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ピュートドリスとティベリウス  作者: 東道安利
第三章 オリュンピアへの道
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第三章 -8





 翌十二日朝、船は予定どおりニカイアに到着した。下船した者のなかで、アスプルゴスとレオニダスだけは顔色が青白かったが、それでも馬にまたがるのだった。

「トラキス=ヘラクレイアの街を過ぎないことが理想ですね」

 わざわざ地図を広げて、トラシュルスが思い出させていた。

「レオニダス、くれぐれも慎重に乗馬するのですよ。とくにテルモピュライの峠など」

「トラシュルスに言われたくないよ」

 レオニダスは青白い顔をむくれさせた。それからピュートドリスへ身を乗り出した。

「こいつ、半年前までは馬に乗ることもできなかったんだぜ。今日は足手まとい確実だけど、ほどほどによろしく頼むよ」

「エジプトでは馬がなくても暮らしに支障がありませんからね」

 トラシュルスもまた面白くなさそうな顔になった。

「ほら、いい加減、高貴な方への口の利き方を覚えないなら、さっさと行きなさい」

 四騎は西へ去った。一方、ティベリウスとピュートドリス、それにトラシュルスの三騎は、東南へゆるやかに向かうローマ街道に乗った。すでにパルナッソス山とヘデュリオン山が行く手にそびえている。街道はそのわずかな山間を抜けていく。

 マリヌスの隊は先に発っていた。この日の長い旅路は、ギリシアの中央部へ入っていく。あるいは、世界の中央部とも言われている。





 同日夜半、ドルーススは銅像を見上げていた。ぽつんと一人きり、広場には人の気配がなかった。

 パトラスという都市にいた。コリント湾内の要所として知らぬ者はおらず、この港が向かう側のみパトライ湾とさえ呼ぶ。三十一年前、かのマルクス・アントニウスと女王クレオパトラもこの地に本陣を置いた。以来、ニコポリスと違って昔からある都市ではあったが、多くのローマ人の住処として繁栄している。このたびピソとレントゥルスが父ティベリウスとの再会場所として決めたのが、この地だった。もちろん父本人は知らず、ルキリウス・ロングスが連れてくることになっている。ロードス島から、おそらくアテネで船を下り、あとはローマ街道を西進してくるのだろう。

 ドルーススは顔を歪めたが、思うほど顔の筋肉が動かなかった。あまり眠れていないためかもしれない。ニコポリスを出航して以来、ずっと船の中にいた。がむしゃらに剣術の稽古をつけてもらい、疲れ果てていたはずだった。いくらかうっぷんを晴らしたと思った。けれどもいくら寝台に伏せっても、休めた気がしなかった。そうして見た夢は、頭のなかのぐちゃぐちゃそのものだった。

 それでも、寝ていようと思ったのだ。そのほうが下手に起きているより、ピソとレントゥルスに心配をかけずに済む。

 だがそれすなわち、父と思いがけず引き合される企みに身を任せることになる。いいのか、それで。

 あの父に会って、なにになるというのだろう。

 銅像を見上げる目はうつろだった。頭の中もうねりも鈍ってきた。幸いであるかもしれない。

 ここには、ほんの日没前に入港した。すぐさまピソとレントゥルスはクリエンテスの家の客人となり、歓待を受けた。ドルーススはまだ成人前であるので長く宴席にいるわけにもいかず、挨拶だけ済ませて、客室に下がった。寝台にもぐり込み、眠ろうと努め、結果こうして妙な時間に覚醒することになった。できることならば、父が訪れて、そして去るまで、ずっと眠っていたかった。

 屋敷を抜け出してきたのは良くなかった。わかっていた。だがこの時までだれも気づいていない。だれもかまいやしないのだ。ならばなにが悪いのだろう。

 ローマ人の少年である証を、ドルーススは首から下げていた。ブッラだ。黄金の、美しいブッラ。父から継がれたものだと、祖母リヴィアに教えられた。ゲルマニクスのように成人をすれば、もう持つことはない。その象徴的意味のほか、どこかの悪漢に、これはローマ市民の子であるから手を出すなと警告する役目もあった。

 けれどもだからと言って、夜中に一人で出歩くなど決して褒められたことではない。まして初めての都市だ。危険である。わかってはいた。

 それでもふらふらと出てきてしまったのだ。まるでなにかに呼ばれたように。腕を引かれたように。一方で、ひっそりと窓を押し開けて外へ出るという、明らかな意思でもって、無理をしてまで。

 今は座り込んでいた。目当てのものを前にしたので、もはや動く必要はなかった。

 広場の中央。日のあるうちは、ここから湾をよく見渡せるのだろう。花壇の縁に尻を乗せて、ドルーススはひたすら見上げていた。

 銅像は、二本の松明に照らし出されていた。湾からの靄がわずかに混ざるのだろう。ぼやけて白々とした光の向こう側にたたずんでいた。船首に右手を置き、勇ましかった。

 この人物は、三十一年前、アントニウスとクレオパトラの本陣を破った。続くアクティウムの海戦での勝利を、このパトラスで決定づけたのだった。そうして名実ともに当代一の将軍となり、今もこの地で讃えられている。

