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ピュートドリスとティベリウス  作者: 東道安利
第三章 オリュンピアへの道
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第三章 -15



15



 ピュートドリスがドルーススの手を引いて路地を出ると、すでにティベリウスの背中は街路を西へ向かっていた。それは彼を境にこちら側が安全になったことを教えていた。彼が倒した敵はピュートドリスの追手だったが、見たところ軍団兵はおらず、ファヴェレウスのかき集めたならず者か傭兵の部類に見えた。彼らの上をそっとまたいで、あとを追った。

 馬は使わなかった。もう必要がなかったし、丈があればかえって遠くから狙い撃ちされる危険がまだなくはない。ティベリウスはなにも言い置かなかったが、それが今の彼の動揺を暗に表していると思った。そうであるならば徒歩のまま、彼の目の届くところにいるのが良かろう。

 実際、彼はピュートドリスのためにトラシュルスとレオニダスを配置したのだった。トラシュルスに至っては戦力外であるのに、それでも自分の代わりに残さなければ気が済まなかったのだろう。そして当の自分は、呆れたことに一人で歩いていた。

 二人が出てきた路地と平行するそれから、一騎また一騎と現れて、ティベリウスを囲んでいく。けれどもそれは敵ではなく、アスプルゴスの部下、あるいは彼にティベリウスが預けた手勢だった。街の北から敵を一掃してここまで到達したところだ。万が一敵と区別がつかなくなっては困るので、ピュートドリスは自らの古いマントを裁断し、帯をこしらえて、彼らに渡していた。全員がそれを左の二の腕に巻いていた。

「あの者たちはだれですか?」

 ドルーススが当然の質問をしてきた。なんとか落ち着きを取り戻しつつあるようだ。

「味方よ。大丈夫」

「どうしてこの街には住民がいないのですか?」

「私たちが偽者御一行より先に来てね、避難させたのよ。協力に足る人たち以外全員」

 小規模な戦である。平地や山野で待ち伏せするよりも、街の中のほうが都合がよかった。ファルサロスからローマ街道をひたすら南下し続ければ、このキッラが突き当たりとなる。その前にかつてのアンピッサから西へローマ街道が分かれているが、アスプルゴスたちがその道を封鎖した。いかにも自分たちはこの道を進んでオリュンピアに行くので、お前たちは来るな、とばかりに。それまでは、喧嘩腰を保ちながらなるべくじりじりと後退し、ティベリウスが先にキッラに着く時間を稼いだ。

 キッラの街に着くや、ティベリウスは住民たちに事情を説明した。ピュートドリスも協力したし、カイロネイアから同行してもらった有力者たちの存在も説得力を加えた。結果、キッラの住民は乗り気すぎるぐらいの意気込みを示したのだが、ティベリウスは一部の壮健な者以外の協力は断り、残りには今日一日の避難を命じた。船の中へ、あるいはキルピス山麓の道へ入れた。後者はコリント湾に面した断崖の上を通る一本道で、街の東側唯一の出入口だった。住民をそこに入れると、彼らに石や銛を持たせ、街との境に防柵を立てて、万一偽者軍団の残党が逃げてきた場合に備えさせた。

 ティベリウスはほんの二名の手勢を連れて、その防柵を自らの待機場所とした。そして、結局臨戦することにした。本物であるとわかっても問題ない時宜を見たつもりだろう。それにしても単独であるのはどうかと思ったが、手勢二人は防柵の前に残したのだろう。住民の保護は無論のこと、彼らが不要に血気にはやるのも防がなければならなかった。だが、それにしてもである。すぐにアスプルゴスの手勢と合流できると思ったのだろうが、なんの根拠があって大将が一人で歩いても大丈夫だと思うのか。

 ほとんどをピュートドリスの護衛にまわした。それはわかる。マリヌスのような友人の騎士数名もいるが、あとはこのたびかき集めた傭兵ばかりだ。彼にしてみれば、自らの護衛として従えても従えなくても同じと考えたのだろう。

 身分や出自はそれほど重要でない。あくまで彼の目と心を基準に、明確な信頼の段階があるのだ。しかもその最上位に入る者は、手元から離すのだ。重要な仕事を預けるために。

 信頼の最上位にいながら彼が手元に置き続ける人物も、いるにはいる。あるいは、勝手にそばに居続けているだけなのかもしれない。たとえば、今彼が八つ裂きにでもしそうな雰囲気を発散しながらまっすぐに向かっていく先の男がそれだ。

 辺りで立っているのは彼だけだった。その足元に、五人の軍団兵が突っ伏して血にまみれている。

 ピュートドリスはあ然と立ちつくした。

「あは、あははははは……」

 気配を察したのだろう。その男は引きつった笑い声を上げた。鮮血したたる剣を手にふらついていたが、ティベリウスに背中を支えられるまで振り向きもしなかった。否、背骨をへし折られると考えたのかもしれない。ティベリウスの目つきときたら、絶対に人質にされていた親友と再会したそれではなかった。

「お前は……」

「待って! 待って! 言い訳ぐらいさせて!」

 苦笑を浮かべながら、ルキリウス・ロングスは必死の体だった。

「ドルーススが一人で来るなんて予想外だった! ぼくはむしろ『来ちゃだめだよー』という意図を知らせたいなぁと、そこはかとなく願っていただけなんだけど」

「それでデュナミスを走らせたのか」

 ティベリウスは凄まじくにらみつけていた。絞殺に決めたのか、実際に手をルキリウスの首元へ動かした。

「あの人が自分で行くって言ったんだよ!」

 ルキリウスは処刑台で未練を吐く男さながらだった。顔も体も血で汚れていたが、ほとんどが返り血なのだろう。そうでなければ元気に口はまわせない。

「セレネ妃とぼくの監視は厳しいけど、自分なら抜け出せそうだって。『いや、無理ですよね……』ってぼくは一応止めたんだけど、なんかやたら目をきらきらさせてさ、『愛しいあの人の胸に飛び込んでみせるわ!』とかなんとか、よくわからないはりきり方をして」

「お前は!」ティベリウスはルキリウスの首根っこを引き寄せた。「私をオリュンピアまで連れ出すために、わざと逃げなかったな?」

「違う! 違う! 違う! ぼくは逃げられなかった! 本当に捕らわれの身だったんだ!」

 ルキリウスはなんとか頭を振った。じたばたしかけた様子もあったが、そこまで動くほど体に力は残っていないらしい。それでも熱心に訴えて退かなかった。

「濡れ衣もいいところだ! 一ヶ月以上も助けに来ないで。その間ずっとぼくは、ああ、なにも知らないドルーススが偽者のほうに合流したらどうしようどうしようと気をもむばかりの日々だったのに、君ときたら、あそこの魅力的な女王陛下といちゃいちゃいちゃいちゃ、久々の我が世の春を謳歌する旅をしていたんだろう? ああ、かわいそうなぼく! もっとかわいそうなドルースス! 家父長制なんか廃止して、父親を一発殴る権利くらい認めるべきだよ」

