第四章 -3
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「君が殺したいのは、私であろうな」
およそ五十日ぶりに見た夫は、変わり果てていた。ユバの従者に身をやつしていたためでもあるが、痩せていた。太りがちであった以前よりむしろ生来の端整な容貌がよく表れていた。長旅、日焼け、奮戦と水没――ここに至るまでの諸々の苦労が、それにきつい渋みを差していた。
すり減ってしまったようで、気の毒だった。足をひきずるように向き直る体も、ルキリウス・ロングス以上の痛みに見舞われているのだろう。長年エライウッサ島に引きこもり、まれに出かけるときは輿か馬車を使う暮らしだった。このたびの無茶は相当堪えただろう。もう六十一歳になるのだ。デュナミスといい、年甲斐のない振る舞いが流行っているのだろうか。しかし年齢の重みと王の威厳、どちらも備えた翳のあるたたずまいは、ほかの偉ぶる男が演出のかぎりを尽くしても至り得ない、この男の魅力だった。
ピュートドリスは泣くように微笑んだ。腕を広げ、キトンの右側の襞をさっと翻しさえして、凶器を持っていないことを示した。
「君は……変わらず美しいな」
陰鬱な面持ちのまま、アルケラオスはつぶやいた。小さなため息があとを追った。
「もう話をする気もないのかと思っていた」
「意地悪したわけじゃないわよ」
ピュートドリスは首をすくめたが、いく分嘘だった。セレネ叔母の優しさを見習いたかった。
「大っぴらに話すわけにはいかなかったでしょう。ローマ人たちはあなたに気づいていないのよ。もちろんあの人も」
「気づいていたら、とっくに私を殺しているだろう」
アルケラオスは鼻を鳴らした。それから重々しく首を振り、やがて顎を引いた。
「すまなかった、ピュリス。私はどうかしていた」
「謝ってくれるのね」
気持ちはそれで十分だった。けれども話はしなければなるまい。七年間、夫婦であり続けた。それでも他者である。完全に理解するなど不可能だろう。それでもピュートドリスは、なにを考えているのだろうと首をかしげるばかりで、この人の固い殻を穿ってみようと、真剣に試みてこなかった。そんな必要も感じないくらい穏やかで優しかったからだが、ずっと内に閉じこもるままにしておいたのだ。今はお互いに、その報いを受けたと思った。
「誇り高いあなたを、なにが思い直させたのかしら? ユバに感化された? あんなになりふりかまわなくなるくらいなら、最初から誘惑を蹴ってほしかったものだけど」
「それもある」
アルケラオスは認めたが、次の言葉は意外だった。
「グラピュラーにも叱られた」
「なんですって?」
ピュートドリスはわけがわからなかった。
「そもそもあの子がユバを誘惑したのに? あなたがあの子にユバを紹介したのでしょうに?」
「あれは事情を知らなかった」
言いながらアルケラオス自身もまた、女という生き物の不条理にやるかたない様子だった。
「つまり、その後に起こることをだ。知ったときは、見たことがないほどの剣幕になった。『自分のしたことがわかっているのか。愛する妻を暗殺者にするとは狂人になったか。あのユダヤ人たちでさえ、王子の妻だった私を血みどろの殺し合いに巻き込まなかった。本当に、お姉様を失っていいのか。お父様にはまったくもったいない女性であるのに』」
「おや、まあ……」
思いがけない借りができたものだと、途方に暮れる心地がした。たまに会えば、グラピュラーはピュートドリスのことを「お姉様」と呼び、媚とも皮肉ともつかなかったが、そのように思われていたとは知らなかった。むしろピュートドリス個人のためというよりも、同じ女という存在のために怒ったのかもしれない。
「白状すれば、私はそれからもつくづくと考えた。君にはひどい仕打ちだが、それでも私は覚悟を持っていたつもりだったからだ。それでまだ時間を浪費し続けた」
ピュートドリスは顔を曇らせるしかなかった。やはりアルケラオスは、一度は妻を失っても良いと覚悟していた。
「目が覚めたのは、ユバもグラピュラーもいなくなった後だった。ふと周りを見渡せば、エライウッサの島が死んでいた。息子の泣き声ばかり響いていた」
それは、卑怯ではないのか。それでもピュートドリスは目の奥に熱を覚えて、苦しくなった。
「……小さいアルケラオスはどうしているの?」
「アテネにいる。無論、ポレモンもゼノンも一緒だ。グラピュラーがついている」
この瞬間、喜びが胸に湧きあがるのをピュートドリスはどうにもできなかった。息子たちは案外近くにいた。もしかしたら永遠に会うことがかなわないかと思っていたが、馬を飛ばせば数日後には抱きしめることも夢ではなかった。
だが――と、すぐに我に返る。グラピュラーがついているとは、無邪気に喜んで良いのか。当然、彼女が隣にいてはユバがセレネ叔母に許されるなど不可能であったが、よく大人しく待つ気になったものだ。
