第四章 ピュートドリス、その愛は。 -1
第四章 ピュートドリス、その愛は。
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八月十五日は、キッラの街で戦の後始末が行われた。ドルースス・ネロは困憊していたが、それでもその父は、偽ティベリウスの火葬だけは見届けさせた。捕虜の話に寄れば、エフェソス出身のオルフォンという男だそうだ。この者を含め、遺骨は家族の元へ送り届けるよう、ティベリウスは傭兵たちに言い渡した。このたびの陰謀打倒のためにかき集められた彼らにとって、それが最後の仕事になる。
最も急を要する問題は、イリュリクムとゲルマニアに送られた挙兵の使者だった。だが彼らは本物のティベリウスの意思であることを証明できない。率直に「偽者である」との書状を、ピソとレントゥルスが連名で送ることにした。それぞれの家の印章が押され、さらに道中でマケドニア属州総督の言質も加えることにした。一私人であり、ロードス島で引退しているはずのティベリウスの名は、あえて記さなかった。
「これでちゃらにしてくれるな?」
ピソはにんまりとティベリウスへ笑いかけ、杯を掲げた。ティベリウスはそれでも不服そうな顔をしていたが、ただ親しいゆえの意地だったのだろう。杯をピソのそれと合わせ、割らない葡萄酒を一気に干した。
宴は、三人のローマ貴族の共催で行われた。手勢たちはもちろん、キッラの住民もすべて招かれ、にぎやかなものになった。
ピュートドリスは宴に少しばかり顔を出したのみだった。あとは早々に今宵の宿となる船に戻った。元々それほど宴が好きではなかった。それよりも子どもたちに寝物語を聞かせながら、夫の帰りを待つ時間を望んだ。それでも立場上つき合いは必ずあるし、真面目にこなしてきた。しかし今はなに者でもない。今、しばらくは――。
そもそも女王らしい身なりもしていなかった。借りることも考えたが、セレネ叔母もデュナミスも、長く不自由な暮らしを強いられたがために、自らをなんとかふさわしく飾ることが精一杯の状況だった。今更自分に関して、外見で身分を知らしめる理由も思い浮かばない。とはいえ一度くらい、ティベリウスに見せてあげたかった。結局今夜もその機会を逃した。
ユバがずっとなにか言いたげにしていた。そのたびにセレネ叔母に袖を引っ張られたり、足を踏んづけられたりするのだった。ピュートドリスは笑って手を振り、一人で港へ向かった。
言われるまでもない。昼にはすでに様子を見に訪れていた。こっそりと船室へ首を入れれば、当人はすっかり寝込んでいた。微熱があるらしかったが、大事ではないだろう。それでも近づくと、うっすらとまぶたを開いて、なにかうなっていた。ピュートドリスはそのまま安静にしておくことにした。
この夜は、完全に静かになっていて、反応もしなかった。ピュートドリスは念のため手をかざし、呼吸をしているかどうか確認した。それから見張りをねぎらって、船室を出た。
船を移り、次に入った船室でも、同じように男が一人突っ伏していたが、こちらはピュートドリスを見とめるや否や盛大にばたついた。
「痛い、痛い、痛いのに……」
それからまたしくしくと寝台に崩れ込むのだった。元気そうではあった。裂傷もなければ骨折もしていないと、キッラの医者は太鼓判を押したという。ただ全身の筋肉痛にはしばらく苛まれそうだ。当人だけがこのまま死ぬと嘆いていた。
「一人みたいだから」と、ピュートドリスは従者に盆を持たせて見せた。「夕食をご一緒にどう?」
「恐れながらつい先ほどドルーススと一緒に済ませましたゆえ」
ルキリウス・ロングスはいかにも苦しげに身をよじった。
「わたくしめのような卑しい男が女王陛下と同じ部屋におるなど、まったく恐れ多く、生きた心地もせず、どうか出ていってくださったほうがありがたく、あああ、やっぱり死ぬのかな、死んじゃうのかな、ぼくは。助けて、ティベリウス、ドルースス……」
「では、私だけいただきます」
ピュートドリスはおかまいなしに卓に盆を置き、一人さっさと料理を口に運んだ。ルキリウスはしばらく途方に暮れたように見ていたが、やがて重々しく手を伸ばしてきた。
「葡萄酒を。それからそこの袋の中に、クラウディウス・ネロ家特製イワシのガルム漬けが」
「はいはい」
ピュートドリスも相伴した。ガルム慣れしていないアジア人には独特の風味だったが、これがネロ家で毎日のごとく食べられているものと思うと、それだけで感慨深かった。そんな一人満足なピュートドリスをこそこそと見て、ルキリウスはまだ居心地悪そうにしていた。
「女王陛下にお一人で食事をさせるわけにはいかないですから」
「はいはい」
「どうして宴に行かないんですか。なにをそんなに楽しげなんですか。ティベリウスはあっちなのに」
「あなたのおしゃべりを聞くのも興味深そうだからよ」
