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ピュートドリスとティベリウス  作者: 東道安利
第三章 オリュンピアへの道
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第三章 -10



10

 


 ドルーススは一睡もできなかった。肩に剣の柄を置いて抱え、船室の壁にじっともたれていた。それでもまどろむことさえできなかった。ここ何日も上手く眠れていなかったが、この夜はむしろ目が冴えているという感覚がしてならなかった。

 別にどうしても眠りたかったわけではない。だが、そのせいでこれからの肝心なときに体の自由がきかなければ元も子もない。そう思うばかりだったが、しばし目を閉じていることさえ、どういうわけか続けていられなかった。

「家出か、少年?」

 明け方、ついに船乗りの一人に声をかけられた。白髪交じりの髭面で、腹が大きく出ていた。

「…悪いか」

 ドルーススはにらみつけた。おそらくは、生まれてこのかた見せたことのない、苦くてすさんだ顔をしていた。

「別に」

 その船乗りはにやにやと首をすくめた。

「ま、世の中色々あるわな」

 なにを知ったふうに……と、ドルーススは顔を背ける。それでも要らぬ干渉をされるよりはずっとましなのだろう。ブッラは下げたままトゥニカの中に突っ込んで見えなくしていた。ローマ人でないことの危険より、ローマ人であるための面倒事を避けたいと思った。まして目立つ黄金のブッラだ。

 だが、もう子どもと見なされるような体格ではないとドルーススは思っていた。ほうっておかれる権利はあるはずだと信じた。にもかかわらず、大人と見なされるにはいく分足りない体つきであるのも知っていた。そんな半端な現実もまた、ドルーススには苦々しかった。

 どの道、だれにもいかなる干渉もされるはずがない。ドルーススは自分にそう言い聞かせた。なにもできはしない。船はとっくにパトラスの港を出た。家出少年を送り返すことも、連れ戻すことも無理である。対岸に着くまでは、少なくとも独りきり捨て置かれるはずだ。

 対岸に着いたならば、ドルーススは一にも二にも馬で全速力で駆けると決めていた。だから確かに、まどろんでいる暇などなかった。今にも接岸するかもしれないではないか。

 馬はデュナミスが連れてきたものだった。さらに言えば、抱えている剣も彼女が持っていたものだった。ドルーススは家出ばかりか盗みの罪まで犯してしまった。だが見るに、どちらもそもそも彼女のものではなさそうだった。連中から逃げ出すとき、彼女もまた抜かりなく拝借してきたのだろう。

 デュナミスは今ドルーススの寝台で眠っているはずだった。裏口から屋敷へ戻ったときは、さすがに門番に驚かれた。ドルーススは強引に自分の大叔母だと主張した。なにも問題はないとそれ以上の質問はさせずに、部屋に引き取った。

 デュナミスはピソとレントゥルスの両名と話したがった。当然だ。けれどもドルーススは、すでに彼女が役目のほとんどを完遂したことを思い出させた。ピソとレントゥルスはあとでいい。ドルーススさえ知ったのだから、もうなにも急ぐことはない。感謝します。どうかゆっくり休んでください。お二人も今夜はしたたか飲んで、叩き起こしても起きないでしょうから、明日の朝まで待ちましょう。さあ、安心してください。もう冒険は終わりました――。

 実際、女王であり、しかも老齢であるにもかかわらず、デュナミスはとんでもない無茶をしてここまで来た。それはドルーススのためだった。銅像の祖父で心を鼓舞したにせよ。

 今は亡き人への恋心というものを、ドルーススは知らない。それでもデュナミスには心から感謝した。ここまで導いたのだろう祖父の霊にも敬意を抱いた。

 そして、最初と同じ手順を踏んで、再び外へ出たのだった。広場を走り、馬の手綱を取り、銅像には振り返って一瞥だけした。それから夜半の荷船に乗り込んだ。早くも東の空が明らみはじめていた。

 まっすぐ対岸に行くだけならば、たいした距離ではなかった。しかし船というものはのろい。もうすっかり空は明るくなっているのだろう。接岸のときを、ドルーススは今か今かと待っていた。同時に諸々の後ろめたさと必死で喧嘩をしていた。なにが家出少年か。そもそも誘拐同然に連れ出したのはだれか。六年も家出した末にこのあり様になっているのはだれか。

