第四章 -6
6
ピュートドリスは心臓の高鳴りを感じていたが、どちらかと言えば快感ではなかった。誇らしげにラッパが轟くと、しばし耳だけはごまかせた。しかし胸の振動は悪化し、痛むほどだった。
それでも時は来た。競馬場の門が開き、四頭立て戦車が一台ずつ、壮麗な姿を現した。割れんばかりの歓声に迎えらえた。
ドルーススはピュートドリスの隣にいた。大音声には、二人そろって皮膚が痺れたかのように身震いした。強張る体を寄せ合った。それでもドルーススは目の輝きを抑えきれずにいた。
十二台のうち、ボスポロス王の戦車が三番目に現れた。キスティスはやはり似合っていなかったが、茶髪をなびかせながら客席に手を振る姿は、堂々たるものだった。馬たちは優しい栗毛だ。たてがみと尾の白さが目を引いて、珍しかった。一見あまり強そうには見えない四頭だが、肉づきはたくましい。なにより予選ですでに圧倒的な強さを見せつけていた。
ピュートドリスは横目を走らせた。客席とは言ってもただの土手なのだが、西の標柱に面するこことほぼ同じ列で、デュナミスはやはり優雅に孔雀の羽を口元に、目を細めていた。まわりを麗しき侍女たちが、さらにそのまわりを若き家臣たちが囲み、すでに拳を突き上げて王に声援を送っていた。
アスプルゴスはそのまま行進に加わった。一周はおよそ一二〇〇メートルだ。
勝利は最重要事だが、戦車はただ速ければ良いというわけではない。馬主たちは富も美しさも誇示する。ましてここはオリュンピアである。名馬たちは雑多な四頭ではなく、きちんと毛色をそろえられていた。先頭のアテネ人は最も見栄えのする白馬を選んでいたし、五番目に入場したコリント人は青毛の馬を不気味に黒光りさせていた。どの馬も鋲の一つにまでこだわった馬具を掛けられ、それぞれがまた誇り顔なのだ。まるで自分たちが世界一の王に仕えていると信じているばかりでなく、オリュンピア競技祭という栄誉さえよく知っているかのようだった。
御者の乗る車そのものもまた、意匠を凝らして造られていた。もっともレースを終える頃には、だいたい満身創痍で使い物にならなくなっているのだが、富豪はそれでも惜しまない。
品格のある戦車ばかりだった。そこらの競技会でよく見られるような、入場するや否や逸って手のつけられなくなる暴れ馬も見当たらず、車輪に鋭い突起を仕込んだいかにも攻撃的な戦車もなさそうだった。それもやはりオリュンピアだからであろう。ただ勝てば良いのではなく、ゼウス神に捧げるにふさわしい戦いでなければならない。競技の規則は徹底されるだろう。事前にエリス市民からなる審判団が、厳正な点検を行っただろう。
だから、めったなことは起こらないはずだ。ピュートドリスは自分にそう言い聞かせた。規則無用のパンクラティオンでさえ、対戦相手を殺してしまえば勝利の栄誉は剥奪されるのだ。この戦車競走でも、手段を問わずがむしゃらに勝たんとする危険な輩は、簡単には出てこないはずだ。
そういう考えは甘いのだろうか。どこの世界のどんな戦いであろうと、必ず悪事を働く者は現れるのだろうか。たとえオリーブ冠しか授からずとも、名誉という欲に目がくらんでしまうのだろうか。それもまたオリュンピアだ。ギリシアがその全盛を謳歌した時代、オリュンピア競技祭の優勝者は生涯神のごとく崇められた。今は当時ほどでないにせよ、その魅力は燦然たるものだろう。
そしてたとえ競技であれ、戦えば憎しみが容易く生まれるのもまた事実だろう。だいたい観客からして心底では普通のレースなど望んでいないのだ。
本当にそうだろうか。ペロプスの神話も一説ではあるが、確かであるのは、ギリシア人が平和を願って創始した競技祭であることだ。願いは七七六年の時を経て、今年一九五回目の開催を果たしていた。
この場に彼が出場できていることは、ある意味では僥倖なのだろう。ローマが治める世界では今、どこでも戦争が起こっていなかった。だからこそティベリウス・ネロは戦車に乗っていた。
