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ピュートドリスとティベリウス  作者: 東道安利
第四章 ピュートドリス、その愛は。
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第四章 -8





「軍団兵上がりは伊達じゃないか……」 

 ルキウス・ストラボはしゃがみ込んだ。足元にはずぶぬれのプブリウス・ファヴェレウスが突っ伏していた。ロリカ・ムスクラは一人でそう簡単に脱げる甲冑ではない。ましてこの男は泳ぎ上手でもなかっただろう。まったくどうやってここまでたどり着いたのか。蟹のように岩場に貼りついてきたのだろうか。

 いずれにせよ、まだ生きる気でいた。激しく喘ぎながらも、虚ろな顔を上げてきた。

「安心してください」

 ストラボはにっこり笑った。

「あなたの苦しみは終わりだ」

 ルキウス・ストラボが同名の父親に呼び出されたのは、去年の初夏だった。首都ローマを出て南へ、すでに強烈になりつつあった日差しの下を、一人馬で駆けた。カンパニア地方の別荘に着いた。

 バイアエの温泉を目当てに、昔からこの辺りには首都の富裕層がこぞって別荘を建てている。父もまた騎士階級の名士として成功を収め、その証として悪くはない屋敷を買うことができた。だがそれは必ずしも温泉とナポリ湾の景観を堪能するためばかりでもなかった。近くにある軍港ミセーノに、毎日通っていた。

 この日、父は別荘の執務室に息子を入れ、奴隷たちを下がらせた。息子が正面に立つと、重々しく口を開いた。

「お前も東方に行くことになった。ガイウス・カエサルの随行者として」

「そうこなくては」

 期待どおりの知らせだった。息子はにんまりしたが、父親は特段うれしそうでもなかった。よく片づいた机越しに椅子に沈み、いつもよりもさらに真面目くさった顔をしていた。

 だが、次に父が口にした知らせはこのうえもなかった。

「どうも遠からず、カエサルは私を正式に近衛の指揮官に任ずるお考えらしい。二名のうちの一方だが、新規の長官職だ」

「すばらしい!」

 息子は狂喜した。思わず机に両腕を突いて身を乗り出したほどだ。

「これで父上は、カエサル・アウグストゥスに最も近しい存在となるのではないですか! 常におそばでお守り申し上げるのだから!」

「それはわからんよ」父は浮かれる気配も見せなかった。「所詮は騎士階級、手駒の一つに過ぎん」

「それでも!」息子は釣られた魚のように跳ねた。「父上次第でしょう? 父上のお働き次第で、手駒はただの騎士ではなくなる。なにしろ本国五千の戦力を従えます。それにもっと増やすおつもりでしょう、カエサルは?」

「そうはおっしゃっておられぬが、そうであろうな」

 父はうなずいたが、相変わらず面白いどころか、失策を犯した後の対応を迫られている男のように見えた。机上で固く指を組んだ。

「ルキウス、これはとりわけ慎重を要する。カエサルが時宜を見て元老院に話すだろうが、それまでは口外するな」

「無論です」息子は顔を輝かせたが、父に不安を抱かせる意図は微塵もなかった。「ですが、それならばなぜ父上は私に今お話しくださったのです? そのつもりで励んでこいとおっしゃっているのでしょう? ガイウスのそばで。ご安心ください。これまで上手くやっておりますし、これからはますます上手くやりますとも」

「あまり調子に乗るものではないぞ」

 父は重苦しく警告した。それから首を振った。

「どうしてカエサルが、この私を近衛長官に考えていると思う? 私がアグリッパやマエケナスと同じほど信を得たと? そこまでうぬぼれてはおらんよ。私が選ばれようとしているのは、野心がないからだ。絶対にあの方を殺さない男だと認められているからだ」

「なめられたもんですねぇ」

「お前と違ってな」息子の嘲りに、父は矢のようにひと言ぶつけた。それからまた重たげにまぶたを下げた。「あの方は基本的に真実の心を明かさない。それでいてこの手腕だ。恐ろしい方だよ」

「心に留めておきます」真面目な顔つきをして、息子はうなずいた。それから視線を横に逸らした。「まぁ、私に関しては、別の方を見極めれば良いのでしょうけども」

「お前にこの件を先に話した理由は、その方に関わる」

 息子のほのめかしに、父は訝るどころか滑らかなまでにすぐ応じてきた。机の下から書類を取り出した。

「ここに名前のある者は、お前と同じくガイウスの随行者に選ばれている。近衛を除いた、高貴な家の子息や、軍団兵の若者だ」

「ほう」

「近衛を良く思っていない。そして共和政支持者とも接触がある」

「なるほど」息子は書類を手に取った。「見張れ、と」

「カエサルがいつ近衛を公にするか、つまり私を長官に任命して正規軍の形をとるか、それはこのアルメニア遠征での近衛の働きにかかっている。と同時に、不満分子がどれほど深刻になり得るかも見極めねばならん」

「承知しました」

 息子は、最初から真剣だったが、このときには父にもそれが伝わっただろう。

「私の将来にも大いに関わることですからね」

 息子はいったん父の前から下がり、長椅子に腰を下ろした。目はすでに書類の上を走り、次々に繰り上げていった。

 息子はまだ若かったが、故国の歴史は知っていた。七つの丘の上に築かれたほんの小国が、王政から共和政へ体制を変えることで数多くの困難を乗り越え、ついには母なる海が届くかぎりの世界を覇権下に収めた。共和政体こそがローマ人の誇りであるのだ。ところが今は、時代がそれを望んだにせよ、共和政体の形を取りながら、「第一人者」が国政の大部分を担っている。王でなければ、王を越えるなに者か、それが「カエサル」である。先代が終身独裁官に就任したために殺されたので、カエサル・アウグストゥスは極めて慎重に我が体制を運営していた。市民の王政嫌いには配慮の上に配慮を重ねた。それで自身の近衛軍団一つ造るにも、数十年がかりになっているのだ。

 「第一人者」が王ないし独裁者とその目に映れば、世の抵抗感がいかほどか。だがカエサルは第一人者であることを辞めるつもりはないであろうし、辞めたところでもはや誰のためにもならないと知っているのだろう。

