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ピュートドリスとティベリウス  作者: 東道安利
第一章 初恋の人
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第一章 -5





 夢を見るまでもない。まぶたを閉じれば、今もあの運命の瞬間を、鮮明によみがえらすことができる。

 父が差し伸べた手の先に、彼はいた。銀色の兜が、ごくゆっくりと動いた。目元は見えなかった。だがピュートドリスは確かに目が合ったことを感じ、ぞくりと体を震わせたのだ。

 銀色の兜が、もう一度動いた。彼が右手を挙げ、ひと声上げると、長い隊列がたちまち静止した。彼は、この軍の司令官だった。二十一歳の若さでこの大役を任されたのだと、父から教えられていた。

 彼は隊列を離れた。御するは、一点の穢れさえも見えない白馬だった。新雪のごとくまばゆくて、肉づき比類ない。その背中から、彼はするりと降り立った。

 甲冑を軋らせながら、こちらへ歩いてきた。ロリカ・ムスクラと呼ばれる、男性の肉体を模した胸当て。それが今にもはちきれそうに見えたのは、その下にある彼自身の肉体が鍛え上げられていたからだろう。左腰元には、グラディウス剣。右腰元には、短剣。それらを揺らして進む剝き出しの足も、ギリシア彫刻に優るほどたくましく引き締まり、ピュートドリスの目を奪った。

 だが、そこへ風が吹きつけた。それを追いかけるかのように、陽光も差し込んできた。雨の止む間際にこぼれ落ちる、神々の住処のきらめき。ピュートドリスはその瞬間を忘れない。彼の甲冑が、いや全身が、黄金に輝いて見えた。紅紫のマントが、世界を覆わんばかりになみなみとはためいた。同色の、たっぷりとした兜飾りもゆったりとかしいだ。

 二十一歳の、若きローマ将軍。

 その瞬間、彼は顔を上げた。そして、誇り高くそびえる兜に両手を添えて、おもむろに持ち上げたのだった。

 ピュートドリスの息が止まった。

「ティベリウス・ネロ殿!」

 父の声にさえ、抑えがたい感激がこもっていた。それは彼に当然示すべき礼儀や謝意のためだけでもなかったと思う。ティベリウス・ネロは、ローマ男らしからぬ長躯の持ち主だった。

 盛期のマルクス・アントニウスと比べただろうか。

「お会いしたかった! トラッレイスの弁護をしてくださったお礼を、どうか私に述べさせてくだされ!」

 父は、ティベリウス・ネロの右手をつかんで盛んに振りまわした。

 この五年前、災害からの復興の過程で、トラッレイス市は近隣諸市と諍いを起こしていた。ローマに告訴されたが、そこで当時十六歳のティベリウス・ネロが弁護を引き受けたのだった。まだ少年と言うべき若さだったが、ローマの中核を担う男を目指すなら、当然通るべき出世の道であるという。ヒスパニアの、継父アウグストゥスが見守る法廷にて、弁論は行われた。結果、無事成功をおさめ、トラッレイスの利益は守られた。

 ピュートドリスも話には聞いていた。父がその謝意を述べるために家族を連れ、北のビティニア属州にやってきたことも知っていた。

 だがこの瞬間まで、この若者に特別な感情を抱いたことはなかった。アウグストゥスはトラッレイスの恩人だったが、この顔も知らずにいた継息子は、それほど重要に思っていなかったのだ。

 彼は、これから戦争をしにいくところだった。黒海を左手にポントスを横切り、東のアルメニア王国を攻める。およそ二万のローマ軍団兵に、ポントスやボスポロスなどの同盟国の補助軍を加えていた。これが、将軍としての彼の初戦であるそうだった。

 それがどれほど並々ならぬことか、ここに至る道中、父は家族に語って聞かせた。母の前であるのに、マルクス・アントニウスでさえその若さで軍団を任されたことはなかったと誉めそやした。

 当時、ローマにはマルクス・アグリッパという名将がいた。先代ユリウス・カエサルに才能を見いだされ、アウグストゥスの片腕となった人だった。だれも表立って口にしなかったが、世界の頂に立ったアウグストゥスという人は、自ら戦場で指揮を執ると、必ず負けてしまうことで有名だった。だからアグリッパがいなければ、今の彼はなかった。アクティウムの海戦でアントニウスを破ったのも、アグリッパの指揮だったのだ。

 そのアグリッパが、最近まで東方にいたというのに、ローマに帰ってしまっていた。第一人者アウグストゥスは、近くのサモス島まで来ていたが、アルメニアに同行する気はなさそうだった。

