表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ピュートドリスとティベリウス  作者: 東道安利
第一章 初恋の人
6/66

第一章 -6





 以後、少女ピュートドリスは、生まれてこのかた恵まれ続けた幸福を失ったように感じた。代わって訪れたのは、生涯最もやるせなく思われる不幸だった。毎日何度も父に願った。ただ一つのわがままを執拗に言い続けた。ティベリウス・ネロと結婚させてほしい、と。

 しかし、いくら父といえどもそれは無理な話だった。

「彼にはすでに婚約者がいるのだよ、ピュリス」

 父は最初、同情深げに眉毛を下げていた。

「マルクス・アグリッパ殿の娘ヴィプサーニア嬢だ。幼少の頃からの約束だと聞いている。このたびのアルメニア遠征から戻れば、すぐに婚儀を執り行うだろう」

 その前になんとかするよう、ピュートドリスは懇願した。そのヴィプサーニアという娘が、自分と同じ年齢だと知らされてはなおさらだった。

 父は首を振った。なぜならティベリウス・ネロはローマで最も由緒ある貴族の家に生まれ、そのうえ継父アウグストゥスに大変目をかけられている。ローマ市民の女とでなければ結婚は許されないだろうと言った。

 ピュートドリスは納得できなかった。自分だって、マルクス・アントニウスの孫だ。ローマ女を名乗る資格はある。

 しかし父ピュートドロスは、ローマ市民権を持っていなかった。

「だったら今すぐ、ローマ市民権をいただいて!」

 その方法もわからなかったが、ピュートドリスは指図していた。

「それから私をローマに連れていって!」

 ひとたびローマに入ったなら、アウグストゥスの右腕の娘だろうとだれだろうと、負ける気はしなかった。あらゆる手を尽くして、奪い取ってやるつもりだった。あの青い眼差しも、静かに響く声も、たくましい胸も、超然とした背中も、優しい唇も。

 だが父は首を振り続けた。トラッレイスを離れるつもりはないし、娘を独りで行かせるつもりもないと言った。

「あの若者がすばらしいのはわかるがな、ピュリス」

 父は半ば困り、半ばうんざりしているような顔で言った。

「世界一の美男というわけでもなかろう。彼と同じくらいの容姿で、そのうえ女に優しくする男はいくらでもいるぞ。こういってはなんだがな、娘よ、私が見るかぎり、彼は女を楽しませる型の男ではなさそうだ」

「わたしはあの人がいいの!」

 ピュリスは言い張った。

「お父様、どうしてよ? アントニア叔母様は、ティベリウス殿の弟と婚約したんでしょ? だったらどうしてピュリスにできないことがあるっていうの?」

「可愛いピュリスよ、問題はな、お前がアントニウスの血を引くと同時に、東方世界の女であることなのだ」

 すでに眉をしかめつつも、父は辛抱強く教えた。

「ローマ人が、嫁に来たがるお前を見て、真っ先にだれを連想するか。そう、クレオパトラだよ。あの忌々しい魔女が、またローマ男をたぶらかして世界征服をしに来たと思うことだろうな」

「私はクレオパトラじゃない!」

 ピュートドリスは叫んでいた。

「だからなんと思われようがかまわないわ!」

「お前がかまうまいが、ティベリウス殿が承知すまい。第二のアントニウスになったなどという評判を立てられたくはないだろうからな」

「そんなことわからないじゃない! 彼はきっと、評判よりも愛する女を選ぶわ!」

 愛する女になってもいないのに、ピュートドリスは強気に決めてかかった。だが父は軽く首をすくめた。

「彼ほどの家柄の男なら、ローマ市民がまず許すまいよ」

 ピュートドリスの目に涙が滲んだ。お気に入りのキトンの裾を、今にも引きちぎろうとしていた。

「お父様、どうしてなにもしてくださらないの? このピュリスの一生のお願いなのよ? ピュリスの欲しいものは、いつもなんだって揃えてくださったじゃない!」

「なぜならな、愛しいお前よ」

 父は頭を押さえながら言った。

「彼では、お前を女王にできないからだ」

 父の話はこうだった。ローマの第一人者アウグストゥスには、前妻とのあいだにもうけた一人娘ユリアがいる。アウグストゥスはまず彼女を甥マルケルスに嫁がせたが、その甥は子どもを残さずに早逝してしまった。すると今度は、自身の右腕アグリッパに再嫁させた。それが去年のことだが、今年になり、夫婦のあいだにもうじき子どもが生まれる見通しとなった。サモス島で一報を受けたアウグストゥスは、すでに狂喜乱舞の体だったという。

