第三章 -11
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「こんにちは。ご苦労様です」
川に架かる橋。その手前に身なりも体つきもだらしないが、一応武装はしている男が二人。ドルーススはすでに下馬して、にっこり微笑んで見上げていた。
「長老様のお使いに出ていました。入ってもいいですか?」
「この街の餓鬼か、おい?」
「はい、ケラドゥスと言います」
ドルーススはさらに笑みを大きくした。いつもどおりなら、人懐っこいとさえ評されるはずだ。
「おじさんたちみたいな人が立っているってことは、どこかの偉い人がいらしているんですね? アテネの議員さんかな?」
「もっとすごいぞ」
自分はなにもゆかりがないくせに、その男どもは胸を張った。ドルーススは目をしばたたいてみせた。
「え? じゃあ、ひょっとして、ローマの属州総督さんとか?」
「もっと大物だ。ティベリウス・クラウディウス・ネロだ!」
「なんですって!」
ドルーススは飛び上がってみせた。
「あの? ロードスにいる? どうして?」
「オリュンピア競技祭に行くんだよ」
「わあっ! すごいっ! ぼくの街にいるの? 会ってみたい! お馬もいるんでしょ! 見たい!」
跳ね続けて腕を振り、ドルーススは目をきらめかせた。男二人は顔を見合わせた。滑稽だと言わんばかりの、皮肉めいた笑みを交わした。それでも言った。
「じゃあ、行ってみろよ、小僧。葡萄酒くらい注がせてくれるかもしれんぞ。マントを脱いで、トゥニカの裾をたくし上げれば」
さすがに、ドルーススは飛び跳ねるのをやめて固まった。男たちはげたげたと下品な笑い声を立てた。それでも道を開けはした。すると石碑が見えるようになった。ラテン語とギリシア語が併記されている。キッラ――それがこの街の名前のようだ。
橋を渡りながら、ドルーススはつい嫌悪も露わな素の顔に戻っていた。渡り終えたところにさらに二人の男がいたので、慌ててまた笑顔を作った。
「こんにちは」
話は聞こえていただろう。
「ぼくのお馬にお水を飲ませてください。あとで迎えにくるから」
馬を川縁に放すと、頭上を飛んでいくカモメに気づいた。三羽、川と海の境目あたりに下り立つ。そこでやたらとたくさん群れている。なにかを食べている。魚の死骸が捨て置かれているのだろうか。
「野郎の死体が上がったそうだぜ」
見張りの一人が教えてきた。えっ、とドルーススは後退りしたが、全部が演技でもなかった。
「首なしの。海の怪物にでも食われたのかもな」
「…なんであそこに置きっぱなしにするの?」
ドルーススは信じられずに尋ねていた。遠い東方の国では遺体を鳥に食べさせる風習があると聞いたことがあるが、これはあまりにひどいと思った。
「知らねーよ」
見張りは、気味悪そうにカモメたちのほうへ顔をしかめた。
「この街の住人で心当たりはねぇからってさ。もうどうせ身元はわからねぇから、神々の成すがままにして、あとで骨だけ埋葬してやるんだと」
ドルーススの目にも赤黒いトゥニカらしきものが飛び込んできた。思いきり顔を背けた。
「よかった」
それでも、強がって言った。
「ぼくのお父さんだったらどうしようって思った」
「ところで、なんで剣を持ってんだ、坊主?」
「おばあちゃんにもらった!」
嘘をつくときのコツは、なるべく真実から逸れないことだと考えた。ドルーススは誇らしげに剣の鞘を握ってかざした。剣帯を持っていなかったので、トゥニカを締めるベルトに突っ込んで持ち歩くしかなかったのだが。
「ぼくの、初めての剣!」
「わかった。わかった」
見張りは、それ以上なにもせずに通してくれた。顔の輝きを絶やさないまま、ドルーススは内心ほっとした。と思ったら歩き去り際、尻をぽんぽんと弾かれた。
「ティベリウス・ネロの前で振りまわすんじゃねぇぞ。あそこの死体と同じ目に遭うからな」
「それはお前だ。あとで覚えていろ」
ドルーススはラテン語でつぶやいた。
「なにか言ったか?」
「いえ、なにも」
笑みを顔に貼りつけたまま、ドルーススはキッラの街に入り込んだ。大通りの端を、いかにもよく知っているかのように自信たっぷりに歩いた。不本意ながら「予行練習」もできたので、いつのまにか胸の鼓動も意識せずともよくなっていた。どうせだれにも聞こえやしないと言い聞かせながら、それでもまたひどくならないうちに、ドルーススはこっそりとそばの店舗に目をやった。あまりきょろきょろして目立たないように心掛けた。
