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ピュートドリスとティベリウス  作者: 東道安利
第四章 ピュートドリス、その愛は。
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第四章 -5





 ピュートドリスは厩に足を踏み入れた。競技場の観客席から下りてきたのだが、目当ての小屋に至るまで、ありとあらゆる男たちの視線を集めた。戦車競走は女人禁制ではないし、女馬主もいる。けれども珍しい例ではあるのだろう。

 パトラスでティベリウスが用意した服が届いていた。光沢をたたえた銅色のキトンは、可憐さよりも落ち着いた気品があった。年齢相応か、少し地味なくらいだったが、それがかえって肉身に新鮮な印象を与えて際立たせていた。この場限りではなく、長く愛用しても問題なさそうだ。

 生地には絹が混ぜられているという。襞をしかと作りながらもさらさらと流れ、着ている身にも涼しくて快適だった。生地の上に刺繍代わりにビーズが散りばめられ、肩と腕に置かれた留め金とともにふいにきらめき、さながら川面に零れる陽光の欠片だった。これを纏い、きちんと化粧をした。侍女たちの手で髪をまとめ上げ、既製品ではあるが、真珠と銀細工が輝く髪飾りを差し、耳飾りもゆらした。シトロンが爽やかな香水も忘れなかった。

 初めて貴婦人らしく着飾った姿を見せると、ローマ人たちは感嘆してくれた。ドルーススは「女王様みたいだ!」と歓声を上げてから、はっと事実を思い出した。肝心のティベリウスの感想は、「美しいが、やはり中身は君なのだな」だった。どういう意味かと詰め寄るピュートドリスを、化粧を崩さないよう、耳上の髪の生え際に接吻してなだめた。セレネ叔母が呆れ返った。「なによ、もう、熱愛夫婦じゃないの」

 ともかく、そのような身なりで、さらに侍女たちに日よけを掲げさせて歩いていたのだから、人目を引くのは当然だっただろう。まして馬たちがいななきひしめき、その獣皮と糞尿の臭い漂ううえ、むせるほどの土埃が舞う混沌の中だ。およそ貴婦人には似つかわしくない場所の一つだった。

 それでも気になったので、覗いてみることにした。ドルーススも伴っていた。

 ティベリウスは一足早くここへ下りていた。オリュンピア競技祭は観客の楽しみを後まわしにするどころか真っ先に持ってくる。戦車競走は早くも二日目の午前に第一の種目として行われるのである。

 朝から予選からはじまっていた。夜明けとともに、彼はピュートドリスとドルースス、それに友人たちを連れてテントを出発した。その後はルキリウス・ロングスとともに戦車の待機場所に出かけていたが、出走の直前に観客席に戻ってきて、我が馬たちの勇姿を見守った。

 その結果、観客席から姿を消し、太陽が天頂に近づいても戻ってこなかった。もうすぐ決勝が行われる時間だ。

「どうかしたの?」

 ピュートドリスとドルーススが顔を出すと、厩の中は元気溌剌とは言い難い雰囲気だった。馬たちは決勝に備えていくらでも休むべきであるから良いとして、まわりを囲む人間どもが途方に暮れていた。彼らはピュートドリスに視線だけ上げて応じた。

 ピュートドリスはかまわなかった。中に入り、毛並みも肉づきも見事な黒鹿毛の馬たちに近づいた。ねぎらいの気持ちを込めて、一頭ずつ優しく撫でて接吻した。それから人間どもに訊いた。

「それで、この子たちをこのまま棄権させるの?」

「させたくはないよ! させたくはないけど……」

 頭を抱えて逆上気味なのは、ルキリウス・ロングスだった。もちろんピュートドリスも事情は察していたが、それでも涼しい顔をしていた。

「イシラコスはどうしても無理なのね?」

 目線を流すと、当の御者が地べたに座り込んで肩を落としていた。彼はよくやったとするしかなかった。なにはともあれ最後まで走らせきったのだ。それも最下位になることなく。しかし決勝に残ることができたのは、先頭集団がレースの終わり際に盛大な衝突を起こしたためだった。

 キッラでファヴェレウスに突き飛ばされたとき、イシラコスは両手首を地面に突いて、捻挫してしまった。今日に至るまで、患部を冷やしてできるだけ動かさないぐらいのことしかできなかったが、回復が待たれた。そして今朝の予選に、予定どおり出場した。本人が大丈夫であると主張したし、まわりの目にもなんとかなりそうに見えた。