 息子ストラボは、現カエサルのあり方を全面的に支持したいと思っていた。特に、自分がその最高位の権力に近づき得る可能性があるならばなおさらだった。共和政主義者どもは、自らの無能と不運をだれかのせいにして自尊心を守りたがっているだけだ。

 プブリウス・ファヴェレウス。その名前を目にしたのはこのときだった。すでに父によって素性は詳しく調べ上げられていた。

「ガイウスとは本当に上手くやっておるのか?」

 しばらくして、父は尋ねてきた。

「もちろん」

 虚ろに上げた目に、息子はたちまちまた光をたぎらせた。

「毎日カエサル家に通って、ともに勉学に励んでおりますよ。もっとも私のほうが、うっかりするとさっさと先に進んでしまいますのでね。わざと愚鈍にふるまうのも一苦労ですよ。彼のほうが一つ年上なのですけどね。その後は肉体鍛錬にも出かけて、同じようにします。いやまったく楽ではないですよ。かえって体が凝るので、家に帰ってからもう一度庭を跳ねまわるほどです。まぁ、今日頂戴したすばらしい任務を思えば、やりがいはありましたけど」

 わざわざ近況を報告せずとも、父はすでに息子がガイウスをどう思っているかは知っていただろう。だが――と息子は思う。楽ではないのはガイウスも同じか、と。勉学も運動も凡庸で、たいして好きでもないのに、常にどこにいても「アウグストゥスの孫であり息子」という目で見られる。だれよりも祖父が彼に多大な期待をかけている。

 確かにガイウスは凡庸だが、息子が見る限り、完全に周りの追従を信じられるほどおめでたい頭もしていなかった。気の毒だ。しかし彼はそういう星の下に生まれたのだ。

 息子は我が父に感謝していた。馬鹿にされかねないほど控え目だが、そのためにここまで登りつめた人だ。そして自分は、それ以上を望んでも良いと思っていた。

「ルキウス」父はやはり無暗に深刻な顔をしていた。「ネロの件だ。私がもう一事気になるのは」

「ティベリウス・クラウディウス・ネロですか?」息子は目をしばたたいてみせた。「ロードス島に引きこもりの」

「ガイウスに挨拶をしに来るかもしれん」

「それが、邪魔になりますかね?」

「マルクス・ロリウスは彼に敵意を抱いている」

「ふうん」

 息子もティベリウス・ネロの軍事における功績は知っていた。マルクス・ロリウスなど歯牙にもかけない、間違いなく当代一の将軍だ。それが今は、元義子である若僧に一私人という立場から礼を尽くさねばならないとは、屈辱だろう。そもそもが自らで望んだ引退だという話だが、息子にしてみれば、さっぱり理解できなかった。馬鹿ではないのか。護民官特権まで頂戴しておいて、退くとは。自分であれば、ふしだらな妻であれ、アウグストゥスの娘ならば愛しているふりぐらい容易くやってのけただろう。一人二人早死にしようがさっさと息子をこしらえ、あとはほうっておいただろう。アウグストゥスとの信頼関係を確固として損なわないよう、どれほどの労もいとわなかっただろう。その点では、父ストラボのほうがよほど優れていた。息子には、ネロは単に権力争いに敗れたとしか思えなかった。あるいは、馬鹿正直なのだ。

「殺してしまえばいいでしょう」

 だから、あっさりそう提案した。

「いずれアルメニアが片づいたら、なんらかの行動が起こされるんじゃないですかね? ……おっと」

 そこで、ようやく思い至った。

「まさか、近衛にその役をやらせるつもりですか? それは勘弁ですよ。あの人は仮にもリヴィアの息子ですよ。名門貴族で、一度はアウグストゥスの片腕にまでなった人ですよ。さすがに殺した者が無事で済むはずもないでしょう」

「そうだな」

 父はただ沈着にうなずいた。どうもそれを命じられているわけではないらしいと気づき、息子はひとまず安心した。だからにやりと軽口も叩けた。

「どこのだれだったら、ネロ殺しの下手人を引き受けてくれますかね?」

「そもそもだが」深く沈み込むような目をして、父は言った。「カエサルがネロを邪魔にするとは思えん」

 息子は口を閉じた。しばし父をまじまじと見つめ、その意味するところに考えを巡らした。それからまた口を開いた。

「アルメニア遠征が成功したら、大丈夫だと思うでしょう。ガイウスも、ロリウスも」

 アウグストゥスも、とはつけ加えなかった。だが父はさらに驚くべき言葉を口にした。

「そもそも、成功すると思うか?」

「決まっていますよ」息子はさすがに眉をしかめた。「そのための近衛だと、私におっしゃっているのではないですか?」

「それは思い上がりだ、ルキウス」父は厳しく戒めてきた。「近衛の分から逸脱するな。結局それは我が身の破滅になる。私がお前に命じるのは、与えられた仕事を忠実にこなすこと。そして、ただ見ておくことだ」

「父上は控えめすぎます」書類をまとめながら、息子はひょいと立ち上がった。「ですが、承知しました」

「くれぐれもはやるなよ、ルキウス」

 息子の背中が見えなくなるまで、父は釘を刺し続けたのだった。

 それから息子はローマに戻り、せっせと支度を整えた。八月には元老院と市民に盛大に見送られ、ガイウスとともにローマを出発した。ブリンディジで船に乗り込んだ時には、プブリウス・ファヴェレウスの傍らにいた。

 もう十八歳になるんです、と息子は目をきらめかせて件の男に近づいた。ガイウスの力になりたいと思っているが、ローマ軍団の副官と近衛、どちらに志願するべきか思案しているところだと話した。たくましきファヴェレウス殿、外地の軍団とはどのようなところですか。

 父ストラボの長官就任はまだ公になっていないので、自分の素性などファヴェレウスのごときが知るはずもないと思った。けれども念のため、直前に養子縁組を済ませた家の名前を使った。

 ――父(義父)は軍団副官を勧めてきます。ですがこうしてガイウスの随行員に選ばれたことですし、次の増員があれば近衛に志願したい気持ちもあるんです。

 お父上は質実で立派な方だと思う、とファヴェレウスは話した。だが近衛に優る選択肢はなかろう。なにしろ給料は三倍、除隊は二十年ではなく十六年で、退職金まで軍団兵より多いのだから。

 案の上、ファヴェレウスは軍団兵と近衛の格差を妬んでいた。息子は笑って首を振った。

 ――軍団副官になれるのなら、除隊など関係ないでしょう。あとはのし上がるだけです。あなたと同様に。

 ――そうだな。アエリウス一門であれば、のし上がるもなにも、あとはただ歩くだけでもよかろう。私はのし上がれなかったがね。

 ――そうなんですか?

