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ピュートドリスとティベリウス  作者: 東道安利
第三章 オリュンピアへの道
51/66

第三章 -12



12



「なにをそんなに血の気のない顔ばかり並べているのかしら?」

 船縁越しに、ピュートドリスは心地良く嘲った。船首に置いたティベリウスの首をそっと撫でた。

「お前たちの望んだことでしょう? 私にこの人を殺してほしかったんでしょう?」

 さもうっとりと指を滑らせ、赤茶色の髪の毛を梳いてやる。

 広場から港へ、波のように人が押し寄せてきていた。ピュートドリスの船はその岸壁を向き、桟橋に横づけしていた。船梯子はかけていない。その必要はない時間だったが、甲板で篝火を焚いていた。

 厚顔無恥な連中が叫んでいた。

「偽者だ!」「馬鹿げたはったりだ!」

「馬鹿げているのはどっちですか」

 ピュートドリスは呆れてみせたが、本心でもあった。

「なにをもって、私がこの人を殺さないと判断したのですか、お前たちは? そもそも私はこの人を殺しにきたのですよ。それをお前たちのごとき卑劣漢が、偽者を用意して惑わそうとしたからややこしくなったのでしょう」

 ピュートドリスは首を持ち上げた。両耳のあたりを強く押して、岸壁へ突き出した。

「さあ、よくご覧なさい。この本物の、気品をたたえた死に顔! お前たちが用意した、あの下劣な小者と比べられますか? ……おやまあ、私としたことが。お前たちでは本物と偽者の区別もつけられませんでしたね」

 岸壁へやって来たのは、ならず者たちばかりだった。ローマ軍団兵の集まりが鈍かった。

「お前たちはそこまでよ。言っておきますけど、私はこれをお前たちに差し上げる気はないですからね。この人は私のもの。永遠によ。それ以上近づいたら、この素敵な首は二度と拝めなくなりますよ」

 ピュートドリスはさりげないふうに篝火へ目線を流す。

「さっきまで香油漬けにしていたから、あっというまに燃えるでしょう。私は骸骨でもまったくかまわないけれど、お前たちにとっては不都合なんでしょう? さすがにアウグストゥスの前に、本物と判別できない首を差し出しても信じてもらえないでしょうからね」

 それからまた、口を開けているばかりの下の男たちへ、にんまりと笑いかける。

「私とこの人、どちらの身柄もないと困るのよね? でないとお前たちは、ただの人殺しですものね? ローマ一の将軍を殺した、大罪人ですものね?」

 首がイチゴのようにつぶれるほどの力が込められていたかもしれない。そうなる前に、ピュートドリスは声を張った。

「プブリウス・ファヴェレウスを呼びなさい! ローマ軍団兵たちも! お前たちのだれかが、私の夫をけしかけたのでしょう! 私に、この人を殺すように! 私を偽りの英雄にするように!」

 怒りがほとばしるのを止められなかった。だがかまわない。

 彼らは姿を見せつつあった。人垣を押しのけ、進み出てこようとしていた。軍団兵はすぐわかる。六人。もう少し多くなることを覚悟していたが、悪くはない。トーガ姿の男がファヴェレウスだ。だがテッサロニケイアにいた、あの不気味な男は見当たらない。それがやけに気にかかったが、今この場では問題にならないと、ピュートドリスは振り払った。そして陰謀屋どもへ、会心の笑みを浮かべたのだ。

「お望みどおり、やってやったわよ」

 これこそがアマゾンの手柄だ。野蛮で、残忍で、愛憎剝き出しの、女のやり方だ。ピュートドリスは理解は求めなかった。ただ誇るだけだ。無神経な男どもになにがわかろう。そのくせ思考は優れていると思っている、その自尊心を叩きつぶすには十分だ。なにもかも思いどおりにはいかない。私たちがいるかぎり、決して上手くはいかない。思い知るがいい。