「…レントゥルスか?」

 ティベリウスはうなるように問い質した。

「ルキウス・ピソもね」親友はとても口が軽かった。「あとアントニアには、ぼくらの大好きなクラウディウス・ネロ家の漬物をそろそろ送ってほしいなぁって、お願いもしてあるんだけど」

 それからびくりと震えたが、どこか芝居がかっていた。恐る恐るとばかりに片目だけ開け、右腕を広げた。

「拷問はしないでよ。ぼくは全部白状した。そしてほら、もうすでにずたずたのぼろぼろ。満身創痍。今にも死ぬ」

「お前があらかじめ私に話していれば、こんなことにはならなかっただろう!」

「話したら、君は意地を張ってオリュンピアに行かないとか言い出しただろうさ。せっかく四年に一度の機会なのに。息子まで待っているのに。なんでガイウス・カエサルや偽者に邪魔されなきゃいけないんだよ?」

 そこでルキリウスは耐えかねたふうにため息をついた。するとティベリウスの腕が彼の首に巻きついた。いよいよ絞め殺すのでなければ、やはり支えているのだろう。

 ルキリウスはもう一度、腹の底から出しつくすような、深いため息をついた。体じゅうの強張りも抜いていくかようだった。

「これでも責任は果たそうと努めたつもりなんだけどな。柄でもないのに。そろそろ気絶していいかな? 実はまた話すことがあるんだけどさ、年甲斐もなく『運動』させられたもんだから、もう限界。向こう半年は寝台から起き上がらないからね。よろしく」

「なにがよろしくだ」

 心底いまいましげに吐き捨てながら、それでもティベリウスはルキリウスの腕を自分の肩にまわすのだった。

「覚悟していろ。あの二人と一緒に、ただではすまさん」

「肝心なことは訊かないの?」

 ルキリウスは親指を後ろへ向けた。

「ドルーススがなぜ一人でやって来たのか。まさか君、父上に会いたくて焦がれてしかたがなかったとでも思ってる?」

「ルキリウス殿!」

 ドルーススが飛び上がった。ピュートドリスが手をつかんでいなければ駆け出していただろう。

「このぼくにもその発想はなかった。三十年前に戻りたくなった。初めて」ルキリウスはまるでなにも目に入っていないかのようだった。「うちの馬鹿野郎は喜び勇んで行きやがったからね。一方君ときたら、つくづく深刻に演技も偽悪も下手くそで致命的みたい。七歳にすらばれていた。さすが息子」

「同感よ」ピュートドリスは苦笑した。

「どういう意味だ?」ティベリウスが詰問した。

「『ぼくは父上がいなくて幸せだった』」ルキリウスは述べた。「『死んでもいないのに、こんな残酷を与えておいて、よくも平然としていられるな』だってさ」

 ドルーススの顔がかっと赤らんだ。そして父親と目が合うや、うなだれてしまった。ピュートドリスの後ろに隠れもしたが、おびえているというよりいじけて見えた。

 ピュートドリスもまた新しい驚きを持ってドルーススを見下ろしていた。偽者相手とはいえ、そこまで言ってのけたか、と。

 ティベリウスはただ振り向いて黙していた。

「さあ、愚痴は終わったよ。行こう」

 なぜかルキリウスがその背中を軽く叩き、急かすのだった。

「早くこの騒動を片づけて、ぼくらをとっちめたいんだろう?」

 二人は歩き出した。ピュートドリスとドルースス、それにアスプルゴスの部下たちがそれに続いた。広場まで来ると、当の国王が待ち構えていた。すでに無事広場を制圧したらしい。演壇上に独り立っていた。ティベリウスの姿を見とめるとゆっくりと階段を下り、これだけ合点がいかないとばかりに、石敷に伏したとある亡骸を剣先で突いた。ドルーススが顔をゆがめたが、ピュートドリス越しにでもしかと見ていた。ピュートドリスもまた哀れに思った。どうして死ぬまでつき合い続けたのか。アウグストゥスならばあるいはユダヤの偽王子にしたように、奴隷身分に落とすだけで償いとしたかもしれない。この愚かな偽者役もまた、ローマ人の争いに巻き込まれた犠牲者の一人だった。

 広場の南側からは、レオニダスとアクロンたちも姿を見せた。

「ああ~っ、疲れたぁ~!」

 と、剣を肩にかつぎながらぐったりした様子のレオニダスだったが、ティベリウスを見つけると、すぐに顔を輝かせた。

「やった! やったよ、旦那! こっち、戦死者ゼロ!」

「よくやった」

 と、ティベリウスは返した。レオニダスはぶんぶん手を振った。

「ルキリウスの旦那も、元気?」

「元気に見えるの? 死んでないだけだよ」

 ルキリウスはぼやくように教えた。彼の身柄を騎士アッティクスに預け、ティベリウスは広場の人だかりへ向かった。アスプルゴスもそれに続こうとしたが、ピュートドリスは彼に話があった。

「なんでユバたちを見逃したの?」

「見逃していない。あえて通した」

「なんで?」

「大の男で、しかも国王が、謝ろうとしているんだぞ。命がけで」

 彼はじっとピュートドリスをにらんだ。

「一度くらいは聞いてやれよ」

 ピュートドリスもまたにらみ返したが、アスプルゴスは退かなかった。結局ピュートドリスのほうが鼻を鳴らして前方へ向き直った。するとアスプルゴスが、当然新しく合点がいかない存在を見つけた。

「だれだ、こいつは?」

「だれに見える?」

 ピュートドリスはあっさりにやけてしまった。ドルーススの後ろ頭に手を添えた。苛々とアスプルゴスはなにか言いかけたが、結局それは喉の奥へ吸われて戻り、ドルーススに見入った。

「ドルースス・クラウディウス・ネロ。こちらはボスポロス王アスプルゴス。デュナミスの息子よ」

 ピュートドリスは少年のほうに紹介した。

「よしわかった」

 アスプルゴスはうなずいた。

「お前は俺が守る」

「ちょっと。なによ、藪から棒に」

「うるせえ。俺はもう決めた」

 女王と国王は、ドルーススの腕を引き合ってもめた。

「ティベリウス・クラウディウス・ネロ!」

 大声は、人だかりのなかから聞こえた。ピュートドリスはアスプルゴスを見た。彼は目元をしかめて返してきただけだった。二人は人垣を退けたが、それはアスプルゴスとティベリウスの手勢だった。街の公会堂の壁を向き、まだ油断なく剣や弓を構えていた。二人はそれぞれティベリウスの斜め後ろに立った。