 つまり彼は、自分の血を引く男を後継者に据えるつもりでいる、と父は教えた。その赤子が男児で長生きするかはわからないが、アグリッパとユリアの夫婦は今後も子を授かるだろう。アウグストゥスは自分の後継者候補となる多くの孫に恵まれるだろう。一方、彼自身は病弱で知られているが、その身に万一のことがあっても、アグリッパが息子たちの代まで第一人者の権力を守るだろう。

「わかるか、娘よ」

 父は懇々と諭すように言った。

「ティベリウス・ネロがアウグストゥスの後継者になる見通しがあるなら、私もお前のために一肌脱ごうと考えないでもない。そうなれば、世界の頂に立った男の妻として、歴史に名を残すことはできるだろうからな。だが、それは望み薄だよ、ピュリス。彼はアウグストゥスの血を一滴も引いていないのだから」

「そんなこと、どうだっていいわ!」

「よくはない」父は断固とした口調で言った。

「私はお前を最高位の女にすると決めている。だがローマ女の地位は低いのだよ、ピュリス。歴史の表舞台に立つという意味においては。確かにティベリウス・ネロは、ローマで最も有力な貴族の家に生まれた。正直、この私はもちろん、あのアウグストゥスでさえまったくかなわぬ高貴な血統だ。そのうえ彼は有能に見える。それなりの地位には登りつめるだろう。もしかすると、第二位の男にまでなるかもしれん。だが、それまでだよ、ピュリス。所詮一貴族だ。有能な一元老院議員の妻になることと、一国の女王になること、どちらが歴史に名を残せるか、明白だと思わんか?」

「私は女王になんてならなくていい!」

 ついに、ピュートドリスは宣言していた。

「歴史に名前が残らなくていい! ただ、あの人の妻になって、ずっと一緒に暮らせたら――」

「馬鹿なことを言わないでくれ、ピュリス!」

 両手で頭を抱え、父は大声を上げた。

「お前は恋の熱に浮かされているだけだ。少し頭を冷やせ! 勉学をするがいい! 乗馬をしても、剣術の練習をしてもいい! とにかく落ち着くのだ。そうすれば、お前にもできるはずだ。もっと長い目で人生を見渡すことが――」

「あの人と結婚する人生がほしいの!」

「そんなことを言うのは、恋の病に侵されているからなのだ。若い時分はだれしも経験するものだよ。お前がようやく女らしく恋心に目覚めてくれたことを、私はうれしく思う。だが、ティベリウス殿のことはあきらめなさい。美しい初恋の思い出として、心にしまっておくだけで十分ではないか」

「いやよ! いや! いやったらいや!」

「わがままを言うな!」

 これまでわがままを言うまでもなく叶えてきたくせに、父は怒鳴りつけてきた。それからまた哀れっぽく嘆いてみせた。

「ピュリス、これ以上私を困らせんでくれ! いずれ、お前にふさわしい男を必ず用意する。お前を女王にしてくれる男だ。私は、お前の幸福を第一に考えているのだよ」

「お父様は嘘つきよ!」

 ピュートドリスは言い放ち、父の顔面にクッションを投げつけたのだった。

 鞭で懲らしめるなら、そうすればいいと思った。あの人への愛のために味わう痛みなら、歓迎してあげる。大声で叫べば、この胸の苦しみもいくらか空くかもしれない。

 だが父は、もはやなに事もなかったかのように振る舞った。

 人生で初めて、どんなに願っても叶わない夢があることを知った。それにしても、挑戦する機会ももらえないとはあんまりだと思った。勝負をして、それで敗れたならあきらめもつくかもしれない。しかし、以来父は、あれほど誉めそやしていたのに、ティベリウス・ネロの話すらすることを避け続けた。娘の哀願であれ脅迫であれ、取り合わなかった。ピュートドリスはあきらめなかった。父が駄目ならば、母にも頼み込んだ。故郷ローマに帰りたくはないのか、と。

 だが母もまた首を振った。東方へ嫁ぐ前、母は父アントニウスに婚約と破約を目まぐるしくさせられた。首都の男どもの政治闘争に振りまわされるのは二度と御免と思っているらしかった。