 そこまで胸を張ってから、この策を考えたのは、ほかでもない、ティベリウスという男だったと思い出した。しぶしぶではあったが。

 なぁに、ピュートドリスはほくそ笑む。これぞ私がいた証、私に感化されたという事実の証明ではないの、と。

 大喜びで、この手柄を頂戴するわ。女とはそういうものよ。

「……愚かな芝居はおやめください」

 ファヴェレウスが低い声で言った。ピュートドリスは笑って我が首を振るばかりだった。

「なにもわかっていないわね」

「恐れながら、わかっておられないのは貴方様です、女王陛下」

 はっきりと見えなかったが、ファヴェレウスは暗い顔をしているようだった。

「それが本当にネロだとしたら、あなたは狂っている」

「あら、あの人もそう言っていたわ」

 ピュートドリスは首を引き戻して抱いた。

「確かめにいらっしゃいよ。そうね、私のセレネ叔母様なら、この首が本物だとわかってくれるのではないかしら」

「そういうことですね」

 ファヴェレウスはため息まじりに言った。肩越しにふいと顎をしゃくった。だがその眼光はピュートドリスを向いて逸れない。そうだ。わずかでも可能性があるなら、疑うしかない。そして、かのローマの神君カエサルもこんな言葉を遺したそうではないか。

「『人は見たいと思うものを現実と思う』」

 ファヴェレウスの肩が引きつった気がした。ところで、彼のトーガがひどく汚れているように見えるのはなぜなのか。

 ともあれ、セレネ叔母が連れられてきた。かわいそうに、ただでさえ痩せていたのに、さらに縮んでしまったように見える。青白い顔は、やはり美しいが、ひどくはかなげだ。胸が苦しくなる。こんなにも長いあいだ待たせて申し訳なかった。一方のピュートドリスときたら、これ幸いとばかりに愛する男との旅を謳歌していたのだ。なんという無情の姪で、親友だろう。

「叔母様! 私、やったわ!」

 首を胸いっぱいに抱きしめ、ピュートドリスは報告した。

「ティベリウス殿を手に入れたのよ! 身も心も!」

「ピュリス――」

 エライウッサで語り合った日々が、彼方昔のようだった。叔母がおぼつかない足取りで近づいてくると、ピュートドリスは詫びと励ましの気持ちを込めた笑みになった。だがすぐに顔を上げた。

「ちょっと! 私を射抜こうとしても無駄よ。撃った瞬間、この人と一緒に火に飛び込みますからね。どうするつもりなの? 下手人まで死なせて、それでアウグストゥスを説得できるとでも思ってるの?」

 弓兵に、この距離では一発で仕留められてしまう可能性は低かったが、それでも釘を刺しておくに越したことはなかった。ティベリウスにもしつこく注意されていた。

「いらっしゃい、叔母様」

 また目線を下げ、打って変わって優しい声をかける。セレネ叔母は、ふらつきながらもピュートドリスだけを見つめ、岸壁へ進み出てくる。軍団兵がその両脇と背後を囲んでいる。

 三人か。ピュートドリスは船縁を三度強く蹴った。もう一人多ければ下がらせるよう主張しなければならなかったが、三人は限度の数だった。

「聞いて頂戴、叔母様」

 首を抱えて身を乗り出すピュートドリスは、実際に幸せの極みに見えただろう。頬を紅潮させ、目をきらめかせ、女に生まれた喜びをあふれさせていただろう。セレネ叔母がこれまでに見た、どの姪にも勝って。

 否、あの初恋に落ちた日にはかなわないか。

「この人は――ティベリウスは、私を『愛している』と言ってくれたのよ」

 まず真っ先に、それを知らせた。叔母であれば見抜けるだろうと思った。

 真実でなければ、こんなことは言わない。

「何度も私に接吻して、抱いてくれたわ。こんな日々が現実になるなんて思ってもみなかった。ずっと夢見ていたのよ。知っているでしょう? 二十年間、一途に恋焦がれていた私を」

 今は、この叔母をも信じ込ませなければならなかった。ならば二人だけの真実を思い出し、ピュートドリス自身もそれに浸るしかない。首を愛撫しながら恍惚と語るのだった。

「叔母様が話してらしたとおりだったわ。本当はね、会う前は心配していたのよ。二十年も過ぎたから、美しい初恋の思い出としてしまっておいたほうが良いんじゃないかと思って。でも、そんなの無用だったわ。ティベリウス・ネロは最高の男だった。昔も今も、変わらず、私の二十年が報われてあまりくらいに、この愛に値する男だった。まったくどうしたらいいのかしら? ますます愛おしくなってしまって、どうしたらいいのかしら?」