 息子は、ファヴェレウスが財務官選挙に落ちたことなど知らないふりをした。いかにも親身に聞いて、驚いてみせた。

 ――運が悪かったですね。ですがあなたもこうしてガイウスの随行員に選ばれたのです。家門に頼ることなく。実力はきちんと認められているのではないですか?

 ――そうだな。

 青い海へ、ファヴェレウスはうすら笑いを浮かべた。

 ――よりにもよってマルクス・ロリウスには認められているな。

 驚いたことだが、ファヴェレウスの不満の矛先はロリウスに向いていた。ネロの部下になっていれば、今ごろは順調に財務官になっているはずだと考えていたのだ。あるいはネロが引退しなければ近衛にさえ選ばれていたかもしれないと、夢想している節さえあった。ロリウスは自らの側近選びを誤ったことになるが、どうしたらそこまで自らの不遇なり無能なりを他人のせいにできるのか。 

 兄弟の出世を見せつけられたためもあるだろう。あるいは、すでに心根が軍団兵となったのだろう。部下ほど上官の評価に熱心な者はいないと、父ストラボばかりでなく、叩き上げの軍人である叔父ブラエススも言っていた。そうなればロリウスとネロでは、敗戦した男とその雪辱を果たした男となるのだから、部下としてどちらを選びたいかは明白となる。

 しかし聞くかぎり、ファヴェレウスはネロと直の接点もなさそうだった。ネロが引退したその年にゲルマニアで幕僚になったとのことだ。つくづく不運だ。そして、きっと夢を見ているのだ。共和政主義者たちがそれを煽ったのだろう。けれどもだれよりも彼自身の孤独が、その夢想を募らせるに至ったのではないかと、息子はしだいに訝るようになった。

 けれどもそれは重要ではないだろう。

 東方世界への旅路は華やかなものだった。どこへ行ってもガイウスは大歓待を受けた。実際「青年の第一人者」は大いに気を良くして楽しんでいたのだが、ロリウスはそれに水を差すばかりだった。羽目を外しすぎるなと口うるさくしていた。民衆とは気まぐれである。今はなにをしてももてはやされるが、第一人者の息子として、後の悪評につながりかねない言動は慎むべきであると。それはごくまっとうな注意だったのだが、エーゲ海に入り、ロードス島が近づくと、今度はネロの危険性を吹き込むことに熱を入れはじめた。どうも本当に、ロリウスがネロを良く思っていないのは確かなようだ。逆恨み上司が逆恨み部下を側近にしたというだけの話だったのか。

 秋の終わりに、一行はサモス島に入った。すると父の予想どおり、ネロがロードス島から訪ねてきた。彼がガイウスに挨拶をして、少しばかり二人だけで話をして、宿に引き上げた直後の場の異様な高揚を、息子はよく覚えている。

 ――ネロが元継子に頭を下げていった!

 ――護民官特権が切れたために、身の安全が心配でたまらなくなったのだ!

 ――やりましたね、ガイウス! もはやネロは恐るるに足らず!

 実のところ、ネロはへりくだるどころかまったく超然と、本当にただ挨拶と遠征の励ましのみを済ませて帰ったようにしか見えなかったが、一同には来訪があったという事実だけで十分だったのだろう。この興奮は、瞬く間に遠征軍全体に広がった。息子は口ではガイウスをおだてながら、目の端でひどく顔を曇らせるファヴェレウスをとらえていた。そこまで貴族様の心配をする必要もないでしょう、と息子は彼にも気楽な調子で声をかけた。

 その日の夜、ファヴェレウスほか一部の軍団兵たちが、ネロの宿を訪れた。息子もさりげなく加わった、実際、ネロを間近に見るのは初めてだったので、興味があったのだ。

 ネロを前に、軍団兵たちは口々にガイウスへの不満をまくし立てた。アウグストゥスの孫であるからと、おごり高ぶっている。それだけならまだしも、このままではアルメニア遠征においてまずいことが起こるだろう。あの若者の指揮では、無用な血が流れる羽目になり、最悪の場合、国家の東の防衛線が危うくなりかねない。ネロ、我々はどうしたら良いのか。あなたはどうして我々のところへ戻ってきてくださらないのか。

 詰め寄ったのは、ほとんどがネロと顔見知りの軍団兵たちだった。ファヴェレウスは羨望のまなざしで後方から彼らを眺めていた。それが息子にはひどく哀れに思えた。ネロは、彼らをなだめるべく努めていた。

 よくもまあ、軍団兵たちはロリウスの側近の前で文句を吐けたものだが、それだけファヴェレウスが日頃から蔭で不満と不安をぶちまけていたのだろう。息子のほうは幸いなことに、無邪気なネロの崇拝者を一人連れていた。同い年で、マウリタニア王ユバのようにガイウスとネロのあいだの緊張など無きがごとく振る舞い、きらきら輝く目でかの名高い当代一の将軍に会えたことに感激しきりだった。一歩間違えばこういう男がファヴェレウスのようになってしまうのだろうか。

 ネロは、ひとまずはガイウスを信頼するようにと言った。上官を判断するのはお前たちの役目ではなく、任務の過程と結果を受けて、カエサルと元老院が判断するものである。そしてガイウスの若さを補うためにロリウスがいる。お前たちは自らの任務にのみ専念せよ、と。

 ネロ子飼いの軍団兵たちは、これでいく分気持ちを晴らしただろう。彼らにとって、上官とはどこまでも上官なのだと息子は思い知った。一度心に決めたならば、その人には死ぬまで従うのだ。そしてネロには、そうさせるだけの格もあると見るしかなかった。

 気持ちを晴らせなかったのは、ファヴェレウスのような半端にネロを知る者たちだけだっただろう。彼らが引き返すと、そこではネロを侮辱しガイウスを持ち上げる集団がさらなる盛り上がりを呈していた。

 ファヴェレウスの顔はもはや曇るどころではなかった。気色ばむより前に真っ青になっていた。彼はネロの身の安全に危機感を募らせながら、その実、我が身の理想と現実の落差に苦しんでいた。