 そうはいかなかった。六周ものあいだ四頭の馬の手綱を取り続けるとは、無傷の男であっても並大抵の負担ではなかった。御者に限界が来たことは、観客席からも見て取れた。片手で手綱を握りしめながら、馬に適宜鞭を入れるなど、もはや不可能だった。ティベリウスの戦車はどんどん追い抜かれていった。

 命を大事にするなら、イシラコスは競走をあきらめるべきだった。今にも振り落とされそうだったが、そうなれば後続の戦車に轢かれ、それこそ捻挫では済まなかった。全身を十六本の足に踏みつけられ、さらに戦車の車輪に轢かれ、もはや手の施しようもないのにまた次の戦車にも同じことをされ、瞬く間に無残な姿になる御者など珍しくもなかった。戦車競走の御者は長生きしない。場数を踏めばいずれ必ず惨事に見舞われる。そう語られているほどだ。

 だから、棄権するべきだった。走路から大きく外れるか、最下位まで落ちてから戦車を下りればよい。だがそのような振る舞いはできなかっただろう。イシラコスがなにを考えたかはさておき、御者とは大抵が富豪の奴隷である。一度レースが始まれば、勝手に棄権などできるわけがない。

 観客もまた意気地なしであると激しい罵倒を浴びせるだろう。そもそも彼らは、レース中の事故や衝突といった不慮の事態を楽しみに観戦するのだ。最も会場をゆるがすのは、怒涛のごとき馬の疾走以上に、悲劇を目にした彼らの歓声と悲鳴だ。一歩間違えば生死に関わるという興奮こそこの競技の醍醐味であり、ただなに事もなく走るだけで終わってしまったら物足りないと考える者も少なくないだろう。

 そしてなによりオリュンピア競技祭である。これよりも大規模で荒っぽい戦車競走は、世界を探せばあるだろうが、四年に一度の、最も歴史ある、最高峰の栄誉を賭けた戦いである。参加することがすでに誇りである。戦い遂げたいとの思いはまして強烈になるだろう。

 いずれイシラコスは、最後まで勝負を捨てなかった。ついには手綱を腕に縛りつけ、戦車を抱え込む体だった。ローマなどでは手綱を腰に巻きつけるらしいが、そうなると落下したときに馬に引きずられ続ける羽目になるので、緊急用の短剣を装備してからレースに臨むという。イシラコスはそれもなしでやってのけた。本当にただ巻きつけただけだったので、腕が引きちぎられるほどの痛みを伴ったに違いなかった。

 結果的にはそれが報われた。予選は四レースが行われ、途中のありとあらゆる不慮の事態に関わらず、先着した三台が勝者となる。先頭集団の盛大な衝突を大きく迂回し、なんとか三着でイシラコスは予選を終えた。

 だがもう馬を駆れる状態にないことはだれの目にも明らかだった。しかも本選は古式どおり十二周である。

 だれよりも消沈しているイシラコスを、ピュートドリスは気の毒に思った。取り返しのつかない事態にならなかっただけよかったが、彼はこの日にすべてを賭けてきたのだろう。四年に一度の競技祭を目標に、一から十まで準備をしてきたのだろう。ルキリウスもろとも捕らわれているあいだも、彼は我が身よりも馬を労わって、できるかぎり最善の状態を維持せんと努めていたという。ようやく訪れた念願の日に、力を出し切れずに終わる無念は、察して余りある。

 けれども、馬たちまでも終わりにしては、なおさら無念だろう。

 ピュートドリスは辺りを見まわしたが、訊くまでもないことのようだった。代わりの御者はいない。オリュンピアでもどこでも、ただでさえ金のかかる戦車を複数台出場させて富を誇示する王侯がいるが、ティベリウスに関してはできそうにもなかった。それは富の問題というより、直前までの偽者騒動のためで、なんとか出場にこぎつけたこと自体が幸運だったのである。

 だが、奴隷だけならほかにもいた。今も馬具や戦車の整備をして忙しくしていた。やむなくば、ピソやレントゥルスの従者を借りるという手もあった。

 だがローマ元老院議員の二人は、難しい顔を見合わせた。

「ただの馬車じゃない。四頭立て戦車を御すのだからな。やれと言えばやらせるが、まったく保証はできないぞ」

 ピソの言い分は無理もなかった。そこらの御者に練習もなく出場させたとして、無残な結果になるのは火を見るより明らかだ。それでも棄権よりはましだろうか。ピュートドリスはしきりに首を振っているイシラコスを目に留めた。