 おっと、いけない。語りすぎるところだった。まったくの真情であり、悩ましくてならないのだが。

「ごめんなさいね、叔母様。私たちばかり楽しんで、本当にごめんなさい。でも、許してくださるわよね? このピュリスがとうとう人生で初めて恋をかなえたのだから、大目に見てくださるわよね?」

 小憎らしい詫びだと自分でも思った。眉尻を下げて見下ろす顔は、もう少し真面目な微苦笑に見えていてほしかった。けれどもすぐにその色は消し、ピュートドリスは右腕を思いきり広げた。

「それだけじゃない! 私は家族の悲願もかなえたのよ! 何度も聞かせたでしょう? 我が父の悲願を。『歴史に名を残す女になれ』と。そのために、私は王妃になり、ティベリウスへの恋をあきらめなければならなかった。どれだけ泣いたか、覚えているでしょう? でも、ほら、こうして結果的に、私は王妃になり、女王になり、愛する男への恋までかなえた。愛を表して、愛で受け入れてもらえた。私は今、世界でいちばん幸せよ。そのうえでさらに、歴史に名も残すのよ!」

 叔母に、下の者たちすべてに、この誇りが伝わるだろうか。天上の父ピュートドロスは見ていてくれるだろうか。非の打ちどころがない。だれも文句のつけようもない。こんなに立派な娘は世界にいない。

 ずっと用意された運命を歩んできた。そう信じていたのに。

「この人はね、私の腕の中で死んでいったわ。そう、それだけでは、アントニウスお祖父様と同じと思うかもしれないけれど、この人のほうがもっと幸せだったと思うわ。めくるめく快楽。愛する女の柔らかさとぬくもりのなか、苦痛もなく一瞬で、永遠の眠りについたのだから」

 半ばふざけて考えた場面だった。それなのに語りながら、ピュートドリスは目頭に染み入るように痛い熱を感じた。

「こうして当代一のローマ将軍は、ポントス女王の愛により、幸福な最期を遂げました」

 これが私たちの結末だ。

 どうしてそうしなかったのだろう。

 お互いにもう、世界への義務は果たしたのではないか。

「よろしく伝えてくれるわね、叔母様。アウグストゥスに、リヴィアに、世界じゅうの人々に」

 悲しみの微笑みをにっこりと傾けて、ピュートドリスは頼んだ。

「夢をかなえた私を祝福して、叔母様」

 叔母は茫然とたたずむばかりだった。打ちのめされているようにも見えた。ピュートドリスはまた胸の痛みを覚えて、辛くなった。愚かでこのうえもなく自己中心的な姪と、その情人のために、叔母がこれ以上苦痛を受けねばならない謂れはまったくなかった。

 これはもう一つの物語だ。

 ごめんなさい、叔母様。

「心配しないで」

 打って変わって、ピュートドリスはさっぱりと言った。

「私たちはこれから海底へ旅立つわ。ほら、いつだかユバが話していたでしょう? このコリント湾のどこかに眠る伝説の都市。一夜にして沈んだヘリケ。そこで私とティベリウスは夫婦になるの。永遠に愛しあうのよ」

 悪くない。そう思ってくれるだろうか、あの人も。

 夢が幻であるなどと、だれが言ったのだろうか。二人で共にこんな結末があったのだと思い描けたのなら、それはきっと永遠だ。

「私はどこにも行きはしない。これからもずっと、この人と共にある」

 でも私は、あの人の幸福を願っている。探し続けている。

 はかないのだろうか。消えてしまうのだろうか。非情な運命の海の中では。

「そういうわけで、ちょっとお別れを述べに寄ったのよ、叔母様」

 ピュートドリスは叔母へ片目を閉じ、ようやく本題を教えた。

「あこがれの叔母様にはね、報告しておきたかったの。私の幸せを。だって叔母様ったら、最愛のユバと結ばれて、幸せだったでしょ? うらやましかったんだから、この二十年ずっと。最期くらい、意地悪したっていいわよね? しかもよりによってこんなときに。つくづく女というのは邪悪な生き物よね?」

