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ピュートドリスとティベリウス  作者: 東道安利
第四章 ピュートドリス、その愛は。
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第四章 -4





 翌十七日、ローマ人一行、ボスポロス王一行、そしてマウリタニア王一行がパトラスを出立した。ペロポネソス半島の西をゆるやかにまわり、陸路オリュンピアへ向かった。にぎやかな旅だった。彼ら以外にも競技祭の観客になろうとする大勢の人々が街道を埋めていた。一行もまたそれぞれ思い思いに入り乱れて進んだ。

 デュナミスとセレネ叔母は優雅に輿に乗っていた。ルキリウス・ロングスは馬車に入り、トラシュルスを相手に愚痴をこぼしていた。それにおかまいもなく馬上からレオニダスが、ついにテルモピュライ峠を通った感慨を伝えていた。アスプルゴスは馬首を並べてドルーススから離れなかった。ユバはティベリウスとテオドルス先生なる人の話をしていた。ピュートドリスはピソとレントゥルスからティベリウスの昔話を聞き出していた。「ねえ、十四歳で『長老』ってどういうこと?」 キュプセラで失くした馬がキッラで見つかり、ご機嫌で旧交を温めてもいた。

 とはいえ、あまりのんびりもしていられなかった。開会式は四日後に迫っていた。日が傾きはじめると、ティベリウス、アスプルゴス、そしてユバは馬の歩度を上げた。夜には競技祭を主催するエリス市に入った。

 ほかの参加者たちはひと月も前からこの市に入り、合同宿舎で準備を整えることになっていた。しかしながら戦車競走だけは、必ずしも事情が同じではない。馬主である富裕層は、無論のこと合宿の意味を見いださない。直前になって、自慢の馬に加えて大勢の奴隷を従えて現れるのである。

 あらかじめ届けは送っていただろうが、ティベリウスたち三人はここで最終的な出場意思を表明した。複数台の戦車を送り出す馬主もいるが、彼らはそれぞれ一台ずつだ。

「いよいよですね」

 ドルーススは合同宿舎の列柱廊の片隅から、目を輝かせていた。父やその競争者の馬ばかりでない。スタディオン走(短距離走)、長距離走、拳闘ボクシング、組打ち(レスリング)、パンクラティオン、幅跳び、円盤投げ、槍投げ、武装競技と、我が肉体を誇る参加選手たちが、大勢闊歩しているのである。

 ピュートドリスもまたドルーススの傍らにいた。ティベリウスが戻ってきたら、今夜は市外のテントで夜を明かすことになっていた。

 翌十八日、エリス市は世界で最も混雑する場所となった。市の規模はそれほど大きくないのに、競技祭参加者とその家族、関係者が勢ぞろいとなるためである。それでも観客たちならば一足早くオリュンピアに向かっている者も多かったので、なんとか収容しきれたのだろう。周辺の広大な平地は、人間どもにひとときの寝床を提供した。ペネイオス川の水も、夏の只中に訪れた物好きたちに恵みを行き渡らせた。

 ティベリウスは友人たちと馬の状態を整えていた。この日は人間ども以上に馬たちにとって貴重な休息日だ。彼の馬は十分に力を発揮できるだろうか。ロードス島からここまで陸路連れられてきたのだ。

 翌十九日からは、二日がかりの旅が始まった。エリス市からオリュンピアまで、審判団、エリス市祭司、そしてすべての選手たちが行進していく。選手の家族や教師、楽隊、それに犠牲獣の群れまでが連なる。誇らしく音楽が奏でられるなか、昔ながらの道を五十キロ以上、輿や騎乗の人はごく一部で、ほとんどが徒歩である。

「なんでマラトンからアテネより長距離を歩かされなきゃいけないの? 真夏の真っ昼間だよ」

 ルキリウスは正気を疑う目つきで見下ろしていた。彼自身は丘に停めた馬車の中で、ぐったりと足を伸ばしていた。

「これが最終予選なんだろう」

 ピソは馬上から推測を述べた。ローマ人関係者は朝早くにテントを畳み、この場所から高みの見物を決めていた。ルキリウスは首を振った。

「これで本番で結果を出せって言うんだから……」

 実のところは、結果や記録以上に、ゼウス神に捧げる祭典である。古式に則ることが、ほかのどの競技会より重要である。そのうえで第一位となることこそ、神に愛された証となる。

