第三章 -9
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カイロネイアという都市で、ピュートドリスは奇縁というものを感じずにはいられなかった。およそ三百四十年前、フィリッポス二世率いるマケドニア軍とギリシア連合軍の決戦が行われた地として有名であるが、より最近も近郊で戦闘が行われていた。およそ九十年前、ポントス王ミトリダテス六世下の将軍が、ローマ将軍スッラと戦って敗れた。前者が、アルケラオスの同名の曽祖父である。
フィリッポス二世の息子がかのアレクサンドロス大王だが、ミトリダテス六世もまた「大王」と呼ばれた。東方各地を侵略して領土を拡大し、三度にわたってローマに戦争をしかけて敵対し続けたためである。
そのような国の王が今、自分なのである。今更ながら、ピュートドリスは途方に暮れる思いがした。どのように運命がめぐればこうなるのだろう。かの大王の孫はデュナミスであって、ピュートドリスではない。王家の血は一切引いてはいないのに、将軍アルケラオスのひ孫を夫としながら、今も一応女王の位にある。他人事のようだ。ほんの数ヶ月前までは女王として統治をしていたはずだが、果たしてそれは本当に自分だったのだろうか。
しかもなぜか今はローマ将軍と一緒にいる。引退中だが、世界の覇者である国家の第二位の立場にいた男である。
昨日の暮れ、ティベリウスとピュートドリスはこのカイロネイアに到着した。市の有力者には、すでに先行していたマリヌスが話を通していたが、それでも二人はそれぞれネロ家とポントス王家の印章を見せ、本物である証を立てたのだった。それがなんとも奇妙で、滑稽にさえ思えてならなかった。
思いのほか歓迎された。市は、内心では覇者ローマよりも今は亡きギリシア都市国家やアレクサンドロス大王がもたらした東方世界に愛着があるのかもしれない。しかし今のティベリウスは、言ってみれば覇者ローマの主流から外れた男だった。かつてのマルクス・アントニウスと同様に。
さすがに「今度はポントス女王と……ですか?」とあけすけに尋ねられはしなかったが、ピュートドリスは実感せずにはおれなかった。自分とティベリウスが一緒にいるとは、だれがどう見てもそういう意味になるのだと。セレネ叔母を連れた偽者一行となにが違うというのだろう。
しかしそれもあと数日だ。翌十三日の朝にはカイロネイアを出発した。あとはひたすら西へ向かうのみだった。
「大丈夫か?」
ティベリウスにそう声をかけられたのは、頭上を太陽が追い越していってから二度目の休息のときだった。追い抜かれる覚えのない歩度で馬を駆っていたのだが、人間の力はどうあっても神にかなわないのだろう。
伝説のオイディプス王が父王を殺した、その現場とされる「別れの辻」を通り過ぎていた。
「なんともないわよ」
ピュートドリスは微笑んだ。ローマ街道を外れ、右手に延々とそびえるパルナッソス山の肌に寄っていた。小さい洞穴がいくつかあり、その入り口のそばに座っていた。真夏とは思えないほどひんやりとして、心地良かった。
ティベリウスは山の湧き水で水筒を満たして戻ってきたところだった。
「これで私も詩人になれるわけね」
パルナッソス山はニンフの住処と伝えられる。アポロンの求愛を拒絶したカスタナイアもこの地で入水し、以後その泉の水を口にした者には詩才が宿るとされるようになった。
それでも、ピュートドリスは詩才よりもまず目の前の男の唇を求めた。もうニンフにさらわれるような年ではないが、美しく、いつまでもピュートドリスの至高の男だ。
長いひとときの後、ティベリウスも傍らで洞穴の壁にもたれた。水筒のほか、乾燥イチジクも差し出してきた。彼が気遣ってくるのは、長時間馬で駆け続ける日が続いているためだった。真夏でもある。アントニアはいないものの、その分走る距離も長くなっていた。
ピュートドリスも無理はしていなかった。カッパドキアを出てから今日までの旅路をこなしてきた。アントニアと二人だけの日々もあった。それに比べればずっと心穏やかで安心していられる時間だった。ティベリウスもまた大切に扱ってくれていた。テッサロニケイアでもデメトリアスでも丸一日休みを作った。毎度食事はたっぷりととらせ、日蔭を見つけての休息も忘れなかった。
しばし彼の肩に頭をもたせて、目を閉じていた。いくら幸福であれ、疲れを感じないわけではない。身体にはいずれごまかしておれないときがくる。けれども彼が最善を尽くしてくれていたし、なによりも今が最も急ぐべき時宜だと知っていた。
ピュートドリスは先に立ち上がった。馬の手綱を引いて、ローマ街道へ戻った。ティベリウスへ振り返り、騎乗する助けを得ようとしたが、どういうわけか彼は首を振った。
「私の馬に乗れ」
「…なんですって?」
意味もなく馬を交換するのではなかった。二人乗りで行くという意味だった。ピュートドリスはあっけにとられた。
「私の馬はどうするの?」
「言伝てを書いてここに残していく。もうすぐトラシュルスが来るから、彼が拾うだろう」
トラシュルスは、昨日一日はなんとか持ちこたえたが、レオニダスの心配どおり危なっかしかった。慣れないことで体力も消耗していた。それでティベリウスは、カイロネイアからは彼を馬車に乗せることにしたのだった。