現れたのは、九番目だった。何度も白馬に乗り、凱旋式でも四頭を御したことがある彼だが、このたび育て上げたしもべは黒鹿毛だった。いかにも質実剛健を誇りとするローマ人らしかった。ギリシア文化を羨望しながらも虚飾を嫌い、エジプトのピラミッドですら浪費と言ってのけるのが彼らだ。だがこだわりならば純白の馬にまったく引けをとっていなかっただろう。富も時間もたっぷり注ぎ込んでいただろう。毛並みの光沢。筋肉の流れと隆起。観客席の馬好きたちが、思わず食い入るように魅入った。
このためだけにでも、イシラコスは出場を願ったのだろう。
十二台が競走路を練り歩く景色は壮観だった。オリュンピアより大きな競馬場は世界のほかにもある。しかしこの場所は身の引き締まる思いがする。神々の気配と、伝統を感じる。長く選手たちの汗と血を吸い込んだ土は、なおも美しく、そして重い。丘の緑に映え、アルペイオス川のきらめきに臨む。折り返し点の柱、祭壇、そして歴代の一流たちが造り続けた彫刻群が、今ひと際目の覚めるような白を輝かせている。
そのなかを、たくましき馬たちが並び行く。車に立つ御者たちも胸を張り、若くして威厳をたたえている。
そのなかで、おそらく最年長である御者は、落ち着き払っていた。いつもどおり陰気にさえ見えて、ピュートドリスは思わず顔をほころばせた。
なにを憂える必要があるのか。楽しめば良いのだ。平和の競技祭とはそのためのものではないのか。せっかく愛する男が自ら出ているのだから。
ドルーススはすでに身を乗り出していた。ピソとレントゥルス、トラシュルスとレオニダス、それに騎士階級の友人たちが手を叩いて声援を送った。陰気な御者も、これには手を上げて応えた。
こちらもキスティスはあまり似合っていなかったが、大急ぎで用意したのだろう。頭部は剥き出しだ。戦車競走において、ローマ人は兜をかぶり、軽く武装もするそうだが、ギリシア人は違った。平和の競技祭であるから、むしろ兜を脱いで神殿に奉納し、裸という平等の下で勝負をはじめるのだ。戦車競走だけは裸ではないが、それでも無防備には違いない。
ルキリウスとイシラコスは、下の控え場所にいるはずだ。ティベリウスと戦車の支度を手伝って、走路に送り出した。疾走中も最も間近で助言を与え、万一の時はエリス市の救護班とともに駆けつける手筈だった。
伝令が呼ばわっていた。馬主とその父親、出身地、そして御者の名も知らしめたが、ボスポロス王とローマ人の名は二度聞こえた。後者に関してはさらにもう一度同じ名前が聞こえたが、それは同名の実父の名だった。アスプルゴスのときは、なんと秘められし父の名が聞こえてきた。父親不明では出場資格を得られないという事情もあるだろうが、彼はきっとゼウス神の前に真実を持って臨みたかったのだろう。観客のほとんどは彼が王であるとまでは知らない。アグリッパの名をもらったゆかりの人間と思うだろう。
行進が通りかかると、さらにさざめきが高まった。
「えっ? えっ? ティベリウスだよね?」
ユバなどはあからさまに我が目を疑っていた。ピュートドリスは伝え忘れていた。すでに自らの戦車は敗退していたが、彼はセレネ叔母を伴って観客席の一角に陣取り、のんきに楽しく見物していたのだった。
「おじちゃま! がんばって!」
アントニアの声が聞こえた。振り返ると、マカロンの腕に乗ってぶんぶん手を振っていた。マカロンはやはりあんぐり口を開けていた。王女がぐずったらすぐに外へ連れ出せるよう、ピュートドリスの侍女たちと後列に控えていたのだが、これはとても見過ごせなかったのだろう。ピュートドリスはまた言い忘れていた。
審判長が演説した。その近くには、アカイア総督メッサラも特別席に陣取り、遠目にも浮ついて見えた。たぶん特別席など捨てて、ローマの友人たちのいる土手に来たかっただろう。なぜあそこで幼馴染が御しているのか、これからなにが起ころうというのか、思う存分騒ぎたかっただろう。
それにしても特別席はともかく、観客席が土手とは。ほかの競技場ならば座席は石造りだ。競技路との仕切りも木の柵などではなく、もっと堅固だ。この程度で大丈夫なのだろうか。興奮した観客がなだれ落ちたり、戦車が突っ込んできたりしたらどうするのだろう。