 けれどもそんな葛藤も、これからのことを思えば、我ながらたわいもなかった。ドルーススは目を閉じた。数呼吸もしないうちに、また開いた。

「どうしたら眠れると思う?」

 ナウパクトスの港に着くと、ドルーススは先の船乗りに訊いていた。にやりとしながら、船乗りは横目だけ向けてきた。

「興奮しているな」

「違う。ぼくは冷静だ」切り口上で、ドルーススはギリシア語を話していた。「でなければ、家出などやりおおせるものか」

「そんな理屈は初めて聞いた」

 自身の顎髭をなぞりながら、船乗りは改めて日の下のドルーススを見た。

「まだ酒を飲むような年じゃねぇな。たらふく食え」

「わかった」

「馬にも食わせねぇとへばっちまうぞ」

「そうする」

「ただでさえ訳ありにしか見えねぇんだから、おどおどするなよ。わき目も振らず突っ走れ」

「うん。ありがとう」

「なんだ。案外良い子だな」

 船乗りの笑みが大きくなった。

「さぞひどい親に当たったんだろう」

 ドルーススはこれには答えず、馬の手綱を引いて下船した。忠告されたとおり、わき目も振らずにナウパクトスの街を突っ切った。街道脇の墓石に足をついて、騎乗した。

 東への一本道だった。だから歩みをゆるめたらすぐに追いつかれかねない。ピソとレントゥルスも今ごろは事態を把握しただろう。それともあるいはデュナミスが疲労困憊して眠り続けているなら、まだドルーススの不在に気づかないだろうか。

 ともかく、ドルーススは追跡を警戒していた。一目散に駆け、ようやく自分と馬に水を与えたのは、エウパリオンという街に入ったときだった。

 けれどもたらふく食事をとる気にはなれなかった。馬には好物の果物を与えたが、ドルーススはパン一切れのみをくわえたまま、また馬上の人となった。行儀が悪いし、舌を噛むからやってはいけないと、馬術の教師に教えられていたのだが。

 かまうものか、とドルーススはパンを噛みちぎる。ぼくはちっとも良い子じゃない。全然良い子じゃない。それどころか罪びとだ。すでにそうだ。

 ドルーススはまた東へ馬を飛ばした。いつしか太陽とすれ違い、影が行く手に長く伸びるようになった。それでも一心不乱に駆け抜けた。もしかしたらデュナミスの追手だったのかもしれない武装した男たち数名とさえすれ違ったが、声をかけられる隙も与えなかった。目を剥き、歯を食いしばり、汗水を飛ばしながらの必死の形相で疾走する少年一騎に、だれも留める理由を見出さなかった。

 ドルーススは太腿が硬直しているのを感じた。今にも石となって砕けてしまいそうだった。それでも自分にあるすべての技術を駆使して、馬に全速力を強い続けた。

 オイアンティアという街に来た。ドルーススはもうこれ以上馬を酷使できないと判断するしかなかった。これより前も、デュナミスを乗せてほとんど走り通しだったに違いないのだから。アントニア叔母からの小遣いの大部分は、ここで使われた。井戸場で、馬に十分な水と食料を与えた。ドルーススもまた自分のためのそれらを用意した。

 だが、まだ口に入れるつもりはなかった。

「坊や、なにか私にできることはある?」

 声をかけてきたのは、四十年配の女だった。幼子を二人連れていた。

「大丈夫です」

 ドルーススはすぐに目を逸らした。

 気の毒に思ったが、馬をまだ休ませることはできなかった。食料を背負い、手綱を引いて、ドルーススはオイアンティアからも出た。

 すでに夕闇が迫っていた。ドルーススがようやく歩みを止めたのは、街道から百歩ほど外れたところにある木蔭だった。手綱を木の幹に結わえると、ようやく地面に腰を下ろした。水をひと口含み、それから食料を次から次へと口に運んだ。豚の燻製、チーズのかたまり、パンに果物、キュウリとニンジンはそのままぼりぼりと丸かじりした。自分も馬になった気分だった。しかもおいしいかおいしくないかさえよくわからない。馬よりも悪い。

 腹がいい加減苦しくなると、ドルーススはため息とともに天を仰いだ。星の川があふれ、コリント湾に注いでいた。

 これが初めての一人旅だった。なんという余裕のない旅だろうと思った。ちっとも楽しくはない。この星空でさえ、美しいとは思うが、もう感動は覚えない。むしろ当てつけに見える。皆があそこで楽しくしているのに、自分だけ地上に取り残されているような気持ちになる。父はこんな体験をしたことがあるのだろうか。ドルーススは独りきりだった。