 つまりローマを動かす二人の男が、二十一歳の若将軍に戦を託したのだった。

 なんと名誉なことかと、馬車の中で、父は何度も感慨深げにうなずいていた。ピュートドリスはつい口を挟んだ。

「エフェソスの議員の人が、ティベリウスはアウグストゥスの甥の代役にすぎないと言っていたわ」

「だからどうしたと言うのだ?」

 父は、珍しく娘に向かって声色を険しくした。

「アウグストゥス・カエサルは、自分の血縁でもないネロに、異例の若さで軍団指揮権を与えたのだよ。これぞネロがだれよりも厚い信頼を得ている証拠ではないか」

 父がティベリウスを贔屓するのには理由があった。父の出身地ニュサが、ティベリウスの属すクラウディウス一門と、パトローネス=クリエンテスという互恵関係を結んでいたのだ。それでトラッレイスの弁護も若きネロに依頼されたのだった。父にしてみれば、彼は故郷を上げて応援すべき、ローマの代弁者なのだった。

 ピュートドリスはそれでも彼に関心を持たなかった。父が娘を差し置くように讃えたのも面白くなかった。ティベリウスよりも、アウグストゥスの甥のマルケルスのほうが素敵だっただろうと思った。彼はこの三年前、十九歳の若さで病に倒れていた。彼の家庭教師が東方出身だったこともあり、その早すぎる死は、この当時のアジアでもひどく惜しまれていた。その容姿の美しさと、明朗で心優しい人柄が、盛んに人々の口に上っていた。

 どうせなら彼に会いたかった。ピュートドリスはそう思いながらついてきたのだ。

 そして、そんな思いを悔やむことさえ忘れる瞬間を眼前にしていた。

 父がなに事かをしきりに話すあいだ、ティベリウス・ネロはにこりともしなかった。だが決して腹を立てているとか、尊大に受け止めているわけではなかったのだろう。兜を左脇に抱え、父に合わせて上体を少し傾けていた。その顔つきは穏やかで、真摯だった。

 父に応えて彼の薄い唇が短く動くたび、ピュートドリスの心臓はどきりと跳ね上がった。耐え切れず目線を上にずらすと、今度は大空を切り取ったような瞳に吸い込まれそうになった。一体どこを見ればよいのだろう。赤みがかった茶色の髪には、汗の玉が光っている。それが首筋を伝い、十三歳の少女を震わすほどの艶を見せる。日に焼けた頬にはいくらかにきびがあるが、これらはかろうじて彼が人間であってギリシア彫刻ではないことを教えてくれるばかりだ。腕は。足は。トラッレイスの競技場には、ほとんど裸体で駆けまわり、それを誇示している男がたくさんいるが、この若者の肢体はそのどれよりも強く刺激を与えてきた。

 ピュートドリスはめまいを覚えた。男には慣れていると思っていたが、こんな経験は初めてだった。どうしてよいのかわからない。

 それなのにティベリウス・ネロは、とうとう彼女をまともに見つめてきたのだ。

 太陽に照らし出され、全身が蒸発したと信じた。

「娘のピュートドリスと、息子のアントニオスですぞ。二人とも、あのマルクス・アントニウス殿の孫でありましてな――」

 父はそう紹介したに違いない。ピュートドリスにはほとんど聞こえていなかったし、それに応じられもしなかった。横の弟は、なにやらもごもごと懸命に挨拶を述べていたようだが。

「アントニウスの孫!」

 とたんに弾けるような声が飛び込んできた。ティベリウス・ネロの整った顔は少しも動いていなかったので、彼ではなかった。その後ろに、同じ髪色をした別の若者がいた。

「と、いうことは、お前たちはぼくの弟と妹だな!」

「ドルースス」

 ティベリウス・ネロが肩越しに、ゆっくりとたしなめるように口を開いた。

「なんでも弟妹にしようとするな。二人はお前の、義理の甥と姪になるんだ」

「えっ! ……と、いうことは、ぼくはおじちゃんになるのか!」

 おどけたように、その若者は目を丸くした。それから笑みをいちだんと大きくした。

「アントニアのやつはおばちゃんになるんだな」

 次の瞬間、十歳の弟は、その若者に軽々と抱き上げられていた。そのままたちまち隊列のほうへ運ばれていく。

「ようし、ちびのアントニウス! このドルーススおじちゃんのとびっきりのお馬に乗せてやろう! 最強の槍も持たせてやろう!」

「ドルースス!」ティベリウスの厳しい声が追いかける。「怪我をさせるな!」

「わかってるよ!」

 振り向きざまにまたにやりと笑い、若者は駆けていった。背丈は、もしかしたらティベリウスよりさらに高かったかもしれない。

 ピュートドリスは片側の支えを失ってしまった。

「弟が失礼を」

 ティベリウスが父に詫びた。

「出立の前、あれはオクタヴィア様の娘アントニアと婚約を済ませてきたのです。それですっかり浮かれてしまい、あの体です。これから戦場へ行くというのに。長年思い焦がれていた娘だから、気持ちはわからないでもないのですが……」

