第三章 -14
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ドルーススは走るしかなかった。自分の罪深さと無力が重苦しくのしかかっていた。こんなことになったのは自らのせいだと思った。後先を考えず、感情に身を任せ、半端な覚悟と麻痺した度胸で事を起こした。その結果がこれだ。
それでも、走るほかなにもできなかった。頭ぐらい思いきり打てばよかったと思った。二度と歩けなくなっただろうが、少なくとも罰は受けられた。ドルーススは罰せられたかった。けれどもそれも感情に任せた身勝手なのだろう。
だが、そもそもこれを遂げにここへ来たのではないのか。不完全であれ、ドルーススはやり遂げたのではないのか。
それなのに、この空しさと胸の塞ぎはなんだ。
結局なにがしたかった。大人しく誘拐されて、独り黙って飛び出して、これほどの無謀と残忍に身を投じてまでなにがしたかったんだ。
すっきりしたのか、頭の中のぐちゃぐちゃは。少しでも晴らせたのか。伝えられたのか。
結局独りきりだ。父に会えてすらいない。
なにもできなかった。犯したのは、卑怯な行いのみ。
こんな自分などいなくなればいいのにと思った。
赤みを帯びた光は、まだ夕日には変わらずにいた。薄い雲に隠されたのか、その厳しさをやわらげ、キルピス山へ続く道をただ平坦に、死んだような沈黙の中に捨て置いていた。乾ききった風が、ドルーススの背中に吹き寄せて追い越し、行く手に砂塵を巻き上げた。幾重も襞を作るように、駆け抜けていった。
風が止まった。とたんに向きを変えて吹きつけた。砂塵が散開し、ドルーススの頬を無数に打って、次の瞬間には消えていた。すべて残らず地面に伏せって動かなくなった。
ドルーススもまた止まった。息も止めていた。道の彼方に、人影が現れていた。
空気が震えた。ドルーススはそれを皮膚で感じた。頬も腕も足も、剝き出しのところはすべてびりびりと痛みさえした。吸い込むことはできず、空気もまたそれを拒否するような別のなにかに変わっていた。圧して、張りつけにして、鋭い閃光さえ見えるかのようだった。
人影は見る間に大きくなっていった。兜をかぶり、マントを自らの勢いではためかせていたが、作り物のように左右対称の形をしていた。だがその肩は、どこで見た石像よりも広くたくましい。続く胸は張りつめながらもゆったりと細まり、またがっしりとした腰へ、はち切れそうな太腿へ、そしてすらりとしたふくらはぎと足首へ、線を流していく。
独りきりだ。背後にも横にも、もちろん前にも、だれもいない。それでもその人型は、空気の及ぶありとあらゆる存在を支配していた。はためくマントは鈍い日差しの下、裏地が翳を作っているためだろうか、赤く見えた。だれの目も引きつけて従える、あの紅紫のマントに見えた。
ドルーススは動かなかった。まばたきもせずに見つめていた。その人型も止まった。まなざしは見えないが、小さい人型にもまた気づいたのだろう。わずかに兜がかしいだ。けれどもまた歩き出した。近づいてくるが、ドルーススへ向かっている様子はない。ぐいと顎を引いて、ただまっすぐにずんずん進むだけだ。兜の奥に鋭い眼光が見えはじめた。
ドルーススは目を逸らさなかった。恐れおののいて、消えてしまいたいと願いながら、それでも焦がれるように待っていたのだ。
人型が、また止まった。十歩ほど距離があっただろうか。くすんだ青いマント、グラディウス剣と短剣、皮の胸当て、銅色の兜、その下で丸く見開かれている大空のような双眸。
次の瞬間には、ドルーススはなにも見えなくなった。鷲にさらわれたに違いない。視野を覆われ、砕けるほど強く両肩をつかまれていた。
「なにをしている?」
覚えのある声は震えていた。大きくゆさぶられ、ドルーススの頭が上向いた。
その顔は、信じ難く間近にあった。
「いったいなにをしている!」
つぶさんばかりの怒声。
「ドルースス!」
ドルーススはかろうじて立っていた。肩をつかまれていなければ倒れていたに違いない。なにも考えられず、ただその人を見つめるばかりだ。
「答えろ! ここでなにをしている!」
激しくゆさぶられていた。その指が食い込んだ肩からは、実際に血が吹き出していたかもしれない。力を抑えられず全身を震わせ、目を裂けるほどに剥いて血走らせ、その人は怒り狂っていた。
「……父上……」
ドルーススはようやくそれだけ言った。父はさらに打ちのめされたようになった。本当に、本当なのかと、声もなく叫んでいた。
