第三章 -16
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神話の時代から、コリント湾はギリシアの大地を割って広がっている。少しずつ岩壁を浸食し、ついにはヘリケの街を一夜にして呑み込んだ。それは極端な例にしろ、この日も休むことなく水は大地を削り続けていた。ティベリウスがピュートドリスを抱えて上がったのは、そんな弛まぬ自然が用意した洞穴の一つだった。
しばらくはなにも言う隙がなかった。「大丈夫」とか、「だからあなたにがむしゃらに抱きしめられるほうがよほど痛い」とか、知らせてもあげられなかった。ネアポリスの時の比ではなかった。なだまるまで大人しくしながら、時折まぶたや頬や耳の下に接吻をして、少しでも安心を与えたいと願っていた。
多少の打撲はしたが、ピュートドリスに重傷はなかった。ティベリウスはなかなか納得せず、それでも落ち着いて確かめ得ているかはあやしい様子だったが、ピュートドリスはいつまでも待つつもりでいた。
だがこれでも考えもなしに試みたわけではない。ファヴェレウスの体が下になるようにして飛んだ。彼は甲冑も纏って重かったので、存外容易くできたと思う。水にも岩にも叩きつけられたのは、だから彼の体だ。こう教えたところでティベリウスには火に油だろうが。
それでも彼は胸当てを脱ぎ捨てていた。飛びこむ前か後かわからないが、きちんとどちらも助かるつもりで行動していた。ピュートドリスだって、ティベリウスが幼い頃から継父に水泳を習っていたという話を聞いていなければ、二の足を踏んだだろう。ローマ人は金槌で有名なのだ。
ファヴェレウスは助からないだろうと思われた。切り裂いていたにしろトーガを着て、さらに甲冑姿だった。ルキウス・ピソはああ言っていたが、ティベリウスはファヴェレウスを殺すであろうとピュートドリスは察した。それはほかのだれでもない、ピュートドリスのためだ。ローマの法廷にファヴェレウスが引き出されるとは、すなわちピュートドリスも暗殺の実行者として立たねばならなくなろう。そうなれば極刑はまぬかれたとて、二度と国には帰れなくなる。王位を追われ、家族にも会えなくなる。
ピュートドリスは笑うしかなかった。結局、二人が考えていたことは同じだった。
そうであるならば、役目を代わることになんの違いがあろう。
ティベリウスは荒れ狂っていた。一言も話さず、一心不乱にかき抱くのをくり返していた。そうしなければピュートドリスが波のように引いて形を失くし、二度と戻らないと信じているかのように。二人の体を伝う水滴は、すべて赤い鉄と化したかもしれない。ピュートドリスはそれでも待った。「あなたが私を助けたそうにしていたからそうしただけよ」と憎たらしくささやいたが、それで収まるでもなく、また五指が背中に食い込んではさすられた。
ようやくティベリウスが立ち上がり、外の岩場にマントを広げたときには、すでに太陽は地平線に埋まっていたのだろう。その残光が、かろうじて彼の影を浮かび上がらせていた。すみれ色の水は、なおも小さく押しては引いて、うごめいていた。
マントの上に適当な石を置いてから、彼は戻ってきた。捜索者に見つけてもらうための目印だったが、この時間になってはもう困難に違いない。ここで明日を待つしかなさそうだ。
洞穴とも言い難い浅いくぼみだったが、ティベリウスは再びそこの岩場に座して、動かなくなった。無論のこと、ピュートドリスを固く抱いて離そうとしなかった。ピュートドリスもまた目を閉じて、静かにしていた。二人だけのヘリケだ。海の淵とはどうなっているのかまったく知らなかったが、こんなふうにきっとひっそりとした、ほんのかすかに光をたどるばかりの場所なのだろう。伝えられるところの冥界があるのだろうか。死の土地なのだろうか。それにしてもここは、とてもあたたかで心地良かった。
「ねえ……」
うっすらと目を開けたときは、闇の浸食が色濃く進んでいた。ティベリウスの横顔がかろうじて見えるのみだ。
「ドルーススをあまり怒らないであげてね」
青の瞳がゆっくりと動いてきた。ピュートドリスは笑いかけた。
「私よりかよっぽど賢明だったわよ。デュナミスからすべて聞いたうえで来たのだから、わかっていたのよ。ファヴェレウスたちはティベリウス・ネロの子を殺しはしないと」
青の瞳はまた前方の暗闇へ戻っていった。見上げたその顎の線は、とても意固地に見えた。
「許してあげて」
ピュートドリスは左手でその線をそっと包み込んだ。
「あの子は、もっとあなたに頼ってほしかったのよ」
手の下で、顎がますます強張るのを感じた。彼の首筋に顔を埋め、ピュートドリスはくすくすと笑った。まあ、時間はたっぷりある。突然息子七歳が十三歳になって現れたら、だれだって動揺する。けれどもどうせばれていたのだ。素直になればいいのだ。幸い、まだなに者でもない状態は続いている。友人たちが集まってきたが、彼らすら重々とっくに知っている側の男たちだろう。
ところで、素直になるとはどうしたらよいのか。それももはや明らかではないか。