「ならば、雇うのは? 予選で敗退した人たちがいるでしょう。残念ながらやっぱりな結果だった、ユバにでも頼んでみたら?」

「それではネロの勝利どころか、ローマの勝利にもなりません」

 ピュートドリスの提案に、とうとうイシラコスは反駁してきた。ピュートドリスは目玉を上向けた。

「じゃあ、どうするの?」

「ネロ」イシラコスは主人に膝歩きで寄った。「だれが御そうと同じなのです。我らの馬です! 我らのほかだれの命令も聞きはしません。お分かりですよね?」

「ちょっと、待ってよ……」

 青ざめたのはルキリウスだった。ティベリウスは柵に尻を乗せて腕を組んでいた。イシラコスはさらにすり寄った。

「もはやそれ以外手はありません! どうかご決断を!」

 ごく最近も聞いた言葉だった。そのときほどではなくとも、ピュートドリスほか多数もあっけにとられた。最初に口を開いたのは、ローマ人ではない男二人だった。厩の片隅で、聞こえよがしにささやき合った。

「ひょっとして、旦那に自分で御者をやれって言ってんの?」

「ルキリウスでも良いでしょうよ。そのお三方ですから。手ずから馬を育ててきて、かつまともに乗りこなせるのは」

「冗談じゃないよ!」

 ルキリウスがたまらず悲鳴を上げた。

「そんなのできるわけないでしょ! そりゃあ、遊びがてらちょっとはやってみたけど! みたけど! それだけだから! 競走とか全然無理だから! 死ぬから!」

 レオニダスとトラシュルスはいかにも無邪気に目をしばたたいた。ようやく話を理解したドルーススは、父とルキリウスとイシラコスへしきりに首を振り向けた。目がまんまるだった。

「それはちょっと、どうかしらね……?」

 ピュートドリスもためらいがちにティベリウスを見た。ティベリウスは黙したままだが、ずっと考えてはいたのだろう。けれどもピュートドリスとしても、愛する男に活躍を見せてほしいと、気軽に頼むことはできなかった。ルキリウスの言うとおりだ。死にはしなくとも、腕や足を折るかもしれない。頭や首を打ちつけ、再起不能になるかもしれない。最悪の場合、元の形がわからなくなるほど悲惨な亡骸になるかもしれない。

「でも、旦那は経験があるんだよね? 凱旋式を挙げたとき」

「お前、おかしいんじゃないの?」

 レオニダスののんきな指摘に、ルキリウスはわめかずにはいられない様子だ。

「あれはゆっくり歩かすだけだから! 戦車だってずっと頑丈で大きくて、とにかくわけが違うんだよ!」

「でも、どっちかが出るしかないんでしょ?」

 レオニダスは首をかしげる。すでに笑っている。

 ピュートドリスは再び屈折した友情が発揮される機会が来たかと待ち構えたくなった。しかしさすがのルキリウスも進み出られないようだ。先日酷使した身体もまだ回復しきっていないだろう。

 まずもって、戦車競走の御者とは四十一歳の男の役ではなかった。十代後半から二十代前半の若者であるのが一般的だ。四肢の長い体躯でありながら、体重が軽いことが求められる。体力と集中力は言うに及ばず。

 ティベリウスは長身だが屈強である。体重だけ考慮するならルキリウスのほうが適役だろう。

 たぶん無事では帰ってこないだろうが。そもそも戦車に乗せることすら無理な雲行きだった。そうなると、あとは棄権するしかない。

 ところが、それを許さない男がいた。なぜか隣の厩から拳を振り、身を乗り出してくるのだった。キスティスという、あまり似合っていない長衣を身に纏い、すでに土埃まみれだ。

 彼だけはこの機会を待ちに待っていた。

「おい、ネロ! あんたが出ろ!」

 アスプルゴスはだれよりも率直にティベリウスに迫った。

「出て、俺と勝負しろ!」

「おかしい人がほかにもいたよ」

 ルキリウスがラテン語でぼやいた。

「聞こえてるぞ!」

 というのも予選、アスプルゴスは自ら戦車を走らせたのだった。体格は並だが、確かに二十代の若者だった。そして実際、見事な走りぶりだった。ティベリウスの戦車とは違う組で予選を走り、抜きん出ての一着だった。見方によっては、予選から全力を出し過ぎなのかもしれないが、彼らしい若さであっただろう。団子状での接触事故を避ける戦術でもあっただろう。

