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ピュートドリスとティベリウス  作者: 東道安利
第四章 ピュートドリス、その愛は。
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第四章 -2





 翌日は、長く船の上で過ごした。三隻がコリント湾をゆったりと西へ進んでいった。ローマ人の船、ボスポロス王の船、それにマウリタニア王の船である。途中、たびたび人の行き来があったが、ピュートドリスはずっとローマ人の船で休んでいた。

 パトラスには夕方に着いた。アスプルゴスは待ちかねていたのだろう。ドルーススを誘った。長い船旅による運動不足の解消だと広場に連れ出し、辺りかまわず体育に励んだ。短距離走、拳闘、組打ち、ついには木剣も求めた。もちろん、マルクス・アグリッパの銅像の前だった。

「そんなに急いで遊ぶこともないでしょう」

 デュナミスが笑いながら声をかけた。

「明日も明後日もあるのですよ」

 デュナミスは日よけの下で優雅に座していた。ピュートドリスが近づくと、傍らを孔雀の羽で軽く叩いた。二人掛けできる椅子だったが、かといって場所を開けるでもなかったので、ピュートドリスは腰を大きめに動かして隣に収まった。デュナミスはキトンの襞を引いた。

「御大層なお尻ですこと」

「ありがとう。四日も馬を飛ばし続けた六十二歳のにはかなわないでしょうよ」

 自分の膝に頬杖をついて、デュナミスへ横目を向けた。

「よくもまあ、やってのけたものね。息子の甥のために」

「そうねえ……」デュナミスはゆったりと首を傾ける。「楽しかったわ。久しぶりに。これぞ生きている実感というものかしら」

「当分くたばりそうにないわね、あなた」

「案外、死んでも良いと思ったものよ」デュナミスはからからと笑う。「マルコスはもう立派に育った。わたくしがいなくとも、王としてたくましく国を治めていくでしょう。ティベリウスとの縁も得たのだから」

 ピュートドリスの丸くした目は、わずかに切なげな微笑みをとらえていた。

「今死ねば、どの妻よりも先に、あの人のところへ行けますからね」

 ピュートドリスは背筋を伸ばした。目線はぼんやりと、アグリッパ像とその向こうで駆けまわる若者二人のあたりを漂った。

「……考えたこともなかったわ」

「そうでしょうよ」

「あの世も修羅場ね」

「あなたは恵まれているわ」

「そうね」

 ピュートドリスは認めた。本人の口から聞いたことはないが、デュナミスの半生は男たちの争いに翻弄され続けたものだったはずだ。

「恵みを保つだけの器量もある」

 だから、そんな言葉は縁起でもないと思った。

「どうしたのよ? 本当にあの世へ行く気なの?」

 やめて頂戴と、ピュートドリスは顔をしかめた。アスプルゴスへ手首を振った。

「悪くない息子よ。あなたには過ぎているくらいの。でも、もうしばらくあなたの助けが必要なんじゃなくて?」

「そんなに興味がなかったのよ、統治だとか。政略だとか戦争だとか、大嫌いだった。よくわからなかったし、わかりたくもなかった。わたくしは空っぽだったわ。この人に会ってはじめて、わたくしは運命を受け入れられた。その中で自ら生きる喜びも知った。少し遅すぎたけれど」

「だからなんなの?」ピュートドリスは苛々と声を張っていた。「遅すぎた? その分、長生きすればいいだけのことでしょう。あの世でユリアやポンポーニアやマルケッラが待ち構えていたからって、なんだというの? もう若さなんて関係ないのよ。あなただけが、立場も言葉も乗り越えたのよ。よくぞ彼の心を射止めたと、どうしてもっと誇りに思わないの?」

「まあ、勇ましい。他人事だと思って」

 デュナミスのいつも優雅な微笑みは、いく分ぎこちなかった。次の刹那には、弱さを振り捨てるようなまなざしで見つめてきた。

「あなたはどうなの、ピュリス?」

 考えていた。言われたとおりだ。デュナミスに発破をかけたものの、ティベリウスのところへヴィプサーニアが来たら、ピュートドリスは退くしかないと思った。本気で、それが彼の幸福であるならば、一切邪魔をしたくなかった。デュナミスだってどうか。歴代妻たちの名を挙げたが、彼の愛がどの人に最も注がれているかなど、だれにもわからない。きっと本人でさえだ。一人の人間の思いが、永遠にゆらがず絶対であるなどありえない。

 遠く見守りながら、ひっそり涙を流すのだ。独りきり、永遠の瞬間を思うのだ。

 そんな生き方はさみしいだろうか。そうだとしてもこうして今日まで生きながらえてきたのだ。今やピュートドリスには、マルクス・アグリッパをその生死にかかわらず一途に思い続けて二度も馬を飛ばしたデュナミスの幸福を理解できた。会うたびにだれよりも美しい女だと歯噛みさせられた、その裏付けも悟った。

 臆病ながら、強い生き方だ。だがきっと、もう独りきりではない。

「デュナミス、あなたは私の先達よ。良くも悪くも」

 つけ足しは忘れず強調した。ピュートドリスは立ち上がった。

「もしもの時は、共同戦線よ」

 無論、二人とも知っている。他人の心を得られたとしたら、それは運である。戦ったからとて、勝利したからとて、思いが叶うわけではない。ましてあの世だ。富や身分、きっと若さでさえ無意味だろう。