帰らなければ、ポレモンとゼノンはどうなる。人質同然ではないか。けれどもそもそも息子たちをそのような危うい立場で置き去りにしたのは、母ピュートドリスだった。そうするほかなかった。王位継承者を連れ出しては、それこそおおごとになってしまうと思ったからだ。
ピュートドリスは今もまだポントス女王である。息子たちの身を守る家臣たちもいる。ピュートドリスが生きているうちは、あるいは死んだとしても、即息子たちが危うくなるとはかぎらない。
だが、最終的に彼らを守り得るのは母だけだ。
「そのような顔をしなくてよい」
妻の心の動きを、アルケラオスは容易く見透かした。
「グラピュラーは浮ついているが、悪い女ではない。あれはユダヤの終わりのない争いに嫌気が差していた。だからユバという男を求めたのだ」
それは父の贔屓目ではないのか、とピュートドリスは苦笑する。アルケラオスも娘に甘い父親の多分に漏れない。けれどもピュートドリスは、ひとまずグラピュラーの厚意を素直に受け入れようと思った。もしものときは、そのときだ。ピュートドリスを廃せば、弟である二歳の後見人になる将来を、グラピュラーは描くことができたし、そもそもユダヤ王子になる我が息子もいた。だが権力の座より大事なものが、ほかにも色々ある女もいる。
だいたい、もしもアルケラオスが死んだらどうなるのだ。金がなくなくではないか。だれの幼子にせよ、カッパドキアの継承をローマに認めさせる骨を折れるのか。
ピュートドリスはグラピュラーに借りを返せそうだと思い至った。アルケラオスの健康に貢献するか、それがかなわなくともそれなりに彼女と仲良くやればいいのだ。女が生きていくのに手を貸すということならば、まったくやぶさかではなかった。
「わかったわ」
いずれアルケラオスは、手駒を一つ進めた。ピュートドリスはそれを認めた。
「ところで、教えてほしいのよ。あなたに覚悟をさせた私の罪はなに? 私は、あなたに死にに行けと言われるほどのどんな過ちを犯したの?」
「君に一切の非はない」
「それは嘘よ」
だが、簡単に教えてはくれないだろうと思った。男の誇りが傷を受ける恐れがある。もう手酷く傷を負っているかもしれないのに。けれどもだからこそ、こうして二人きりでいるのではないか。
「私があの人に長年あこがれていたから?」
「私があの男を気に食わなかったからだ」
アルケラオスは吐き捨てた。
それは理由にならない。ティベリウスを嫌うことと、妻を暗殺者にすることとは別問題だ。しかしピュートドリスは先をうながすことにした。同じく別問題で、知りたいと思っていたからだ。
「確かに万人に好かれる型の人ではないでしょうよ。でもあなたに重い腰を上げさせるほどの憎しみを受ける人?」
「憎んではいない。気に食わないし、死んでもかまわないと思うだけだ」
「ガイウス・カエサルのため? ローマのため?」
「それはついでだ」
「アルケラオス」
ピュートドリスは夫の意固地な顔を見つめた。それでも寛大に微笑むことは忘れなかった。
「ローマの犬になる気がないのなら、私怨しかないのよ。別に恥じることはないわ。殺してやりたい人ぐらいだれにでもいる。王であろうと、殺したくても殺せない人だっている。でも、どうして? この春に、突然癪に触ったわけじゃないわよね? あなたは元からあの人が嫌いだった。ロードスに来て六年間、挨拶の一つもしなかった。ずっと昔、法廷で会っていたのに。あの人はあなたの弁護人だったのに。本当に、あの頃からなの?」
「弁護人か……」
アルケラオスは苦々しくつぶやいた。
「十六歳の小僧が……」
「だとしたらあなた、私の片思いよりも長いわよ」
恐れ入ったとばかりに、ピュートドリスはおどけた顔をした。それからすぐに真面目に戻った。
「なにがあったの? 事と次第によっては、私も思いを改める気はあるわよ」
それもまた小さい嘘だった。十六歳の少年が、三十五歳の国王を長年憎ませるほどのなにができたというのだろう。
「なにもなかった」
案の上、アルケラオスは認めなかった。力任せのように言い切った。それからぐったりと船縁に背中を預けた。
ピュートドリスは待ち続けた。するとやがて重たげに口が開かれた。
「……だがな、ピュリス。君であれ私であれ、感情の持続という一事においては、あの男には及ばんよ」
「どういうこと?」
「あの男は法廷に向かんよ。告訴人になれば、あまりに手厳しく追いつめて逆に被告が同情を買うであろうし、弁護人になれば、被告がどちらを向いても告訴人しかいないと信じるばかりの弁論を打つ。裏であの男は私に言ったが、表でも言い放ったも同然だったよ。『告訴されたのは、あなたの統治怠慢のためだ。東方の王侯はいい加減、贅沢という仕事を休んで責務を果たすことを覚えたらどうか。あなたの王位が守られたのは、私の未熟な弁護ではなくカエサルのご厚意だ。二度目はないと思っていただきたい』」