十二人の御者は、今や馬たちの最後の状態確認に余念がないようだ。少しばかり勢いづけて駆けさせる者もいた。そのついでに前の戦車を追い越し、挑発をはじめる者もいた。ある者はゼウス神殿の方角に向かい、大声で助力を求めていた。
ティベリウスは不可思議な動きをしていた。体を進行方向にも客席にも向けていなかった。鞭は戦車に置いて足で押さえ、手綱を手首にかけた。両拳を空へ掲げて、なにやら唇を動かしていた。
「…あの人は祈っているの?」
「ええ、おそらくは双子神に」
ピュートドリスの問いに、トラシュルスが答えた。
ティベリウスは拳二つをぶつけた。
――行くぞ、ドルースス。
そう聞こえた気がした。
アテネ、ペルガモン、ボスポロス、シラクサ、キプロス、アイギナ、キュレネ、コリント、ローマ、アルゴス、コス、ビザンティオン――十二台が発馬機に入った。この発馬機は、オリュンピアのほかどこでも見られない奇妙なものだった。巨大な三角形で、その一角が競走場の西端に刺さるようにして伸びている。その両辺から内部が戦車一台分ずつ区切られているらしく、奥から順に扉が開けられ、最も後方の戦車がまず競走路に飛び出す仕組みだという。すると少なくとも最初の折り返しまでは、出走位置による有利不利は解消と見なされる。
しかし各御者は、すでに与えられた場所に応じた戦い方を頭に思い描いているに違いない。ピュートドリスには知る由もないが、すでに駆け引きははじまっているのだろう。
オリュンピア競技祭、戦車競走の決勝。審判長が席から進み出ると、観客たちは自然と口を閉じていった。
発馬機の前から、馬係たちが駆け去っていく。申し訳程度の木の柵を越え、観客席の前に控え、彼らは救護班に役目を変える。押し込められた馬たちは、ここからもっぱら御者の腕にのみ委ねられる。
審判長が腕を伸ばした。その先で、白い布がかすかに川風にゆれた。
すべてが静まったとき、審判長は手を離した。布はひどくゆっくりと、それでもまっすぐ床に落ちた。その瞬間、発馬機が最初の扉を開けた。
あとは怒涛のごとくだった。四番目に飛び出したティベリウスの戦車は、すぐに八台に迫り来られた。先の三台も内に寄り、たちまちすさまじい勢いのままひしめいた。観客の突き上げるような叫号がそれに加勢した。
ティベリウスは馬を抑えることを選んだ。持ち主の精神を反映してか、そもそも興奮の度合いが最も低い戦車に見えた。すると隣をコリントの御者が、罵声らしきものを浴びせて追い抜いていった。もしかしたらかつてローマに徹底的に破壊された過去を恨んでいるのかもしれない。ティベリウスの馬を鞭で打ちまくったが、それは規則で許容されていることだった。
だが彼は振り返るべきではなかった。前方に顔を戻した瞬間、進路がすっかり塞がれていることに気づくことになった。コリントの四頭は、内側から押しやられたキュレネのそれに突っ込む形になった。そのままもつれ合いながら外側に流れ、さらにはアルゴスの戦車をも巻き込んだ。いずれも持ち直さんと悪戦苦闘しながら、まもなく外柵にぶつかろうとしていた。その手前で、ティベリウスはいったんほとんど馬を止めてから、内側へ迂回した。
先頭はアスプルゴスだった。最初からそんなに飛ばして大丈夫なのかとピュートドリスは思ったが、考えがあるのだろう。あるいは本気で十二周逃げきれると信じているのか。東の標柱を華麗にまわったとき、観客席のボスポロス勢が大歓声を轟かせた。ピュートドリスもすばらしい手並みだと認めるしかなかった。デュナミスはと言えばぽかんと固まっていた。息子が今なにをしているか、ようやく実感しつつあるらしい。
彼の判断は正しかった、続く集団は曲がろうとしてもつれにもつれ、とうとうシラクサの御者を振り落とした。出走直後こそ殊更慎重を期さなければならないのだろう。安全のためにも、アスプルゴスは早速賭けに出たのだ。まだまだ怖いもの知らずで、自信たっぷりだ。