 それでも、彼は一国の王だった。後継ぎもいなかった。

「母上はあなたを止めなかったの?」

 ピュートドリスは訊いてみた。

「子ども扱いするなよ! 俺はちゃんと自分で判断を下すんだ! だいたい母上は今芸人たちに熱を上げてよくわかってな――とにかく! 俺はネロと勝負をするためにここまで来た!」

「そうだったの?」

「そうだって言ったろ!」

 アスプルゴスはピュートドリスに指先を突きつけた。そしてそのままティベリウスへ向けた。

「怖気づいてるんじゃねぇだろうな、ネロ?」

「怖気づいて当たり前でしょ。死んだら元も子もない」

 ルキリウスが開き直ったが、アスプルゴスは無視した。

「古代の英雄はだれでも自ら手綱を取ったぞ! ディオメデスもメネラオスも!」

「ホメロスの詩と一緒にしないでおくれよ」

「昔はそれが当たり前だった! 本業が学者のやつでさえ自分で御した!」

「おおむねその人たちだって、三、四百年も前にあの世に行ってるよ」

「ここで出ないと男がすたるって思わないのか? 戦車競走は最高の栄誉だ! オリュンピア競技祭はそもそもこれから生まれたって言われてんだぞ!」

「そのときぺロプスとかいう神の孫は、戦車に細工をして王を負かしたんじゃなかった? だいたいさ、事実あのアレクサンドロス大王だって、出場を断っているんだよ。相手に王がいないからって」

「俺が王だ!」

 ティベリウスを見つめたまま、アスプルゴスはどんと我が胸を叩いた。

「相手にとって不足はないはずだ!」

 果たしてそうだろうかと、ローマ人たち全員が考えたに違いなかった。口には出さなかったが。

 ピュートドリスはティベリウスを見た。相変わらず黙して腕を組んだまま、動いていなかった。まなざしも確認して、思わず苦笑した。この人はすでに腹を決めていた。

 せっかくの好機を逃しては愚かだ。ピュートドリスだって、待ちに待ち焦がれた機会をつかもうとしたからこそ、今ここにいる。

 けれども彼の腹一つの問題ではなかった。ルキリウスがここまで国王に相手に反論する理由も、そこにあった。もし万が一ティベリウスが二度と戦場に立てなくなったらどうする。命があったとて、今度こそ本当に引退である。逆に陰謀屋どもはもう見向きもしないだろう。世界は当代一の将軍を失うのだ。愚行でしかないはずだった。

 しかし、ここはオリュンピアである。敬虔な心で神々の助力を求める。そうすればもしや本当に万が一で済むかもしれない。

 イシラコスは主人の足下で嘆願した。

「ネロ、どうか我らの努力を無にしないでください! 今しかないのです! この馬たちのすばらしさを世界に知らしめてください!」

「……昔から戦車競走は好きだよな? 剣闘士試合は嫌いなのに」

 ピソはすでにティベリウスへにやにやと笑いかけていた。

「昔、チルコ・マッシモでピソに負けてからだよね。研究熱心になったの。まだ根に持たれているんだよ」

 と、レントゥルスが教える。ピソはさらに笑みを大きくする。

「そういえばあれは、ティベリウスの独身最後の馬鹿騒ぎという名目だったな。仲間の皆で戦車に乗って走りまくった。カエサルに怒られる結末までは想定内だったが、罰としてその一夜の葡萄酒禁止令が出されたときの、あの絶望ったらなかったな」

「なにやってるのよ……」

 ピュートドリスはため息をこぼした。レントゥルスが首をかしげてきた。

「今は結婚しているも同然みたいだけど?」

「私に委ねないでよ」

 ピュートドリスはむくれてみせた。

「言うことを聞く男がいるの? 勝手に走って、勝手に断酒したらいいのよ」

「女王様……」

 ルキリウスはずるずると座り込んだ。

 ドルーススがおもむろに歩き出した。父のマントの端をぎゅっとつかむと、ただ黙して見上げた。ピュートドリスは父が瞳を動かすのを見た。きっと息子のそれも、不安よりも期待をたたえて底光りしていただろう。

 父は二度、ドルーススの頭を軽く叩いた。それからなにかをささやいて、柵から背中を離した。

 カエサルとリヴィアには黙っているように言ったのかもしれない。







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