けれども上に乗る人間どもより大変なのは馬たちではないのか。ティベリウスは馬の疲労にも常に配慮していたが、ここで二人乗りをすればその馬の負担が増えるうえに、時間も余計にかかるではないか。ピュートドリスがそう指摘すると、ティベリウスは目線を街道の西の彼方へ向けた。
「もう予定以上の距離はこなしている」
「でも、少しでも早く到着するに越したことはないでしょう。今回はあなたが遅くなるわけにいかないのよ」
「そのとおりだが、まだ問題ない」
「あなたって、ちょっとのんびりしすぎだと思うわ。今度こそこの機を逃すわけにいかないのよ」
「逃した覚えはないし、これ以上の機はないことはわかっている。だが、もうすぐ日が暮れる。夕焼けが真正面に来る」
「だから、暗くなる前に進んでおかないと」
「落馬されたら困る」
ピュートドリスは口を閉じた。結局、それでティベリウスの後ろに乗ることに同意した。
アントニアにそうしたように、ティベリウスは皮紐で自分とピュートドリスの身体を固定した。それから馬を駆った。
傾いていく夕日を見ることもなく、ピュートドリスはティベリウスの背中に埋まっていた。陽光とは別の、あたたかな熱がそこにあった。じっと目を閉じてそのぬくもりに浸り、一定の揺れに身を任せていた。
「ねぇ、もうすぐデルフォイでしょ…?」
話しかけたのは、このまま眠り込んでしまいそうだったからだ。いくら楽にしていられるとはいえ、それはさすがにまずい。
「なにか聞きたい予言はないの?」
神話にまで遡るかの地の神託は、絶対とされてきた。長く歴史の重要な局面における決定を左右し、そうなると当たり前のごとく、賄賂を贈る輩に利用されたとの噂もあった。しかしギリシアがその隆盛を終えるとともに、デルフォイもまたその権威を忘れられていった。今世界の覇者であるローマ人が、かの神託を求めて訪れるなどという話は聞いたことがない。
いずれ武器を携帯していては神域に入れないので、ティベリウスも寄り道するつもりはないだろう。案の上「ない」との返事が聞こえた。
「トラシュルスの星読みで十分なわけね」
彼に見えなくとも、ピュートドリスはにやりと笑った。
「君にはあるのか?」
と、聞き返された。
「あるわよ。恋する乙女にはね、いくら聞いても聞き足りないくらい、たくさん知りたいことがあるの」
ピュートドリスはからからと笑い声を立てた。
「…でも、いちばん知りたいのは、あれかしら。あの場所で、人はまず格言を読むのよね? 『汝を知れ』と」
デルフォイで訪問者がまず目にするという、三つの格言の一つだった。
「考えていたわ。エライウッサを出てから、ずっと。若さも美しさもなく、夫も子どももいないのなら、私という女はなに? 女なのは確か? 女王でも王妃でもなく、ピュートドロスの娘でもアントニウスの孫でもない。だとしたら、私はなに? なに者でもない私は、いったいなに者なの?」
ゆらがぬ背中へ問うていた。ピュートドリスの世界には今それしかない。馬は、夕焼けに染まる世界の中を駆けているに違いない。神域の、その先へ。だがそこがこの世の果てでないとどうして言いきれるだろう。西へ、陽の根源へ、一心に走って燃え尽きてしまおうとする意思がないと、どうしてわかるだろう。なぜなら手綱を取る男もまた、なに者でもない。ティベリウス・ネロではないかもしれない。
「答えはあるのか?」
それでも、今やずっと馴染んだ声は返ってきた。二人を残して、世界はすでに焼け滅んでいるのかもしれない。
ピュートドリスは含み笑いをした。
「…トラシュルスが私を占ってくれたのを、聞いてた?」
「一部は」
「意外だったかもしれないわね。私もそうだったわ。なんとこの甦りしアマゾンは、戦に向かないそうよ。詳しくは、なにかを奪ったり勝ち得たりするために戦っても、上手くいかないそうよ」
トラシュルスでさえ驚いていた。まったく各方面にどういう印象を抱かれているのだろう。
――このうえもなく、「内向き」である星位です。
彼はそう読んだ。
――ネロよりよほどです。似ておられるのは、おのれの内面を見つめて、突き詰めること。さらに女王は、自らの居場所を大切にされる方です。深く、強烈に。
だから戦に向かないとの言葉が続いた。なにかを得るためでなければなんのために戦うのか。そう尋ねてから、気づいた。トラシュルスもうなずいた。
――自らのものを守るための戦となれば、非常に苛烈になるでしょう。強力な情動に駆られ、場合によっては驚天動地、奇想天外、もう滅茶苦茶としか言いようのない手段を取るやもしれませんが……。
そのとき、食堂の戸口にいたティベリウスは、目玉をぐるりと上向けてから外へ出ていったものだ。
――他者に恵まれ、重要なもの受け継ぎます。それが安定もします。種をまけば、芽吹くまでに時間がかかるかもしれませんが、結果はこれほどに地に根を張った、頼もしい実りもないでしょう。統治者にはこのうえもなく向いていらっしゃいます。ただ、「守り」の人ですから、侵略だとか領土拡大だとか、そういうことはご自身の力でなさらないほうが安全かと。
――……ちなみにあの人との相性は?