シラクサの御者はあきらめていなかった。衝撃にもめげず、客席から飛び出す救護班にもかまわず、ふらふらと立ち上がって我が馬たちを追いかけんとした。次の瞬間、ビザンティオンの戦車にはねられた。客席が一斉に悲鳴を上げた。その惨事の傍らを、ティベリウスの戦車が沈着そのもので曲がっていった。
救護班が気の毒な御者を回収して下がる。その機敏な手並みもまた称賛に価したが、かつてはこの怒涛を四十台で行ったと言われるのだから、信じ難い。二進も三進もいかず、馬と御者と車の山と成り果てはしなかったのか。
最初が肝心ということなのだろう。ここを無事に乗り切れば、いずれ競走は落ち着くはずだ。
アスプルゴスは西の標柱も先頭でまわった。ペルガモン、アテネ、キプロス、それにアイギナがそれに続いた。ティベリウスはコス島と並んで内側を走っていた。折り返しに差しかかると、コス島は戦車を寄せてティベリウスを標柱にぶつけようと試みたが、しくじったのか、大きく旋回しただけだった。ピュートドリスはあ然と口を開けているコス島の御者が見えた。そう言えば、ロードス島の近くだ。ローマの御者がだれだか気づいたのかもしれない。
それでも、勝負は勝負だ。我に返ったコス島の御者は、猛然とティベリウスを追いかけた。次の標柱に差しかかるまでには、追い抜いていた。
「ネロ! 勝つ気がねえのか!」
分離帯を挟んですれ違いざま、アスプルゴスが怒鳴った。確かに、勝負をしかけるにはまだ早いにせよ、ティベリウスは悠長に構えすぎているように見えた。挽回できるのか。アスプルゴスは飛ばしすぎだが。
「臆病者のローマ人が!」
三周目に入ると、コリントの戦車も追いついてきた。狙いは明らかに、次の標柱でティベリウスの戦車を押しつぶすことだった。自分の馬も相手の馬もめったやたらに鞭で打ちつけた。何度かはティベリウスの右半身にも当たったかもしれない。これは違反だが、競技中にどうすることもできなかった。よほど目に余るものでなければ、終了後もお咎めなしだ。
コリントは車もしきりにぶつけてきた。ピュートドリスの目にも火花が飛ぶのが見えた。だが標柱に差しかかる直前、ティベリウスは反撃に出た。ただ一度、強く車をぶつけたのである。馬をまたほとんど止め、その反動を遠心力に変えた。コリントは大回りし、やがて車をひっくり返した。が、大事ではなかっただろう。御者もすぐに車に戻ろうとした。ところがキュレネとアルゴスの戦車が、わざとのように、御者が車に上がるや否や、戦車の尻をぶつけていった。ビザンティオンが通りかかるころには、件の戦車は手の施しようもなくなっていた。
だがティベリウスの戦車は大丈夫なのか。西の標柱に備えつけられた「イルカ」が、また一頭下がった。これが周回数を表す装置で、四周目に入ったことを教えた。ここに至ってレースはようやく落ち着きを見せた。ティベリウスは相変わらず自分の調子を守っていたが、アスプルゴスは少し走力をゆるめたようだ。
ティベリウスがまた前を走り抜けたとき、ピュートドリスはやはり車の右側面の損傷を見て取った。裂けて穴が開いていた。幸い車輪は無事なようだが。
「体重のかけ方です! ネロ!」
「もう君が車体だと思うんだよ!」
イシラコスとルキリウスが叫んでいた。
五周目、馬の体力温存のために、アスプルゴスはあえて速度を調整しているのだろうが、そこへアテネとペルガモンの戦車が仕掛けてきた。
「蛮族が!」
「お前がギリシア人だなと、おこがましい!」
「なんだと!」
三台の熾烈な争いがはじまった。だがそれは賢しいアテネとペルガモンの共同作戦だった。アスプルゴスはその二台に挟まれた。
「おいおいおい!」
客席でレオニダスが思わずとばかりに頭を抱える。
「だれか、あれが国王陛下だって教えてやれよ」
すでにボスポロス応援勢は怒号の渦と化していた。殴りつけんばかりに拳を振り、ギリシア語ではない土着の言葉を夢中で叫んだ。
「くそっ!」
挟まれたまま、アスプルゴスはなんとか西の標柱を曲がった。火花飛び、今にも大破せんとする戦車に、観客たちはまた悲鳴を上げた。歓声にも似ていた。
ピュートドリスはデュナミスを見ることができなかった。