 開き直り、ガイウスに徹底的に与すれば良いではないか。最初は息子もそう思っていた。だがネロを直に見た時、息子の意思もまたゆらぎはじめたのだ。

 だが、それは悪いことだろうか。

 今こそ、我が手腕を量る時ではないのか。

 いずれ「奸計」は試すに値する。

 ――確かに、ファヴェレウス。

 息子は眉根を寄せてささやく。

 ――これはちょっとひどいですね。

 ――ネロは明日にはこの島を発つそうですが、まったく賢明であるとしか見えません。どうしましょう、彼の身に万一のことがあったなら、我が国の防衛は。東はパルティア、北は蛮族の大群、一気になだれ込んで来ないともかぎらない。

 ――それにしてもファヴェレウス、ネロを守りたがるのはあなたがた一部の軍団出身者ですね。一方、ガイウスを囲むのは軍団兵よりも近衛ですね。首都では、カエサル・アウグストゥスが本格的に近衛を軍団として組織し、長官職を置くとの噂もあります。本当にこのままで良いのでしょうか……?

 冬を通して、ガイウス一行は連日連夜のお祭り騒ぎを続けた。各地から伺候に訪れる者が絶えなかったため、日々なにがしかの刺激が提供されるのだった。なかでも、王家の富を持って現れたカッパドキア王アルケラオスの存在は際立っていた。

 年が明けても、陽気な日々は変わらなかった。宴の席で流罪人ネロを肴にする声は大きくなっていくばかりで、ファヴェレウスは片隅で険を濃くしていた。

 そのとき、だれかが言った。

 ――もしもネロが、マルクス・アントニウスになるとしたら、どうなるでしょうね…?

 この瞬間から、双方の陰謀が練り上げられていった。息子にはその様が手に取るようにわかった。

 ――それは良い! ネロを排除する、絶好の名目だ!

 ――いずれやらねばならぬこと! あとはいつやるかだ!

 ――おい、見てみろ! 今がこのうえもなく役者がそろっているのではないか?

 ロリウスとアルケラオスのまわりがそのように騒ぐなか、息子はファヴェレウスに近づいた。

 ――大変ですね。ネロがアントニウスになるですって?

 彼の耳元にささやいた。

 ――そうなると、アクティウムの結末が変わってしまいますかねぇ?

 真っ青だったファヴェレウスの皮膚が、たちまち赤らんだ。息子は彼の口元に我が手を添えて、声を抑えねばならなかった。

 ――勝つ! ネロは必ず勝つ! アウグストゥスにもガイウスにも! 精鋭のゲルマニア・イリュリクム両軍団は言うに及ばず、シリアの軍団も味方するだろう!

 ――本当にそう思われますか?

 ――当然だ!

 ――ならば、今の置いてほかに時宜はありませんね。近衛軍ができる前に。アルメニア遠征が終わる前に。ネロが独り殺される前に。

 荒ぶる冷風が収まると、一行はサモス島を出立し、アジアに下り立った。目指すはシリアの州都アンティオキアだが、その前にアルケラオス王の宮殿に招かれていた。

 ――わかるでしょう、ファヴェレウス。ロリウスらはすでにネロに謀反のぬれ衣を着せる企みでおりますよ。そしてほら……、そのためのうってつけの下手人も用意していますよ。

 ――アルケラオス王ですか? だれよりあの人が乗り気ですよ。噂によれば、王妃が元よりネロに恋情を抱いているとか。ポントスの王宮はあの方の石像であふれているとか。それにしたってもう老人なのにねぇ。三十歳近く若い妻の、会ってもいない相手への浮気を見過ごせないとはねぇ。王という者は恐ろしいまでに傲慢。そう思いませんか? アウグストゥスはどうでしょうかねぇ? ガイウス・カエサルならば、どうなるでしょうかねぇ……?

 ――成功すれば、あなたは望むだけの地位を与えられるでしょう。ネロによって。立役者ですから、なんといっても。ご家族もあなたを見直すどころではないでしょうね。

 ――大丈夫でしょう? ネロが支配者になるか、共和政に戻るか、どちらにせよ、カエサル家のご意向次第で出世が決まることはなくなります。

 実際、ロリウスは本気でネロを排除する方法を考えていた。それがいかなる名目にせよ、アルメニア遠征が終わった時宜で実行に移したがっていた。私怨はあったとしても認めなかっただろう。それよりもガイウスのためであり、ひいてはカエサル家のためであると、まわりも自らも信じ込ませていたのだろう。脅威だ。ネロは実現し得る脅威だ。だからこれで良かれ、と。

 だが本当に実現し得るだろうか。

 ――ロリウス殿。

 今更難しい接触でもなかった。

 ――僭越ではありますが、私はガイウスが心配です。あなたがいてくださるからなんとか持っている状況です。今のうちではないですか? ネロの宿を軍団兵たちが訪問したのは確かで、アウグストゥスも疑いを抱いているでしょう。この機を逃したらきっと後悔する。

 ――なにより、ご覧になったでしょう。アルケラオス王がいちばん乗り気ですよ。ここは一つ、王の腹を確かめてみましょう。あなたでは色々都合が悪いでしょうから、私に行かせてください。なぁに、いざとなったら、王にすべてかぶってもらえますって。王と、その恋煩いをこじらせている王妃に。

 ――上手くやります。絶対に、ガイウスとあなたに迷惑はかけません。

 ――拝謁の栄誉、恐悦至極にございます、国王陛下。私はルキウス・セイユス・ストラボ。すでにロリウスが申したと思いますが、父はカエサル・アウグストゥスの近衛頭を務めております。その縁からガイウスとも親しくさせていただき、同じ屋根の下で学びました。

 ――アウグストゥスはネロの悪口ばかりおっしゃっています。それでもリヴィアの手前抑えてはおりますが、内心では腹立たしいし邪魔なのですよ。ですから、心配は無用です。

 ――すでに王太子様を授かっておられる。もしも心配なら、グラピュラー様がユバ王とのあいだにお子をもうければいい。良いですか? 男を、まして王を侮辱する女など、不要です。まして相手はネロですよ? しかも会ってもいない? どうかしている。狂っている。……そういうことにしませんか?

