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ピュートドリスとティベリウス  作者: 東道安利
第四章 ピュートドリス、その愛は。
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第四章 -7




 

 あとはすべて名残だ。翌二十三日が、満月だった。古式に則り、ゼウス神へ捧げる儀式が厳かに執り行われた。雄牛百頭が生贄に捧げられ、その後はその肉を参加者と観客皆で食べるというのだから、神域は厳粛を一転、お祭り騒ぎの場と化しただろう。狂乱から遠ざかり、ピュートドリスはテントで休んでいた。諸々ほっとした気持ちで、届けられた肉片にも手をつけず、じっと目を閉じていた。

 午後からは、徒競走が目玉だ。少年たちの競技も行われるという。競技場から断続的に歓声が聞こえてきたが、不思議と安らかな音だと感じた。

 ティベリウスが帰ってきた。

 翌二十四日は、格闘技の日だった。昼、ドルーススは土埃にまみれた満足げな顔で帰ってきた。アスプルゴスとまたも組み合わずにはいられなかったらしい。ピュートドリスは桶に汲んだアルペイオス川の水をかけて、洗ってあげた。待ちかねていたアントニアが寄ってきた。

 ドルーススはアントニアのためにパンクラティオンの見物を切り上げてきてくれたようだ。

 翌二十五日は、丸々宴が催された。閉会式後、すべての競技を捧げ終えたオリュンピアは、さらに輪をかけて世界一の大騒ぎの場と化した。あちらでもこちらでも祝宴が張られた。優勝者を囲み、選手も観客も一緒になって杯を交わし、浴びるほど飲んだ。

 詩人、学者、芸術家もここぞとばかりに馳せ参じた。彼らにしてみればここからが本当の仕事のはじまりだ。そのうえ女たちまでなだれ込んできていた。女人禁制が解けたので、それぞれがオリュンピアを満喫せんと意気込んでいた。

 ところどころかなりの狂乱が展開されていたが、それでもピュートドリスは機嫌よくオリュンピアの敷地を歩いた。アントニアの手を引き、主神殿にある「ゼウスの大神座像」と見に出かけた。黄金と象牙で造られたそれは、およそ十四メートルもの高さがあり、世界七不思議の一つに数えられている。

 ヘラ神殿、ペロプスの墓、宝物庫の列とその内外に並べられた世界各地からの奉献物。見るべきものが永遠に続いているように思われた。特に歴代優勝者の彫像の列は果てなかった。デュナミスやセレネ叔母と並び、どの彫像の容姿が魅力的か、たわいもないおしゃべりをした。まわりの侍女たちも美しい顔と肉体は大好物で、品評に余念がなかった。そして振り返れば、酔っ払っているとはいえ、そのとおりに近い体躯をした元選手たちがいた。すばらしき機会だ。貴婦人のお世話などそっちのけで、彼女らも楽しみたいに違いない。

 アントニアはとても元気だったが、さすがにこの人ごみと奉献物の山に居続けると、しだいに口数少なくなってきた。ピュートドリスは我が腕に娘を抱き上げた。お昼寝をしてそれからドルーススに遊んでもらうようそっと言い聞かせながら、ティベリウスがいるはずの場所へ戻った。

 彼は競馬場にテントを張り、そこを祝宴の場としていた。ところが覗いてみると、彼とその友人たちはエリス市の重鎮たちを集め、水道の拡張工事の計画を進めていた。飲み水が足りない。便所も少ないし、汗を流す風呂も小さい。世界に名立たるオリュンピアなのだから、それにふさわしく、もっとこことそことあそこに水道管を増設し、費用は――。

 ピュートドリスは吹き出すしかなかった。彼らはどこまでもローマ人だ。敷物は引かれていたが、そろって地面にあぐらをかいていた。ティベリウスは広げられた地図の上にしきりに指を走らせ、ときどき傍らの杯を口に運んだ。頭のオリーブ冠だけが、かろうじて彼が優勝者であることを教えていた。

 ピュートドリスは奥のテントに入った。肩の上で、アントニアはすやすやと寝息を立てていた。





 八月二十六日、オリュンピアの祭典は夢の中にその余韻を残し、新たな四年の眠りについていた。ピュートドリスはごくゆっくりと起床した。慣れ親しみつつあるアルペイオス河畔のテントだった。