 まったくそのとおりだ。これほど長く話す必要はなかったし、こんなことまで言うつもりもなかった。今の今まで意識に浮かびもしなかったが、これぞ女たる性の本心だろうか。また一つ、汝を知ったのだろうか。

 醜い。すべての夢をかなえ、今が幸福の極みであるはずの女が、実に醜い。

 叔母には実際、果たしてどのように映っているのだろう。

「でもユバのことはきっと大丈夫よ。どうせこのたびの陰謀のために、アルケラオスがグラピュラーをけしかけたんでしょうから。そう遠くないうちに、あの娘がユバを捨てるでしょうよ」

 本当に申し訳ないわ、叔母様。私たちのいざこざに巻き込んでしまったのだから。でも、だからといってこれ好機とばかりにティベリウスの胸に飛び込もうとしたことだけは、弁明のしようはないですからね。

 もちろん、この醜い姪も人のことは言えない。お互い、したたかなものよね。

 だから、大丈夫――。

 船縁の向こうへ、ピュートドリスは手を差し伸べた。

「さあ、叔母様、今が時よ。もっとこちらへ来て。私とティベリウスに、祝福と別れの接吻をして頂戴」

 あつらえの首は、さも愛おしく胸に埋め込んだ。右腕をさっと振って船縁を軽く叩き、船梯子をかけると示唆した。

「ほ、本当に、それはティベリウス・ネロなのか?」

 桟橋に入る手前まで来て、まず口を開いたのは、セレネ叔母ではなくまわりのローマ軍団兵だった。よくよく見つめると、その目が赤くうるんでいた。ピュートドリスは息を呑んだ。たちまちに悲憤の形相が現れると、思わずひるんだ。

「なんたること! なんたることをーー!」

 軍団兵はわめいた。歪む頬は、はっきりと涙に濡れていた。グラディウス剣を振りかざした。

「許さん! この魔女が! 俺が殺す! 殺してやる! ネロの、仇――」

「やめろぉーーーーっっ!」

 号叫が割り込み、港が静止した。ピュートドリスもまたきょとんとしたが、真っ先にはっと振り返ったのはセレネ叔母だった。その目が一瞬にして輝きにあふれたのを、ピュートドリスはかろうじて見逃さなかった。

「セレネに触るな! セレネに近づくな! セレネを返せぇーーっ!」

 ならず者の壁を押し破って現れたのは、ほかでもない、ユバその人だった。側近らしき男二人もいたが、すっかり置き去りにしていた。齢五十を過ぎる身を突進させ、あ然とする軍団兵三人を押して退けて突き飛ばし、妻セレネを抱きしめるまでだれにもなにもさせなかった。できなかったのだろう。すでにマウリタニア王以外であるはずもなかったが、その男は丸腰で、薄汚れたトゥニカを身に着けているのみだった。

「セレネ! 無事か! 無事だと言ってくれ!」

 恥も外聞もないその男は、早くも顔じゅうを涙でぬらしていた。驚いたことに、彼に両肩をつかまれて揺さぶられるセレネ叔母までが、すでに同様になりつつあった。

「ユバ――」

「私が悪かった!」

 妻の肩、腕、腰、腿と、ユバはずるずると滑り落ち、ついにはひざまずいて、うずくまった。

「君を……君をこれほどに傷つけることになるとは思わなかった! そんなつもりはなかった。…でも、そんなのは言い訳だ! 私は君を裏切った! 君に代わって家族の墓に参ると約束しておきながら、欲に溺れ、男の性に敗北したんだ! 愚かだったよ。二重の裏切りだ! どうか罰してほしい! この、愚かで恥ずべき夫を、どうか君の手で罰してほしい!」