父は兜を脱いだ。力任せに地面に叩きつけた。そうしなければ殺してしまうとばかりに。それからドルーススの頬を両手で挟んだ。それは小刻みに震えていたが、ドルーススはその感触を覚えていた。押しつぶさないように、首ごと引っこ抜かないように、懸命にそっと触れられた。
その激情は、六年前に別れたあの日によく似たものを顕わにしていた。二度と見たくないと思っていた、あの顔だ。しかしそれは、まぎれもない証明だった。
父の血眼がゆがんでいく。あるいは、ドルーススの視界がゆがんでいく。雫が一筋、熱い指のあいだに落ちたとき、ドルーススはとうとう体の奥から激しく込み上げてくるものを感じた。だが、そのとき馬の蹄の音が近づいた。父はぎょっと振り返った。ドルーススを路地へ押しやり、背中で隠した。その顔は恐怖しているようにも見えた。
「私よ」
新しい声は、やけにのんびりと聞こえてならなかった。
「ちょっと予定外のことがあってね、来てしまったわ。あまり怒らないでくれる? ……というか、あなた、一人なの?」
女の声が、呆れたように言った。父の肩から目に見えて緊張が解けたので、ドルーススはそっと首を出してみた。
栗毛の馬が一頭。騎乗した女は、長い黒髪を肩にかけて、ごく自然な様子ですっと背筋を伸ばしていた。女神像のように大きくて、静止していながら躍動的に見えた。そのふくらみのある肌と、簡素だが襞の美しいキトン。それらの白の上で薔薇色の首飾りが華やぎ、いっそうのこと、この女人が熱い血潮の流れる存在であることを際立たせていた。金色の双眸は、それでも沈着な光を収め、不思議そうにしばたたかれた。
「どうしたの?」
女人は馬から滑り下りた。細身の剣を一振り携えていた。初めて見るはずだが、ドルーススはどこかで会ったことがある気がした。
「だれか一緒なの? ちょっと、まだ子どもじゃないの。逃げ遅れて――」
そこで、女人は言葉を切った。しばたたく目が激しくなった。ドルーススを見て、父を見る。それを五往復はくり返す。それからまじまじと父を見つめるばかりになる。
「……あの、まさかとは思うんだけど……」
「ピュリス」
父がドルーススを引き出した。
「頼む。私の息子だ」
ピュリスという女人は、あんぐり口を開いた。
「……私の追手がそろそろ来ると思うんだけど」
「わかった。下がっていろ」
父は、ピュリスとドルーススをまとめて路地へ押し込んだ。二人に背を向け、街路に立ち、グラディウス剣を抜く。
とたんにドルーススは悲鳴を上げた。女人の背中に、とんでもないものが載っていた。
「あらやだ!」
ピュリスは手早く胸まわりの紐を解いた。ごとりとそれが地面に落ちると、無造作に路地の隅へ蹴った。父は見向きもしなかった。
海の方角から、いくつもの怒声と足音が近づいてきていた。
「……父上!」
ドルーススは慌てて叫んだ。
「ルキリウス殿を助けてください! ぼくを逃がしてくれた! もう殺されてしまう!」
「そういうことか」
父はうなった。歯のあいだから怒りがほとばしるようだった。ドルーススはもしかしたら余計なことを言ったかもしれないと悟ったが、すでに時遅しだった。路地と父の体のあいだのわずかな隙間から、武装した男たちが見えた。
だが彼らは、父を前にするなり一斉に固まってしまったのだった。
ドルーススはごくりと唾を飲んだ。ピュリスがそっとドルーススを抱き寄せて、民家の裏口に寄った。
敵の気持ちはわかった。けれども背後に二人隠している以上、父は彼らを無事で済ます選択はしない。
「どうした? 来るのか、来ないのか?」
父は苛立たしげに連中に迫った。
「ち――」
ドルーススの口は、ピュリスの手で優しくふさがれた。顔もその胸にうずめられたが、それでもドルーススは父に次から次へと切り捨てられていく男たちを片目の端で見ていた。耳には悲鳴も飛び込んできた。
いつのまにか、ドルーススは泣きじゃくっていた。声はピュリスの体に吸われていったが、キトンには染みが広がった。
「……ぼくを殺してください」
ドルーススは訴えた。
「ぼくは父を殺そうとしました」
「そうなの?」
ピュリスは少しばかりのけぞったようだ。ドルーススは震えながら何度もうなずいた。
「本当に斬りつけました。犬と蛇と一緒に袋に入れて、川に捨ててください……」
ローマ法に基づいた処刑法だった。父親殺しは最悪の罪とされていた。
「あの人、ぴんぴんしているわよ?」
父を見やりながら、ピュリスは首をかしげる。
「だいたいあなた、武器もなにも持っていないじゃない」
「ルキリウス殿に取られました。ぼくをかばって、代わりに死ぬところでした。ぼくがしくじったから。もう殺されたかもしれない……」
「ちょっと待って」