六周目。このままではアスプルゴスは持たないだろう。しかしだれにもなにもできない。アテネとペルガモンは、ボスポロス戦車に飛び出すことも引くことも許さなかった。これを悪くない作戦だと思ったのかもしれない。キュレネとアルゴスが並んで進み出てきた。狙いはティベリウスだ。
しかしティベリウスは内側を譲らなかった。
アスプルゴスは虐められ続けていた。馬も車も絶妙に挟まれながら攻撃されていた。御者もろともさんざんに鞭で打たれているようだ。もはやぼろぼろであろうに、アテネとペルガモンは生殺し状態を保ちつつ、東の標柱を並んで曲がった。
「寄せろ!」
分離帯越しに声を張ったのはティベリウスだった。アスプルゴスもそれしかないとすぐに決めた。曲がりきり、相手が一瞬膨らんだところで、思いきり内側へ駆った。分離帯に突入するようだった。自分が先か、アテネが先か。
アテネだった。最も左の馬が分離帯の祭壇に接触した。そればかりでなく、アテネの御者は飛び上がり、分離帯を越えてきた。観客の悲鳴が浮いて消えるまで、彼は宙に留まっていた。ティベリウスが伏せた。その隣のキュレネの馬の上に、御者は落ちた。続くアルゴスの御者は回避を試みたが、右側の馬だけは地面の御者を轢いてしまった。
一方アスプルゴスは、これで試練が終わったわけではなかった。戦車が走路へ横に伸び、止まるしかなくなっていた。そのうえアテネの空の車に最後の接触を受け、絡まっていた。その一帯を、アイギナとコスの戦車が大きく迂回していった。キプロスの戦車はかまわずボスポロスの馬へ突入し、まっすぐに突き進んだ。
ティベリウスが来た。満身創痍のアスプルゴスへ、ひと言声をかけながら通り過ぎていった。「終わるか、続けるか」
「まだ終わるもんかよ!」
アスプルゴスの叫び声が追いかけた。再び戦車が動き出したのは、キュレネとアルゴスに避けられた後だった。
イルカがまた下り、七周目に入った。先頭のペルガモンが東の標柱をまわると、そこでは間一髪のところでアテネの戦車が片づけられたところだった。キプロス、アイギナ、コスの三島がそれに続いた。そして気づけば、ティベリウスの戦車が着実に距離を詰めていた。アイギナ島とコス島の御者がしきりに気にして振り返っていた。
八周目も、一見平穏に終わりそうだった。ところが西の標柱の手前で、ビザンティオンの戦車が周回遅れにされかけていた。御者はすでに勝負をあきらめているようだ。まるで優勝を果たしたかのように客席へ手を振り、接吻を投げた。後ろの戦車たちへは誘うように尻を振り、挙句ぺしぺしと叩き鳴らした。観客たちはどっと笑い声を上げた。生死の狭間での休息だ。
ペルガモンはかまわず標柱をまわった。キプロスもコスも続いた。ところがアイギナの御者だけはわざと車を大まわりさせ、ビザンティオンの御者の尻に鞭を見舞った。ぎゃっ、と短い悲鳴とともに、ビザンティオンの御者は車から反り落ちた。
「その汚ぇケツをどけろ!」
あるいはもっと下品な言葉をわめきながら、アイギナの御者は九周目に入っていった。
あと三分の一だ。三島はペルガモンを抜くためにそろそろ仕掛けねばならなかった。だがどの戦車が先に行くか、お互いを牽制し合っているようだった。そこへとうとうティベリウスが追いついてきた。これまでになく馬に鞭を入れていた。がたがたとしきりにゆれる車の上で、懸命に踏ん張っているのだろう。先の損傷で、いつ自壊してもおかしくなかった。しかしその集団で東の標柱を最後にまわりながら、真っ先に体勢を戻した。そもそも少しも崩していないとばかりに、ぐんぐん速度を上げた。そんな隙間をどうやって見出したのか。どうしてくぐり抜け得ると思ったのか。とにかくティベリウスは縫うように戦車を駆り、三島を一気に抜き去った。直後、激しい土埃を巻き上げて標柱をまわり、十周目に入った。
観客たちはしばしぽかんとしていた。ピュートドリスやドルーススもまったく同じだった。あまりに鮮やかな、あっけない一瞬だったからだ。
おかげで、こんな声さえピュートドリスには聞こえた。
「あれがだれだかわかるか?」
コス島の御者が、信じられないとばかりに鞭を突き出した。