「ユバ……」

 セレネ叔母はそっと上体をかがめた。疲れきってはいるが、その顔にはすでに慈悲深い微笑みが浮かんでいた。

 早すぎる……。

「来てくれたのね。……でも、遅すぎよ」

「事の重大さをわかっていなかった!」

 がばっと上げた顔をぐしゃぐしゃに、ユバはますます声を大にした。

「甘えたことに、そのうち許してくれると思っていた! ティベリウスのところへ行ったと聞かされたときも、仕方がないと思った。……思おうとしたんだ! なぜなら先に傷を負わせたのは私だ! 責めることなどできない! だってティベリウスはこの世で最も優れた男だし、私がかなうわけないし、君が彼にあこがれていたのだって知っていた。だから私は…許さねばならないと思った。傲岸不遜にも、許そうと思ったんだ!」

「許してくれたの?」

 しっとりと涙をたたえたセレネ叔母は、気品に満ちていた。ピュートドリスをはじめ、この場のだれもが見とれさせるに足りた。優美で、天上のどの女神よりもあがめるにふさわしいと、姪は降参するしかなかった。

「許せなかった!」

 ユバはわめいた。そして恐る恐るのように、セレネ叔母の頬に触れた。

「君がいなくなるなんて許せなかった! ティベリウスであれほかのどの男であれ、君が奪われるなんて許せなかった! そう気づいたときは、もう一日も耐えられなくなったんだ……」

 女神をへし折らんばかりに抱きしめた。

「……許してくれ……。許してくれ……セレネ……」

 妻の腹に顔をうずめて、ユバは泣いていた。こんな王は世界にいなかった。幼い頃にローマにさらわれてきたとはいえ、この人は代々の王族であり、現に一国の主だった。新しい妻を得ようとなにしようと謝る必要などなかった。少なくともこうして公然と泣いてひざまずくなど空前絶後、言語道断も甚だしい。ユバには、ティベリウスとの浮気疑惑だけで、妃を処刑する権利さえあった。

 しかしセレネ叔母が愛した男は、唯一無二の王であり、また夫だった。

 なによ、とピュートドリスは苦笑するしかない。

 それにしてもアスプルゴスはなにをやっているのか。ユバは、おそらくピュートドリスたちと同じくデルフォイ経由で東から来たのだろうが、この街の北口はボスポロス勢が封鎖する手筈だった。今ごろは西口も押さえたはずだ。どうやってユバがそれをすり抜け得たのだろう。

「…もうひと月以上も、君はティベリウスと一緒にいたのか?」

 世界にはほかにも人間がいることなど忘却したように、ユバはかきくどいていた。

「……そんな男ではないと知っているが、どうしてもと言うならば、私は彼と決闘をするしかない。なぜなら私に彼を殺すなんてできないからだ。心はもちろん、力でもだ。だから私が死ぬ。せめて愛する女への忠義を果たして死ぬ。マウリタニアは、私たちの可愛い息子に譲る」

「ユバ……ユバったら……」

「私は嫉妬に狂いそうなんだよ、セレネ。弟だと思っているあの子に。そう、『あの子』に。でも、それもこれもこの自らが招いた災いだ。君への贖罪になるなら甘んじて受ける。だから、セレネ……私を許しておくれ。もう一度、私の君だと言っておくれ……」