「おや、まあ」
つくづく我が心に嘘のつけない男だった。ティベリウス・ネロとは。
「だが、そんな生意気はどうでもいいのだ」
アルケラオスは言い張った。
「ただの傲岸不遜ならば、屈辱にもならん。だが私にはわかった。あの時からすでにあの男はそうだった。後の年月は、その確信を強めるだけだった。あの男は偽善者だよ、ピュリス。君は気づいたかわからんが、ネロは清廉の皮をかぶった、どこまでも執拗な偽善者だ」
「偽善者って……」
ピュートドリスはあ然と口を開けるしかなかった。気づくどころの話ではない。偽善も偽悪も、ささやかな演技すらできない男だ。どこをどう見たらそのような評になるのか。
「解せぬか?」
無邪気で可愛らしいとばかりに、アルケラオスは微苦笑を浮かべた。
「確かに、わかりやすいおべっか使いではないがな、あの男は。あのときも私と部屋に二人だけだった。『君も継父殿を見ていればお分かりだろうが、思うほど王とは楽ではないのだよ』と、私はやんわりと返した。するとあの小僧は、ますます血気をたぎらせた。『私はあなたに無理を申しているつもりはない。あなたを王にしたのはアントニウスだが、カエサルもまたあなたの王位を認めたのだ。その意味を考えているか。器量も時間も持ち合わせながら、できることをやらないでいるから訴えられた。これが重荷だと言うのなら、申し出て退位するか、領地を減らしてもらえばいい』 そのときに、わかったのだ」
ピュートドリスはそのときの若きティベリウスを容易に想像し得た。青い炎が燃えさかるような目をしていたに違いなかった。
しかし似たような姿を見ながら、夫と妻は同じ男にまったく違う所感を抱いたということなのか。
「偽善者だと? どうして?」
「当時はまだマルケルスが生きていた」
アルケラオスが挙げた人は、夭折したアウグストゥスの甥だった。
「常にあの男の傍らにいた。それなのにあの男は、我こそがマルケルスよりも優れ、我こそがカエサルの後継となるにふさわしいと、固く信じていた」
ピュートドリスは絶句した。
「わからないか、ピュリス?」
アルケラオスは船縁から背を話した。
「あの男はずっとカエサル・アウグストゥスの後継になりたがっているのだ。それこそゆらがぬ、あの男の野心だ」
ピュートドリスは槌で殴られたような衝撃にのされた。実際、アルケラオスの姿がぶれて見えなくなった。
ぐらぐらする頭に響くのは、ファヴェレウスの言葉だった。
競争者――。
「比べるべくもないよ。君の無邪気な恋心も、私のささやかな屈辱も」
アルケラオスの自嘲めいたつぶやきが、かろうじて聞こえた。
「……まさかあなた、あの人がマルケルスを殺したとでも言うつもり?」
「そうは思わんよ」
忌々しいとばかりに、アルケラオスは首を振った。
「それくらいのあからさまさがあったなら、まだ逆に好感を持ち得ただろうな。わかるか、ピュリス。後継者になりたいと願いながら、特段の行動を起こさないところに、あの男の並外れた傲岸があるのだ」
ピュートドリスにはわからなかった。だから我知らず首を振り返していた。
「…野心なら、男ならだれだって持っているでしょう」
「そうだな」
「だれもかれも野心をあからさまにはしないでしょう」
「そのとおりだな。命がいくつあっても足りんからな」
「だったら、なぜあの人だけを偽善者呼ばわりするの?」
「だれよりも野心がないふりをしているからだ」
歩き出した肉体は、あちこちに痛みを抱えているはずなのに、やけにきびきびとして見えた。腕は広げられ、震えていた。
「ピュリスよ、いつからかは知ったことではないが、とにかく昔から、あの男はカエサルの後継にならんと望んでいた。ユリアを娶ったのも、結局はその立場を得るためであった。なにが前の妻を愛し、無理矢理に別れさせられたというのか。それも欺瞞だ」
それは違う、とピュートドリスは胸中で叫んだ。ピュートドリスの前で、ティベリウスは一度もヴィプサーニアの名を口にしなかった。それでもわかっていた。身を焼かれるように痛切に伝わった。あの人は確かにヴィプサーニアを愛していた。きっと今もだ。だがそれをアルケラオスにわからせる術はない。
「あの人は…自分でユリアを捨てたのよ」
だからピュートドリスは胸中とは別の指摘をした。
「アウグストゥスを激怒させて、それでも引退を強行したのよ」
「それだ」
だがアルケラオスは指を突きつけてきた。
「まさにその行動が、あの男の傲岸を表しているのだ。考えてみるがいい。どうして引退などできるのか? 私を散々怠慢だと説教しておいて」
「色々あったんでしょう…。後継がだれかなどどうでもよくなるくらいに」
「護民官特権を頂戴しておいてか」