どれが適当かという迷いは、キュウリの漬物が目に入った瞬間に消え去った。ドルーススは銅貨を差し出そうとして、店舗にだれも人がいないことにようやく気づいた。思い返せば、ここに至るまでだれともすれ違わなかった。どういうことか。
なんだか寒気がした。まるですでに死した街に迷い込んだような、あるいは罠にかけられているような、嫌な予感だ。
そんなはずはないと、首を振った。実際、西口に見張りが四人も立てられていた。上から見た限り、この街の北側にはもう三つ出入口があった。おそらくそちらにも同数以上の見張りがいるだろう。この通りの先にもいるだろう。そして街の住人は、広場でティベリウス・ネロをもてなしに行っているのだろう。全員が。父をもてなすために、全員が。
恐ろしいような、馬鹿げているような、ドルーススは複雑な気持ちになった。銅貨を籠の中に放り入れて、キュウリを一掴みにした。
それから大通りを逸れた。中央広場へ近づくのは断固としてやめなかったが、細い路地を選んだ。障壁は低いに越したことはない。
静かだった。不気味なくらい静かで、人の気配がなかった。けれども喧噪が確かに聞こえる。ドルーススが歩みを止めないかぎり、じわじわと近づいてくる。
路地に日は差さない。だが民家の屋根は、かすかに赤みを帯びた陽光に照らされていた。広場で宴が行われているとしたら、これからがたけなわだろう。
ドルーススは右拳で顔の汗をぬぐった。左脇に抱えたキュウリを、今にも押しつぶしてしまいそうだった。心臓はすでにこれまでよりいっそう激しく跳ね、今にも丸ごと吐き出してしまいそうだった。
ドルーススは歯を食いしばった。それからなんとか笑みに近いものを作り直そうとした。もしかしたら思うより着実には歩けていなかったのかもしれない。けれども行く手に細長く光が伸び立つ。喧噪が迫る。見張りらしき男が立っている。こちらを向いてもおらず、広場を眺めているようだったが。
「こんにちは」
素通りできたかもしれないが、驚かせて余計に面倒にしたくはなかった。それでもその見張りは驚いたが。
「ティベリウス・ネロ殿に召し上がってほしくて。ぼくの家で漬けました」
「なんだ、キュウリかよ」
と、見張りは鼻を鳴らす。
「知らないんですか?」ドルーススの笑みは、嘲りを隠しきれていなかったかもしれない。「ティベリウス・ネロは自邸で漬けたキュウリを毎日欠かさず食卓に上げさせたのですよ。…そう聞きました」
ドルーススはそのまま見張りの横を抜けて、広場に出た。幾筋もの細い煙が見える。葡萄酒の匂いに焦げ臭さが交じる。やはりそこでは宴がくり広げられていた。二百人を超える人間がいるようだったが、このキッラの住人も加わっていることを考えれば、決して多くはない。ほとんどが男だ。一応のこと甲冑を身につけているのがティベリウス・ネロ一行で、トゥニカ姿で、魚を焼いたり葡萄酒を注いでまわったりしているのが、この街の住人だろう。女もいる。一行へ食事をふるまっているのは、漁師の妻や母に見える。若くは見えないが、日に焼けていて、気風良くたくましげだ。髪を下ろした、娼婦らしき者もいる。だが小さい街であるためだろう、数は少ない。地べたに座す男たちに絡みついているか、取り合われている。
ドルーススは足を止めなかった。微笑みを固めたまま、自信ありげに宴の中に踏み込んだ。
男たち何人かの視線を感じた。すでにしたたかに飲んで娼婦と騒いでいる者もいたが、まだそれほど酒がまわっていない者が大半のようだ。子犬であるかのようにキュウリを抱え、ドルーススは気にも留めないふうに、その中を歩いた。この街の住人でさえ、怪訝な目を向けてきたかもしれない。だれにとってもドルーススは見知らぬ少年だ。
だがドルーススは細めた目に、もう余計な存在は入れまいと決めた。武装したならず者も、快活な港街の住人も、肌も露わな娼婦も、すべて無き者でよい。目的はただ一人だ。それを見つけるまで頼むからほうっておいてくれとだけ、祈った。