「人が苦しみ悶えているところ、さらに恐縮させてたわ言まで吐かせたがるとは、さすが女王。それぞ女王」
ルキリウスは杯を干した。
「あー、腹立つ……」
「セレネ叔母様のことは、子どもの頃から知っていたんですってね。ティベリウスと会う前から」
「聞いたかもしれないけど、ぼくの父はマルクス・アントニウスの友人でね」
苦虫を噛み潰しているようにイワシをかじり、ルキリウスは相手が女王である事実を脇に置いた。
「通称偽ブルートゥスというんだけど、とにかくそのせいで、ぼくはほんの短いあいだだけど、アレクサンドリアにいたことがある。でもそれだけだよ。王女様方と遊んだなんておこがましいよ。ぼくはほんの庶民の子どもでしかなかったんだから。ティベリウスと違って」
「ティベリウスと違って」
ピュートドリスが意味深くくり返すと、ルキリウスはぴたりと固まった。それから恐る恐るとばかりに横目で窺い、やがて頭を抱えた。
「……あの男はいつからそんなに口が軽くなった?」
「それであなたは昔、あの人に絶交を言い渡した」
ピュートドリスはけろりと続けた。
「でもあなたはあなたの父君と同じことをしているのではないの? 引退につき合って、六年も。あなただけ」
「そんなつもりはない」
ルキリウスは断固と言った。
「ティベリウスはアントニウスじゃない。このままどこかの女王の腕の中で死んだりしなければ、なんの問題もない」
「あら、そう」ピュートドリスはすまし顔で目玉をまわした。「このたびは危ないところだったわね」
「どうも本当にそうだったらしいねえ! なにやってんの、あのむっつり!」髪をかきむしりながら、ルキリウスは信じられないとばかりに文句を垂れた。「最悪の場合でも、ぼくはあとを追わないから! さっさと先に死ぬか、とんでもなく長生きしてやるから!」
ピュートドリスは面白がって眺めた。
「ドルーススに会わせる企みさえなければ、あなたはさっさと逃げていたかしら? あんなに腕が立つのだから」
「なんのことでしょうかねぇ?」
「とぼけないでよ。なんで今こんなに筋肉痛で苦しんでいるの?」
「まぐれだよ! ぼくは一生分の運を使い果たした」
「違うわね。軍団兵五人を相手に、まぐれはない」
穏やかながら、ピュートドリスは断定した。それからそっと光る目でルキリウスへ身を乗り出した。
「手を汚させたくなかったのね。まがりなりにもあの人のためと信じて立ち上がった部下たちの血で。ところで、どこでそんなに腕を鍛えたの? あの人のために」
「ルキリウス家の家訓は『友人の役に立つべからず』と言ってね」
「ロングス家ではなく、ルキリウス家なのね」
「いいかい?」ルキリウスは逆上したようになった。「彼のそばにいるのはね、まったく簡単なことじゃないの。ぼくみたいな凡人には、それこそ命がけなの。かといって、ティベリウスから離れて一人でやっていけるわけがない。財務官や法務官の仕事なんて、考えるのも恐ろしい。でも元老院議員になるのがロングス家の悲願だから、逃げるわけにもいかず、結果ぼくに取り得る最善の手段は、ティベリウスに四六時中、蛭みたいにくっついていることだった」
「はいはい」
「ぼくは努力なんてしていない。人の何倍も努力したから今があるなんて、無邪気に誇れるやつは嫌いだ」
「はいはい」
「世知辛い人生だよ、まったく。女王陛下にはお分かりになりますか? ほんのひと月足らずで彼の口を割らしめた、世にも稀有な女性には?」
「たぶん、あなたがたわ言を言っているのはわかる」
にやにやと嫌味に答えた。それから背筋を伸ばし、少しばかり真面目な面持ちをした
「ところで私は、雑談ばかりしに来たわけではないのよ」
それからピュートドリスは、テッサロニケイアで会った例の男のことを聞かせた。
「見かけたね、確かに」ルキリウスはうなずいたが、すぐに眉を曇らせた。「でも言われてみれば、テッサロニケイアを過ぎたあたりからもう見なくなったな」
「嫌な感じの笑い方をする男だった。でもそんなに年はいってなかったと思う。ファヴェレウスよりは若そうだから三十歳前……二十代半ばくらいかしら。いずれローマ人よ」
「そうだ。ずっと兜を目深にかぶっていた」うなずきながら、ルキリウスはあの男の姿をたどるように目線を漂わせていた。「あなたはその男が裏で糸を引いていたと思うの?」
「あなたの言うとおり、ファヴェレウスにアルケラオスたちまで巻き込むのは困難だと思うのよ」ピュートドリスもまた同意のうなずきを返した。「でもそうだとしたら、どうしてここまで姿を現さないのかしら。まるでファヴェレウスを見捨てたようだわ」
「見捨てたんだろう」
深く沈み込むように、ルキリウスのまぶたが下がっていった。
「あの人に挙兵させないのなら、その男はなにがしたかったのかしら?」
「……たぶん……」