「お待ち申し上げておりました!」

 そう叫んでひざまずいたのは、手勢たちではなかった。およそ二十人の、偽者軍団の残党だった。プブリウス・ファヴェレウス、生き残りの軍団兵三人、そして軍団兵ではないが、一様に神妙な面持ちをしている屈強な男たち。すべて公会堂を背に取り囲まれている。

 ファヴェレウスのトーガは引き裂かれ、その下に纏ったロリカ・ムスクラを露わにしていた。剣を二振りすでに地面に置き、彼は輝く顔を上げたところだった。

「ご無事と信じておりました。さすが見事なお手前でございました。我らがインペラトール!」

「……どういうわけだ?」

 ティベリウスが問う。

「我々にもう戦うつもりはない、ネロに会いたい、の一点張りだった」

 と、アスプルゴスが知らせた。

「あれをここに」

 ファヴェレウスが呼ばうと、軍団兵が二人、それぞれ手早くマントを外した。裏地をかざすと、そこには別の布が縫い付けられていた。紅色で、双方とも描かれているのは、牡牛の図柄だった。

 ティベリウスにはそれがなにか、一瞬でわかったに違いない。ピュートドリスでさえ見覚えがあった。ローマ軍団が持つ旗である。至上の誇りである銀鷲を象った軍団旗ではない。その下ではためいている、各軍団を象徴する旗だ。

 ティベリウスの顔が青ざめた。

「これは……」

「シリアの第三軍団ガッリガ、第六軍団フェラッタより、貴方に」

 ファヴェレウスは大きくうなずいた。

「これは証明の一つにすぎません。お望みとあれば、まだいくらでも並べ得ます」

「なんの証明か?」

「無論、貴方への服従です!」

 ファヴェレウスが立ち上がると、残る二十人もまた同様にした。右拳を一斉に高く突き上げた。

「ティベリウス・クラウディウス・ネロ! 今がそのときです! ご決断を! 我らすべてを従え、挙兵のご決断を!」

「……」

 言葉を失ったのは、ティベリウスばかりではなかった。ピュートドリスもアスプルゴスもドルーススも、騎士や手勢たちも、絶句して立ちつくしながら二十人を見つめていた。彼らの顔、立ち姿のどの隅にも、一切の迷いがなかった。

 ルキリウス・ロングスだけが、聞こえよがしのため息をこぼした。ああ、そうか、とピュートドリスは頭の中でつぶやく。彼がティベリウスに言わなかった最後のことだ。拉致されて早々に知らされていたに違いなかった。

「……つまり、あなたたち、全部この人に挙兵させるために演じていたというの? 陰謀を?」

「演じてなどいません!」

 ピュートドリスが信じ難く問いかけると、ファヴェレウスはきっとまなざしを向けてきた。それはひどく真面目で、澄みきっていた。

「実際に、陰謀はありました。それもいくつもいくつも! マルクス・ロリウスは、それらの一つが必ず成就されねばならないと決めておりました」

 ピュートドリスもそれは否定できなかった。エライウッサの宮殿で聞いていた。ガイウス・カエサルの太鼓持ちたちは、ティベリウスを流罪人呼ばわりし、その首を取ってくるとさえうそぶいていた。そして、ロリウスはガイウスを説き伏せんとしていた。

 ――いずれ為さねばならぬ一事を、いつ為すのか。

「このままではあなたの命が危ない!」

 ファヴェレウスは声を大にして知らせた。

「やつらのくだらぬ陰謀の手にかかるおつもりですか? あなたほどの方が。そんな死に方をなさって良い方ですか? 断じて違う! それで、このたびはご無礼を承知のうえで、我々が先手を取らせていただきました。ご自分の立場を思い知っていただきたかった。どうしても。もはや一刻の猶予もならぬのだと、お分かりいただきたかった」

「みんなが君を、優柔不断なのろまだと思っているんだよ」

 ルキリウスが遠慮もない代弁を加えた。

「ぼけっとロードスの家でくつろいでいるあいだに首をかき切られると、心配で居ても立ってもいられなかったんだよ」

「そこまでは申しておりません。ですが、人が他者を本気で殺したいと思ったとき、防ぐのは至難の業である。そう話す者がおりました」

 ピュートドリスのまぶたの裏でなにか瞬くものがあった。それは判然としなかったが、思い出したのは、伝えられるところの先代ユリウス・カエサルの最期だった。ローマの独裁官の立場にありながら、元老院議場という公開の場で、多数の暗殺者の手にかかった。

「本気だった者がいるの? ほとんど全部、ガイウスへの阿諛追従だったでしょう?」

 それでもピュートドリスは異議を唱えた。

「本気になった者がいた」

 ファヴェレウスの鋭いまなざしがまたにらんできた。

「たとえば、あなたの夫アルケラオスがそうだ」

 ピュートドリスはぐっと喉を鳴らした。だがすでにわかっていた答えだった。それでも聞かなければならなかったのだ。夫がピュートドリスに殺しを勧めた真相を。

 同じような音がした。横目を向けると、ティベリウスのそれらしかった。両拳がきつく握りしめられてわなないていた。

「お前らが焚きつけたんじゃないのか?」

 思いがけず噛みついたのはアスプルゴスだった。ピュートドリスをかばうような調子だった。

「本気じゃないやつらが本気になるように、しつこく煽ったんじゃないのか?」

「芽のない蔦を伸ばすことはできません」

 ファヴェレウスは国王の詰問にも退かなかった。ティベリウスへまた視線を戻し、懸命そのもので訴え続けた。

「本気になったらそれこそ終わりだ。あなたに悪意のある者を放置してはおけない。それほどの事態になっていたのです。我々は去年、サモス島でもあなたに申し上げました。高潔なあなたは、十分に信じてくださらなかったようですが」

 去年秋の末、ティベリウスがガイウスに挨拶をするべくサモス島に足を運んだときの話だった。会見の後、ガイウス付きの幕僚や軍団兵たちが次々ティベリウスの宿を訪れたと、ピュートドリスも聞いていた。彼らの話の大半が、行く先々で大歓迎会に明け暮れて任務が危ういガイウスへの愚痴だったと思われるが――。

「それは当然であります。あなたは懐深く、義理堅い方だ。ここにいる我々全員がよく存じ上げている。それなのに我々の心からの警告は、事もあろうに、アウグストゥスによって陰謀と解釈された!」

「なんだって!」

 仰天の叫びを上げたのは、ドルーススだった。初耳だったのだ。

「ガイウスとロリウスが疑いを訴えて、アウグストゥスがそれに返事を寄越したのですよ」少年を見、ファヴェレウスの顔つきはとても柔和になった。「『話はわかった。私から問う』と。ネロにも実際、アウグストゥスからの嫌疑の手紙が届けられたはずです」