そうだ。黙っていれば、アウグストゥスは彼に任せただろう。自分に万一のことがあった場合に、現体制の維持を頼んだだろう。
どのような形にせよ。
「気に入らなかったのだよ、あの男は。ガイウスとルキウスが育つまでの臨時となる立場が」
「それは――」
「だからアウグストゥスに思い知らせたのだ。自分がいなくなればどれほど困るか」
ピュートドリスはまじましと夫を見つめた。だが同時にここにはいない「危険人物」の背中も見ていた。
「わかっていたのだ、あの男は。信じていたのだ。アウグストゥスにも国家にも、自分が絶対に必要な存在であることを!」
再びの衝撃だった。しかしどうしてか。わかっていなかったはずはなかった。ティベリウスは自分がアウグストゥスにどれだけ頼られているか、よくわかっていたはずだ。
ピュートドリスだって、わかっていたはずだ。
「六年だぞ、ピュリス」
アルケラオスは思い出させた。
「なにもしないばかりか、退いたのだ。自らで投げ捨ててな」
新たな実感が浸み込んでくるようだった。
「六年も、あの男はゆらがなかった。どうして有能な男盛りが、地位を登りつめながらそれほど長く引退しておれるのか。それは絶対の自信だ! でなければ、とても耐えられるものではないのだ!」
自信。
野心はない。第二位でかまわない。マルケルス、アグリッパ、ガイウス・カエサル、そしてアウグストゥス、だれにとっても第二位で良い。それでも邪魔だというのなら、引退する。
その謙虚の裏返しが、自信。
「現にこんな陰謀が企まれるまで、あの男は憎らしいほど悠長に過ごしていたではないか! 陰謀が走りだしたあとでさえ、この鈍重ぶりだ。なにがこの男にここまでの自信を与えているのか、それはまったくわからん。だがとんでもない偽善だ。神をも畏れぬ傲岸不遜だ。そうは思わないか?」
ピュートドリスは彼の横顔を思い出す。神の彫刻のような頬。ピュートドリスの視線に気づき、不思議そうに向けられる青い目。
六年が過ぎようと、まるで絶対のように構えていられる、自信。自分は大丈夫であるとばかりの、望みは必ずかなうと言わんばかりの、自信。
彼は一度たりともゆらぎを見せなかった。
だが自信とは、だれもが持っているはずのものではないのか。自覚しているかは別だが、そうでなければ生きておれないのではないのか。そしてだいたいその根拠など、人は考えたこともないのではないか。
考えたところで、だれも答えは知らないのだ。生まれつきだ、家柄だ、親から愛された、友人に囲まれた、美男美女だ、自らで立身出世を遂げた――。答えなど出さないほうがましだ。すぐに壊されかねないではないか。
ただ生きているための自信だ。
ここに、一見なんの根拠もなく、だれにも侵されることのない自信を備えた男がいる。アルケラオスは、それが並外れていると言っている。
「後継を望む。当然だ。護民官特権まで受けておいて、その野心が胸をよぎらない男がいるか。その当然の思いをひた隠しにしながら、どうでもよいとばかりに、六年も引退しておれるその神経! その自信! どこから来るのだろうな、本当に。そうして君のことも、あたかも超然としたあの顔つきで欺いたのだろう」
そんな器用なことができる男ではないと、ピュートドリスは教えてあげたかった。あんなに無邪気で無防備なものはなかった。だが無理だ。なぜならアルケラオスの主張は、一つの側面としてまったく正しい。そう見られても仕方ない。
だがピュートドリスは知っていた。実際にティベリウスがどれほどの傷を受けていたか。これも伝わったとしか説明しようがないし、なによりティベリウスが認めないだろう。認めるくらいならば死ぬだろう。心がもう限界であったなどと。
最も愛する人の後継となる。ティベリウスは確かにそれを望んだだろう。世界のだれよりカエサル・アウグストゥスの後を継ぐ意味を、重みを、そして栄誉を理解する人だろう。
愛する人。だが、愛とはなんだ? 説明ができない。ピュートドリスにも、「愛している」と言葉にしてくれたティベリウスにも。けれどもアルケラオスは、その目に見えもしないものを一笑に付すのだろうか。愛を知らないのだろうか。
ピュートドリスは我が夫を見た。そして、絶望にも似た思いに打たれた。
ああ、知っているのか、男たちは。愛を、そして、男が男に弱さを認められないことを。知っているからこそ、一方的に偽善者であり傲岸不遜であると非難できるのか。受ける者もまた、どこまでも耐え続けるしかないのか。
なんという救いのない生き物か。男とは。
どうすればいいのか。溝は埋められそうにない。嫌悪も憎しみも消し得ない。彼らが男であるかぎり。
しかし、そうであるならば、ピュートドリスには一つできることがあった。
「アルケラオス」
呼びかけた声は、すでにやわらかになっていた。
「つまりあなたは、あの人が自信満々だから許せないの?」