 ピュートドリスもまた馬車の中にいた。セレネ叔母はまだ到着しておらず、代わりにユバの心配をしてあげることにした。輿に乗らず、マウリタニア王は騎乗していた。妻のためにアテネから馬を飛ばしてきたのだから、案外壮健なものだったが、五十歳を過ぎてこの炎天下、遮るもののない道をゆっくりと行進させられるのは、さすがに堪えるに違いなかった。

 ドルーススは馬車から下りていた。草原に立ち、背伸びをして飛び跳ね、父の姿が見えるのを今か今かと待ちかねていた。





 八月二十一日、四年に一度の競技祭は、第一九五回目の始まりを迎えた。全出場選手の見守るなか、オリュンピアのゼウス神殿で厳かな儀式が執り行われた。期間は五日で、初日はこの開会式で終わり、最終日は優勝者の宴に当てられる。あいだの三日間のみ競技が行われる。

 ピュートドリスはこの期間を、オリュンピア近郊に広く張られたテントで過ごすことになった。ティベリウスと友人たちの仮設別荘というわけだが、不便どころか邸宅並みに快適だった。豪華とまで言い切れないのがローマ人らしかったが、それでもティベリウスをはじめ、軍営暮らしを長く経験してきた人たちである。屋外でも我が家と同じように過ごすためになにが必要か、十分に心得ていた。

 隣にセレネ叔母がテントを設営し終わると、ピュートドリスはさっそく見舞いに出かけた。ユバはなんとか無事開会式に出かけたそうだった。彼は一昨日の昼過ぎまで持ちこたえたが、あとは見かねたローマ人たちに回収され、馬車の中に押し込められ、水とオリーブの塩漬けを与えられたのだった。ルキリウスがしぶしぶ馬車を譲った。

「代わりに列に加わったら? 君が育てた馬でもあるんだから」

「嫌だね」

 レントゥルスにユバの介抱を押しつけ、代わりに馬にまたがり、少しでも涼しい風がほしいとばかりにさっさと駆けていった。

 今は彼らも競技祭の会場にいる。女たちはそのまわりで留守番である。開会期間中、オリュンピアは女人禁制となる。

 ゼウス神へ捧げられるのは、勝利ばかりでなく、この世で最も美しいとギリシア人が信じる人間の裸体である。競技者は全裸で競い合う。

 しかしその一事だけが女人禁制の理由ではないのだろう。実際、未婚女性や娼婦は出入りしていて、締め出されるのは既婚女性だけである。

 とはいえ、戦車競走だけは例外である。過去には女馬主がオリーブ冠の栄誉を得た記録もある。出走日まで、ピュートドリスとセレネ叔母は、特段残念がらずに男たちの帰りを待つことにした。

 元より各競技種目それ自体は珍しくもない。まして女王や王妃であれば、特別席から観戦する機会がこれまでに何度もあった。一般の女たちは不満に思っているだろうか。おおむね各地の競技会では、観客席の後列に押しやられてしまうが、それでも見物自体を禁じられることはまずない。オリュンピアが保守の極みなのである。

 どうしても観戦したいのならばできなくはないだろう。禁を破った女は崖から突き落とされる罰を受けるそうだが、執行された例はないという。選手の家族や恋人は潜り込むかもしれない。それに戦前後の男たちとは、いやがうえにも女を欲しがるものだ。アルペイオス川を挟んだこのテント群でも、娼婦たちがあっけにとられるほど大勢行き交っていた。一歩外へ出れば混沌とはこのことで、娼館の主人たちは、神聖な祭典だろうがおかまいもなく、今が稼ぎ時とばかりに商売小屋を設営していた。個人の娼婦でも、この五日間で一年分の稼ぎを得るそうだ。

 炎天下、素裸の男たちに娼婦の群れ、ごったがえす観客、百頭を超える犠牲獣の断末魔と血しぶき、たちまちに悩まされる水不足、悪くすれば病気――男たちはこの混沌に妻を引き入れたくないのかもしれない。

 女たちには、あとで女だけの競技祭を別に開催する、そのたくましさはある。

 それでも女の社会的な地位に関しては、ギリシア人はローマ人以上に保守的だった。女は基本的に家に閉じこもるのが良しとされてきた。著名な女流詩人がなん人かいるが、男を負かしたとたん「雌豚」などと罵られる世界だ。学問においてもその扱いなのだから、まして体育場に出かけて運動するなど、婦人にあるべからざる素行と見なされた。