 しかし、これは自らが望んだ状況だった。そして、すでにやることは決めていた。

 両手足を伸ばし、ドルーススは倒れ込んだ。もう当分開けまいと戒めながら、まぶたを閉じる。

 もう六年も経ったのだ。顔を忘れているかもしれない。お互いに。

 けれども暗闇は、別れのときの父と、絵の中の父を、代わる代わる浮かび上がらせて苛みながら、ドルーススをずるずると引きずり込んでいった。





 八月十四日、朝日は木立に遮られ、しばらくはドルーススを起こさなかった。その気配を感じるや否や、ドルーススは飛び起きた。とたんに汗が吹き出した。

 すでに光に満ちている世界が信じられなかった。ここで寝過ごしたなど、笑い話もいいところだ。ドルーススは急ぎ残りの食料をかき込んだ。馬に乗り、東への旅を再開した。

 それでも眠れたのはよかった。はじめは、主に背後からの気配を警戒していた。しかしやがて、注意は前方へ集中するべきだと思い直した。腰に下げた剣を握る。短剣と呼ぶよりは長く、正規のグラディウス剣よりは細身だ。ローマ人ではないだれかの予備の一振りなのだろう。その半端さがまたドルーススを苛立たせた。こんなことならば家からなにか持ち出してくるんだった。けれども結局、これはデュナミスのような婦女でもかろうじて振るえて、成人の一歩手前の少年にも都合が良い品だ。まるで上手くやれと、天から応援されているようではないか。ここまでお膳立てしてやらないと、お前では不可能だから、と。ほら、しばし止まって、ちゃんと握り具合を確かめておけ。素振りをして、予行しろ。今日がその日になるのかもしれないのだぞ。わかっているか。

 ドルーススは歯噛みをしながら、馬の腹を蹴った。

 今日が、その日になるのだろうか。

 大いなるコリント湾のくぼみの一つに、クリサ湾がある。その湾岸の西側半分には、途方もなく見える岩山が座している。ローマ街道はこの岩山を前に二手に分かれていた。迂回するか、岩山に沿って湾岸を行くかだ。ここに来て、ドルーススはどちらへ進むべきかわからなくなった。

 迷っている時間はなかった。今にもどちらかの道をティベリウス・ネロ一行がやってくるかもしれないし、背後からはピソとレントゥルスの追跡が迫っているだろう。

 デュナミスの話どおりなら、ラリサからはひたすら南下するのみの道のりだ。そうなると、道の行き止まりであるクリサ湾まで行く必要はないように思われた。

 ドルーススは迂回路に入った。ゆっくりと右に曲がり、岩山をなぞるように進んだ。岩陰から突如ティベリウス・ネロ一行が現れてもおかしくない。どんどん心臓の鼓動が大きくなるが、自分の意思ではどうにもできず、腹立たしくてならなかった。

 太陽が天の頂を過ぎたころ、行く手から車輪の音が聞こえた。ドルーススはぞくりと馬の上で身震いしたが、やってきたのは六十年配の男女だった。夫婦なのだろう。騾馬二頭に、オリーブの実を満載した荷車を引かせていた。

「ちょっと聞きたい」

 ドルーススは馬から身を乗り出した。

「この先で、なにか変ったことはなかった?」

「……坊やがいちばん変わっているように見えるけどね」

 荷馬車の縁に腰かけて、妻のほうがつぶやいてきた。夫のほうは道の先を示した。

「ボスポロス王だかなんだかが、アンピッサに陣取ってたよ」

「ボスポロス王? アンピッサ?」

「昔は大きな都市だった。廃れちまったがね。王様一行がそこで通せんぼしておってな。儂らなどは荷物を調べたあとで通してくれたが、なにを考えているんだか」

「ティベリウス・ネロに嫌がらせしているんじゃないのかい?」と、妻が夫に言う。「仲悪そうに、にらみあっておったっけね。オリュンピアに行く前に、クリサで決着をつける気かもしれんね」