闘技場の獅子のように歩きまわっていた夫は、はたと固まった。
「ちょっと思っていたけどね」ピュートドリスはにやりと口の端を上げる。「あなた、あの人に似ているのよ」
アルケラオスはぎこちなく首を向けてきた。目玉を飛び出さんばかりに剥いていた。
「私が……?」
ピュートドリスはうなずいた。
「口数が少ないところ。内向きで、殻に閉じこもって出てこないところ。顔は良いのに影が濃すぎるところ。気位が高くて、孤高なところ。わかってもらえなくてもかまわないからって、言葉足らずが過ぎるところ」
挙げながら、笑いが止まらなくなりそうだった。
「そっくりだわ。ただちょっと自信がないだけ」
そう、それが多勢の人というものではないか。生きている程度の自信はある。けれどもだれかと比べてはそれがゆらぐ。
それでもアルケラオスは打ちのめされた色を浮かべていた。震える右手を我が胸に当てた。
「だから私を夫にしたのか?」
「馬鹿ね。気づいたのは、このひと月よ」
一笑した。
「あなたこそ、『そんな男』にいつまでも恋していた私が許せなかったの?」
アルケラオスの目はしだいに深い色を帯びていった。悲しむように、すがるように、それでもそのたたずまいは気品を湛えていた。
「……どうして私と結婚した、ピュリス?」
「七年前、私たちは話し足りなかったようね」
背中で腕を組んで上体をわずかに屈め、ピュートドリスはにやにやと歯を見せた。
「そのまま返すわ。なぜ私と結婚したの?」
「……君を見ていると、マルクス・アントニウスを思い出す」
つられるように、アルケラオスも微笑した。双眸は遠いどこかを眺めていく。
「明るく、豪快で、気さくで、よく笑う人だった。危なっかしくて気まぐれだが、裏表がなく、素朴で明快だった。良い時も悪い時も、彼から情熱という命の火が消えたことはなかった」
いつか、似たような言葉をピュートドリスは聞いていた。ポレモンだ。ピュートドリスに求婚したあの日、彼は目を輝かせて教えてくれたものだ。
「三十三年前、私はアントニウスの陣にいた」
アルケラオスの目はそれよりも落ち着いて、なつかしんでいた。
「その三年前、彼にカッパドキア王位を与えられた。ポレモンと時を同じくしてだ。あの陣営に、赤ん坊だった君が父上に抱かれてやってきたときも、私たちは傍らで見守っていた」
初孫だとはしゃいでいた祖父。その妻だからと祖母扱いされたクレオパトラ。若き日の王二人は、その光景を忘れていなかった。
「そのとき、君を妻にすると決めた。私も、ポレモンも」
ピュートドリスは目を閉じた。すぐにまた開いた。アルケラオスはすっかり陽の落ちた黒い海を見て、哀しい笑みをこぼしていた。
「結局君の父上は、ポレモンを選んだがな」
ピュートドリスもまた哀しく微笑した。
今思えば、父がアルケラオスよりポレモンを選んだ理由がわかる気がした。性格だ。同じ男に惚れ込みながら、二人の王は正反対だった。アントニウスによく似た陽気で豪快なポレモンと、沈着で慎重なアルケラオス。父は、ポレモンのほうが長生きし得ないと見たのではないか。
本当は、ピュートドリスもわかっていた。デュナミスが奸計を巡らしたか否かはたいした問題ではない。ポレモンは自らで死を引き寄せてしまった。必要だったとは言い切れない戦をくり返し、とうとう近隣部族の捕虜になって殺された。王であるのに。以前パルティアで捕虜になる経験もしていたのに。二度目はなかったのだ。
ポレモンとのあいだに息子が生まれる。めでたいけれども、その息子が成長しきっては、娘は女王になれない。父は、どこまでも娘が最高位の女になる可能性が高いほうに賭けた。そしてそのとおりになった。
「君にも同じ情熱の火を見た。それは今も、しかと内からあふれ出て輝いている。今はとくにまばゆくて、見つめておれないほどだ。だがその火を燃やしているのは、あの男への情熱なのだろうか? アントニウスがクレオパトラに抱いたような」
ピュートドリスは息を止めた。金色の瞳で、じっと夫を見つめた。
「少なくとも、祖父に関しては違うわよ」見てもいないが、断言した。「クレオパトラに出会うずっと前から、お祖父様はあなたが見たとおりの男だったわよ。情熱とか愛はね、くすぶることはあるけれど、無くなりはしないの。注ぐ相手が見つからなくても、いつでもなんとか見つけ出して、追いかけて、すがりついて、思い出して、また夢中になるのよ。永遠にその呪いは終わらないの。あなたはそうではないの?」
アルケラオスもまたピュートドリスを見ていた。まなざしがいつしかやわらいで、いつもより親しみやすくなっていった。
「私のこともそう思ってほしかった」
ピュートドリスは泣くように笑いかけた。
なにも情熱と愛は人へだけのものではない。アルケラオスの楽しみは、ユバやマカロンと同じく、地誌の執筆にあった。とりわけ東方文化への造詣は深く、暇があれば研究に勤しんでいた。ティベリウスには統治怠慢とされたが、夢中になりすぎたのかもしれない。