「来たね。まったくそのとおり」

 答えたのは、うんざりとアッティクスの肩にぶらさがるルキリウスだった。

「『ならば、どんな者でもいいから私に見張りをつけてください』って、ティベリウスは返していたよ。何度も」

「やっぱりお前らが不要に疑いを煽っているんじゃねえか!」

 アスプルゴスがたまらず怒鳴るが、ファヴェレウスはやはり少しも退く様子がない。

「あの時点では、我々もここまで事を大きくとは微塵も考えていませんでした。ですがあれから日に日に、あなたへの危険は切迫していく一方でした」

 そうでしょうとも、とピュートドリスは胸中で皮肉をつぶやく。アルケラオスがサモス島に着いたのは、ティベリウスが去った後だ。ファヴェレウスたちの『陰謀』は、それから徐々に形を成していったはずだ。

ファヴェレウスは銀鷲旗の本体は持ち出さなかった。不可能だったのだろう。持ち出そうものなら、軍団がひっくり返る大騒ぎになる。しかしその象徴は、すり替えたのか、予備のものか、とにかく用意したのだった。彼らの本気の証明として。

「お分かりですね、ネロ?」

 不気味な自信に満ちた顔で、ファヴェレウスはティベリウスを見つめていた。

「此度『本気になった者』は全員、我らが遠征につき合わせました。あなたを殺す偽の企みに加わりたいと、楽しげに寄ってたかってきたのです。そして、報いを受けました。ご覧のとおり、死に絶えました! 真実も知らずに! その過程で、誠に遺憾ながら、我らが当初の同胞も犠牲となりましたが――」

 ファヴェレウスが言うのは主に、十五人いたというローマ軍団兵のことだろう。一人はキュノスケファラエ丘の麓で自決した。以来、この場まで残っているのはあと三人だ。

「あなたのために命を捧げた。その事実をあなたにおわかりいただけたのなら、彼らも本望だと思うのです」

 この瞬間のティベリウスの顔を、ピュートドリスはすぐに直視できなくなった。アスプルゴスもドルーススも思わず後退りしていた。どうしてファヴェレウスは気づかないのだろう。残る彼の同胞二十人も無感覚でいられるのだろう。ティベリウスはずっと黙しているが、それはまったく話せないからだ。もう目も耳も聞こえなくなっているかもしれない。

 ピュートドリスが思わず逸らした視線の先では、その軍団兵の三分の一を始末した男が、じっと首をすくめていた。

「お分かりですよね、ネロ?」

 ファヴェレウスの顔には、満足げな微笑すら浮かんでいた。

「もはや一刻の猶予もないことを。ほかに手段はないことを。ロリウスは事を急いでいないと見えるやもしれませんが、どの道、ガイウスのアルメニア遠征が成功すれば、必ずや実行に移すでしょう。成功? ローマがアルメニアごときに負けるわけないのだから、どう転んでも成功ですとも。ですから、挙兵しましょう! 今、ここで」

「挙兵……」くり返したのは、アスプルゴスだった。

「どこの、だれにだ?」

「決まっているではないですか!」

 ファヴェレウスの黒目が無邪気に輝いた。

「あなたをこのような立場に追いやった、あの――」

「ふざけるな!」

 ついにティベリウスが激声を上げた。その場の全員を、街ごと押しつぶさんばかりだった。

「お前は私に国家に対する戦争を仕掛けろと言っているのか!」

「そうではありません! 国家はあなたとともにある!」

 ファヴェレウスがそれでも退きもせず翳りもしないのは、心底ティベリウスのためと信じているからなのか。

「まず真っ先に、イリュリクムとゲルマニアの軍団が動きます。あなたの一声を聞いて、すぐに。それからご覧いただいたとおり、シリアの軍団もあなたにつきます。国家ローマ最精鋭の軍団が、すべてあなたのものとなるのです」

 ピュートドリスは今度はごくりと喉を鳴らしたが、アスプルゴスもまた戦慄するのを目の端でとらえた。イリュリクムとゲルマニア。常に国家防衛の最前線で蛮族と相対しているゆえに最強の、ローマの十五個軍団。全二十八個軍団の半分を超える。しかもティベリウスはそのどちらの軍団をも複数年にわたる指揮経験があり、凱旋式を行う戦果を挙げている。そしてシリアの四個軍団も、二十年前のアルメニア遠征で率いた。今はガイウスがいるゆえ全軍は無理としても、二分することは十分あり得るだろう。

 もしもティベリウスが挙兵すると言えば。

 ファヴェレウスもまた当たり前とばかりにうなずいた。

「実のところイリュリクムとゲルマニアには、すでに使者を走らせてあります。テッサロニケイアから。それからヒスパニア、アフリカの両軍団も続くでしょう。さらにここであなたが宣言すれば、ギリシア全土があなたに力を貸すでしょう」

 それは、まずい事態だった。テッサロニケイアからローマ街道をひたすら北へ行くだけで、いずれイリュリクム属州に入る。そしてゲルマニア属州にもつながっている。何日で南下できるか、計算することは難しくない。そしてギリシアならば、祖父アントニウスとクレオパトラがそうだったように、大軍を連れて乗り込めば従えることはできる。今でもすでに協力するクリエンテスがいるのだ。そこへさらに「ギリシアの自由と独立」でも叫べば、もはや想像するまでもない。

「さらにポントス、ボスポロス、いずれも同盟国として参戦される。間違いありませんね」

 ピュートドリスとアスプルゴスは無意識のうちに互いの視線を合わせていたが、ファヴェレウスの尊大な声が、念押しとばかりに聞こえてきた。

 そうか、とピュートドリスは思い至る。デュナミスはこの陰謀の真実に息子を巻き込むまいとしたのだ。

「首都ですが、元老院の一部は、すでにあなたの味方です。共和政主義者などは、歓呼するでしょう。ニ十歳のガイウスに執政官職が与えられ、さらに首都に近衛軍が常備されつつある現状に、皆が皆無頓着であるとお思いですか?」

 ピュートドリスは額から汗が零れるのを感じた。共和政主義者。アントニウスを倒した後、アウグストゥスはローマを共和政に戻すと宣言していて、実際にそのとおりにも見えた。しかし実態はどうか。ファヴェレウスが指摘したとおり、彼がただ一人頂に立つ者だ。その是非はともかくだが、そのうえ孫を後継にせんとしているのだ。

「お分かりですよね、ネロ。あなたは決して謀反人ではありません。ローマはあなたの味方。したがって、絶対に勝つ」

 絶対に勝つ。ピュートドリスとアスプルゴスが戦慄する理由は、まさにそれだった。もはや言われるまでもなかった。ティベリウスならば――世界でただ一人今のティベリウスだけが、絶対に勝ち得る。ローマを転覆し得る。その想像があまりにもまざまざと浮かんで、容易だったからだ。

