第四章 -9
9
ピュートドリスは敗北を認めた。九月二日、オリュンピアでの勝利の宴から一週間が過ぎ、今やもうアテネにいた。郊外にあるネロ家クリエンテスの邸宅に、昨日入った。そして、もう耐えられなくなった。
なにが担う覚悟か。別れる覚悟か。そんなものは現実を前に脆くも崩れ去った。
アルケラオスを愛していた。子どもたちが恋しかった。国民が待っていた。すべてピュートドリスが自らのものと決めた存在だ。生涯を賭して守りたいし、守らずにはいられない。その思いに嘘はない。だからこれで良い。これで良いのだ。だれよりもピュートドリスが望んだ結論だ。納得していた。
人の心のなんとはかないものか。納得などあまりにもあっけなかった。
それでも覆す意思はなかった。だからこそ涙が止まらないのだ。起き上がることさえできないのだ。
泣きながら、嘲りのかぎりを尽くした。なにが「真のアマゾンになる」か。こんなひ弱で格好悪いアマゾンなどいようか。
なにが「ティベリウスのため」か。良い子ぶった偽善そのものだ。
なにが「どうしてもっと誇りに思わない」か。不遜にデュナミスを叱咤激励した小娘はどこへ行った。
なに者でもない日々は終わりだ。明日はもう来ないと知った。
今日がティベリウスと過ごす最後の一日になる。
「お嬢さん」
デュナミスの声が頭上から聞こえた。
「泣いているうちに日が暮れてしまいますよ」
そのとおりだ。ピュートドリスは生涯最も貴重な時間を浪費していた。
朝、目を開けた瞬間から現実に襲いかかられた。だれにもなにも言われなかったにも関わらず。朝食は、これまでとなにも変わらずティベリウスと一緒にとり、平静を装った。けれども昼を待たずして、どうにもできなくなった。しかし愛する男の胸で泣くことなど、絶対にしたくなかった。困らせるだけだ。苦しめるだけだ。自分がますます情けなくなるだけだ。
もう決めたことだ。このうえもなく幸せな結末ではないか。ピュートドリスは家族も国も失うことはない。これからも愛する男を胸に生きることができる。しかも共に過ごした思い出まで持つ。
こんなことならいっそ会わなければよかった。詩人たちに使い古された言いまわしが、今より痛切に苦しめてきたことはなかった。
一方、ティベリウスにも帰る場所がある。彼はここにいるべき男ではない。
三日前、パトラスの港で、ドルーススは父と別れた。ピソとレントゥルスに連れられ、来た道をたどり、ローマへ帰っていった。ドルーススもまた目元を濡らしていたが、それでもその顔は晴れ晴れとしていた。
「父上、早く帰ってきてください」
それは、その言葉を心から伝えられる喜びを知っていた。そして遠からず必ず再会がかなうと信じていた。
ピュートドリスはこの父子の幸福を願った。今すぐにでもティベリウスをローマへ送り出したいとさえ思った。
けれども一方、ピュートドリスはもう二度とティベリウスのあたたかい腕に抱かれることはない。
もしかしたらまた会えるかもしれない。だが十年後か、二十年後か。二度とない可能性のほうがずっと高かった。少なくとも今の彼とはお別れだ。再会は決してあり得ない。
さようならだ。あの青い瞳も、超然とした頬も、白い肌も、均整のとれたたくましい肉体も、二度と直に感じることはない。声も聞けない。降り注いだ接吻も、かけがえのない微笑も、二度と。
それでも良いと思っていたのではなかったか。十三歳の初恋は、長い片思いは、もう十分すぎるほど報われたのではないのか。これ以上なにを望むのだ。彼は至高のまま、永遠にピュートドリスの胸に生き続ける。
なにが、永遠か。そんなものはいらないと声のかぎり叫びまくりたかった。永遠などくそくらえだ。私がほしいのは明日だ。愛する男の傍らにいる、ただの明日だ。
だったら、すべてを捨ててしまえば良いではないか。もう一度。
そんなことをしてももはやだれも幸せにならない。ティベリウスはもちろん、ピュートドリス自身ですらきっと幸せになれない。それがわかっていた。
だからただただ涙に暮れるしかなかった。
こんな顔を、ティベリウスにさらしたくはなかった。最後に残すのが腫れあがった無様な泣き顔であるなど、最悪ではないか。美しく、明るい笑顔の女であるまま別れるのだ。それくらいできないのか。できそうになかった。どうしたらいいのか。
ああ、どうしたって、ヴィプサーニアにはかなわない。この期に及んでそんな一事にも心が乱れる。きっと美しい涙を流して、それでも気丈に微笑んで彼のもとを去ったのであろう彼女に、ピュートドリスは結局かないそうにもない。
挙句が、これだ。かつて夫を分かち合った宿敵、いずれ自分もそうなるのに見下し続けた老婆、あの世では共同戦線を張ろうと無暗に激励した先達、その人の部屋に押しかけて伏せり、いつまでも泣きじゃくっていた。
完敗だ。認めることが、恥ずべきおのれへの罰だ。この人は、すでに愛する男を失っているのだ。今生の別れを経験した。そして現実に、この世ではもう二度と会えなくなった。それなのにこれまでも今日も、どんな女よりも気高く美しい。
どうしてよ? どうしてそんなことができるのよ?