どこか、どこかと、いかにも楽しみに、ドルーススはきょろきょろした。苦労はしないと考えていたが、そのとおりだった。二筋の煙の向こう。港を向いた、広場の演壇。その上に長椅子を置かせ、でんと座していた。両脇に娼婦を抱え、まわりをローマ軍団兵に囲ませて。
花冠の下のその顔を見た瞬間、ドルーススは胸の鼓動が不思議と静まるのを感じだ。この日で最も平穏になった。固まっていた微笑みさえ、すっと引いていった。次に浮かんだのは、心の奥の、自らも初めて知る類の笑いだった。
ああ、そうだ。
やっと見つけた。
ぼくは、こんな日をずっと夢に見ていたんだ。
ほかにも人はいた。演壇下の臥台に、ルキリウス・ロングス。もう一人トーガ姿の男は、おそらくプブリウス・ファヴェレウス。別の臥台に、クレオパトラ・セレネ。侍女一人。取り囲む軍団兵が十四人。それにならず者たち。
だがそれらすべて、どうでもよい。無き者に等しい。ドルーススの狙いは、ただ一人の男だ。
すでに注目を集めはじめていた。けれどもそれがどうしたというのだろう。もはやだれにも止められはしない。なぜならドルーススは息子だ。ティベリウス・クラウディウス・ネロの、ただ一人の息子だ。
頭の中のぐちゃぐちゃはすっかりと消え去っていた。生まれて以来これほど冷静な気持ちは初めてだ。すがすがしくさえ感じていた。
わずかに体が震えている。けれどもこれは恐怖ではない。きっと武者震いというやつだ。まぎれもなく歓喜であり、快楽だ。
ぴたりと足を止め、ドルーススはしかと向き直った。石敷をたどり、演壇を、そこに座す人物を、真正面に見据えた。
「お久しぶりです、父上」
期待に違わず、沈着そのものの声が出た。格別に張り上げたわけでもなく、また裏返ってもいない。
けれどもその声は、演壇を囲むすべての者の耳を震わせたに違いなかった。
「ドルーススです」
にっこりと、苦も無く自然と笑みを見せられた。一歩、一歩、ゆっくりと進み出る。
演壇上の男は、ぽかんと口を開けていた。
「お会いしたかった…」
ドルーススはますます笑みを大きくした。
「待ちかねました。六年間、ずっと……。寂しかったんですから」
演壇上の男は、引きつっているように見えた。品も無く広げた足も娼婦を撫でる腕も固まっていた。
「ルキウス・ピソとコルネリウス・レントゥルスに連れられてきました。パトラスまで。そこでお待ちする予定だったんですけど、もう居ても立ってもいられなくなって、来ちゃいました。どうか怒らないでください」
首をすくめて可愛らしく、ドルーススはお願いをした。それから小首をかしげた。
「どうかしましたか、父上? あなたの一人息子、ドルースス・クラウディウス・ネロです。ぼくは――」
右手をトゥニカの中に突っ込む。
「本物ですよ」
ブッラが黄金の輝きを放った。ドルーススの双眸もまた鋭く光った。
ティベリウス・ネロとかいう男は、ごくりと喉を鳴らしたようだった。それでも硬直したままだ。
「見忘れちゃいましたか、ぼくのこと?」
ドルーススは弱ったとばかりに眉尻を下げた。
「そうですよね、無理もない。なにしろ六年ぶりなんですから。ぼくは、大きくなりましたか? 立派に成長したと、見てくださいますか?」
ドルーススは右腕を大きく広げて見せた。左腕には相変わらずキュウリを抱えていた。
「どうぞ遠慮なく見てください。ところで、ぼくは母上によく似ていませんか? ヴィプサーニア・アグリッピーナに。よく似ていると、ずっと思ってらしたんじゃないですか? それとも少しは、あなたに似ましたか?」
笑みに影が差したのは、ほんの一瞬のはずだ。ドルーススはたちまちまた輝きで満たした。その瞳は、父親よりも濃く、底の見えない紺碧だった。
「それにしても、父上はすばらしい。六年も経ったのに、ぼくの期待を決して裏切らない。父上は、ぼくがこうあってほしいと願ったとおりの父上でいらっしゃる……」
「む、む、息子……?」
ようやく、そのティベリウス・ネロは言葉を発した。
「わ、私の……?」
「はい」
ドルーススは幸せとばかりにうなずいた。実際に、うれしかった。
「それにしても父上、どうしてぼくを置いていったのですか? そして、六年も迎えに来てくれなかったのですか?」
すでに階段の前まで来ていた。見上げたまま、ドルーススはすぐに首を振った。