世界の存在を愛する者は、必ず人も愛し得る。ピュートドリスも妻だ。夫の輝きを知っていた。けれどもしかと見つめていなかったのかもしれない。
「私もね、白状するわ」ピュートドリスはひょいと首をすくめた。「あなたに愛されるなんて思っていなかった。だってもう三人も子どもを産んでいたのよ。それにグラピュラーを見て。あの人の母親を見て。なんという美女よ! 大きな瞳で、唇がぷっくりして、つやつやの髪で、腰が細いのに胸が豊満で。あの人たちと比べられたら、私なんかかなうわけがないじゃない」
ああ、そうだ。ずっと認めないまま、心の奥底でくすぶらせていた思いだ。裏を返せば、この夫にだれよりも愛されることを望んでいたのだ。
「もっと言えば、あなたの家族には、大勢の美しい神殿奴隷がいたでしょう。どれだけあなたの目は肥えていることか。なにを考えて私と結婚しようなんて思いついたのか。嫡男がほしいならほかでも困らないはずだって」
「そんなことを考えていたのか……」
アルケラオスはあっけにとられた顔でたたずんだ。
「ええ、そうよ。嫉妬よ。歴史に名を残すべく生まれた、女王ともあろう者が」
ピュートドリスは自嘲した。あれほど至高を言い聞かせた父を持ってしても、娘に並外れた自信を与えることはできなかった。嫉妬と卑屈から自由になれず、どうせいちばんに愛されるなんて無理だと勝手にあきらめた。そうして、大事なものが見えなくなった。
思えば、ティベリウスに対してもそうだった。いつでもヴィプサーニアのことを考えていたのは、ほかのだれでもないピュートドリスだった。そもそもどうしたら良くも悪くもいちばんになり得るか、考えた結果が最初の暴挙だった。
そして、そんなものは重要でないと教えてくれたのは彼だった。
「ピュリス」アルケラオスの手が、初めてピュートドリスへ伸ばされた。「君は唯一で、かけがえもない。君の愛の輝きは、君だけのものだ」
愛する人は、ずっとそばにいた。今もまた、きっとそっくりな後悔の微笑みを浮かべていた。
「私だけがわかっていればよいと願っても、かなうべくもなかったな」
ピュートドリスもまた手を伸ばした。指先がそっと触れて、おもむろに絡んでいく。まるで初めて触れ合うように、それからしだいに思い出していくように。
「私はあなたに感謝していた」
「ああ、それはわかっていた。そして君は十分によくしてくれた。感謝だけだと思っていた」
アルケラオスとの結婚は、ピュートドリスに二度と不安な半年を強いなかった。もう夫が戦場から無事に帰ってくるかどうか、一人で心配し続ける春も夏も来なかった。
「あなたは私に安心をくれた」ピュートドリスはうなずいた。「でも、結婚しなくてもよかった。もう女王になっていたのだから。私は、自信がないからあなたと結婚した。そうね。きっとそうね……」
ポレモンに死なれたピュートドリスは、悲しむ暇すら持てないほどに途方に暮れた。二人の幼子、身重の我が身、そしてポントスという国、それが二十六歳に残されたすべてだった。まったく統治を学んでいなかったわけではなかった。夫の留守は最善を尽くして守ってきた。しかしそれは、国内外の納得を得るのに十分だっただろうか。
――いよいよだな、ピュリス。
大望成就を前に、父ピュートドロスは手紙を寄越した。
――これまでよくぞ頑張った。お前は私の誇りだ。これからは女王として、存分に生きよ。世界一の女であれ。
それが、最後の言葉だった。すでに耳に届いていたが、父は病床にあった。そして女王となった娘をその目で直に見ることなく、黄泉の国へ去った。
アルケラオスから求婚があったのはそんなときだった。
父は不服に思っただろうか。一国の統治を、二十六歳はやろうと思えばできなくはない時期だった。一方で、未熟であり、国内外から不安視されることも避けられない時期だった。王族の血でも引いていればまだ正統と思われたことだろうが、それも寄る辺なく、すべては自分の手腕次第だった。
できない。ピュートドリスはそう判断した。自信がなかったのだ。一人では自分も家族も国家も守り得ない。生きていけない。この自分ではできない。
不服に思われるはずはない。なぜならピュートドリスは「女王」であり続けることができた。そのうえアルケラオスという成熟した王の後ろ盾は、国内外の不安を瞬く間に静め得た。だれからも祝福された結婚だった。
結婚したのは、安定のためだった。そのうえさらにアルケラオスは幸福も与えてくれた。ピュートドリスは心から感謝した。この恩に、共に暮らしながら、嫡男を生むことで報いた。
そういうことだった。そういうことだったのか――。