こんな辛い思いをしながら、どうして今日まで生きていられるの?
デュナミスの寝台を前にひざまずき、敷布に顔をうずめて、ピュートドリスは我が身も裂けよと泣き叫んでいた。
こんな姿をだれにも見られたくなかったが、一人で部屋に籠っては、ティベリウスやまわりに心配されてしまうだろう。セレネ叔母は、せっかくユバと仲直りをして幸せを取り戻しつつあるところへ、姪の身勝手極まる不幸を持ち込まれたくないだろう。
「お嬢さん」
デュナミスの声がまた聞こえた。「ピュリス」
嘲笑って頂戴よ、デュナミス。思いっきり。
そうでもされなければ、私はいつまでも泣き止めそうにない。
実際、一度ならず、いい加減終わらせようとした。水で濡らした布をまぶたに置いて、少しでも腫れを静めようとした。けれどもそんな暇もなくすぐに、また嗚咽が込み上げてくるのだった。もっとひどい顔になっていくのを止められなかった。救いようもない。良い大人になって、こんなに身も世もなく泣いたのは初めてだ。
若い頃は、だれかがなんとかしてくれると思って泣いていた。けれども今は、どうしようもないとわかっているから泣くのだった。
ピュートドリスは決めたはずだった。もう断固として決めたはずだった。
これからも共にあるために、なにができるか。
あの人の幸福とはなにか。自分の幸福とはなにか。
愛していた。ずっとずっと一緒にいたかった。
「あなたはよくやりましたよ、ピュリス」
そんな言葉は聞きたくなかった。情けなどかけられたくなかった。頭をそっと撫でられるなど屈辱だった。
「正直、ここまで成し遂げるとは思ってもみませんでした」
「……私の手柄ではないわ」
ピュートドリスはしみったれた声で言った。敗北を認めたのはデュナミスに対してだけではない。父ピュートドロスにでもあった。結局、父は正しかったのだ。なに者でもなかったことなどない。父がピュートドリスを王妃にして、さらに女王にもしなければ、果たして今日までの僥倖はあり得ただろうか。もといあの日の十三歳が、まともに挑んだとてティベリウスに相手にされたか。彼のゆるぎない愛を得るだけの器と格があっただろうか。今だからこそ、ティベリウスはピュートドリスを愛してくれた。ほかのなに者でもない、ピュートドロスとアントニアの娘で、ポントス王妃で、女王として統治し、カッパドキア王妃になり、四人の子どもを産み、三十四年の人生を歩いてきた、その生身の存在を愛したのだ。今このときに至るまでの道筋を用意してくれたのは、父だった。
まるで本当に会ってしまったら、かえってこの筆舌に尽くしがたい辛さを味わうことになるとも、知っていたようではないか。
ピュートドリスは支離滅裂な言葉でそれを宿敵に言って聞かせた。
けれども父は、きっと一つだけ間違っていた。
「それで、どうして自分を誇りに思わないの?」
デュナミスの言葉は、痛いほど聞き覚えがあった。
「誇りに思っているわよ。ただ辛いだけ……」
結局は、これだ。どんな大層な意志も、ただのいっときの感情に勝てないのだ。もう会えなくなるという現実に、苦しみ悶えて駄々をこねるしかないのだ。
この辛さを抱えて、明日から生きていく自信がない。気が狂ってしまう。
けれどもそんな甘ったれた姿を、ティベリウスにだけは見せたくなかった。
「気づいていますか?」
デュナミスの声は、死にたくなるほど優しかった。
「あなたは自分に対して成し遂げただけではなくてよ。あなたが起こした奇跡は、まるでエジプトの古代の物語。クレオパトラも顔負けでした。あなたの傍らで皆が喜びに輝いていたことを、よく思い返してご覧なさい」
ピュートドリスにはわからなかった。デュナミスがなにを言っているのか。言われたとおり思い返してみるが、上手くいかない。すぐに涙でかすんで見えなくなってしまう。だれの顔も、出来事も。母とティベリウスの手を引いて得意げだったアントニア、飛び跳ねて感謝を述べたドルースス、他国の女王のために怒ったアスプルゴス、つくづくといまいましげに頭を抱えたルキリウス、とめどなくティベリウスの昔話を語ったピソとレントゥルス、ティベリウスの両脇を挟んでいそいそと買い物に連れ出したマウリタニア国王夫妻――。