「ごめんなさい。お恨み申し上げているわけじゃないんです。とんでもない。どうして、恨まなきゃいけないんですか? すべては父上のおかげなのに」
だれも止めてこなかった。そもそもだれもいなかったのだろう。ドルーススは階段に足を乗せた。
「ぼくはゲルマニクスたちと毎日遊びました」
一段上がる。
「ぼくはアントニア叔母上によくしてもらいました。母上にもいっぱいお会いできて、弟と妹になつかれました」
もう一段上がる。
「ぼくはいろんな人に優しくされました。カエサル・アウグストゥス、リヴィア、ピソとレントゥルス、アシニウス・ガルス――」
さらに一段。足が小刻みに震える。
「皆そばにいてくれました。父親がいなくても寂しくないように」
酷薄な笑みが、ティベリウス・ネロなるものをにらみつけて、また一段上がる。両腕がわななく。
「これがどういうことか、わかりますか? ええ? おわかりになりますか、父上?」
上りきると、その男を見下ろすことができた。ドルーススは真正面に立ち、ぱっときらめかんばかりに目を剥いた。
「ぼくは父上がいなくて幸せだった」
笑って、知らしめた。そしてそれは、たちまちにして憤激にゆがんだ。ドルーススはそのまま叩きつけた。
「死んでもいないのに! こんな残酷を与えておいて、よくも平然としていられるな! あなたは、自分をなんだと思っているのか! ぼくにとってなんだと思っているのか!」
キュウリがぼたぼたと階段を転げ落ちた。ドルーススにもう表情はなかった。
「思い知ってください」
右手は剣の柄を握っていた。
背後でがやがやと音がした。だれかが叫んでいる気がしたが、どうでもよかった。
「た、大変だ――」
「身をもって、自分の残酷を思い知ってください!」
「ティベリウス・ネロが――」
刃が抜き放たれた。
「ティベリウス・ネロが死んだ! ポントス女王に殺された!」
血しぶきが飛んだ。ドルーススの睫毛にかかって、視界を黒く遮った。まぶたと頬にも飛びついた。それで、血があたたかいものだと初めて知った。
「首がっ……さらされてる……! 港の船にっ!」
ドルーススは固まっていた。突き出した刃の先は、その男の首と心臓のあいだをえぐっていた。
「うわああああああああああああっっっ!」
絶叫は、男とドルーススが同時だった。だがドルーススは微動だにできず、男に腹をまともに蹴り飛ばされた。剣が男の皮膚から抜け、さらなる血が吹いた。階段を越え、臥台に半身をぶつけて石敷に、ドルーススは転がった。
「なぁあっ! なぁあっ! なぁあああああっっ!」
男はわめいていた。娼婦二人を押しやって飛び起きた。
「糞餓鬼が! 死ねえっ!」
ドルーススの視界がふさがれた。重いものにのしかかられて、間際に見えたのは、肩から鮮血のしたたるがまま、右手で剣を抜き、凄まじい顔で階段を下りてくる男の姿だった。
どすっと、鈍い音がした。
ドルーススはびくりと震えた。だが自らに痛みは感じない。覆われたものからも衝撃は伝わらない。目玉を剥いたまま、首を折れるほど傾ける。男が剣を振りかざして立っていた。時が止まっているように動かなかった。うつろな目は、もう標的を見つめてもいない。やがて口から赤黒いものを吐き出し、ごくゆっくりと、崩れていった。代わって現れたのは、青ざめた顔のプブリウス・ファヴェレウス。グラディウス剣を手に、激しい血しぶきの向こうにたたずんでいる。ドルーススはようやくそこで衝撃を感じた。投げ出した右腕、ただ握られたままの赤く汚れた剣、その上にあの男が――ティベリウス・ネロだという男が倒れ込んだ。口から血をあふれさせ、一度だけむせ返り、最期にぎろりとドルーススをにらんだ。そしてその目から光が消えていった。
「……ああっ……あっ…………」
体ががたがた震えた。
――ティベリウス・ネロが死んだ! ティベリウス・ネロが死んだ!
「あああああああああああああっっっ!」
反り上がった体は、重みに抱きすくめられた。ドルーススはそれでものたうった。
「父上が! 父上が死んだ!」
血に汚れた目から涙が飛び散った。
「ぼくが殺した――」
「違う。違うよ、ドルースス――」
ルキリウス・ロングスの腕が、力のかぎりドルーススを抱え込んでいた。
「ティベリウス・ネロは死にました! 私の腕の中で!」
女の声が、高らかに響きわたった。