 話すうちに、息子は察した。アルケラオス王がネロを憎む、その理由は「自信」だった。彼はついにぶちまけた。

 ――ゲルマニアの戦線に留まりたかった? それでカエサルと喧嘩した? ところが、見よ。あの男がいなくなってからのほうが、ゲルマニアは平穏ではないか。この意味がわかるか? あの男が戦争を引き起こしていた。そうは言わん。むしろあの男がいるから、カエサルはゲルマニア人に戦争を仕掛けた。つまりあの男は、いっそ自分が引退したほうが、カエサルに戦争をさせないで済むと考えたのだ。この傲慢がわかるか? カエサルは自分以外のだれにも戦争を任せはしない。恐ろしくて、任せられはしない。自分より信用できる男など見つけられはしない。それがわかっていたのだ! 

 思えば、ロリウスもまたこの王とよく似ていた。ファヴェレウス個人がどう思うかは別として、一度の敗戦それ自体は、ローマではまったく不名誉なことではないのだ。歴史をたどれば、決して小規模ではない敗北や失策の後、自らの手で挽回を遂げた将軍は少なくない。失敗の後だからこそ信用できる。そのようにローマ人は考える。アウグストゥスもだからこそロリウスにガイウスを任せたのだろう。

 ロリウスにもそれはわかっていた。彼がネロを憎む理由も、結局のところ「自信」と「善意」に集約されるのだろう。

 ファヴェレウスは後者のみ当てはまる。

 果たして陰謀は実行に移された。息子はしばらくファヴェレウスに同行しつつ、偵察と連絡係の名目で適度に距離を置き、成り行きを見守っていた。

 さて、どうなるか。

 ファヴェレウスらが滅べば、近衛の不満分子を排除できる。

 ネロが本当に蜂起したら、それはそれで面白いことになりそうだ。

 やらせてみればいい。

 陰謀はルキウス・ストラボのものではない。彼らのものだ。もはや。

 それにしてもだ。父ストラボ、ファヴェレウス、ロリウス、アルケラオス、ガイウス、そしてアウグストゥス――。

 直接にしろ間接にしろ、息子は彼ら全員を探った。そうして見えてくる事実とはなにか。

 ならば、あとは当人の意志を確認するだけだ。





 ティベリウス・ネロは、両手にそれぞれ真っ二つに裂かれた手紙を持っていた。

「これくらいしかできませんでした」

 息子は弁解した。キッラの公会堂前で、ネロとは直角に柱に背中を預けていた。広場では、戦闘の後始末が宴の支度に変わろうとしていた。

「あなたは絶対に蜂起しないだろうとわかりましたから。どうかご容赦ください。申し上げましたように、十九歳の若輩にファヴェレウスを止めることはできませんでした」

 息子は今の自分にできるかぎり冷静で、それから沈痛な調子で話した。

「このようなこと、ガイウスは決して望まなかったでしょうよ。ロリウスの暴走です。ひとえに」

「だれがファヴェレウスをここまでそそのかした?」

「私にもわかりません」

 ネロの声はさらに低く沈着で、息子は我が身がぞくりと震え上がるのを抑えられなかった。それでも努めてなめらかに応じ、首を振った。

「出会ったときは、すでにああでした。首都にいる共和政支持議員のだれかでしょうか」

 ネロは手元の手紙――ゲルマニアとイリュリクム両軍にファヴェレウスが送りつけた書状――を見つめているのだろう。テッサロニケイアを出た後、息子が密かに馬を走らせたのは、南ではなく北だった。

「ご案じ無用です。もう彼は二度とあなたの前に姿を現しません。恐れながら私が保証いたします」

 それにしても川辺の首無し人形は滑稽だと思った。すでにあらかた食い尽くされていたが、羊の生肉らしきもので覆われていた。

「……ただ、アルケラオス王に関しては、あなたがお思いの以上に積極的だった。そうとしか考えられないのでは? 妻を差し出したのですよ。女王である妻を」

 ふいと顎をしゃくった。

「港に、いますよ。ユバ王と一緒に」

 もちろん、件の女王もまたドルーススを連れて港へ向かったのを、息子は確認していた。おそらくはローマ人の船に入ったのだろう。

「始末しますか?」

「やめろ」

 ネロは即座に言った。「彼女の帰る場所だ」

 息子はため息の一つもついてみたくなった。

「ユバ王と同じ気持ちである保証はありませんよ?」

「そうなれば私がただでは済まさないと、知っているはずだ」

「良いのですか?」

 ネロへそっと首をまわした。

 息子にとって女王よりさらに重要なのは、ルキリウス・ロングスだった。負傷したのか、船に閉じこもって出てこない。いっそくたばってくれて良かったが、ひとまずは幸いだ。ずっと兜を目深にかぶってはいたが、あの男に自分を見憶えられていないとも限らなかった。

 だがそんな思考はおくびにも出さない。心から女王の行く末を案じているふりをする。ティベリウス・ネロのために。

「女王は今日にも連れ戻されるかもしれません。あるいは自らでお帰りになるかもしれません。あなたのおっしゃるように」

「それが彼女の望みであり、幸福だろう」

 ネロは手紙を握りしめて、腕を下げた。まなざしはキッラの広場を見つめて、断固としていた。

「だが二度と、夫に傷を負わされることがあってはならない」

「お任せください。私でよろしければ」

 息子は柱から背中を離した。するとネロの鋭い視線が確かに貫いてきた。震えをごまかすためにも、肩をすくめた。

「ネロ、恐れながら私は、将来に希望をたぎらす男です」

 それでもなんとか飄然と答えたつもりだ。

「どうか私の働きをご覧ください。満足いかなくば、首を刎ねてくださってかまいません」

 階段を飛び下り、すたすたと歩き出す。おぼつかない膝が腹立たしかったが、決して恐れるばかりの震えではない。そう信じた。

 これぞ、だ。

 ネロの声が最後に聞こえた。

「……ルキウス・アエリウス――」

 息子は足を止め、振り返った。

「いずれ正式の場で紹介されてみせます」

 にやりと笑う危険を冒したのは、結局のところ尊大な我が心に負けたのだ。けれどもネロにははっきり見えたかどうか。

「カエサルから、あなたにね」

 十二日後の八月二十七日、息子は初めてアレクサンドリアを目にしていた。今はもうエジプトの王都ではないが、世界第二の都だ。そしてそのきらびやかさは間違いなく世界一だろう。

