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ピュートドリスとティベリウス  作者: 東道安利
第三章 オリュンピアへの道
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第三章 -13



13



 我に返ったとき、ドルーススはルキリウス・ロングスの肩に担がれていた。どこかの路地をよたよたとかろうじて進んでいるところだった。ドルーススがのたうつと、ルキリウスは悲鳴を上げて転びかけた。

「大丈夫かい、ドルースス?」

 肩の荷を滑り落とし、六年ぶりに見る父の旧友は、冷や汗だらけの顔を寄せてきた。いつのまにか、纏っていたはずのトーガはなく、トゥニカ姿だった。

「頭を打ったんじゃないの? 腰は?」

「父上が!」ドルーススはたちまち思い出した。

「父上が死んだ!」

「そんなことよりぼくの質問に答えてくれよ。ほら、こことか、痛くない?」

「父上が死んだ! そんなこと!」

「そんなことだよ。君にもしものことがあったらぼくも死ぬ。ティベリウスに百回階段から突き落とされる」

 弱りきった顔をしながら、ルキリウスはドルーススの後頭部をさすっていた。

「臥台に当たったのが幸いだったね。でも小さい瘤がある。まぁ、これくらいで済んだってことは、日頃の肉体鍛錬の賜物だな。エラい。父親もいないのに、よくぞ怠けず飽きもせずフラミニア競技場に通ったもんだね。ぼくだったらこれ幸いとスッブラのエロ本屋に入り浸り、どうやったらこんな体位ができるのか解剖学的に推論を――」

「ルキリウス殿!」ドルーススはつい地団太を踏んだ。

「父上が! それどころじゃない! 父上! 死んでる!」

「…確かにしゃべってる場合じゃなかったな」

 ルキリウスは目を閉じた。ついたため息は、安堵だったのか、困惑だったのか。

「走れるかい、ドルースス? お願いだから、ちょっとだけがんばってくれよ。それにしても君、なんでそんなに大きくなってるの? 六年も経ったんだから当たり前? そりゃおかしい。おじさんなんか背が伸びるどころか、腹はたるむし、腰も曲がりたがるし」

「ルキリウス殿ってば!」

 それでもドルーススは、手を引かれるがままに走りだしていた。もうなにがなんだかわからなくなっていた。ただルキリウス・ロングスとはどういう人だったか、思い出そうとしていた。いつも父の傍らにいた。ということはつまり一年の大半を外地で過ごし、またレントゥルスやピソほど熱烈にドルーススにかまうでもなかった。

「ああ、この年になって駆けっことか、辛すぎるよ……」

 足の動きはゆるめず、ドルーススの手を握る力も弱めず、ルキリウスはこの世の終わりのように嘆いていた。年は父と同じだったはずだとドルーススは覚えていた。

「もう二度と歩けなくなるんじゃないかな、ぼくは。でもなぁ、こればっかりはさすがにぼくの責任だもんなぁ。知ってるかい? 『友人の役に立つべからず』っていうのがルキリウス家の家訓で、だから足を引っ張ってなんぼだと思うんだけど、さすがに君が来るのまでは予想外だった。いや、まぁ、ぼくが悪いんだけど。ぼくとあの能天気貴族どもが悪いんだけど。というかあの二人はなにやってるの? 君一人来させて、今どこでなにやってんの?」

「ルキリウス殿……!」

 ドルーススは泣きたくなった。実際に涙目になっていたが、必ずしも先ごろの衝撃のためばかりでもなかった。

「父上が死にました。ぼくが、殺しました……」

「あれのどこがティベリウスだよ。殺したのもファヴェレウスだよ。それにしても君、たいした度胸をつけたもんだね。よくやったよ。殺気むんむんという見た目に無頓着にせよ。でもね、ああいうのは勇敢より無謀というか、大馬鹿野郎と言ってね。ぼくもそれで昔君の父上に絶交を言い渡したことがあったんだけど。まぁ、でも君の場合、気持ちはわからなくもないし、ぼくのせいでもあるから、尻拭いくらいはさせてもらうけど――」