 だが、思えばピュートドリスは気づいていた。二十年ぶりに再会したあの日、これほどの危険人物がここまで生きながらえているのが不思議だとの感を抱いた。アスプルゴスだって、ファルサロスに近づいたときに頭をよぎったのではないだろうか。神君カエサルが大ポンペイウスを破って古きローマを終わらせたように、この男にも体制を転覆させる力があると。

 ティベリウスにその気があればだが。この人は、そもそもそこまでの自分という潜在的脅威を考えたことがあっただろうか。怒りと衝撃に打たれながら、今なにを思っているのか。

「現にこうして、ご子息を連れて駆けつけんとしてくれるほどの友人がいらっしゃった」

 ファヴェレウスは両手を差し伸べ、ドルーススへにっこり笑いかけていた。

「うれしい誤算でした! まさに神々もまたあなたに味方した証明だ! もうなにを迷うことがあるのですか! 首都ローマで、あなたの大事な一人息子が人質とされる懸念はなくなったのです! そのうえ聞けば、ルキウス・ピソとコルネリウス・レントゥルスに連れられてきたとか。かの二人とも、あなたに次いで軍功のある名将ではないですか! こうなればあなたが屈することなど、万に一つもあり得ない。勝てます! 絶対に」

 勝てます。ピュートドリスはその戦略を思い描く。なんのことはない、単純である。ギリシアで蜂起する。イリュリクムとゲルマニアの軍団と合流する。首都と東方に挟まれることになるが、東方はシリアの軍団が二分され、大混乱となる。ガイウスとロリウスの手には負えまい。ましてポントスとボスポロスが鞍替えし、挙句その隙を大国パルティアが狙ってくる可能性さえある。一方、首都以西は。共和政主義者が騒ぎまわり、こちらも大混乱だ。近衛兵がどれほどかは知らないが、イリュリクム・ゲルマニア両精鋭軍に優るとは思えない。まして率いるのはティベリウス・ネロである。副将にルキウス・ピソとコルネリウス・レントゥルスが入り、さらに歴戦の軍団兵や幕僚たちが集まる。

 その相手はだれか。首都ローマで、ただ一人の絶対的権力者となっている男。しかも戦は不得手ゆえに、ずっとアグリッパとティベリウスに任せてきた男である。

 勝てる。絶対に。

「ネロ、ご決断を!」

 ティベリウス・ネロは打倒してしまう。カエサル・アウグストゥスを。彼が造り上げたローマを。

「拒否する」

 わずかに震える声で、ティベリウスは言い切った。息が詰まるほどの怒りを懸命に抑え込んでいる様子だった。

 ファヴェレウスは表情を無くした。それから慌てて哀願するような顔を作った。すんなり説得できるとは思っていなかっただろう。それにしてもティベリウスの回答は、即座で躊躇もなかった。彼らの無邪気な信念を一突きに砕くほど。

「なぜです?」

「お前たちの求めるは国家の内乱だ」

 ティベリウスは断固と知らせた。剥いたまなざしはファヴェレウスとその仲間全員を残さず貫いていった。

「ローマの安全を脅かす者を、私は許すつもりはない」

「あなたの安全はどうなるのですか?」

 ファヴェレウスはそれでも退かなかった。両腕を大きく広げて訴え続けた。

「いいですか。殺らねば殺られるのですよ! これは事実です! ガイウスのアルメニア遠征が終わったならば、ロリウスはすぐにあなたを亡き者にせんと動きます」

「なんの根拠が――」

「私が集めたごろつき、ガイウスの太鼓持ちども、それにアルケラオス王。まだ足りませんか?」

 真剣極まるまなざしは、ティベリウスだけを見つめていた。

「あなたはガイウスやロリウスと比較にならないほど有能です。ロリウスもそれをわかっている。だから貴方が憎いのです」

「ラエティア、か……」

 アスプルゴスがぼそりとつぶやいた。詳しくはないが、ピュートドリスも聞いた覚えはあった。十五年前、ティベリウスと弟のドルーススはラエティアで山賊討伐を果たした。ところがその前年、同じ領域でロリウス率いる軍団がゲルマニア人に敗北を喫していたという。アウグストゥスの時代になって以後負けることがなかったローマ軍だったので、悪く目立ったことだろうが、ティベリウスたちはそれを雪辱したうえでさらに属州化する成果を残した。ファヴェレウスはロリウスがその雪辱をねたんでいると言っているのだろう。

「だれの目にもどちらが将軍として優れているか、明らかなのですよ。無能についていきたい部下などおりません」

 ファヴェレウスは独り深くうなずいた。けれども――とピュートドリスは思う。敗戦すなわち無能というわけでもないだろうに。だが部下というものは上官を品評せずにはおれない生き物なのだろう。

「軍団兵ではない。ロリウスはガイウス付きの近衛兵を差し向けてくるでしょう。そうなったらどうするおつもりですか?」

「なんの正義があるというのか」ティベリウスがうなった。

「そんなもの、いくらでもでっち上げられますよ」

 もはや尊大そのものだった。

「今、お前たちがしているように」アスプルゴスが苦々しく指摘する。「本当に第二のアントニウスにする気かよ」

「第二のアントニウスではありません。ネロは勝ちます」鋭い一瞥を国王に投げたあと、ファヴェレウスはまたティベリウスに通告した。「いずれあなたが従容として死ねば、悪は黙認されるだけです。あの方に」

「黙れ」嫌悪も露わに、ティベリウスは遮った。「ロリウスが私をどう思い、なにを企もうと、お前などに心配される筋合いはない」

「いいえ、これは国家の行く末に関わる問題です」

「それを、お前風情が関わるなと言っている」ティベリウスもまたあえて尊大な言葉で叱責していた。「ロリウスと私の問題だ。ましてそこに、ガイウス・カエサルの意思はない」

「あなたは優しすぎます! ロリウスが動いたなら、それはもうガイウスの意思ですよ。そして、アウグストゥスの意思ですよ」

「ふざけるな!」

 今再び、ティベリウスは激高した。ファヴェレウスはいよいよ許されざる言葉を吐いた。

「お前ごときが、二度と軽々しくカエサルの名を口にするな!」

「なぜです!」

 だが、彼はわかっていない。

「それこそ、なんの根拠があるのですか! 孫のために、アウグストゥスがあなたを殺さないなどと」

「口が過ぎるわよ」

 ピュートドリスも指摘したが、これも無駄だった。

「東方の女王陛下ならお分かりのはずだ」

 まっすぐの鋭い目線が返ってくる。

「いかに苛烈か。『王位継承争い』が。競争者を皆殺しにしなければ気が済まない王侯が、これまで何人世に生を受けましたか。このままではローマは同じようになるのです。一度でも護民官特権を分かち合ったネロは、恐怖の対象だ。ガイウスにとっても、そしてアウグストゥスにとっても。いずれ消えてもらわねばと思うに決まっています」