 それでも時代は変わっていく。ピュートドリスはアジアの生まれだが、トラッレイスの体育場で馬術や剣術に夢中になったものだ。ローマの女だって男と同じ場所で運動する。しかし、確かにそれは未婚の、それも十代の少女までだった。既婚女性は体育場に出かけないし、未婚の二十代女もまた、年甲斐もないことと眉をひそめられるのだろう。ピュートドリスは王妃だったので、宮殿の裏庭で剣の練習をしようが、だれにもなにも言われなかった。むしろ勇猛なアマゾンの印象は、ポントスを統治するにあたって有利に働いたくらいだ。けれども世の大多数の女にはそうではなかったのだろう。まったくなぜ結婚などするのか。男どもは、妻を家に閉じ込めてさえおけば、ほかの男に目移りしないとでも思っているのだろうか。運動でも学問でも肉体の魅力でも、そんなに自信がないのだろうか。だから今こうして競い合っているのだろうか。

 そうした考えは意地が悪いだろうか。

 結局、女がいないほうが余計な面倒事が起こらずに済むということなのだろう。まして妻など、英雄を一瞬にして単なる夫にしてしまう恐るべき存在だ。

「退屈か?」

 天幕を上げて、ティベリウスが入ってきた。思ったよりも早い帰営だった。

 一人寝台に座り、ピュートドリスはついむくれ顔をしていたらしい。

 既婚女性のための退屈しのぎがないわけではない。デュナミスは自国のテントに、詩人や踊り子、笛吹きたちを招き入れ、小さな芸術の競技会を催していた。その詩人たちがまた美男子ばかりで、ピュートドリスは呆れてしまったのだが、やはりまだ先達女王はご健勝でいるようだった。

 セレネ叔母のテントもにぎわっていた。オリュンピア競技祭は、芸術家や学者にとっても格好の宣伝の場である。四年に一度の勝者のために、詩人たちは讃歌を謳い、演奏家たちは息を整える間もなく駆り出され、画家たちは自慢の作品を展示して新しい仕事を得、彫刻家たちは石像造りに勤しむ。学者や弁論家もまた自身の成果をここぞと演説してまわる。かつて歴史家ヘロドトスはこの地で作品を発表し、多くの観衆の喝采を浴びた。そのとき感涙をこぼしたトゥキディデスもまた、我が著作の発表にオリュンピアを選んだのだった。このようにギリシア文化の華たちが結集し、確かにいまだ世界を支配していると、地中海の真ん中で凱歌を挙げているようだ。

 しかし女王身分を置いてきているピュートドリスは、せいぜいひっそり隅で鑑賞するくらいしかできないのだ。

 セレネ叔母を訪ねた客人の中には、学者でも芸術家でもない者もいた。聞くに、マルクス・アントニウスの友人のようだ。命日は過ぎてしまったが、それでも三十年が過ぎたこの機会に、その娘と思い出を分かち合いたいと考えたのだという。セレネ叔母とともに涙をぬぐいながら、年配の客なん人かが、ピュートドリスを見て、激しく目をしばたたいた。もう一度まぶたをこすり、そしてまた目を丸くするのだった。ピュートドリスはただ微笑んだだけで、叔母のテントをあとにしてきた。

 よく考えてみるまでもなく、ピュートドリスはティベリウスの妻ではなかった。だから独身のふりをしてオリュンピアに入り込んでもよかったのだが、未婚でかつ娼婦でもないならば、三十過ぎの女などまして居場所がなかった。ニ十歳ですでに行き遅れと見なされたのだ。たとえ夫と離別しようと、再婚するのが当然とされている。よほど気丈な詩人や学者ならば、一人堂々と旅をしてみせたかもしれない。けれどもそのような進取の気性を持つ女などごく一部だ。危険を冒したがらないのは男より女と特性だろう。

 それでも、ピュートドリスには冒険の果実があった。それを得たのは幸運にせよ、機を逃しはしなかった。我が本願に挑戦しないまま一生を終えずに済んだのだ。

 ティベリウスは、今日はご機嫌取りに果物も宝石も差し出さなかった。ただピュートドリスを腕に収めて寝台に横たわっただけだ。たちまちピュートドリスは、世界一幸福な女になった。