「帰ればよかったのよ。トラッレイスに。もう父はいない。子どもたちを連れて、ポントスはローマに渡して、ただのお嬢様に戻る。なんなら、あの人のところへようやく挑みにいってもよかった。やっとそれができるようになった。実のところはそれどころじゃなかったけど、本当に、全部捨てることを考えたのよ。怖くてたまらなかった……」
暗がりのなかで、ずっと眠っていたかった。なにもかもが終わるまで、いつまでも。ポレモンのところへ行きたかったが、父も憤怒と失望の顔で待ち構えているか。そうであれば、ただ意思の跡形もなく消えてしまいたかった。
ティベリウスが買い被った立派な女王などどこにもいなかったのだ。
「でもあなたを見たとき、全部を担う覚悟ができた。不思議な勇気がわいてきたのよ。この肉体と魂に欠けていたなにかが、急にぴたりとはまったように。あなたとならきっと上手くやれる。あなたを幸せにして、私も幸せになる。大切なものもすべて幸せにしてみせる。そう信じられた。初めて私は、自分の選択ができた」
それなのに私たちは、なにをやっていたのだろう。
「アルケラオス、私はあなたが好きよ」
皺んだ手を、ピュートドリスは力強く握りしめた。
私たちはお互いの好意を、愛を、本気で受け取ることができていなかった。
「あなたが好きだから、あなたと結婚したのよ」
あなたがいたから、私はようやく自分の足で立てたのだ。
「この老体をか……」アルケラオスもまた泣き顔のように笑って手を握り返した。「二十七も年の離れた、ティベリウス・ネロとは比べるべくもない小者の王をか?」
「あなたが好き」
輝くならば、今がそのときだ。
「死ぬまで一緒に歩むと、あの日に決めたの」
アルケラオスはしばらく立ちつくしていた。うっとりと優しく妻を眺めて動かなかった。結んだ白髪ばかりの長髪が、夜風にかろうじて持ち上げられるように舞った。
それから彼は苦笑とともに目を伏せた。
「私にもはやあの男を憎む権利はないだろうな。君を殺さずにいてくれたのだから。良いのか? 父上は君を英雄にしたがったのだぞ」
「ご心配なく」
勢いよく手を振り払い、ピュートドリスは胸を張った。
「あなたより少しだけ長く生きて、大暴れしてやるわ」
それから夫へ飛びつき、頬に接吻した。よろめきながら、アルケラオスは笑っていた。妻の体に、確かめるようにおもむろに腕をまわし、やがてしかと力を込めた。
「このまま君を連れて帰れば、あの男は血相を変えて追ってくるのだろうな。君を追って崖から飛び下りたほどなのだから」
アルケラオスの肩越しに、ピュートドリスは少しだけ目と眉の端を下げた。ティベリウスのそれには及ばない力の腕は、ほんのかすかな強張りをとらえただろうか。いずれにせよ、アルケラオスはピュートドリスの両肩を押した。
「アテネで待つ」彼は言った。「どちらの船に乗るか、そのときに決めよ」
「……答えはわかっているはずよ」
ピュートドリスは弱った笑みで首をかしげた。
「いいの?」
「致し方あるまいよ!」
わざとのように、アルケラオスは夜空を仰いだ。
「私はそれだけのことをした。あの男の、君を失う絶望が深まると信じて、待つことにする」
「本当にもう、しつこい人ね」
腕を下げて、目を閉じて、ぎこちなく口の端を上げて、ピュートドリスはため息をつく。
「知っているかわからないけど、あの人は今六年ぶりに会えた息子に夢中よ。昨日も一緒に寝ていたわ」
「それは残念だな。親も親なら子も子か」
あえてのように高らかに、アルケラオスは鼻を鳴らしてみせた。ピュートドリスはそれで良いと思った。致し方ないのだ。
「もう行くわね」
「ああ」
アルケラオスもまたピュートドリスの頬に接吻した。二人はほとんど同時に踵を返した。ピュートドリスは船梯子を下りるために、アルケラオスは去っていく妻を見ないように。
桟橋の前で、トラシュルスがまだたたずんでいる。灯火の傍らで、じっとピュートドリスを待っている。
このまま船が出航し、強引に連れ出されるのをピュートドリスはなにより恐れていた。それは自分のためというより、ティベリウスのためだ。
アルケラオスの言うとおり、ティベリウスは追ってくるに違いなかった。すでに一度ならず、ピュートドリスはティベリウスに心配をかけて、その結果を身をもって知った。このたびもドルーススを置いて、オリュンピア競技祭も投げ出して、烈火のごとくカッパドキアの船を追撃するだろう。もはや容赦する理由もない。アルケラオスを殺してしまうだろう。
それもまた致し方ないとさえ、ピュートドリスは思ったのだ。アルケラオスがどう出るか、完全に見通すことは不可能だった。けれどもそれではあまりに信がないではないか。
思い上がりでもいい。取り返しのつかない傷を与えたくない。ピュートドリスはヴィプサーニアにもドルーススにも、そしてアウグストゥスにもならない。