「競争者……」

 ピュートドリスは頭の中で瞬く間にその言葉を反芻していた。

「決めつけるんじゃないわよ」

「決めつけねば殺られると申し上げているのです」

 切り捨てるように言うと、ファヴェレウスはティベリウスにまた向き直った。

「ネロ、身の安全を図ることは恥ではありません。現にかの神君カエサルも、ルビコン川を越える際、兵たちにおっしゃったそうではないですか。『これを越えたら世の地獄。しかし越えなければ私の破滅である』 どうかあなたも勇気を。ご決断を!」

「断る」今再び、ティベリウスは即答した。「お前は神君カエサルをも侮辱している」

「強情な方だ!」ファヴェレウスは空を仰いだ。パルナッソス山に住まう神々に助力を乞おうとばかりに。「あとはあなたの心一つなのに。ここにいる全員、あなたについていくのに」

 ピュートドリスとアスプルゴスは、またもこっそり視線を交わしたのだった。もしもティベリウスが「受諾」したら、二人はどうするか。

 ぞっとすることに、答えは一致だ。それくらい二人の胸の内は簡単に変わってしまうのだ。

 ファヴェレウスはまったく正しい。

「どうかご理解ください、ネロ。今が好機で、逃したら終わりなのです。アルメニア遠征が完了する。近衛軍の長官が置かれ、カエサル家の権力はますます強大になる。手出しできず、だれにも止められなくなる」

「手出しだと? カエサルになにをするつもりか、お前は」

 ただこの男のみが支柱だった。この男の不動の意志だけが、二人と、その背負う国の命運を決めるのだ。

「私になにをせよと言っているか、お前こそわかっているか。私はカエサル・アウグストゥスに危害を加える者を最も憎む」

「どうしてそこまで義理立てをするのですか?」 

 その不動の意志の根源を、ファヴェレウスはまったく理解できないのだ。

「アウグストゥスは確かにあなたの継父です。ですがもう義父ではないではないですか。あの人はあなたの家庭を壊した。不実な妻を与え、孫五人もの後見を押しつけた。それこそ侮辱だ! 彼らが成長するまでの、そして成長したあとも不動の第二位と言わんばかりに! 公務でもそうだ。辺境の前線で長年酷使し、いよいよというところで手柄を奪い、とうとうあなたには労ばかり与えてなんの益ももたらさなかった、そんな人をどうして守ろうとするのですか? あの偽善者を! ローマの独裁者を!」

「もういい」

 これ以上聞くに堪えなかったか。ファヴェレウスを険しく見据えたまま、ティベリウスはグラディウス剣を抜いた。

「これが最後だ。その思い上がりをお前に吹き込んだのはなに者か、言え」

「私を殺すのですか?」

 ファヴェレウスは心外とばかりにのけぞった。

「すべてあなたのために成したことなのに!」

「それが思い上がりなのよ」ピュートドリスは苦笑して首を振る。「あなたはこの人のことをなにもわかっていない」

「あなたにわかるというのですか、女王陛下」ファヴェレウスのまなざしは暗かった。「ローマ人でもない。軍人でもない。男でもない。妻ですらない」

「そうね」ピュートドリスは認めた。「でも格というものがあるのよ。それに、わかりたいと思う程度に愛もある」

「それは私とて同じ!」胸に手を当て、ファヴェレウスは叫んだ。「私とて、真剣にネロを――」

「お前はなに者のつもりか!」

 ファヴェレウスの喉を、グラディウス剣の切っ先が突いた。なにが、この男をここまで尊大にしたのだろう。ピュートドリスもそれを考えずにはいられなかった。

「ルキリウス」首を反らし、細い血筋をこぼしながら、ファヴェレウスは訴える相手を替えた。「本当にこれで良いのですか? これが正しいと思うのですか? あなたのネロは死にますよ」

「ぼくはもうちょっと楽観しているって、何度も言わなかった?」

 ルキリウスはまた軽く首をすくめただけだった。この一ヶ月半、この思い上がり男を止める術をずっと考えてきたのだろうか。

「だいたいね、プブリウス・ファヴェレウス。高貴な家の三男で、辺境で軍団副官になったけれども、残念ながらティベリウスでもドルーススでもなくロリウスの部下にされて、負け戦に巻き込まれたと思い込んで、そうこうするうちに兄二人が近衛兵に抜擢されて、給料三倍で華やかな軍装で歩きまわるのを見せつけられて、それでも自分は財務官になると意気込んだらまさかの選挙で落選して、それもこれも全部ロリウスのせい、カエサルのコネのせい、ティベリウスの目に留まる機会を得られなかったせいだと信じている、かわいそうなファヴェレウス。ぼくはもっと幸運だったものだからね。無事財務官に当選して元老院議員になれた段階で、ティベリウスはもう用済みなの。どこでなにしてどう生きて死のうと、関係ないの」

「……なら、どうしてロードスまで来て友人をやっているの?」

 できるかぎり、ティベリウスの質問に答えているつもりらしいルキリウスのまわる舌に圧されながら、ピュートドリスはつい関係のない疑問を振り向けていた。

「うっかり法務官なんぞに当選した年ね、このずぶずぶ依存させてくれた男が家出とか、なんの嫌がらせだよ。一人で裁判とか軍団指揮とか、できるわけないのに」

 ピュートドリスはそれに微塵の説得力も感じなかったが、ルキリウスはかまうものかとばかりに目線も合わせてこなかった。

「それはさておきだけど、ファヴェレウス、君は世渡りが下手だったんだよ。気の毒に。それだけならまだしも、行動力まで有り余っていてさ、自称共和政主義無責任派の元老院議員にでもそそのかされたのかい? それとも、ほかにもだれかあくどい奴がいたのかい? なにはともあれ、神君カエサルはこうも言ってる。『最悪になったことのそもそものはじまりは善意だった』 ぼくはその『善意』が、君一人で組み立てられたとは思えないんだよ。十五人の軍団兵と? 半分はロリウスの立てた計画だった? それにしても、いいかい? 君の話をカッパドキア王が聞き入れたなんて、信じ難い。ロリウス側にやらせたの? それにしても君に、カッパドキア王夫妻とマウリタニア王夫妻、双方の情動にうったえるやり方が考えついたの? この二重構造の陰謀を遂行しつつ、関係者をだまし通せる器量があったの? らしくない。らしくないったらないよ。だからとりあえず、だれか思いつく名前を言ってみなよ」

「そんな者はだれもいませんよ」

 ファヴェレウスは苦笑するしかない様子だった。恥を暴きながらそれを感じ入る隙も与えず、ルキリウスは畳みかけていた。屈辱を脇に置けた代わりに、相手はなおもゆらがなかった。