 オリュンピアのほとんどすべての人間がそうだろうと思ったが、傍らを見ると、すでにティベリウスはいなかった。幕を隔てて隣で、拷問を受けていた。

「書くんだ」

 ピソが言った。ピュートドリスがそっと覗くと、彼はレントゥルスと二人、ティベリウスを挟んで卓の前に座らせていた。どちらも昨夜の宴が嘘のような厳格な顔つきをしていた。

 ティベリウスがうなった。

「まずペンを持つ」

 ピソが指示を出した。

「インクはここ」

 レントゥルスが小壺を置いた。

 ティベリウスはまたうなった。

「いつまでカエサルを一人にしておく気だ」

 ピソは冥界の番人のように腕を組んだ。ティベリウスは左手で頭を押さえたが、もうそこにオリーブ冠はない。昨夜したたか飲んだ名残がうずいているとでも言いたげだった。

「ドルーススにこれ以上さみしい思いをさせないの」

 レントゥルスはティベリウスの右手指を開き、ペンを握らせた。先端を小壺に浸けようとして、さすがに振り払われた。

「いい加減帰るんだよ!」レントゥルスはほとんど怒鳴りつけた。「手紙を書かないかぎり、ぼくらはいつまでも離れないからね」

 しかしティベリウスの前に置かれた紙はまっさらだった。

「君が折れるしかない」ピソもまた情け容赦もなかった。「でなければカエサルも折れられない。息子らしく、ここは先に頭を下げろ」

「息子では――」

「息子だ」

 ピソとレントゥルスは同時に言った。どちらもこれまでののんきさはまるで仮面だったとばかりに冷酷非情に見えた。そんな顔ができたのかとピュートドリスは驚いたほどだ。

「いつもの書き出しはなんだった? 『親愛なるカエサル』『最愛のカエサル』」

「ドルーススの成人式を挙げるために帰りたい。これで行こうね」

「今回の件で、わかったよな? 君がこれ以上東方にいても、余計な騒動を招くだけだ」

「わかっているよね? 君とカエサルだけの問題じゃないから。ローマ全体の運命を左右する問題だから」

 ティベリウスは三たびうなった。「カエサルが認めるとは思えん」

「すぐには無理だろうな」

 これにはピソもあっさりうなずいた。

「でも必ず認める。だからまず第一回目、四の五の言わずに書け。なにも考えるな」

「ぼくらも説得するから」レントゥルスは少しだけ眉尻を下げた。「リヴィア様だって、この六年、ずっと君を帰国させることだけ考えているよ。うちの母が言っていた。次はどの時宜にどんな言葉でカエサルにお願いするか、気をもんでばかりいるって」

「母上ならば問題ない」

 そんなわけないだろうとピュートドリスは言ってやりたかった。夫も孫も義理の娘も友人もいるから? そうであっても残るただ一人の息子に、なにかしてやりたいと思わない母はいない。

 まあ、全部が全部息子のためになってきたかはさておきだが……。

「本当にそう思うの?」レントゥルスは問いかける形をとり、それからたまらずため息をこぼした。「不屈の意志も、親子三人そろって持ち主になると厄介だねぇ」

「もう十分だろう」ピソは変わらず厳格だった。

「このまま二度と顔を見ることなく別れてもいいのか? 永遠に」

 ティベリウスはうならなかった。ただじっとまっさらなパピルス紙をにらんでいた。

「これで終わりでいいのか?」

 ピソは畳みかけた。

 結局、友人二人はティベリウスに最初の三行を書かせたところで、いったん引き上げた。その向かう出入口の幕は、ドルーススらしき影が慌てた様子で離れていくのを映していたが、皆気づかないふりをした。ピュートドリスは侍女を呼び、ゆるりと簡単に身支度を整えてから、いかにも軽い足取りで隣の幕をくぐった。

 ティベリウスのペンは進んでいなかった。

「もう十分……」

 ピュートドリスはつぶやいた。ティベリウスの真正面に来てひざまずき、両腕を卓に乗せて、その上に顎を置いた。ティベリウスはやり場がないとばかりのまなざしを向けてきた。

「帰ってあげなさい」

 ピュートドリスはやわらかく言った。それからことりと首をかしげた。

「これからも、あなたは私を守ってくれるんでしょう?」







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