 さすがの息子も茫然と、馬鹿みたいに口を開けるばかりだった。船が大港へしずしずと入り、投錨を終えてなおも立ちつくしていた。ファロスの大灯台。その下に並ぶ巨大な歴代ファラオの石像群。そこからまっすぐに伸びるヘプタスタディオンと呼ばれる橋。それをたどると、かつての王都が、黄金のスフィンクスそのもののように優雅に座してきらめいていた。

 息子は港湾の道を歩いたが、なかなか進まなかった。白く輝くセラピス神殿にはとりわけ目を奪われた。オベリスクだけならば、アウグストゥスがこの国からローマへ持ち込んだので見たことがあったが、生まれた場所にいるというだけで、どうしてこれほど気高く見えるのだろう。

 港は、いちいち目を奪ってくる品々であふれていた。アフリカの奥地、アラビア、インド、さらにはもしかするとその果ての世界からもやって来たかもしれない。見たことも嗅いだこともない香料と香辛料。光沢まばゆい絹織物。金銀や宝石は、この都市の職人の手で加工され、ほか様々な産物とともに船に積み込まれ、地中海世界に旅立っていく。

 洗練というものの体現を、息子は初めて目にした心地がした。東方諸国をはじめ、ありとあらゆる民族とその文化が混じり合いながらも、このアレクサンドリアときたら余裕で気品を保ち、魅惑的であり続けている。マルクス・アントニウスがこの都の女王に夢中になったのも納得させられてしまいそうだ。

 それに引き換え、故国ローマの雑多さときたら呆れるばかりだ。それでもカエサル・アウグストゥスらの尽力でましにはなったのだろうが、同じくらい多種多様な存在が集いながら、片やこの優雅さ、片やあのせわしなさと混沌である。世界を動かしているための忙しさだと弁解したくはなるが、ギリシア人らから見れば、いつまでも田舎臭さの抜けないのがローマ人であるのだろう。

 宮殿の正門をくぐると、息子はますます圧倒された。首都どころかエライウッサの宮殿まで子供部屋のように思われた。女王クレオパトラが玉座にいた時代には、さらに豪華絢爛だったことだろう。

 女王クレオパトラがここで蛇に我が身を任せたあと、ローマはアレクサンドリアの富を世界に持ち出した。それでもなお世界一豊かな都だった。

 今はもう宮殿ではない。ローマのエジプト総督が住まう屋敷である。そのエジプト総督とは元老院議員ではなく、騎士階級の男が務める。任命するのはアウグストゥスである。なぜならこの国は、三十年前の勝利と共に、第一人者の私領となった。つまりこの国そのものがカエサル家の財産である。当の主はパラティーノの丘のおんぼろ屋敷で質素に暮らしているが、実は世界一の富豪なのである。首都の民の腹を満たす穀物も、シチリアが不作ならばこの国から供給される。

 総督を騎士階級から選ぶ理由は、近衛の場合とよく似ていた。すなわち元老院への対抗勢力を用意しているのである。

 息子は父ストラボに思いを馳せずにはいられなかった。この国の総督になる道を進まなかったことで、恨み言の一つもこぼしたくなった。

 だが総督の任期は通例一年、長くても数年だ。カエサル家の財産の管理をしながら自身も潤う人生より、地道にそばで働き近衛の頭になる人生を、父は選んだ。息子は父が正しいと信じたい。そうでなければ息子が、正しかったと証明するまでだ。

 それにここの総督ならば、義父がすでに務め上げていた。

 長く敷地をうろうろした末、当てが外れたと知った。ガイウス・カエサルは元宮殿にいなかった。カエサル神殿に出かけたと知らされ、息子はしかたなく来た道を戻った。

 その神殿は、女王クレオパトラが着工した。先代カエサルの愛人となり、息子をもうけた女王は、我らこそがカエサルを継ぐ者であると世界に宣言したかったのだろう。女王の夫となったアントニウスもまたこの神殿の建設を進めたが、結局自身の像を先代の隣に置き続けることはかなわなかった。三十年前、アウグストゥスの命令で破壊された。

「セイユス!」

 戻りましたと声をかけると、ガイウスは振り向いて、ぱっと顔を輝かせてきた。彼の前には先代カエサルとアウグストゥスの胸像が並んでいた。

「どうだった? ネロは?」

「生きていますよ」

 息子は微笑んだ。祖父と母はその美貌を謳われたものだが、この孫は実父アグリッパに似た。それで案外笑えば愛嬌があるのだ。

「さも平然と、偽者一味を叩きつぶしました」

「はは、やっぱりか」

 彼がついた安堵の息を、息子は聞き逃さなかった。もちろん指摘はしなかったが。

「千載一遇の好機を逃しましたね」

「そう思う?」

 ガイウスは眉を下げた。本気にしないでほしいと息子も肩をすくめた。

「ロリウスならね、歯ぎしりして悔しがるでしょう」

「セイユス」彼は祖父と先代の胸像へ向き直った。「ぼくだってわかっているよ。ネロはいずれ邪魔になるって」

「はい」

「でも今は、はっきり言ってロリウスのほうが邪魔かな」

「彼は今どちらに?」

「ユダヤの使節に会いに出かけた。ぼくにもついて来いとか言ってたけどさ、なんかだるくって」

「あなたに学んでほしいんでしょう」

「勉強ならローマで一生懸命やった。お前も知っているだろう」

「ええ、もちろん」

「やっと自由の身だ!」

 ガイウスは両腕を広げ、物言わぬ祖父の像に向かって言い放った。それからぽつりと悲しげにつぶやいた。

「ロリウスさえいなければ、完璧なのになぁ…」

「そうおっしゃらず」息子は横からひょいと上体を出した。「彼はいつもあなたのためを思って動いています。口うるさいジジイなのは確かですが、おわかりのはず」

 この程度の反論はしたほうが、かえって信頼を得られるものだと息子は体得していた。ただしさじ加減と話す調子は大切だ。これを誤ると一気に疎まれる。たとえばロリウスのように。