「良い尻だな。あれならば追いかけるのも悪くない」
アイギナ島の御者は、満足げにうなずいて独り言ちた。
直後、我に返ったかのような歓声が轟いた。対岸の客席は割れんばかりで、早くも色とりどりの布をふりまわした。ピュートドリスの側もきっとそうなのだろう。
すでにティベリウスはペルガモンの追跡に集中していた。気づけば二位だ。だが一位との差は短くない。
一方、後ろの騒乱は終わっていなかった。キプロスは猛然とティベリウスの背後につけ、コスとアイギナも集中力を取り戻し、最後の勝負に出ようとした。ところが標柱をまわった直後、コス島の馬が暴れ出した。とくになにがあったようにも見えず、唐突の混乱だった。轍による溝を見落としたか、雲間から鋭い陽光が目に飛び込んできたか、それとも霊の仕業か。「馬脅し」と呼ばれる呪いの地点が、オリュンピアにはあるそうだ。
ピュートドリスは思い出しつつ、なにより大事なティベリウスに目線を戻そうとした。コス島も遅れは取ったが、なんとか持ち直した。
そこへアルゴスの馬車があえてのように突っ込んできた。コス島の車はひっくり返り、御者は観客席の柵まで転がっていった。しかしそれだけではなかった。
「どけぇーーーーっ!」
アスプルゴスの戦車が内側をまわり込んできた。驚異の追い上げだ。ビザンティオンを別にして最下位から、アスプルゴスはキュレネを抜き去り、さらにアルゴスをも追い越した。これに気づいた観客がどよめいた。ティベリウスは西の標柱をまわったところだった。ペルガモンに迫りながら、彼はかすかに笑みらしきものを浮かべているようだ。
「気を抜くな! 死ぬぞ!」
ルキリウスが怒鳴りつけた。
十一周目、ティベリウスはペルガモンを猛追した。キプロスがそれにぴたりとついた。東の標柱をまわるとき、ティベリウスの戦車はペルガモンのそれと並んでいた。前者が外側、後者が内側を、天に届かんばかりの土埃をあげながら曲がった。車輪の軋む音、戦車がぶつかり合う音もけたたましく響いた。
次の直線で、ティベリウスはペルガモンの前に出た。
「ローマ人め!」
御者は叫んだ。激しく鞭を振るい、あわよくばティベリウスの首にでも巻きつけとばかりに、身を乗り出していた。キプロスが接近すると、先の御者はアテネとの共闘再びとばかりにやたら身振りした。
だがティベリウスはずっと力を温存していたのだ。すぐに内側に寄り、挟ませはしなかった。ならばとペルガモンはティベリウスの背中に馬をぶつけんとした。熱い息がかかり、実際に接触したかもしれない。ティベリウスは前のめりになった。車もかしいだ。ピュートドリスは悲鳴を上げかけたが、実際に声を出した者も少なくなかった。
ペルガモンがとどめの一押しを仕掛ける直前、ティベリウスは鞭を後ろ手に振り上げた。ぶんとしなったそれは、実際に振り下ろされはしなかった。それでも視界に映した馬が驚いたらしく、顔を背けて乱れた。ティベリウスはその一振りを我が馬に入れた。
「良いです、ネロ!」
「最後だぞ!」
イシラコスとルキリウスが叫んだ。
最後の西の標柱に、ティベリウスは内側の理想的な位置から入った。ペルガモンは外側にまわらざるを得なかったが、それでも内側の戦車を標柱に押し込める利点はあった。しかしティベリウスが速かった。まわりきった。だが最後の意地とばかりにペルガモンは馬の頭を接触させていた。ティベリウスの戦車の右側面が飛び散った。
「キスティスを!」
イシラコスが怒鳴った。衣服の裾が車輪に絡まったら終わりだ。だがティベリウスは遠心力を受けながら、身を預けるべき場所を失っていた。キスティスを引き、残る車の上縁を力のかぎりつかんだ。それでも逆らい難く、外へ出さざるを得なかった右足は、地面を蹴る前に車輪をかすめた。サンダルが切れて散った。
「ああ、ああ、ああ――」
見ていられないとばかりのルキリウスの嘆息が聞こえた。
それでもティベリウスは、無駄な大まわりをしていなかった。我が身のみ立て直し、なに事もなかったように戦車を疾走させた。