 父は首を振りながら、うれしそうに聞いていた。ピュートドリスもまた、その体の芯に響いてくるような低音に聞き惚れていた。完璧なギリシア語だった。

 父はすでに聞いていたのだろう。アントニウスとオクタヴィアのあいだに生まれた次女アントニアは、確かにピュートドリスたちの叔母にあたる。ピュートドロス家は、あの若きドルーススを通してネロ家と縁戚になろうとしていた。

 兄弟がそれほど似ていないように見えたのは、ドルーススがよく笑う男だったからだろう。

「しかし、弟にはああ言いましたが――」

 気がつくと、ティベリウス・ネロがピュートドリスに体を向けていた。心臓が飛び出しかけたということは、まだ肉体は実体を保っていたのか。

「我々はアントニウスの子女と同じ家で育ちました。ですから同じ血を継ぐあなたがたもまた、我々の家族同然。そう考えます」

 相変わらずにこりともしないが、真面目なまなざし。

「なんと喜ばしいお言葉か、娘よ」

 父が、仰天したことに背中を押してきた。

「さあ、ティベリウス殿の手をお借りしなさい。そして勝利をお祈り申し上げなさい。我らピュートドロス家の、比類なき保護者のために」

 ピュートドリスにはそんなことできそうになかった。自分の体がこんなにも熱を吹き上げられるとは知らなかった。もう限界だ。おまけに隅々まで凝り固まって、指一本動かすことさえできない。熱い。苦しい。死んでしまう。

 どうしてこんなになるのだろう。目の前にいるのは、世の中にいくらでも存在する男という生き物、ただそれだけであるはずなのに。

 ピュートドリスはなんとか目玉だけ動かした。するとあの澄んだ青空が、心持ち心配そうに見下ろしてきていた。

 違うのよ。ピュートドリスは胸中で絶叫した。

 あなたはなにも悪くないの。

 ピュートドリスはうつむいた。それからおずおずと両腕を差し伸べたが、震えて、たまらず崩れ落ちてしまいそうだった。しかし引き締まった指にそっと支えられた。ひどく、あたたかかった。

 ティベリウス・ネロの右手は、ピュートドリスの両手では覆いきれなかった。それでも懸命に握り返した。そうしなければ倒れてしまうからだ。この熱が、少しでも指先から逃げていくことを願ってさえいた。それすなわち、このすさまじい熱さが相手に伝わってしまうのだが。

「ティベリウス・ネロ様のご武運を……ご健勝を……ローマのさらなる栄光を……」

 か細い声は、自分のものとは信じられなかった。それだけが、初めて恋をした男にかけることができた言葉だった。

 そして断崖から身を投げるように、その手の甲に唇を落とした。

 そのまま、溶け果てていくのを感じた。

 いつまでも、そうしていてかまわないと思った。けれども応えるように指先をしかと握られ、はっと顔を上げる。すると思いがけず、ティベリウス・ネロの顔が寄っていた。ピュートドリスは目を見開いたまま、ほとんど卒倒した。マントの蔭から覗いた首元が、大理石そのものかと思うほど白かった。これは人間が見たら罰せられる。アフロディーテの裸体と同じ。そう直感した。

 彼は、ピュートドリスの両手を持ち上げた。

「お嬢様に、感謝申し上げる」

 青の瞳。深き静謐のエーゲ海。それが、ただこの身のみを映す。

「我らが女神ユノーに、あなたの幸福をお祈りします。かけがえないご家族と、良き伴侶と、喜びに満ちた将来を迎えられますように」

 それから、彼はためらうように視線をそらした。けれどもそうすべきと決めたのだろう。失礼、とささやいたようだった。

 薄い唇は、慎重に、ピュートドリスの頬骨の上に当てられた。

 祈りなどはかないものだ。以後二十年間、ピュートドリスはこれに優る幸福の瞬間を迎えたことはない。

 あとで、何度も考えた。接吻くらい、だれでもする。挨拶で、男同士でも交わす。あれは、礼儀を示したにすぎない。

 けれども、たどり着く思いは同じだ。あれこそ永遠を願った、生涯最高の一瞬だった。

「万一の際は、お頼りください。まだ若輩の私ですが、必ず力になりましょう」

 遠のく意識のどこかで、そんな言葉を聞いた気がした。覚えている最後の記憶は、兜を抱き、紅紫のマントを翻す、すくと伸びた背中だった。






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