 男は自分に指示を出す相手をいつも見定めているものだ。この世で祖父の次に尊重されているガイウスとてそれは例外ではない。

「セイユス、ぼくにはわかっているんだよ。ロリウスはネロにかなわないってさ。それなのに、なんで彼の言うことを聞かなきゃいけないの?」

「ひとまず年の功というやつでしょう」

「それだけ? ぼくのほうがだれが優れているか、よくわかっているのに? ねえ、自分の好きなようにできるのが、カエサルなんじゃないの? そうでないなら、第一人者の息子である意味なんてないよ。まして今は父上もいないのに」

「お察しします」

 息子はひとまずガイウスに同情した。ローマにいた頃ももてはやされてはいたが、少しばかり夜に友人を集めてはしゃいでまわっただけで祖父に叱られてしまう。そうぼやいていた。

 アウグストゥスは特段厳しい家父長ではなかった。むしろ孫には甘い部類の祖父だ。でなければガイウスを「青年の第一人者」になどして、二十歳の若さで執政官の地位を与えはしない。ただ慎重なだけだ。途方もなく。孫の思い上がりが市民にばれたり、独裁者と見なされて殺されたりしないように、すべては孫の身の安泰を期しているだけなのだ。

 ガイウスにはそれが窮屈なのだろう。

「でもガイウス、どうせ小言を申してくるのは、ロリウスでもネロでも変わらないでしょう。どちらも身の程知らずですが、あなたのほうが偉いんだから、それらしく、ここは寛大なところを見せてやらないと」

「ロリウスはね、昔蛮族相手に負けただけじゃないよ。ぼくは実際に従軍したことがあるんだよ。総司令官のネロに預けられて」

 それは今から八年前のことだ。前年ゲルマニアで弟を亡くしたばかりのネロに、アウグストゥスは我が孫を預け、同じ土地で従軍させた。翌年にはネロに凱旋式を挙げさせ、当然孫も馬に乗せて参列させ、晴れがましく市民にお披露目したのだ。

 自信うんぬんの問題ではない。それでも息子は、引退したネロは馬鹿だと思った。だが彼があのように内に閉じこもる雰囲気を纏うに至った一因は、そうした無神経と残酷にあるのだろう。

 ガイウスだって、そんなネロのそばで、ほんの数ヶ月とはいえ過ごしたのだ。彼は話した。

「怖かった……。待機中、ネロは総司令部のテントに籠っていたけど、夜中になってもひっきりなしに人の出入りがあった。ぼくは後ろのテントにいたけれど、まったく眠れなかった。でもなにを話しているのかわからないんだ。ラテン語なのにさ。早口で、鋭くて厳しくて、次から次と、よくわからない単語が飛び交って、今にも敵が攻めてくるのかと、いっときも気が休まらなかった。実際は本営にそんなことは起こらなかったけどさ。それで行軍中なんか、ネロは総司令官なのに地べたに直に寝ていた。ひとたび敵を見つけると、すぐに白馬に飛び乗って、戦場に出ていった。ぼくを相手にもしない無礼もあったけど、それでもネロは、ぼくが不自由ないように、危ない目に遭わないようにはしてくれたよ。自分は冷たい風雨にさらされて、食事もゆっくりとらないで、総司令官用の輿も風呂も負傷者に使わせて、いつでも平然と、黙々と――」

 ガイウスは身震いした。次に息子に向けた顔は、恐怖ばかりでなく真に迫っていた。

「あんなところには二度と行きたくない。行かなきゃならないとしても、ロリウスとは行きたくない。ネロか、それ以上の男がいなければ嫌だ。そう思わない?」

「ガイウス、あなたはもっと自分を誇りに思うべきです」息子は落ち着いて伝えた。「あなたはカエサル・アウグストゥスの息子ですよ」

「父上は偉大だけど、軍事はだめだよ」

 その言葉は、日頃の尊敬しきりの態度が嘘であるかのように、そっけなかった。

「あなたが父上を越えればいい」

 息子は力を込めて言った。あなたは当代一の名将であったアグリッパの息子であるのだからとは、付け加えたくてもできなかった。ガイウスは実父の名を出されることをひどく嫌がった。軍才ばかりは子に受け継がれないことを、息子だって知っている。けれどもそれをまやかしでも頼みにしないのなら、彼は軍才のない第一人者の孫であるという事実にのみすがるしかないのだ。

「できますよ。アルメニア遠征が終われば、気持ちもずっと晴れるでしょうよ」

「うん」ガイウスは軽くうなずき、それから鼻を鳴らした。「アルメニアなんかに負けるわけはないよ。それはわかる」

 この人に、アルメニアのなにがわかるのだろうか。けれども彼の心配は、もはやその先を行っていた。

「でもアルメニアが終わったら、父上は今度、ぼくをゲルマニアに送るんじゃないの?」

 息子は、これには沈黙で応えた。アウグストゥスは、自分が近くまで同行することなく我が孫を東方彼方まで送り出すくらいには、厳しい祖父だった。戦が不得手であるのに、十九歳の若さで苛烈な後継者争いに身を投じるしかなかった自らの境遇を思えば、これくらいは果たしてもらわねば困ると思ったのだろう。そしてアルメニアが終われば、確かにゲルマニアが見えてくる。ネロがいなくなってから、確かに小競り合い程度の知らせすら首都には聞こえてこなかったが、もはやライン川からエルベ川まで押し上げた防衛線は、放置されるがまま、蛮族どもが膨れ上がっている状態であるらしかった。遠からず連中は調子に乗って、ライン川の防衛線まで脅かすかもしれない。近々だれかが行かねばならなくなるだろうとは、叔父ブラエススの見立てだった。

 ガイウスは偉大な胸像二体へ踵を返した。またぐっと腕を高く伸ばしたが、今度はやれやれと言わんばかりだった。

「あーあ、ぼくはネロがうらやましい。ずっとロードス島で自由気ままに暮らせるんだから」

「はい。まったく優雅なものですねぇ」

 息子は調子を合わせた。扉口へ向かって歩き出したガイウスのすぐ後ろに従った。

「ときどき思うんだ。今、父上にもしものことがあったら――」

「あなたが第一人者です」息子はすぐに言った。それから腕を後方へ広げた。「ここへ次に胸像を置くのはあなたですよ」

「そうとも」ガイウスは当然とばかりにうなずく。

「いずれネロは不要になります」

「うん」

「私がいますから」息子も自信たっぷりにうなずいた。「ほかにも、あなたには及ばないながら、有能な男がローマには数多くいます。全員があなたに忠義を尽くしますよ」

「でも今はネロがいちばん強い」

 ガイウスは少し憮然と指摘した。

「だれも彼より軍功を挙げていない。あーあ、面倒事を全部片づけてから、ネロがどっかに行ってくれればいいのになぁ……」

 それが、ガイウスの本音だった。息子はずっと前から知っていた。少なくとも去年サモス島を出たときには、あっちへこっちへ陰謀が飛び交うさなか、この趣旨をぼやいて、あとは耳を塞いでいたのだ。