ペルガモンの戦車は倒れ伏していた。それを尻目にキプロスの戦車が標柱をまわった。その御者もまた、最後の全力疾走とばかりに激しく馬に鞭を入れた。ところが、その後方にぴたりとつけた戦車がいた。
「今行くぞ、ネローーーーっっ!」
アスプルゴスだった。アイギナの戦車まで抜き去り、とうとう三位にまで上がってきた。観客たちもこれにはひと際大きくどよめいた。すでに車はぼろぼろだ。最初から高速で走り抜けた馬たちももう限界を超えていただろう。それでもアスプルゴスはただひたすらティベリウスだけを追いかけた。車体がほとんど浮き上がっていた。
最後の東の標柱を、ティベリウスはこのうえなく完璧な回転で曲がりきった。続いてキプロス、そしてボスポロスが角に入った。
曲がり終えたとき、ボスポロスの戦車がほんのわずかにキプロスに抜きん出た。
一瞬、観客の歓声が上がった。
「ネロ!」アスプルゴスは必死の形相でうなった。
「ネロ! ネロ! ネローーーーーーっっっ!」
次の瞬間、車が瓦解した。なにがぶつかったわけでもない。破片が激しく飛んだわけでもない。ただ風に吹かれるように、一斉に散ったのだ。砂の要塞が消えるようだった。実際には音がしたはずだが、ボスポロスの車は粛然と粉々になった。車輪は御者もなにも乗せず、からからと後ろへ転がって止まった。
アスプルゴスは飛び下りていた。すでに手綱は離していたが、馬たちもやがて止まった。上げた顔は、確かに苦笑だっただろう。照れくさそうでもあった。それでも顎にこびりついた唾液をぬぐう頃には、とても晴れ晴れとして見えた。
「行け! ネロ!」
ティベリウスは一度だけ振り返った。キプロスの戦車が懸命に追いかけていたが、もはや勝負はあった。ピュートドリスとドルーススの前を、ただ一台走り抜けていった。そのまま目線で追いかけると、走路の両端で、エリス市民二人がそれぞれ白い旗を下ろすのが見えた。
大歓声が突き上げた。競馬場を膨らませ、破裂させんばかりに揺らした。拳が上がり、布がまわって舞い上がり、前が見えないほどだ。ドルーススはそんななか、まばたきも忘れて茫然とたたずんでいた。
「……父上の勝ちだ」
彼はようやくつぶやいた。
「第一位だ!」
ピュートドリスは彼を横ざまに抱きしめた。
走路にはたちまち色とりどりの布と帯が飛び、本物の花びらまで吹き交った。ティベリウスはそのなかを、ゆっくりと馬を歩かせた。勝利の行進だ。
ルキリウスとイシラコス、それに整備の奴隷たちが駆け寄っていく。イシラコスは愛おしそうに馬一頭一頭を撫でさすった。ルキリウスはティベリウスの右足を見てなにか言っているようだった。するとティベリウスの手で車に引き上げられかけ、あわあわと嫌がった。
キプロスの馬が二着で走り終えた。アイギナの御者は、「見事な尻だった」とでもアスプルゴスに声をかけてから、三着に入った。アスプルゴスは弱ったような笑みを浮かべて歩いていた。無理させて悪かったとばかりに、傍らの馬の頭を撫でていた。
しかし彼にも勝者に劣らぬ歓声が送られていた。アルゴスとキュレネに抜かれ、六着で歩ききると、ピュートドリスはデュナミスのところへ行った。孔雀の羽は無残に握りつぶされていた。ピュートドリスが肩を抱くと、デュナミスは震えたまま、涙に濡れた顔を寄せてきた。それでも光こぼれるような笑顔だった。ボスポロスの若き家臣たちも、男泣きにむせびながら柵から身を乗り出し、王を讃えていた。
ティベリウスの行進がやってきた。アスプルゴスはにやりとし、拳を固めて走り寄りかけたが、すぐに止まった。外柵が開かれ、喝采するローマ人たちが走路になだれ落ちてきていた。
けれどもその先頭は、だれもが譲った。当の少年でさえ、たくましき四頭と崩れかけの車を前に、ひるんだように動かなくなったのだ。
御者は飛び下りた。きびきびとまっすぐに、我が息子のところへ向かってくる。息子の顔はたちまち誇りと輝きに満ちた。すでに子どもではなくなりつつある体を思いきり抱き上げられ、弾けるように笑った。
ティベリウス・ネロはオリーブ冠を戴き、その名を石碑に残した。オリュンピア競技祭、ローマ人の初優勝であったとされる。