 喧噪などいらない。愛する男と二人、のんびりくつろぐ昼下がりこそすばらしい。実のところピュートドリスも、長旅の疲れを感じていないわけではなかった。ティベリウスは今日くらい一所でゆっくりさせたいと考えてくれたのだろう。

 ところが、早々に邪魔が入った。

「おやおや、なんだね? このおんぼろテントは?」

 新しい声とともに、いかにも尊大な足音が聞こえてきた。ティベリウスはぎょっとした様子で飛び起きたが、腕にピュートドリスが絡まっていたために半端になった。

「田舎丸出しにもほどがあろう。恥ずかしい。同じ出身と思われたくないものだ」

「それは無理な話です。アカイア属州総督の役職がある以上、ローマ人であることは自明の理」

 いかにも卑屈な声は、レントゥルスのそれのようだ。新しい声は鼻を鳴らした。

「むしろ哀れみすら覚える。私の宿舎を訪ねてくるがいい。私の家より豪華だ! これだけでも熾烈な本年のアカイア総督争いに死力を尽くした甲斐があったというもの。どうして諸君はそこに泊まらないのか。やはり私こそ賓客中の賓客で、諸君のような一般人とは比べるべくもないというわけか」

「さようです、総督」

 ピソらしき声が、生真面目に言った。新しい声は嘆かわしげにため息をついた。

「まったく涙が流れてきそうだ。気の毒な一私人の落ちぶれ貴族には、我が弟コッタ特製、山羊の心臓と睾丸のスープをすべて差し上げよう」

「総督、どうかおやめください。あなたの弟をなんとかしてください」

 ルキリウスらしき悲痛な声が願った。

「すでにローマでファビウスとネルヴァを倒した。グネウス・ピソに食わせる勇気はないので、とうとうここへ連れてきた。果たして此度のオリュンピアが平和の祭典になりうるか、すべては我が弟と、この落ちぶれクラウディウスにかかっている」

「総督、一応、ひと声かけてからのほうが――」

「ティベりーーーん! 会いたかったよーーーっ!」

 天幕を大きくめくり上げ、初めて見る男が飛び込んできた。

 あとで聞いたところ、マルクス・メッサラというローマ人だった。ティベリウスはこの人物がアカイア属州総督に選ばれたと知ってから、オリュンピア競技祭への参加を考え直しはじめたそうだ。悪い人ではないのだろう。ピュートドリスは、たとえ二度と会う機会がなくとも、あのあ然茫然とした顔を忘れそうにない。

 夕方には、素敵な喜びが届いた。満面の笑みのアントニアが、抱きしめられることを微塵も疑わずに母へ突進してきた。もちろん母は胸いっぱいに抱きとめて接吻し、同行のマカロンに礼を述べた。

 けれどもアントニアは、陽が沈む前に、母と再会できた感動を脇へ置いた。

「お母様」

 頬を紅潮させ、アントニアは宣言した。

「あたしはドルーススと結婚するわ」

 アントニアに手をつながれ、ドルーススは困った笑みになっていた。

「だめよ。あなたはトラキアの王子様と婚約しているのよ」

「いやよ。あたしはぜったいドルーススと結婚するのよ!」

「なんてことなの」

 ピュートドリスはティベリウスを責めた。

「娘は私と同じ思いに耐えないとならないわ」

 ドルーススはとても面倒見の良い少年だった。朝に父親の腕を取ってうきうきと出かけていった可愛らしい顔が、たちまち大人びた。この日は残りの時間をすべてアントニアに使ってくれた。背中で寝かしつけるまでしたのだから、舌を巻くばかりの手並みだった。

 アスプルゴスは不満顔で膝に頬杖をついていた。ドルーススの取り合いは熾烈なようだ。それでも日中は、共に神域を見物していたのだ。そして人でごった返すオリュンピア内にわずかな隙間を見つけては、格闘選手の技を実演せんと二人で組み合っていたらしい。だから今はアントニアの番としてくれて良さそうなものだが、ドルーススの体力がそろそろ持たなくなりそうだ。

「まあ、いいさ」

 あきらめの吐息とともに、アスプルゴスは立ち上がった。

「明日に備えて休まないとな」

 ピュートドリスは首をかしげた。

「あなたは客席から応援するだけでしょう」

「だれがそんなことを言った?」







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