 お互い、孤独に沈む覚悟はある。デュナミスはなおさら長い年月をそうして過ごしてきた。

 あの世でも、もしも孤独に耐えがたくなったそのときは、こうして喧嘩をすればいいのだ。

 そしてあの世がないとしたら、なおさらだ。

 ピュートドリスは数歩ずんずん進んだ。それから、あたかも思い出したように立ち止まった。

「忘れていたわ、デュナミス」

 目の端にとらえるぎりぎりのところまで、振り返る。

「近いうちに、ポントスにいらっしゃいよ。故郷ぐらい見てからのほうが、心置きなくさっさとあの世へ行けるんじゃなくて?」

 デュナミスがぴたり固まったようで、すぐに目線を前に戻した。情けなく思いながら、言い置いた。

「まぁ、私が、これからもポントス女王でいられたらだけど」

「ずっと知っていましたよ」

 デュナミスの声は、苦笑まじりに聞こえた。

「あなたが黒海の『お買い物会』のたびに、わたくしの縁者や幼馴染を連れてくること」

「ポレモンの案よ」

「あなたはやめなかったわね」

 デュナミスにも対外的にも、縁者たちは人質と思われていたかもしれない。けれどもピュートドリスは国の最高責任者だ。だれかにセレネ叔母と同じ思いをさせたくないならば、それができる立場にあった。

 慎重を期さねばならない提案であるのはわかっていた。けれどもきっと、もうそのときだ。

 ピュートドリスは再び歩き出した。

「ねえ、ピュリス」

 デュナミスの声が、すぐに止めてきた。

「あなた、なぜ結婚したの?」

 振り返ると、真面目で心配そうなまなざしが向けられていた。ピュートドリスはふっと笑った。

「行ってくるわね」

 すでに陽は沈んだのだろう。空はすみれ色をして、東の端からしだいに色を濃くしていく。港にはすでに灯火が並び、それぞれ光の輪をぼんやりと作りだしている。それらに腕をかすめながら、ピュートドリスは独り歩いた。目立たないように、それでも決然と、まっすぐに向かった。

 船乗りたちが荷の上げ下ろしに勤しんでいたが、マウリタニア王の船だけはひっそりとしていた。ところが、桟橋の前にトラシュルスがいた。ピュートドリスは足を止めた。

「僭越ではありますが、私の役と思いました」

 そのとおりだった。ピュートドリスは感謝のうなずきを返した。

「あの人は知っているの?」

 トラシュルスは首を振った。今度は承認のうなずきを与えた。

 セレネ叔母がティベリウスを連れ出すと言っていた。長い捕らわれ生活を終えた鬱憤晴らしの名目だ。こんな時間にどこの店が開いているのかわからないが、高貴な身分をかざしてでも営業させるのだろう。姪と仲睦まじく逢引きを果たしたのだから、自分にもその権利があると主張していた。しかしもちろんのこと、ユバも同行である。

 ティベリウスはそもそもあの場にいなかったのだ。一部始終を見ていたトラシュルスにも、ピュートドリスはなにも話していなかったが、ユバたちから事情を見て取ったのだろう。友人への秘密を持たせてしまったが、占星術師とは会う人の秘密を守ることで信頼を築くのだろう。

 ピュートドリスはこの秘密をいつまでも強要するつもりはなかった。右手の薬指から、黄金の指輪を抜いた。

「ポントス王家の印章です」

 握らせると、トラシュルスはさすがに仰天した様子だった。ピュートドリスは微笑んで、通りすぎた。

「そのときは、頼むわね」

 船梯子の下に、衛兵が二人いた。ピュートドリスを見たまま、声をかけるでもなく、武器に手をかけるでもなく、ただ固まっていた。ピュートドリスがそれぞれを一瞥すると、二人はたちまちその場にひざまずいた。

「ついていらっしゃい」

 そう命じると、ピュートドリスは船梯子を上った。甲板にも衛兵がいたが、ほとんどがマウリタニア人ではなく、見覚えのある顔ばかりだった。侍女は一人も見当たらなかった。

「皆、下がりなさい」

 静かに命じた。

「無論、王が良いと言えばですが」

 その場の視線が、すべて一人の人物の背中に集中した。ピュートドリスはすでに見つめていた。彼が右手を挙げて、払うと、衛兵たちは全員きびきびと船室へ下りていった。

 船は静まり返った。港の男たちの声さえひどく遠ざかった気がした。みるみる濃さを増していく夜闇のなか、灯火の輪の重なる先で、彼は独りたたずんでいた。

 先に口を開いたのは、そのほうが話しやすかろうと思ったからだ。アスプルゴスの言うとおり、男で、しかも最高位の身分にいる人が脇に置いた誇りを、慮るべきだと思った。そして、自分にもまったく非がないわけではないだろうという鈍い痛みもあった。

「もう一度、殺しに行けばいいかしら?」

「もうやめてほしい、ピュリス」

 うめきを闇に吐き出してから、アルケラオスはおもむろに振り返った。







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