「……お馬鹿さんね、ユバ」

 セレネ叔母もまた、ユバの頭に真珠の粒のような涙を零していた。微笑みは、このうえもなく晴れやかだった。

「本当に……お馬鹿さん……。三十年も一緒にいるのに、私のことをなにもわかっていない。今までもこれからも、あなたの私でなかったことなんてないのに……」

「どうするのよ、叔母様?」

 ピュートドリスは船縁にへたばっていた。とたんに十歳は老けた気分で、苦笑しか浮かばない。

「これで許してあげるの? …まあ、決闘だけは回避できそうだけど」

「どこのだれなんだ? ティベリウスが君を連れて挙兵するなどと言いふらしているやつは……!」

 早くも許される気配を感じ取ったのか、感心するばかりだが、ユバが次に上げた顔は、涙にまみれながらも憤慨していた。

「あの子がそんなことをするはずがないのに! しかもピュリスちゃんが飛び出していったって? ティベリウスを殺すために――」

 そこでとうとう、ようやくにして、ユバはピュートドリスへ顔を向けた。大変に不幸なことだった。予定外の事態とはいえ。

 絶望の叫びは、パルナッソス山のニンフたちをすくみ上がらせただろう。

「ティベリウス! ああああっ! ティベリウスーーーーっ!」

 ユバは泣き崩れた。ティベリウスにも聞こえたかもしれない。彼が石敷を叩きまくる音さえ届いたかもしれない。

「なんてことを! ピュリスちゃん、なんてことを! ティベリウス! 私のティベリウス! なんという無残な! なんという無残な、ああああああああっっ!」

 涙で前も見えていないに違いないが、ユバは岸壁の縁へ這いずってきた。しきりに腕を伸ばし、セレネ叔母がすかさず支えなければ、そのまま海に転落してなおもすがり続けただろう。ティベリウス! 私の膝にいた、可愛いティベリウス! 嘘だ! 嘘だと言ってくれ――。

 これが芝居だと言うのならば、私は完敗だ。ピュートドリスは認めるしかなかった。衝撃と悲嘆で死に逝く男がいるとしたら、それはユバだ。いきなり首とは酷が過ぎた。

 セレネ叔母が目線を上げてきた。どうやらピュートドリスは、とうとう叔母をだましおおせることはできなかったらしい。だが十分だ。彼女の無二の夫のおかげで、もう十分だ。だいたい本物の演技のできなさ具合に比べたら、すべてがましというものだ。

 ピュートドリスは叔母と目を合わせた。どちらもゆっくりと三日月形になった。

 待たせたわね、叔母様。

 でも、これで祝福できる。

 叔母様の愛が救われたならば、私の旅ももうじき終わりだ。

「ありがとう、叔母様」

 それが、合図だった。

「私はティベリウスと幸せになるわ!」

 岸壁下から影が飛び出した。レオニダスとアクロンほか二名が、雨よけの幕を振り除け、小舟から港の縁に上った。また魚の臭いばかり放っていた荷箱が二つ崩れ、中から武装した男が計六名。さらに船庫の窓からは弓を引いた男四名。その中には騎士マリヌスもいた。

 船上の篝火の脇で、トラシュルスが立ち上がった。彼が肺を絞りきるようにひたすら大きく笛を吹き鳴らしたが、それもまた別の合図だった。すでにレオニダスたちは敵に攻撃をかけていた。

 ピュートドリスの足下からも、二人の男が起き上がった。どちらも弓を構え、レオニダスたちの援護を開始した。

「早く桟橋へ!」

 軍団兵を剣で押しやりながら、アクロンが怒鳴った。今朝アスプルゴスからの使いに寄越され、そのままここに配置されていた。

「急いでってば!」

 レオニダスもまた急かしていた。彼は岸壁に上がるや否や軍団兵一人の足に一撃を放った。とどめは後に任せ、次の軍団兵と剣を交えているところだった。思いがけずユバが、それも岸壁の縁ぎりぎりにいたのは想定外だったが、きちんと聞き耳を立てていたのだろう。上手い具合に避けて、アクロンと二人、人質と敵とのあいだに割り込むことに成功した。残る二人の傭兵もすぐさま加勢した。

「叔母様! ユバ! こっちよ!」

 ピュートドリスもまた船縁から身を乗り出して、手を振った。セレネ叔母はすでにユバの腕を力づくで引いていた。問題はユバのほうで、かろうじて妻に引きずられながら、なにが起こっているのかわからないとばかりにあんぐり口を開けてあちこち見ていた。

 無理もないが、それでは困る。

「ユバ! 逃げるのよ! 叔母様も、まず立ち上がらせて!」

 ピュートドリスは指示を叫んだ。あまり時間はなかった。レオニダスとアクロンは岸壁の軍団兵を制圧するところだが、その後ろには多勢の偽者軍団がいた。船庫の弓兵が矢を撃ちまくっているが、そこへ敵が犠牲をものともせず掻いくぐってくれば、撤退するしかない。そうなると岸壁の戦力は、荷箱に潜んでいた者たちを加えて、ほんの十人。それにピュートドリスの護衛も命じられている船上の弓兵となる。