「私はだれも信用していません。自分と、ネロと、ネロを敬愛する軍団兵を除いて。どうしても挙兵してくださらないのですか?」

 ティベリウスへ、善意の陰謀家はこくりと首をかしげた。

「これほどに絶好の機会であるのに? お心に少しも…迷いはないのですか? 引退の身のまま、なすすべもなく死を待つと? あなたほどの方が……」

 剣を突きつけたまま、ティベリウスは黙していた。ファヴェレウスはそれを否定とは受け取らないようだ。また両腕を激しく広げ、飛び跳ねすらした。

「私はそうは思いません! あなただって本当はわかっているはず!」

「あなた、この人のことも信用していないわね」

 そんな言葉が、ピュートドリスを突いて出た。

「どうして信じてあげないの?」

 しかし結局のところその一事ではないのか。自分とファヴェレウスの違いは。ピュートドリスにもだれにも、ティベリウスの安全が絶対であるとは言い切れない。彼が従うところに従うだけだ。

「それほどに危機が切迫しているからです」

 ファヴェレウスにはもはやそれができない。忠言までで止めておくべきだった。それが干渉の一線を越えたがために、退くに退けない。

 そのファヴェレウスの体から、ふいに力が抜けたように見えた。

「ですが、何度申し上げても無駄なようですね」

 ピュートドリスは間に合った。はっとして振り向いたとき、血まみれの軍団兵が眼前にいた。ドルーススをアスプルゴスへ突き飛ばした。だが剣を抜く寸前でのしかかられた。

「ピュリスさん!」

 ドルーススの悲鳴。

「ご決断を! ネロ!」

 ファヴェレウスが身を絞るように迫ったとき、ピュートドリスは軍団兵に運ばれていた。羽交い絞めにされ、喉元に刃を当てられて。視線はずっとティベリウスと重なっていた。

「無駄だ!」「馬鹿な真似はよせ!」

 手勢たちが口々に叫んだ。だが囲まれた二十人はすぐさま武器を取った。「馬車を持て!」と、ファヴェレウスが命令した。

 ピュートドリスの耳元で、軍団兵が切れ切れの息を吐いていた。ルキリウス・ロングスの仕損じだろう。現にその人が頭を抱えて、アッティクスの肩からずり落ちようとしていた。

 ドルーススはアスプルゴスの腕から身を乗り出していたが、懸命に押さえられていた。ピュートドリスがファヴェレウスに目線を流すと、彼もじろりと疑念を込めた横目を向けていた。光栄に思えとでも言われている気分だった。

 瞳を前に戻すと、ファヴェレウスの顔は少しばかり明るくなった。ティベリウスがまばたきもせずピュートドリスを見つめていたからだ。じっと唇を噛んでいるとしか見えなかったからだ。

「ネロ……」

「触るな!」

 それでもファヴェレウスは、なんらかの言質を取るべく、ピュートドリスの肩のあたりに手を伸ばしたのだろう。しかしそれすらも許さない凄まじい顔つきには、満足を過ぎて傷ついたとでも言いたげな色を浮かべた。

「これほど女に心を奪われるお方だったとは……」

「残念だったわね」ピュートドリスはせせら笑うのだった。「あなたの思い描くティベリウス・ネロじゃなくて」

 言いながら、のんきにも我が思いを振り返っていた。二十年ぶりに再会する前に思い描いていた彼は、実物といかに異なっていたか、と。それは、最初の印象を壊すほどではなかった。けれどもここに至るまでを振り返って見れば、なんと知らずにいた側面の多かったことか。確かに優れた男だが、言ってしまえば、欠点だらけだ。それなのに今は、まして愛おしく思う。いつだってあたたかい気持ちが込み上げてくる。

 ファヴェレウスと自分はなにが異なるのだろう。

 馬車が乗り入れられた。付属の車に屋根はなく、座席と御者台との境界もなかった。御者は髭のない若者で、申し訳なさそうにティベリウスのほうを見ていた。

「おい、イシラコス」

 レオニダスが言った。つまりルキリウスと一緒に拉致されていたティベリウスの解放奴隷だ。そうなると車につながれている二頭の馬もまた、ティベリウス所有の馬なのだろう。オリュンピア競技祭のために育てられたという、例の。

 ファヴェレウスは軍団兵からピュートドリスを引き継ぎ、座席に座らせた。そしてイシラコスの背を強くついて、発つようにうながした。ピュートドリスは軍団兵が力尽きてうつ伏せに倒れ込むのを見た。

 馬車が走りだした。残された二十人も続々追いかけてきたが、レオニダスらの剣で一人また一人と地に倒されていった。それはそうだとピュートドリスは気の毒がる。自分一人の命は二十人の無事とは引きかえられないだろう、と。

 ファヴェレウスもそこまで期待はしていないらしい。ピュートドリスの肩に剣刃を置きながら、無言で後景を見送っていた。まなざしは暗く据わっていた。

「それで、さっきのルキリウス・ロングスが話していたことは本当なの?」

 彼になんの希望があるのか知れなかったが、ピュートドリスもまた平静を保って、気になったことを尋ねていた。

「近衛軍とはなに? 問題があるの?」

「アウグストゥスが本国内に置いている武装集団のことです」

 ファヴェレウスの口調は陰鬱になっていた。けれどもこれが彼の最も話したがる題目ではないかとピュートドリスは察していた。ついでとばかりに、彼は何度もくり返していた。

「女王陛下でしたらごく当たり前のこととお思いでしょうが、アウグストゥスも自分と家族のための護衛を求めたのです。五千人も。しかも年々増員しています。ただし表向きは、駐留軍がいない本国を防衛するためであると主張しております。建前です」

 冷たい面差しのまま、ファヴェレウスは鼻を鳴らす。

「事実は自分の身を守るため以外のなにものでもない。私兵ですよ。それもルキリウスの言うとおり、軍団兵から見れば破格の待遇なのです。長官はまだ任命されていませんが、騎士階級の者を置くようです。元老院への対抗勢力として」

「あなたはそれが気にいらない」

 ピュートドリスは真摯に指摘した。

「だれかが、そんなあなたに目をつけたのではないの?」

「あなたこそ、本当にネロを愛していますか?」

 返された問いもまた、題目を逸れていたが、真摯そのものに聞こえた。

「本当に、殺されることなどないと思っていますか?」

「上に立つ者は、ある程度覚悟しなければならない備えでしょう。アウグストゥスもだから近衛を用意したのではないの?」

「ネロはもう上に立つ者ではない。一私人です。だから無防備だ」

「そうね。それであなたは、その事実を思い知らせたくてこんな手の込んだことをしたのだものね。私怨と自己満足も大いにまぜながら」

「本当に良いのですか?」

 批判を無視し、ファヴェレウスは車の縁をつかんでぐいと身を乗り出してきた。

「あなたはネロの妻になれる。ネロが蜂起し、勝利すれば」

「……そうね」ピュートドリスは遠い目をした。いつのまにかキッラ西の川を越え、岩山を登っていた。空はうっすらと夕焼けを描きつつあった。「しかも確実に、歴史に名が残るわね」