幸福だった今日までの日々。これが二十年かけた愛の結末だ。
ピュートドリスは声を止めた。それでも喉はしゃくり上げ、涙はあふれて引かなかった。
「ピュリス、なにを勘違いしているの? ここで終わりではなくてよ」
そんなことはわかっていた。
「あなたが生き続けるかぎり、愛は終わらないのよ」
だから、わかっていた。
「いつまで時間を無駄にするの?」
無駄にしたくてしているわけではない。
「彼だって待ちくたびれていますよ」
辛いのは同じ。思い上がりでない。彼はこうなるのも覚悟で担ってくれたのだ。二度とは耐えがたかったはずだ。
愛を与え合い、等しく苦しみを受ける。それは一面でこのうえもない幸福だ。まして好きなだけ泣けるなんて幸いだ。泣けない人もいるのだ。わかっているといったらわかっているのに。
「ほら、ご覧なさい」
頭の上で、デュナミスの指が躍った。
「いつまで彼を独りにしておくの?」
敷布に顎をこすりつけ、ピュートドリスは目元を上げた。寝台に優雅に横臥したまま、デュナミスは一筋の光へ首を傾けていた。
そんなのはあんまりだ。ピュートドリスはやっと立ち上がった。よろめきながら窓辺へ行き、戸の隙間に指を挟めて引き開けた。
恐れていたほど近くはなかったが、それでもあの背中はいた。中庭の石に腰を下ろして、じっと動かなかった。
ああ、いつから――と、ピュートドリスは気が遠くなる。全部聞こえていたのだろうか。
ずっと見えていたはずだ。なぜ今までひと言も知らせてくれなかった、この性悪婆は。
ピュートドリスの逆恨みに満ち満ちたまなざしを受けても、デュナミスは変わらず悠然としていた。
「早く行っておあげなさいよ」
「いやよ。こんな顔で」
「なら、わたくしが呼んできます」
「やめてよ」
「だからなにを勘違いしているの? わたくしがティベリウスと二人で仲睦まじく過ごすのよ。あなたみたいな意気地なしは、一生この部屋に引きこもっていることね」
それで、ピュートドリスはしかたなく、デュナミスに続いて外へ出た。気配を感じたのだろう。ティベリウスはすぐに振り向いてきた。気高い背筋のまま、立ち上がった。
「まったく、ほら、ご覧なさい」
デュナミスが苦笑してささやいた。
「彼はあなたしか見ていなくてよ」
ピュートドリスはしぶしぶ顔を上げた。ティベリウスがずんずんとまっすぐに近づいてきた。手を取られたときは、本当に腹立たしかった。
こんな男でなければ! こんな男でなければ、ここまで愛しはしなかった!
やっぱり殺してやればよかった……。
ティベリウスはデュナミスと二、三言話をした様子だったが、聞き取れなかった。手を引かれるがまま、ピュートドリスは中庭を横切り、玄関をくぐり抜けていた。
二人きり、来た道を戻った。ピュートドリスはとぼとぼと、ふて腐れがちに、ティベリウスはきびきびと、迷いなく。
それでも、握られた手が痛かった。
木立の生い茂る小道だった。濃い緑は、晩夏に猛る太陽をもそっと遮った。茶色い猫が、石垣の上で心地良さげに目を閉じていた。
ピュートドリスのまぶたが染みた。もたげて、首も動かすと、遠くに海が見えた。吹きつける風はたちまちに乾いて、少しひんやりともして、辺りの野薔薇をゆらした。ピュートドリスの髪も数本、額や首筋から剥がれて、その風になびいた。
エーゲ海より美しい青などないのだろう。これからはこの海を見るたび、焦がれて苦しくなるのだろう。
あるいは、この木立の向こうだ。果てしない大空。それがこの人だ。どうしたらいいのか。もうどこにも逃れようがないではないか。地下にでも引きこもって暮らすのか。
けれども、この大空の下で生きること。それこそピュートドリスの望みだ。
――あなたの望みはなんだ?