 十六人。それでもティベリウスは、残る手勢のほぼ全員をこの港に配備していた。キッラの住民たちも加勢したがったが、大半を断った。一部にのみ宴席でのもてなしで協力を求め、「ティベリウス・ネロの死」次第ただちに退避するよう命じていた。逃げる先は北だ。そこからはアスプルゴス率いるおよそ七十人の戦士が、もはや街になだれ込んできているはずだった。

 広場で騒ぎになり、住民が合図を送る。その段階でアスプルゴスたちは街の北口の見張りを片づける。そしてトラシュルスの笛で総攻撃となる。

 だが彼らが到着するまでは、十六人で持ちこたえなければならない。人質も保護しなければならない。

 すでに港は戦場となっていた。レオニダスとアクロンが先陣を切って奮戦していた。それぞれ軍団兵一人を倒してのけ、ならず者たちを迎撃に入った。船庫のマリヌスたちにさえ近づけまいとしている様子だ。レオニダスの仕留めそこないの軍団兵へは、船の弓兵が矢を放った。しかし命中はしたものの、二の腕だった。その軍団兵は、苦痛よりも憤怒で形相を歪めていた。本当にティベリウス・ネロは死んだのかと、涙を流していたあの一兵だ。

「お、おのれ……! おのれ、おのれ、おのれぇーーーーっ!」

 ユバとセレネ叔母が危険だった。本来ならとっくに桟橋に入っているはずだが、ユバはようやく立ち上がったところだった。だが手負いの軍団兵はユバたちを見ていなかった。ただこのときも怒りと憎しみを、ピュートドリスへのみ向けてほかになにも見ていなかった。剣を握り直し、体を引きずり、彼は岸壁から落下した。レオニダスが潜んでいた小舟に転がると、艫綱を斬った。そして手ずから漕ぎ出した。無謀だ。どうやって船へ上る気なのか。けれどもその目は明確にピュートドリスへの殺意をたぎらせていた。

 軍団兵はユバとセレネ叔母を追い越した。確かに船体中央の縁はそれほど高くない。一度桟橋に登って力のかぎり飛べば、しがみつけるかもしれない。もっとも彼は足を負傷しているのだが。

 ピュートドリスには迎撃の用意があった。トラシュルスは戦力にならないが、護衛が二人いる。けれどもその二人には岸壁のレオニダスたちの援護を続けてもらいたいので、我が手でとどめを刺すと決めた。厳しい訓練で鍛えられたローマ軍団兵とはいえ、手負いだ。

 だがそんなピュートドリスの覚悟は削がれた。岸壁からもう一人飛び上がって、かろうじてその小舟の舳先にうずくまった。当然激しく揺れ、軍団兵ものけぞった。飛び乗ったのは、ユバが連れていた護衛だ。彼はよろめき、頭巾をめくられながら、それでも軍団兵の頭を棍棒で薙ぎ払った。そして結局自らも海に落ち、舟もひっくり返った。

 浮かび上がった軍団兵は、もうぴくりとも動かなかった。ユバの護衛のほうは水面でもがいていた。ようやく桟橋に乗ったユバだったが、その姿を見るとたちまち慌てふためき、腕を差し伸べた。自らも海に入りかねなかった。

 ああ、なんてことよ――。

 ピュートドリスはぎゅっと目を閉じる。それからトラシュルスを呼びつける。

「これを私に背負わせなさい」

「なんですって?」

 トラシュルスはあ然とピュートドリスを見つめた。

「それから馬も出しなさい!」

 ピュートドリスは偽の首をトラシュルスに押しつけた。実のところ二つ目の命令は彼にではなく、下の船室にいるキッラの住民たちへのものだった。女子どもと老人を中心に、この船と、あとはティベリウスのところへ、あらかじめ退避させておいたのだ。

 岸壁の十人は見事な戦いぶりだ。葡萄酒を口にしたばかりのならず者ならば、相手にならないだろう。だがローマ軍団兵があと三人いるし、残りも来るかもしれない。そもそもピュートドリスの最初の襲撃にはじまり、デュナミスの逃亡、アスプルゴスの圧力、そしてコリント湾の向こうにはオリュンピアがあるのだから、偽者軍団も少なからず警戒はしていたに違いなかった。ならず者たちの動きも、最も甘い見通しよりは鈍くなかった。