 母は娘の恋路を応援しなかったが、同情し、なぐさめてはくれた。初恋の相手と結ばれなくとも、幸福な将来は訪れうると。思いがけぬ縁だった夫と自分の話を聞かせながら。

 それでも、ピュートドリスはあきらめきれなかった。毎朝愛しい人の残像を追いかけながら目を開け、毎晩愛しい人との邂逅を願いながら目を閉じた。

 ひと月が過ぎた。ティベリウス・ネロ率いるローマ軍が、アルメニアで圧勝を収めたとの報が届いた。ピュートドリスは喜び、誇らしくさえ思ったが、その気持ちをだれとも分かち合うことができなかった。

 五月、ティベリウス・ネロは東の大国パルティアとの会談に赴いた。東方諸国は、ローマとパルティアに挟まれ、どちらに寄りかかるかで常に揺れる運命にある。祖父アントニウスも、パルティアに戦争をしかけたものの、結局東方第二の大国アルメニアに裏切られ、撤退を余儀なくされたのだ。このたびローマは、アルメニアを負かすことでパルティアに圧力をかけた。そしてアントニウスが奪われた軍団旗に加え、およそ三十年前、カッラエの敗北で奪われていた軍団旗も取り戻した。

 勝利と栄光は、最高司令官であるアウグストゥスのものだ。だが軍事行動、軍団旗奪還、そしてユーフラテス川を国境とするパルティアとの和平協定、これらを現場で遂行したのは、二十一歳のティベリウス・ネロだった。

 ピュートドリスはうれしくて、苦しかった。

 夏、任務を終えたティベリウス・ネロが、ロードス島で休暇を過ごしているとの噂が聞こえてきた。少年時代の家庭教師が、そこで学校を開いているので、顔を出しているそうだった。

 ロードス島なら、海を跨いですぐの距離だ。ピュートドリスは家出を決行し、あっけなく捕まった。夜更け、トラッレイスの市門を出るや否やのことだった。

 我が家に閉じ込められ、ピュートドリスはわんわんと泣いた。いくら泣いても、愛しの貴公子は助けに来てくれなかったが。

 父は呆れ果て、困りきった。母は娘を哀れんだ。それで、娘にパピルス紙を一枚差し出した。これで自分の思いにけじめをつけるように、と。

 ピュートドリスにはそんなことできそうになかったが、それでもティベリウス・ネロに手紙を書いた。母は、父には見せずに届けると約束してくれたが、あからさまな恋情を表すことは許されなかっただろう。ピュートドリスにできたのは、このたびの戦勝を祝うことと、懸命に控えた好意を綴ることだけだった。

 それは、別れの手紙だった。一方で、初めての恋文だった。二十年が過ぎた今は、思い返すのも恥ずかしい。あれだけは彼に覚えていてほしくないとさえ思う。だがあの当時は切なくてたまらなかったが、今は決して不幸せな体験ではなかったと思う。

 そして思いがけず、彼は返事をくれたのだった。直筆だっただろうか。簡潔に、勝利を祈ってくれたことへの感謝を述べていた。さらに、

『ピュートドロス殿の愛息女であるあなたには、格別珍しいものでもないかもしれませんが、私からの感謝の印です』

 と、アルメニアの戦利品を一つ添えてきたのだった。白と薔薇色の縞模様が鮮やかな、大粒のアゲート。それが金細工で囲われ、華やかに存在を誇示する首飾りになっていた。

 ピュートドリスは頂戴するならばむしろ、彼のあの瞳を思わせる青色の宝石が欲しかったのだが、これを身につけると、会う人にことごとく賞賛された。すれ違うだけの人でさえ、思わず相好を崩して声をかけてくるほどだった。このうえなくあなたによくお似合いの石ですね、と。

 だから、ピュートドリスは満足することにした。少なくとも贈り物に関しては。これは彼の形見だ。

 彼が東方を去る時、自室でひっそり涙を流した。予定どおりヴィプサーニア・アグリッピーナと婚儀を行なったと聞いた時は、もっと声を出して泣いた。

 独りぼっちの恋だ。彼は私が彼のために涙を流し続けているなど思いもよらないだろうから。私のことなど頭の片隅にもないだろうから。そう考えて、悶えた。

 月日が流れたが、ピュートドリスは彼以上の男に出会うことはなかった。

 父がとうとう縁談を持ち込んできたとき、ピュートドリスはすでに二十歳になっていた。世間的には行き遅れたと言うべき年齢だったが、父は娘が女王になる可能性のある男のみに的を絞っていたのだろう。ピュートドリス自身も気にしていなかった。もちろん、かの人より結婚したいと思う男などいなかったからだ。