ピュートドリスは待ったが、ルキリウスはいつまでもその先を続けなかった。それで、考えた。言わない理由がわかる気がした。「競争者」ファヴェレウスはそう口にしていた。
するとルキリウスは、みるみるまた例の飄然とした顔に戻った。まるで今までの会話は忘れたとでも言いたげだ。
「ご忠言、ありがたく頂戴します。しかと覚えておきます」
ピュートドリスは苦笑した。
「ところであなた、あの人をマルクス・アントニウスにするつもりはないのね?」
「……なりようがないと思うけどね」ルキリウスは鼻を鳴らさんばかりだった。「お孫さんに申し上げるのも失礼だけども、ティベリウスという男はアントニウスより優れている」
「一部性格以外は」
ピュートドリスは首をすくめ、上目遣いでルキリウスを見た。
「お願いしていいわね?」
「言われなくと、も――」
ルキリウスは固まった。その目があ然茫然とばかりに見開かれていった。だれよりも、自分自身に。これ以上耐えきれなかったのか、盛大に頭を抱えて膝にうずまった。
「ああっ、もうっ、腹立つなぁーーっ!」
「なによ。嫉妬?」
「そうだよ!」きっとばかりにすぐ顔を上げてきた。
「ぼくが九年がかりで試みてきたことを、あなたはあっさりやってのけた」
「そうなのね」
「ぼくとドルーススはさっきまでその傷をなめあっていたんだ」
「はいはい」
「なにが『はいはい』だよ、もう!」
ルキリウスは憤懣やる方もない様子だった
「彼の魂を、ずっとそばで守ってきたのはだれ? 美しいまま、壊れないように、独り閉じないように、喜びのときも悲しみのときも、変わらず隣でさえずってきたのは、だれ?」
彼がまた動かなくなると、ピュートドリスは立ち上がった。キトンの裾を翻し、すたすたと扉へ向かった。
なにが嫉妬か。私だってもしも男に生まれていたならば、きっと挑んでいただろう、この人に。たとえかなわないとしても。
ピュートドリスは振り向いた。威厳を持って微笑んだ。
「よろしく頼むわね。あの人よりずっと、長生きして頂戴」
「女王陛下」頭を抱えたまま、ルキリウスは真面目なまなざしを上げた。「ありがとう」
それから、泣き顔めいた笑みになった。
「私からも一つお願いがあります。どうか、あと少しだけ――」
「ピュリスさん、ありがとう」
最後の船室では、ドルーススが待ちかねていた。寝台からひょんと跳ね上がった様子は、これまでにもまして可愛らしかった。ほんのり頬を紅潮させて笑っていた。
昼からはしっかりと休ませた。ピュートドリスもつき添って、ぐっすり眠っているのを確認していた。寝顔は、ようやく安心を得て、赤ん坊のようだった。起きた今の顔にも、もうすっかり険はなかった。
並んで寝台の縁に腰かけた。ピュートドリスの接吻を、ドルーススは額ではにかんだように受けた。
「父上が微笑んでおられた」
知らせるドルーススは、ピュートドリスにだけは見えなかったと思っているのかもしれない。確かにあの時、ピュートドリスはティベリウスの後ろにいた。
「そう?」
「はい!」
素知らぬ顔でピュートドリスが首をかしげると、ドルーススは元気に跳ねた。
「全部、ピュリスさんのおかげだ!」
「そんなことはないでしょう。あなたに会えたからよ」
「ううん、ぼくにはわかる。ピュリスさんがいてくれたからだ」
愛おしくて、ピュートドリスはドルーススの頭に手を置いた。
「それでいいの?」
「はい!」
「本当、出来た息子だこと……」
どちらからともなく、抱きしめていた。喜びいっぱいのドルーススを感じながら、ピュートドリスはじんと胸の奥が痛んだ。ドルーススはヴィプサーニアにまったく会えなかったわけではなかろう。それでも新しい夫や弟妹たちの手前、多分に遠慮していただろう。ヴィプサーニアだってきっとそうだ。これは彼女が受けるべき幸せだ。申し訳ないと思うのは傲慢だろうか。
「ドルースス」
それでも、今は我が役目だ。
「お父様が大好きね」
ドルーススはまんまるの目で見つめてきた。みるみる耳まで真っ赤になっていった。それからにっこりと、朝の薔薇のような笑顔になった。深くうなずいて、そのまま伏せてしまった。
「これからは、よろしくね」
頭を抱くと、「はい!」と勇んだ声が返ってきた。ピュートドリスは両目の熱さをこらえた。
「元気で、支えてあげてね。私の分まで」
「……はい」
扉が開かれた。よどみない足取りで、ティベリウスが入ってきた。奴隷が一人、トーガを脱がせてから、外に下がった。ティベリウスはおもむろにドルーススの横に腰を下ろした。さすがに少し酒のにおいを漂わせていた。するとドルーススは、寝台の上を這って、父の反対側の隣へ移動した。
「ま、おませだこと」
ピュートドリスは目を丸くしてみせた。ドルーススはにやりと返した。
「よし」
ティベリウスは目を閉じ、ほっと息をついた。
「寝るか」
「はい!」
きっと同じ夢を見た。一夜の夢が永遠になる夢だ。