別れはずっと前から決まっていたことだ。けれどもそれは突然であってはならない。じっくり心の準備をしながら、しかるべき時にしかるべき場所で、お互いに了解のうえで離れるべきだ。愛し愛された二人は、その任を負えるはずだ。
「アルケラオス」
船梯子の手前で、振り返った。どうしても聞いておかなければならないことが、まだあった。
「今度こそ、あなたもポントスへいらっしゃいよ。一人でお留守番はやめにして、皆で旅をしましょう」
「考えておく」
「ぜひね。ところで、もう知っているわよね? この陰謀は、あの人に挙兵させるための芝居だった」
「そうらしいな」
アルケラオスは背を向けたままだった。
「最初から知っていたら、あなたは私を差し向けなかったでしょうね」
「無論だ」
「あなたに陰謀の表を教えたのはだれ? どうしても私にはファヴェレウスだったとは思えないのよ」
「マルクス・ロリウスだよ」
アルケラオスの肩はわずかにすくめられた。
「私と同じように、まんまとだまされたのだ」
「あなたもロリウスもだまし通したのは、いったいどんな人だったの?」
「わからん。私はロリウスとしか話しておらん」
「若い男がいなかった? ファヴェレウスよりは若くて、滑らかだけどやけに勘に触る話し方をする、気味の悪い男が」
「それだけではなんとも言えんが、ガイウスの取り巻きには、そうした若い者がなん人もいたよ。幕僚だか近衛だか」
「そう……」
ピュートドリスは足取り重く、船をあとにした。
アルケラオスは嘘をついていた。けれども例の男がどこのだれで、陰謀の表も裏も操っていたなどという証拠はどこにもなかった。
すでにどっぷりと夜が更けていた。無事に終わったという安堵と塞いだ気持ち、どちらにも引きずられるようにして宿となる屋敷へ帰ると、ティベリウスが腕組みをして待っていた。寝台の端に腰を下ろしていたのだが、そこではすやすやと眠るドルーススのほか、色とりどりの布地が幾重にも大波を成していた。
「セレネに、君のための服を用意するように言われた」
あ然とするピュートドリスへ、ティベリウスは不服そうに説明した。
「私は、今のものがいちばん似合っていると思うと言った。そうしたら彼女は、だからといっていつまでも愛する女に同じ服を着せておく男がどこにいる、見事に着飾ったピュリスのこともちゃんと見てあげるように、と言って退かなかった」
それから腕を解き、途方に暮れるように、波を押した。
「どれが良いかわからないと言ったら、全部持っていって合わせてみろと言われた。ところで、どこに行――」
ピュートドリスはもう我慢できなかった。ティベリウスの上に身を投げ出して、唇を奪って、それでもまだ収めきれずに彼の肩に埋まって笑い声を殺した。運動上がりのドルーススを起こしたくなかった。
「いずれ、それなりにはしないとね」
腹が痛くてたまらなかったが、それでもなんとか話しかけた。
「オリュンピア競技祭では、あなたの隣で戦車の行方を見届けるのだから」
ティベリウスの目がひたと見つめてきた。
「ああ、もちろん、大丈夫。セレネ叔母様とデュナミスと私であなたを挟むわ。そうすれば逆にだれも、あなたがアントニウスになっただなんて言わな――」
もちろん、ティベリウスが汲んだのはそういう意味ではなかった。刹那には、ピュートドリスを布地の海に寝かせていた。
ピュートドリスは横目をドルーススに向けた。背中の下の高級品に違いない布地を思った。それから、もう鼻先へ迫っている男を見上げた。
「服はどうするの?」
「明日でいい」
アルケラオスにはまた嘘をついた。信じるか否か、どちらの自由もある。見ないでいることもまた、長く歩んでいくうえでの必要な選択なのだろう。
「本当に言わなくてよかったんですか? 私のこと」
アルケラオスが階段を下りてきたので、彼はにっこりと振り返った。軽装の甲冑姿だったが、立ち上がると、グラディウス剣がカチャリと音を立てた。
「どの口が」
アルケラオスは吐き捨てた。
「なにをするかわからんだろう。私にも、妻にも」
「たいした奥方ですねぇ」
彼は笑うばかりだった。
「私も見習いたいもんだ。ですけど誤解されては困る。私はネロの敵ではありません」
「お前は災厄だ」アルケラオスは断言してきた。「私にできることは、お前をこのまま生かしておくことくらいだ。あの男のためにな」
「役に立ってみせますよ、あの男の」
この声明に鼻を鳴らしたあと、アルケラオスは船乗りたちへ出航準備を命じた。他国の船であるし、とんぼ返りもはなはだしかったが、居残っていても良いことはない。マウリタニア王が競技祭を終えて戻ってくるころには、また船だけこのパトラスに帰ってきているのだろう。船乗りたちは閉口だろうが、権力者とはそういうものだ。
寝室に入るとき、アルケラオスはふと思い出したように足を止めた。
「セイユス、お前、いくつなのだ?」
「十九歳です。ガイウスの学友だと申したでしょう」