 本当は、アルメニアにさえ行きたくない。祖父の期待が息苦しいので、ただ遠征という名の外遊に飛びついただけだ。自由にのびのびと過ごしたい。偉大な手柄は立てたいが、苦労はしたくない。だれかに代わりにやってほしい。自分はアウグストゥスの息子なのだから、それくらいまわりが盛り立てくれなければ。けれどもだれが有能な男かはわからない。ネロとロリウスの二人だけでわかりやすい比較を済ませ、あとはわからない。だからいざというとき、ネロに死なれていては怖い。

 これが、次期第一人者というわけだ。良いところ取りしたい、そして失敗したくないという、あまりに正直な、若き二代目の姿だった。

 ガイウスは馬鹿ではない。むしろ小賢しい。そして繊細で、臆病だ。自分にとって最も好都合な未来とはなにか、考えてはいるのだ。かなり限られた目先の未来だが。

 いっそ思い上がりを極めてまわりが見えなくなったほうが、滑稽な見世物になるのに。

 外へ出ると、鋭い日光のためにしばし目がくらんだ。息子はそれでもそのまま歩き続けて、あわや階段から転げ落ちるところだった。慌てて柱につかまり、自分自身へ苦笑した。

 思い上がるな。慎重であれ。

 それにしても、このたびは思いのほか色々な人間が動いたものだ。「奸計」は危険な橋ではあったが、それでも新しい景色を息子に見せてくれた。

 ガイウスは階下でくるりと振り返り、とても陽気に見えた。

「セイユス! これからナイル遡航に出かけるぞ! ラクダに乗って、ピラミッドを見て、それからルクソールの神殿まで行こう!」

「えー、これから? もうちょっと涼しくなってからでいいんじゃないですかぁ?」

「それもそうか。まぁ、行って帰ってきたら、ロリウスにまたアルメニアだパルティアだと急かされるしな。だったら、市内の芸人たちを全部集めよう! 歌い手に、笛吹きに、踊り子! 昨日もかなり呼んだけど、可愛らしいのがなん人かいた! あと、仮装大会をやりたい! この国の宝をふんだんに使って、いちばん豪勢に着飾ったやつが優勝だ」

「それは楽しみですねぇ」

 二人のまわりを、たちまち二十人ばかりの男たちが囲んだ。近衛兵だ。この暑いなかご苦労なことだ。まだかつて王宮に抱えられていた護衛兵たちに及ばないだろうが、それでも細工の美しいロリカ・ムスクラをきらめかせ、だれもが誇り顔だ。

 近衛軍創設の邪魔者は消えた。けれども確かに父の言うとおり、これからも慎重を期すべきだという教訓にはなった。

 いずれ息子は、父の地位を受け継ぐつもりだ。そのときには外地の軍団にも脅かされない権勢をふるえるまでになっていたい。第一人者の傍らで。

 ただし、その第一人者とはだれだろう?

 自分とガイウスとの関係は良好だった。このまま維持していく自信もあった。けれども果たして、ガイウスに従い続けることが、自らの究極の立身につながり得るか。

 無論のこと、カエサル家の地位はゆるがないだろう。ガイウスに万一のことがあったとしても、弟のルキウスとポストゥムがいる。妹のユリアとアグリッピーナは、いずれアウグストゥスのひ孫を産むだろう。

 それでも、果たして統治に本気にならない男に従って、未来はあるのだろうか。無能のほうが操りやすいのはまったく事実だが、いつまでも国家の頂に立っていられるか。

 なんとまあ、張り合いがないことか。張り合いがなくて、脆いことか。

 こちらも本気なのだから、相手にも本気になっていただかねば困る。世界の覇者であるこのローマを担う器のない男には、なんの価値もない。

 だいたい、そうだ。ガイウスと自分は同世代だから、下手をすればいつまでも自分にお鉢はまわってこない。ところが、もしも一世代上ならば、あるいは――。

 息子は口元に歪んだ笑みを浮かべていたが、それはいつものことだ。

 このたびもそうだった。どの道を行くにしろ、だれかは排除しなければならない。それが三人でも五人でも十人でも、百人でも千人でも一万人でも、大差あるだろうか。野望のために、世界を動かす男とは、ずっとそうしてきたのではないのか。

 ところで、ネロの息子はドルースス一人だ。

 賭けるのはまだ早い。だが、これが見えてきた事実だ。ティベリウス・クラウディウス・ネロは決して流罪人ではなかった。

 どうなるか、見てみる価値はある。

 それにしてもガイウス。ロリウスがそんなにうるさいですか。彼はあなたのために小言屋を引き受けているのに。あなたはただ一度の敗北を馬鹿にしていますが、だれが今、実質遠征軍の指揮を執っていると? パルティアやユダヤを抑えていると? 

 もしもロリウスがいなくなったら、アルメニア遠征の行く末も、どうなることやら……。

「さっきからなにを笑っているの、セイユス?」

「ガイウス、私はもうその名はやめたんですよ」息子は笑い顔をひょろりと困らせた。「去年のうちに。ずっと申してますでしょ?」

「そうだっけ? 養子縁組したんだっけ?」

「ええ、ストラボ家を恥じてはいませんが、これからもあなたのそばにいるならばと、ちょっとかっこつけたくなりましてね」

「とか言って、ちゃっかり遺産だけ欲しくなったんだろ?」

「あ、やっぱりばれました?」

 二人はけらけら笑いあった。二体の黄金のスフィンクスが座す宮殿の正門に戻ってきた。否、今はカエサル家の別邸である。

「お前にはセイユスが似合っているけどね。なんだっけ、その新しい名前は?」

「ルキウス・アエリウス・セイヤヌスです」

 セイヤヌスはスフィンクスの足をぽんと叩いた。







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