 それで、ドルーススは思い出した。デルフォイが主催するピュティア競技祭は、戦車競走をクリサ平原で行っているのだ。

 夫のほうがため息をついた。

「カエサルの次は国王か。ネロも喧嘩が絶えない男じゃのう」

「そりゃあんた、年じゅう蛮族と喧嘩しとった男だしね」

「…つまりボスポロス王は、この先の街道をふさいでいるのか? ネロ一行を通さないために?」

 ドルーススは確認した。夫のほうがうなずいた。

「坊やくらいなら、別に通してはくれると思うがね」

「ぼくはクリサ平原に出たい」ドルーススは要求した。「アンピッサに行かず、引き返すこともなく。道はあるか?」

 夫婦は顔を見合わせた。

「…もう少し行けば、山間の抜け道がある。このローマ街道ほど良い道じゃないが」

「ありがとう」

 ドルーススは前方に向き直った。

「それと、ティベリウス・ネロは蛮族と喧嘩していたんじゃない。ローマとギリシアの北の防衛線を、ずっと守っていたんだ。ぼくたちが幸せに暮らしているあいだに」

 ドルーススは馬の腹を蹴った。程なく、教えられたものに違いない狭い道を見つけた。

 それが今ではこの様だ……!

 ドルーススは胸中でわめいていた。曲がりくねり、上っては下る道を、焦れつつも夢中で馬を御しながら。

 くだらない。実にくだらない。でもこれは、ぼくにとってまぎれもない好機だ。

 岩が太陽を遮っていた。じめじめとした、暗い道だった。ドルーススは独りがむしゃらに進み続けた。どれくらい時を経たかわからない。腹の中のむかつき。頭の中の沸騰。そうした熱をすがりつくように活力にしていた。

 本当は、煮えたぎっていられるかぎり、このまま一生たどり着かなくてもかまわなかった。だが、やがて行く手に鋭い光が現れる。次第に大きくなり、視界を塞ぐ。思わず閉じたドルーススの目に、ひどく汗が染みる。次に開いたときには、青が満ちていた。

 ドルーススは慌てて馬を止めた。岩山を抜け、ローマ街道に出ていた。このまま進めばクリサ湾に真っ逆さまに落ちるところだった。右を見て、それから左を見た。湾の中で、さらに窪地になっている場所ようだ。このあたりを頂に、街道は岩山に沿ってゆっくりと下っていく。

 湾を右手に、ドルーススは歩みを再開した。馬の息は上がり、足取りも重い。あと少しの辛抱だが、まだ見えない。

 ローマ街道らしくもなく、うねる道だった。だが整備しただけすばらしいのだろう。すぐ横は絶壁だ。ドルーススは水筒を口に入れた。足りないのはわかっていたが、馬の口にも与えた。大きく呼吸をした。少しでも鼓動を静めたいと思った。

 けれどもそのときは来た。次の山の縁を折れると、とたんに岩と水以外のものが世界に浮かび上がった。街道の先。平原があり、川があり、街があった。その向こうにはまた山があった。暑さのためか、それともこれが蜃気楼というものなのか、ぼんやりとゆらめいて見えた。

 ドルーススはごくりと唾を飲んだ。それでも目を凝らしながら、ゆっくりと馬を進めた。山は、パルナッソス山とともにデルフォイの神域を挟んでいるという、キルピス山だろう。ここと同じく、急峻な岩山に見える。

 だが、大事なのは街だろう。名前は知らないが、ファルサロスから南下するローマ街道の果てである。岩山を下っていくにつれ、次第に輪郭がはっきりしてくる。川と山に挟まれた、長方形の街。港があって、漁船や荷船が大小少なからず停泊している。湾内に漂っているものもある。デルフォイやかつてのアンピッサに暮らしていた人々は、この街から水の恵みを受け取っていたのだろう。東西に長く広がるコリント湾の、ちょうど北岸の中点近くに位置するはずだ。ために小さいながら水運の要所であったに違いなく、したがってローマ街道も通ることになったのだろう。

 ちゃんと来られた。ドルーススはひとまずその実感を味わった。家族も奴隷もいなくとも、独りで旅の目的地にたどり着くことができた。目的地がどこか、漠然としていたにもかかわらず。

 あとは、やり遂げるのみだ。急な坂道であるから、よく見渡せた。一歩一歩と馬が進むたび、ドルーススはいよいよ確信する。視力の良さは父譲りだ。街の中央に広場がある。そこに蟻よりも小さい虫どもが、うようよと集まってうごめいている。

 見つけた。







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