「どうかよく考えてください、女王陛下」

 その声はまた哀願になっていた。しかもこれまでよりも痛々しい。

「これが最後の機会なのです。ネロを不幸に死なせない。それができるのはあなただけだ」

「ドルーススがいる。ルキリウス・ロングスがいる」

「わかっているはずだ!」

 悲痛の叫びだった。

「ポントス女王! アントニウスの孫! 世界であなただけなんだ!」

 ピュートドリスの目をなにかが鋭く差した。それはじわじわと広がり、染み入った。ひどく痛んだ。痛んで、熱くて、なにも見えなくなってしまいそうだ。

 私だけ――。

 愛が幻ではない。夢が夢ではない。実現する。もうすぐそこに、手を伸ばせば届くのか。

 私はそうなりたかったのだ。絶対に、絶対に、偽りではなかった。

「なんですって? ちょっとお待ちにならない? よりにもよってそのアマゾンをこの世で唯一の女みたいに。女王ならばここにもいましてよ?」

 ピュートドリスが前につんのめったのは、馬車が急停車したためばかりではなかった。ついついいつもの美しくないしかめ面になるが、これはあの婆限定だ。

 クリサ湾のくぼみ。その最奥に差しかかる街道。デュナミスは対岸と言うべき場所からにんまりとしていた。ピュートドリスよりもずっと優雅に、王家のそれには及ばずとも洗練された馬車に座して。ただし前後には馬上の男たちがひしめくように並び、東からの行く手を完全に塞いでいる。

「どうしたの、可愛いピュリス?」

 デュナミスはとても健勝に見えた。脱走時にわざわざ持ち出したのか、それとも新たに買い求めたのか、例の孔雀の羽の扇で気取っていた。

「やっぱり案の上当たり前にティベリウスに愛想を尽かされたので、その男で妥協したのかしら? でもよくやったわ。ここまで彼が耐えられるなんて思わなかったもの」

「いいえ、四日四晩馬をかっ飛ばして、死んでいる男の胸に飛び込んでいったあなたにはかないませんことよ」

 ピュートドリスはうなりながら言った。いついかなる状況でも、デュナミスとだけは戦う用意があった。

 イシラコスが馬車を停めたのは、どうあっても先に進めなくなったからだが、ファヴェレウスは彼を力いっぱい蹴飛ばして、地面に転がした。ピュートドリスの腕をつかんだ力も強かった。いかに信念があれ、内心でいよいよ追いつめられていることを認めざるを得ないのだろう。なにしろ来た側からは、彼の味方はだれ一人追いかけてこなかった。ティベリウスを先頭に、白い帯を左腕に巻いた騎乗の男たちばかり駆けつけてきた。

 一方、行く方でも、先頭の男がゆったりと馬を進めた。

「プブリウス・ファヴェレウスか?」彼は尋ねた。「私がだれだかわかるか?」

「ルキウス・カルプルニウス・ピソ将軍」

 ファヴェレウスは答えた。ピュートドリスの喉に刃を当てながら、クリサ湾を背に後退していく。

 ピソはうなずいた。

「おおよそのことはデュナミス殿より伺った。安心するがいい。ローマ市民への拷問は法に反する。ゆえにここで終わりにすれば、弁護人をつけて、首都の法廷でお前は裁かれることができる。ティベリウスへ思うことも、残らずぶちまければいい」

「……あれがポントス女王?」

 ピソの隣の男が、しげしげと首を傾けてきた。

「ティベリウスとテッサロニケイアの図書館で、何度も熱い接吻を交わしながら逢引きしていたという――」

 そこで二人のローマ人はびくりと馬上で震えた。

「ティベリウス」

 ピソが弱った顔をする。

「そんな顔をしないでくれ。レントゥルスはともかく、ぼくは本当に六年ぶりなんだぞ」

「でも、そんな顔をしているということは、ドルーススにはちゃんと会えたんだね?」

 コルネリウス・レントゥルスの推察どおり、馬上のアスプルゴスの背中からは、小さい頭がそっと覗いた。

「よかった……」

 レントゥルスがため息とともに脱力したが、もう一人同じ姿になる男がいた。

「マルコス!」

 声を弾ませ、デュナミスが孔雀の羽を高く掲げる。それはマルクスをギリシア語にした音だ。ずり落ちるように下馬するアスプルゴスは、心持ち顔を赤らめているように見えた。それでも忘れずにドルーススを抱き下ろしていた。

 ティベリウスはすでに下り立ち、ファヴェレウスとピュートドリスの前に来ていた。ピソとレントゥルスがそれに並んだ。

「すばらしい……!」

 汗にまみれながら、それでもファヴェレウスはなおも笑みを作った。ピュートドリスを抱える腕も、突きつける剣刃もがたがた震わせながら。もうピソの正当な言葉すら届かないらしい。

「ネロ、ご決断を!」

「よせ」

「勝てるんですよ!」

「よせと言っている!」

 ティベリウスはゆっくりと進み出てきた。右腕をファヴェレウスとピュートドリスの胸の前へ上げた。

「放せ」

「それほどに大事な人なら、どうして共に歩まないのです!」

 ファヴェレウスはついにわめいた。

「アントニウスとクレオパトラがそうしたように! あなたには選べるのだ! 我々とは違う、高貴な方だから! この女人を連れて挙兵するか、永遠に失うか、どちらかだ!」

「彼女はなんの関係もなかった!」

 ティベリウスもまた吐き出すように叫んでいた。

「私に対する陰謀の巻き添えにしたのだ! お前たちは彼女から夫と子どもたちを引き離した! 彼女の国をもだ! 彼女は死のうとしていた! 愛するものもろともに不幸に追いやられたのだ! 私は、彼女に償わなければならない」

「それは違うわよ」

 ピュートドリスは教えた。ティベリウスの必死な顔へ微笑んでいた。

「私は不幸なんかじゃなかった。わかるでしょう? あなたと共にあって、私は世界一幸せだった。そう、これからも、ずっとよ……」

 ピュートドリスは左足を引いた。ティベリウスの目が見開くと、にやりと思いきり笑みを返す。

「ヘリケで待っているわね」

 地面を蹴り上げた。反り返りながらも翻り、体当たりしたうえでさらに押した。最後に見えたのはぽかんと口を開けるだけのファヴェレウスだった。すべてがゆっくりで、一瞬だった。防柵を越え、宙に浮いて、真っ逆さまに湾へ落ちた。

 水に呑まれる直前、「ピュリス!」と声が聞こえた気がした。後は待つだけだ。体は自由にはなったものの、上手くは動かない。息することもままならないが、それ以前に意識もかろうじて保っているのみだろう。だがそれで十分だった。ピュートドリスは気をつけるべき唯の一事は、次に降ってくるものとだけぶつからないようにすることだ。それでは喜劇にもほどがあるではないか。







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