今なら答えを伝えられた。
「愛しているわ」
ピュートドリスはぽつりと言った。ティベリウスは足を止めた。
「……最初に言ったわね」
ティベリウスはじっと動かなかった。ピュートドリスはうつむいた。感覚がなくなっているはずの手が、ひどく熱かった。
ピュートドリスはぶんと腕を振った。すでに溶接された手はびくともしなかった。もう一度、力任せに振った。つながれた手はなおも離れなかった。ピュートドリスは振りまわした。無駄に終わると、横に走り出した。すぐにぴんと張りつめてびくともしなくなると、今度は前に走った。結局また引き止められ、じたばたと足掻いた。
目の中に熱がぶり返した。ピュートドリスは唇を噛んだ。うなり声を上げて、どんどん高めた。なにをしたいのか自分でもよくわからなかったが、あちこちへでたらめに走ろうとした。
抗いようもない力に引き戻された。横ざまに胸に手繰り込まれた。ピュートドリスはなお意地でも足掻いた。背中を預けて屈強な腕に固められると、もうなにもかもがどうでも良いと思われた。それでも引きつる胸を感じ取られたくなかった。今にもぐしゃぐしゃに壊れていく顔も見られたくなかった。唇が寄せられる気配に、必死で背けたのだ。
「ピュートドリス、私は君を愛している」
低く、はっきりと聞こえた。
「だからなにも心配するな」
ピュートドリスの心身が、すっと静まった。
翌朝、澄みきった青空の下、最後の時を迎えた。アテネの外港ピレウスの最奥の桟橋、そのさらに果てで、カッパドキア王家の船が停泊していた。かつてのエジプト女王のそれには及ばなくとも、甲板が黄金で縁どられた、優美な御座船だった。
ティベリウスは桟橋の前までを見送りとした。後ろにはルキリウス・ロングス、トラシュルス、それにレオニダスが控えていた。
青き空と海の地平線を見据え、ピュートドリスはずんずんと歩き出した。もう二度と見ない覚悟をして、離れていった。迷いはなかった。
――私は女王。
最後の接吻は、初めて出会ったときと同じように、そっと頬に落ちた。違いは、ピュートドリスも同じように返し、ひっそりとささやいたことだ。
――これからも生き続けたい。あなたが担う世界で。私は、あなたが統べる世界の一翼になるの。
待っているから。何年だって待っているから。だから――。
「忘れないでね」
微笑んで、ピュートドリスは願った。
「私がいたことを、これからも共にあることを、忘れないで。ずっと……」
私はどこにも行きはしない。たとえ姿形が見えなくても、いつでもあなたの傍らで笑っているだろう。
忘れないでほしい。
ふっと溶けるように、ティベリウスは目を細めた。これが今生に見る彼の最後の微笑みだと、ピュートドリスは悟った。どういうわけか、そう予感がしたのだ。
「君みたいな人を、忘れるわけがないだろう」
ピュートドリスの笑顔が輝いた。
桟橋を一人進んだ。愛する人は、最高の形のまま、新たに胸の中に収まった。なにが起ころうともう壊れはしないだろう。この命のあるかぎり忘れはしないだろう。
どんなにかいく度、切なく辛く、胸を苛もうとも。
きっと顔を上げたピュートドリスは、もう桟橋の彼方しか見ていなかった。自分のいると決めた場所、帰る土地は、そこにあった。するとそこに、しきりに跳ねるものが次々下り立った。
長男ポレモン、次男ゼノン、そして末っ子のアルケラオス二世。一足先に乗り込んでいたアントニアは、船梯子にちょこんと座り、いかにも得意げに控えている。
ピュートドリスの胸は歓喜に躍った。両腕を広げて駆け出そうとした。生きていけると思った。これからも、絶望に浸らず希望を信じ、溌剌と、まだまだ成長を続けながら生きていけると思った。
最高の女王になろう。
この大空の下で。
――あの男を止めろ、ピュートドリス。
走りかけたピュートドリスを、だれかが止めた。
――行かせるな。どうなるか見えているはずだ。お前にはわかっているはずだ。
ピュートドリスは止まった。決意に反して、振り返っていた。
ティベリウス・ネロはじっとたたずんでいた。もう表情ははっきりと見えない。それでも気高く、超然と、これまでと変わらずゆらぐ様子もなかった。
けれども大空は、いつしか終わりの見えない黒い雲に浸食されていく。
――帰せば、もう二度と会えはしない。これが最後だ。お前だけなんだ!
私が穿った跡など、はかないのだろうか。残したはずの願いは、消えてしまうのか。
そうだとしても、生き続ける。一日でもいい。彼より長く生き続ける。そうすればきっと忘れはしない。彼は思い出すだろう。私がいたことを。
そう、私は残す。あなたと共に生きた月日を。
でも、そうね、今ひとときの、今生は――。
さようなら、ティベリウス・クラウディウス・ネロ。
ピュートドリスは歩き去った。帰る場所は、この大空の下にあった。