「父上が――」

「死んだわけないだろ」

 振り向いて、ルキリウスは思いきり眉尻を下げた。

「もし本当に女王の腕の中で死んだっていうなら、ぼくは万歳喝采をしてから、毒杯をあおろう。いや、そこまでしなくても笑い死にできるかな」

「……なにが起こっているんですか?」

 「お前のたわ言は聞き飽きた」と、父がこの人を非難していたのを思い出した。だれかは「ティベリウスが肩に飼うカササギ」と評していた。

「おおかた、ぼくを人質として無価値にしたかったんだろう」

 ルキリウスは空を仰いで走っていた。

「ティベリウスが死んだのなら、もう使い道がないからね。あと救出すべきはクレオパトラ・セレネだけにしたわけだ。そう、そのおかげでせっかく無価値になったのに、ぼくは今、なぜか、身から出た錆で、こうして良い年をして徒競走をする羽目に――」

「じゃあ、父上は生きているのですか?」

「当たり前でしょ」

「どこにいるんです?」

「どっかそのへんじゃないの?」

 するとルキリウスは足をゆるめた。大通りと言うべき幅の道にずるずると出ていく。やがて完全に止まると、彼はドルーススの手を離し、替わって自分の膝に両手をついてぜえはあと、やけに大仰に息をついた。

「……そう、たとえば、この道の先とか……」

 苦しそうに重たげに、ルキリウスは顎で指した。それは、街の東端へ続く道だった。キルピス山の急峻な肌へ収束している。

「行きな、ドルースス」

 ルキリウスが言った。「大丈夫だから」

 適当な言い草に反する真面目なまなざしだった。ドルーススは口を開けたが、言葉が出てくる前に耳に飛び込んできた。来た道からの異様な怒号。悲鳴。金属がぶつかる音。さらには馬の蹄の音。入り乱れて近づいてきているようだ。

 ドルーススは目を見開いた。首を傾ければ、来た道の向こうから、実際に武装した男たちが駆けてきている。ローマ軍団兵の姿も複数――。

「行きなって」

 ルキリウスにさえぎられる。くるりと身を翻され、肩を押される。そうして見えた東への道は、人一人見えず、嘘のような静寂そのものだった。

 ドルーススは夢を見ている心地がした。良いも悪いもなく、これが現実であるにはあまりに浮ついているように思えたのだ。

「ドルースス・クラウディウス・ネロ!」

 ルキリウスが声を大きくする。振り向くと、彼は来た道を戻りながらにやりと笑っている。いつのまにかその手に、ドルーススが持ってきたはずの半端な剣を握っている。

「ルキリウス殿は――」

「大丈夫だって!」

 ルキリウスは首をすくめる。

「ぼくを殺しやしないよ。大事な人質なんだから、一応、たぶん、まだ。そのためには、頼むから君まで捕まらないでくれよ」

「ルキリウス殿!」

「早く行け!」

 笑い顔を背け、ルキリウスは来た道へ対峙した。

「ティベリウスが待ってる。振り向くんじゃないぞ」

 ドルーススはこれ以上ためらってはいけないと悟った。おろおろと、それでも駆け出すしかなかった。丸腰の自分にできることはなく、それこそ足を引っ張るだけだ。だがルキリウスは死ぬ。確実に殺される。ドルーススにできることは、一瞬でも早く助けを呼んでくることのみだ。だれでもいい。武器を持った男ならば、父でもだれでも。

 どこにいるのですか、父上! 生きているのならば、早く助けに来てください! あなたの親友です! こんな不出来なうえに罪深い馬鹿息子より、よほど価値がある! ルキリウス殿を助けてください――!

 ドルーススは走った。大声を上げようとして、とたんにつまずいた。なんとか転ばなかったが、立ち直る間際、ふと目の端でとらえ、思わず振り向いた。

 そして言葉を失った。





「退いてくれないかな?」

 ルキリウスは眼前の軍団兵たちに言った。

「お願いだから」







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