなかった。
「ローマ人初優勝だ!」
(ティベリウス・クラウディウス・ドルーススによる補足)
ポントス女王ピュートドリスが伯父と対面したという史実は残っていない。女王の名も、学者マカロンの著作に記されているのみである。
しかしその夫アルケラオスはローマで最期を遂げている。伯父に召喚され、八十歳近い老体を押して元老院まで出てきた、それからまもなくのことであった。
またトラキア王妃アントニアも元老院で証言台に立った。夫の謀殺を訴えるためである。果たして無事に仇を討った彼女は、幼い息子と共にトラキアの共同統治者として承認され、母と同じく女王となった。また、たくさんの我が子から娘ゲーバイピュリスを選び、ボスポロス王に嫁がせた。この王はすでにローマ市民権を得、ティベリウス・ユリウス・アスプルゴスと名乗っていた。
ポレモン二世は母と共同統治の王となった。ゼノンはアルタシアスと名前を変え、アルメニアの王位についた。アルケラオス二世は父の死と共にカッパドキアを失ったが、キリキア王としてエライウッサ島とアジアの山岳地帯を治めることとなった。
記録上、ピュートドリスがその長い善政とともに生涯を終えたのは、伯父が没した一年後である。
―完―