 だが、想定内だ。ユバたちを除けば。

「叔母様! ユバ! 退いて、頭を下げて!」

 騎乗したピュートドリスは、船梯子を駆け下り、桟橋に下り立った。猛然と馬を駆り、ユバとセレネ叔母の脇を、通りすぎるというよりは飛び越えた。そしてならず者一人へ馬の蹴りを見舞い、さらにもう一人を剣を横ざまに振るって海へ落とした。

「うわあ!」

 敵はもう一人迫っていたが、ピュートドリスの背中に乗るものを見るや腰を抜かした。ピュートドリスは油断せずに切っ先を向けた

「こんな愚策は知らん!」

 ユバに引き上げられたばかりの護衛が、むせながら訴えてきた。ピュートドリスは顔を半分だけ向けた。

「あなたがたが来なければ、もっと綺麗に進んでいたわよ」

 実際、ティベリウスは退路を断ったのではなかった。最良は、レオニダスとアクロンがクレオパトラ・セレネを回収し、引き上げてすぐに桟橋を落とし、ピュートドリスが船を出航させることだった。残る陸上の戦士は、追撃する偽者軍団に応戦しつつ東西へ撤退し、アスプルゴスの到着を待つ。退路とは細い街路で、彼らのために、街の住民が隠れ場所をいくつも用意してくれていた。

「やりなさい!」

 ピュートドリスは船上へ命じた。弓兵が火矢を放ち、桟橋と岸壁の境界に突き刺さった。あらかじめ油を染み込ませていたので、瞬く間に燃え上がった。

 ピュートドリスはならず者一人と対峙した。抜かしていた腰をなんとか立て直し、その男は剣を振りかざしてきた。ところがピュートドリスが迎える寸前、またも棍棒の一撃が男を昏倒させた。

「なにをしているの!」

「それはこちらの――」

 言いながらユバの護衛は、息も絶え絶えにうずくまってしまった。火の壁をまたいで来たに違いないが、全身ずぶ濡れだったことが幸いしただろう。

「レオニダス! この人をお願い!」

 あまり余裕はなさそうだったが、アスプルゴスの軍勢はもうすぐそこまで来ているだろう。軍団兵二人を相手に汗水流しながら、それでもレオニダスが半分振り返ってくる。彼と背中合わせになり、アクロンがもう一人の軍団兵と剣を交えている。レオニダスが致命傷を負わないように、一・五人を引き受ける形を取っているようだ。ピュートドリスはうなずいた。最後にユバとセレネ叔母へもう一度船へ急ぐよう身振りをし、それから手綱を引いた。

「ご覧なさい! 卑劣な陰謀屋ども!」

 堂々と胸を張る姿は、なによりも赤子を背負った母親に似ていただろう。

「ティベリウス・ネロの首はここです! 欲しくば、この私から奪うことよ!」

「待て! どこへ行く?」

 棍棒男が足首をつかんできた。

「行くな……!」

「馬鹿ね。だれのためにこうすると思ってるの?」

 もちろん本来なら、ピュートドリスはあのまま船内に残ることになっていた。セレネ叔母を保護し、小舟も焼き払い、それでも万一海上まで泳いで追ってくるような輩がいれば、レオニダスたちとともに突き落す用意があった。

 だが、計画βというものもまたあるのだ。

 棍棒男を振り払い、ピュートドリスは馬を駆った。目指すは街の東だ。行く手に槍が振り、背負う偽生首に矢が刺さろうと、ピュートドリスは身を低くして駆け、止まるつもりはなかった。レオニダスたちへの負担が減る。さらに広場からは、ボスポロス王軍の鬨の声が聞こえる。そして、この作戦の司令官もやってくる。

 港に本物がいては台無しになるし、そもそもあなたは演技ができなさすぎるというのが、ピュートドリス、トラシュルス、レオニダス、おまけにアスプルゴスまでの総意だった。マリア湾に浮かぶ船の中で、ティベリウスはふて腐れたように地図で顔を隠していた。







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