翌早朝、ドルーススは舳先から身を乗り出していた。船はキッラの桟橋を離れはしたが、少しばかり西へ動いただけで、あとはただ浮かんでいるばかりだった。焦れったがるドルーススは、とうとう両目の下に隈をこしらえていた。眠れたわけもなかった。
それでも昨夜から、何人もがドルーススをなだめにやってきた。ピソとレントゥルス、ユバとセレネ妃、デュナミスと息子アスプルゴス、トラシュルスとレオニダスという父の新しい友人。彼らは口々に父が無事であるとの希望を述べた。希望だ。だれかは岩場の上にマントがあったと教えてくれたが、それならばなぜ今すぐに船を出さないのか。あの辺りは岩礁があるから夜が明けないと無理だと、だれかも言った。ということは父とピュリスもまた、飛び下りてその岩礁に激突した可能性があるということではないのか。
ドルーススは舳先にしがみついて夜を明かそうとした。そうしていても意味はないことぐらいわかっていたが、ほかに身を置きたい場所もなかった。
「ドルースス、もう行こう」だれかが言った。
「はい」
「もう休めよ」まただれかが言った。
「今行きます」
「明日まで待つしかないんだ」まだだれかが言った。
「わかっています」
「じゃあ、どうせならぼくを看取ってくれよ」
ついにルキリウス・ロングスが杖をつきながら現れて、ドルーススへ手を差し伸べた。それまでずっと寝台に伏せっていたらしかった。
「ティベリウスは今ごろ麗しき女王と仲睦まじくしているのに、ぼくはこのまま一人あの世への旅路とか、いい加減不公平だと思うんだけど」
ちっとも死にそうには見えなかったが、ドルーススはそれでようやく腰を上げられた。しかし仮の居場所を得ても、ドルーススはほとんど眠れなかった。
「君は気を遣いすぎる」大あくびをしながら、ルキリウスは言った。
「ティベリウスなんか、わりといついかなるときでもいつもどおり寝ていたよ。ずぶといのか誇り高すぎるのか」
そして夜が明けた。小舟が岩場のマントへ向かっていった。重量を考慮するという理由で、ドルーススはそれに乗せてもらえなかった。舳先からじっとそれを見守るばかりだったが、やがて小舟はくぼみの奥に入って見えなくなった。
再び現れたときは、漕ぎ手以外の人型が見えた。小舟が戻ってくるほどに確信できた。
ピュリスがにっこりと手を振っていた。その斜め前に父も座して、こちらの船を見上げていた。
ドルーススは舳先にへたばった。背後からはため息やら歓声やらが次々上がった。小舟が寄るまでのあいだ、ドルーススはじっと動けずにいたが、やがてレントゥルスの手がそっと肩に乗った。ドルーススは慌てて顔をごしごしぬぐい、全身を引き締めんとした。
船梯子から、父とピュリスが上がってきた。
「父上!」
父はトゥニカと短剣しか身に着けていなかった。六年経っても変わらず屈強な体をして、息子の前に立った。まともに見上げることはできなかったが、顔つきも例のごとく超然としていた。
「申し訳ありませんでした!」
頭を下げてドルーススは、ぎゅっと目を閉じた。どんな罰にも耐えねばならないと思った。思いきり叩かれようが、袋に入れて捨てられようが。あるいは、お前のような息子は知らぬとばかりに無視されようが、いずれ父の処断を受けるに値すると思った。
大きな手が、ドルーススの頬に触れた。そう感じるや否や、思いきりつねられた。
「いぃっ!」
引っ張られるがまま、ドルーススは上向かされた。父は元々手指の力が強かった。リンゴを握りつぶしたり、奴隷の額をはじいて瘤をこしらえたりしたことがある人だった。容赦を知っているのだろうか。
ドルーススが思わず涙を浮かべて見やると、そこに不思議なものがあった。
「泣き虫め」
息を呑んだのは、きっとドルーススばかりではなかっただろう。ドルーススは二度と見られないと思ったものを見ていた。けれども初めてではなかった。あの絵画ほどには溌剌としてはいない。それでも溶けるようなこれには、覚えがあった。思い出した。いつかはわからない。十年も前かもしれない。ずっと忘れていた。
息子の芝居は、ほとんど初めから父に見透かされていた。
――泣き虫め。
ドルーススを抱き上げ、父は宴に暇を告げる。
――兄上だぞ。
と、にやりと笑いかけていたのは、きっとドルースス叔父だ。
――あにうえ。
ドルーススは言う。
――ちちうえ、だ。
父が正す。叔父はいかにも真面目な顔をして首を振る。
――兄上、兄上、兄上!
――あにうえ、あにうえ、あにうえ!
すると父は息子の頬をつねるのだった。自らの頬は、とっくに息子と弟につられたそれにしていた。
「すまなかったな、ドルースス」
父は、戻ってきた。
ドルーススはもっとずっと、いつまでも見ていたかった。けれども視界がみるみる歪んで、よく見えなくなった。零れた雫は、痛みのせいでなければ悔し涙だと思った。
もう気安く抱き上げられない大きさになってしまった。だから泣き虫は父の胸に顔を埋めた。そうしていつもどおり、久しぶりの、二人だけの了解に従った。
喉も枯れよと声を上げた。けれどももう芝居ではなかった。