――控えめに申しまして、抜群です。
「『守り』の人、なんですってよ。私は」
ピュートドリスはゆらがぬ背中に教えていた。自嘲まじりに笑っていた。応える声は静かだった。
「…それで、納得したのか?」
「決めつけられたくはないけどね、悪くはないと思っているわ」
汝を知ったか。おのれはなに者か。
「考えたのよ。たとえなに者でもなくなったとしても、私が今『自らのもの』と思うものはなに?」
なに者でもなくなった。そう思いながら今生きているのは、なぜか。生かしてくる力は、なにか。
「今あるものを守るとか 手放さないようにとかとは、ちょっと違うのよ。失くしたとしても失くせない、お前の心に残っているのはなに? どうしても、どうあがいてもついてくる、この思いはなに?」
それは、生きるための言い訳だろうか。
「私にはたくさんあったわ。『自らのもの』が」
ピュートドリスは空を仰いだ。焼け果ててはいなかった。薄紅の衣を纏いつつ、どこまでも高く突き抜けていた。
それからもう一度背中に顔をうずめた。腰にまわす腕に、いちだんと力を込めた。
「言っておくけど、あなたももう『私のもの』ですからね。気に入らない言い方かもしれないけれど、こればかりはあなたの自由はない。初めて会ったときからずっとそうだったのよ」
だが、彼自身もあのときに言った。
――我々の家族同然。そう考えます。
そして今は、愛を表明してくれた。無理解な愛、離れざるを得なかった愛、さらに永遠に別れた愛、その痛みを抱えながら。
「だから、私は戦うわ」
顔を上げると、そこには馴染んだ頭があった。濃い茶髪、白い首筋、陽に焼けて赤らんだ耳と頬。顔つきは見えない。それでも確かに、彼はここにいた。
「とうとう真のアマゾンになるのよ」
そう宣言した。意気込んで、右手の拳を突き上げてさえ見せた。
「無理はするな」
そう返ってきた。
ティベリウスはずっと前から策を考えていたが、ピュートドリスのためにためらっていた。矢面に立たせなくてもよい作戦が、ほかにあるはずだと。だが人質の無事確保のため、ピュートドリスはその策を支持したのだった。
この瞬間も、我が身の心配はしていなかった。できると思っていた。
しかしそういえば――とふと思い至る。伝説によればアマゾン族の長は、だいたい非業の死を遂げていた。ある者はヘラクレスに、ある者はアキレウスに殺されていた。どちらの男にも恋されていたにも関わらず。
ピュートドリスはまた含み笑いをする。愛する男を殺した女にならんとの意志で旅に出たのだが、愛する男に殺されるという皮肉な結末も悪くはないだろう。おそらく、ティベリウスは自らの手で女を殺めたことはあるまい。その最初の女になるならば――。
そこまで妄想して、すぐに打ち消した。そんなことができるものか。思い上がりと言われてもいい。だがこの男にその残酷を与えるなど、考えただけでも呪わしい。もう十分だ。だから絶対に、絶対に、死んではならない。それが、愛を受けた責任だ。
「大丈夫よ」
だからそう言った。彼の背中を優しく抱いた。
「私はアマゾンじゃない。私はピュートドリス。あなたを愛し、あなたの愛を守る人」
それでも今は、死ぬときはこの人のために命を使いたいと思っていた。
これからも一緒にいるために――「共にある」ために、できることはなにかと考えていた。
この人の幸福とはなにか。
自らの幸福とはなにか。
思考は、途中で断たれた。馬が止まりきらないうちに、ティベリウスが地面に下りた。必然、皮紐でつながれたピュートドリスも引きずり下ろされる羽目になる。
「ちょっと――」
抗議もまた、途中で断たれた。背中にしがみついて、かろうじて下り立ったピュートドリスを、彼は右腕を上げて、手荒く前に引きまわした。
かき抱かれ、唇を塞がれ、わずかに見えたのは、急峻なパルナッソス山の岩肌だった。沈みゆく日に焼かれながら、かの名高い神域を抱いていた。
終わりは近づいていた。夢に見た明日は、もう来ないかもしれない。夜闇の彼方へ消えゆくときが訪れる。
目を開けたときは、きっとなに者でもない。それでも朝日を浴びるたびに思い出すだろう。自らのものがなにか。いつまでも変わらず、共にあり続けるものはなにか。
それが、ピュートドリスの望みだった。そうであれと願った。どこにも行くつもりはなかった。
さあ、目覚めのときだ。
離れたとき、ティベリウスはもう見たことのない顔をしていた。
そう、それだ。最も強くて美しい。
ピュートドリスは微笑んだ。胸の奥で染みる痛みとともに、その容貌は滲んでいった。