 縁談の相手は、現ポントス王ポレモン。その王位は、祖父アントニウスから授けられた。代々王家を担ってきた血筋ではなく、裕福な弁論家の息子だという。その点では、ピュートドロス家と釣り合っていた。

 ピュートドリスは嫌がった。どれほどの富豪の娘であれ、王に嫁ぐとなれば玉の輿に乗ることに違いなかったが、それでもまったく気が進まなかった。まず、ポレモンはすでに五十歳を越えていた。

 だが父にしてみれば、その点が娘を女王にするための利点だった。娘が健康でいるかぎり、いずれポレモンのほうが早く死ぬ。そうすれば子どもが成人するまでのあいだ、娘が女王の地位を得て、ポントス王国を統治できるであろうというわけだ。もしも善政を敷けば、死ぬまで女王でいることさえ、不可能ではなかった。なぜなら覇者ローマは頑なに女を自国統治から遠ざけているが、同盟国が女を頂に置くことは問題視しない。その国民に受け入れられていることと、親ローマであることのみが条件だった。

「ポレモンは良い男だ」

 身振りも大きく、父は説得を試みたのだった。

「お前の祖父の最も親しい友人だった。私も彼をよく知っている。陽気で、勇敢で、退屈させない男だ。なにより、彼のほうからお前に求婚してきたのだよ。女にとって、これほど冥利なことはないではないか」

「結婚を済ませたあとにね」

 ピュートドリスは鼻を鳴らして皮肉った。ポレモンに関する第二の、さらに重大な問題は、彼が同年にデュナミスと結婚していたという事実だった。

 だが父は、軽く首を振ってみせただけだった。

「あれは統治上の契約にすぎんよ」

 デュナミスは当時四十八歳だった。前年、彼女の最初の夫であるボスポロス王が亡くなり、王国は混乱状態に陥っていた。そこへマルクス・アグリッパが、ポレモンとともに軍勢を率い、平定に赴いた。彼は当時、アウグストゥスの代理として、ローマ世界の東半分の統治を託されていたが、これはティベリウス・ネロがアルメニア攻撃を始める直前と同様で、二度目のことだった。

 彼が、ポレモンとデュナミスの結婚を取り持ったのだった。これにより、ポレモンはポントス国王兼ボスポロス国王となった。

 父は、これがボスポロスの平穏を保つための婚姻だったという。つまりポレモンとしては、デュナミスには子を産む役割を期待していない、と。明らかであるのは、ポレモンが統治者としての能力をローマに高く買われていること、そして女として、後継ぎを産む妻として、亡き友の孫である二十歳を熱烈に求めていることである、と。

 それでもピュートドリスは嫌だった。このままティベリウス・ネロが離婚するか、東方に戻ってくる日を待ち続けていたいと思った。だが聞こえてくるのは、西方各地で目覚ましい戦果を上げながら、妻と仲睦まじく暮らす彼の評判ばかりだった。

 とうとうポレモンが、トラッレイスの屋敷を訪れた。彼は太り気味だったが、大柄なためにたくましく見えた。頭髪は白いものが交じっていたが、まだ豊かだった。髭を粋な感じで整え、誇らしげだった。

 笑みは快活で、決して下品ではなかった。それを満面に湛え、彼はピュートドリスの手を取った。そしてその美しさ――漆黒の髪、金色の瞳、白い肌、きりと上がった唇、すらりとした肢体――を、言葉を尽くして賞賛した。

「あなたはまるでアントニウス殿の生き映しだ。いや、決して、あなたが男のようだと申しているのではないよ。ただ、あなたからはあの方と同じ、あふれてやまぬ生気と情熱を感じるのだ」

 女は愛してくれる男と一緒になるのが幸せだと、誰かが言った。どの道、父に逆らう権利はなかった。ピュートドリスはポレモンに嫁いだ。ポントス王国へ入り、王妃となった。慣れ親しんだ暮らしと別れ、恋する人との結婚をあきらめ。







評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