ピュリスは丸い目でドルーススを覗き込んできた。
「…ひょっとしてあなた、あの偽者を殺そうとしたって言ってるの?」
そしてたちまちけらけらと愉快げに笑ったのだった。
「これは奇遇だわね」
「ぼくは本気だった!」
ドルーススは涙をこぼして訴えたが、ピュリスはいかにも容易くうなずくばかりだ。
「そうでしょうね。わかるわ」
「なにが! ぼくは父と見なして殺す気でいた!」
「そうでしょうとも。でも、偽者だとわかっていたんでしょう?」
「わかっていた! だからなに!」ドルーススは大声で責め立てた。自分自身をだ。「偽者だったら殺していい。ぼくはそんなおぞましいことを考えたんだ!」
「それで、ここまで来たの? 一人で?」ピュリスの手がひどく優しく頭を撫でてきた。それからまた細めた目を父の後ろ姿へ流した。
「あの人もやるわね。息子をここまで思いつめさせるなんて」
「父上のために戦おうとしたんじゃない……。ぼくは……ぼくの気持ちを晴らしたくて…殺しにきたんだ……」
ドルーススは認めた。自分が許せなかった。でもこれが自分の秘めた欲望だったのだ。ぐちゃぐちゃとした思いは、全部この欲望を果たすことで晴れると思った。ずっと企んでいたのだ、それともよく知らないままに。そしてデュナミスから事態を教えられるや、さながら水を得た魚のように飛び出したのだった。
初めてやりたいことを見つけた。そんな気がして、とたんに衝動に駆られた。やり遂げてみせると。自分がなにを望んでいるのかもわからなかった子どもが。それがよりにもよって人殺しだった。しかも父親の身代わりだ。
今になって、自分のしたことがたまらなく恐ろしかった。
「ぼくは……罪びとだ。臆病で、卑怯で、死ぬべき息子だ…。父親殺し同然だ……」
「死ぬべきだとか、そんな軽々しく口にするんじゃありません」
口調を厳しくし、ピュリスは叱りつけてきた。けれどもすぐにまたやわらいで、しきりに背中をさすってきた。優しくてあたたかな手だった。
「結局殺せなかったんでしょう? 父上も偽者も」
「殺すつもりだった……。殺したいと思ったんだ……」
「私も同じよ」ピュリスの声は苦笑めいていた。
「わかっていたなら、私よりましよ。私は本物だと思って殺そうとしたんだから」
「なんだって?」
ドルーススはぽかんと顔を上げた。ピュリスは苦笑を浮かべたまま、軽く詫びるように首をすくめた。
「それに、偽者と知りながら一人で乗り込んでいったのなら、私よりよほど勇敢だわ」
ドルーススはまじまじと見上げていた。今更ながら、どこのだれなのかもまったく知らない女性だった。けれどもどうしてなのか、他人に見えない。これまでもずっとそばにいてくれたように、当たり前に、ドルーススを抱きしめてくれている。
「実際に、私は殺したことになっているのよ。声が聞こえなかった? ……あら、ひょっとしてとんでもなく傷つけてしまったかしら? 大丈夫よ。見なさい。あなたのお父上は元気そのもの。きっと六年前と同じ、かっこいい男のままよ。そろそろ片づいたかしら?」
こつんと、額に額を当てられる。
「お互いに、なりそびれたわね。暗殺者に」
にやりと、共犯めいた笑顔。それからまなざしにとても真面目な色を宿す。
「殺しかけると本当に殺すことは、大違いよ。それに、よく考えなさい。あなたの目の前にいたのが、本当にあの本物のお父上だったら、あなたは剣を振るえたの? きっと違うことをしたんじゃないの?」
ドルーススは金色の瞳を見つめ返していた。まばたきも忘れたまま、その中に、あの長椅子に座っている父を浮かべていた。そして、実際に再会した姿も思い返した。
「……」
「次は八つ当たりじゃなく、ちゃんと正しい人に気持ちをぶつけることね」
ひときわぐりぐりとドルーススの頭をゆらし、ピュリスはからりと笑った。そこでようやくドルーススを胸元から離し、振り返った。首を伸ばし、独りうなずくと、ドルーススの手を引いて路地へ踏み出した。
「ああ、可愛い」
と見せかけてまた振り向いて、溶けるようにますます相好を崩した。その唇が頬で跳ね、ドルーススの首はかしいだ。
「それに、こんなに気持ちがわかる子もいないわ」
手を引かれて路地から出ると、通りには父の手にかかった敵が、そこかしこに倒れていた。逃げた者も少なくなかっただろうが、恐怖に駆られるがまま立ち向かわざるを得なかった者もいたのだろう。
ドルーススは自らに問いかけた。殺されるほうの覚悟はあったか、と。死んでもよいと自棄を起こしていたのか。だれのために。
再び父のあのような顔を見た後では、あらためて、ドルーススは自分のしたことに怖気立った。