 アウグストゥスの片腕。

 父に軍事のすべてを教えた人。

 母ヴィプサーニアの父。

 ドルーススの祖父。

 マルクス・ヴィプサニウス・アグリッパ。

 ドルーススはじっと見上げていた。

 祖父のことを、直接覚えてはいなかった。ドルーススが一歳のときにこの世を去っていた。それでもその一年とわずかのあいだ、初孫を大変に慈しんでくれたという。我が子も次々授かってはいたのだが、それでも孫とはまた特別の可愛さがあるものらしい。

「待望の孫です」

 と、自慢してまわったそうだ。ネロ家の後継ぎとなる男児であり、そのうえ、父と母が結婚五年目にしてとうとう授かった第一子だった。

 だれよりも祖父は、自らの第一子であるヴィプサーニアの幸福を祝したのだろう。そして、父と血が混ざった事実を喜んだのだろう。

「坊ちゃん、我らがドルーススには最初に『じいじ、大好き』としゃべらせますからな。ヴィプサーニアは『ティベリ様のお嫁さんになるの』だったのですから、この栄誉はお譲り願いますぞ」

 祖父は、いつまでも父を「坊ちゃん」と呼んでいたそうだ。

 だが祖父は、その栄誉に与ることはなかった。ドルーススが見覚えてしゃべりかけるまで待っていてはくれなかった。

 思うに、すべてはこの祖父の死によって狂いはじめた。

 銅像ですら、祖父はおぼろげだった。見上げながら、ドルーススはふと違和感を覚え、顔をぬぐった。どういうわけか、濡れていた。

 靄でもなんでもなかった。涙だと悟った時、とたんに腹の底からかっと熱が噴き上がった。そんなつもりはなかった。両目をつぶさんばかりにこすった後、次に見上げた顔は、目を剥き、歯茎も露わに歯噛みをして、はっきりと歪んでいた。

 不当だとはわかっていた。五十一年も生きた。波乱多く、激務と重責を負い続け、それでも栄光と喜びに満ちた人生だったのだろう。国家ローマに身を捧げた、その功績は計り知れない。アウグストゥスの片腕となってから、毎年のごとく外地に出かけていた。死の時も、厳冬のイリュリクムからの帰途だった。

 この人にはなんの咎もなかった。だが、もしももう少し長く生きてくれていたら、ドルーススは今こうしてはいなかった。

 父は、ユリアと結婚させられた。

 母は、父と別れさせられ、ドルーススの弟妹を流産した。そしてガルスの妻となった。

 すべて、この人が死んだせいだった。わずか一歳で、ドルーススは父からも母からも遠ざけられたのだ。父はアグリッパの分まで外地勤務に出かけた。そして、いなくなった。母がドルーススとはばからず会えるようになったのは、それからだ。

 不当だ。あまりに不当だ。もの言わぬ銅像相手でさえ、ひどいとわかっていた。だれに向かっても話せなかった。ましてゲルマニクスの前ではなおさらだ。ゲルマニクスは永遠に父を失っているのだ。だがドルースス叔父だって、もしもこの人が生きていたら、運命がずれていたかもしれないではないか。九年前の冬、ゲルマニアのあの道を通って落馬することもなかったかもしれないではないか。

 なにもかも全部、この人さえ生きていれば――。

 ドルーススはうなだれた。それでも肩を張り、もう涙などこぼすまいと、ぎゅっと目を閉じていた。

 わかっていた。

 でも、今更父に会いたくなどない。

 あの別れの日に見上げた、父のすさんだ、凄絶な横顔。あんな恐ろしいものなどもう見たくはない。

 六年前のあの日、ドルーススは父に手を引かれて、アントニア叔母の家を訪ねた。まだ昼間であったはずだが、重い雲が垂れ込めていた。父の顔は、稲妻の化身であるかのように凄絶に見えた。頬がわずかにこけていたが、目がゆらぐまいとばかりの異様な鋭さでぎらついていた。

 父はこの日まで、四日間の断食と遺言状の読み上げで、義父と実母を屈服させていた。

 太陽が滅んだかのような景色だった。雨はなく、灰色の雲に押しつぶされようとしているような世界だった。

 父はそこでアントニア叔母にドルーススを預けた。もう話はつけてあったのだろう。叔母は家の中で一人待ち構えていた。

 父と叔母は短く言葉を交わしていたと思うが、ドルーススには聞こえなかった。わけがわからなかった。一体なにが起こっているのか。これからはアントニアを母と思え、と父は言った気がするが、はっきり思い出せない。

 そうして突然置き去りにされたのだ。それきり六年が過ぎるなど、だれが想像しただろう。

 だが、それよりもずっとひどいのは、別れの瞬間だった。アントニア叔母の家のアトリウム。いたのは父とドルーススと叔母の三人だけ。

 一筋の陽光も許さない雲から、ついに雨が降り落ちた。

 そのとき、父はドルーススの頬に口づけをした。そのまま身をかがめて目線を合わせてきた。肩から腕が、大きな手の恐るべき力で圧迫されていたのを覚えている。だが痛みはまったく感じなかった。それどころではなかった。

「許せ、ドルースス」

 父は言った。ドルーススの視界はぐらりと揺れた。

 なんだ。

 なんだ、なんだ、なんだ、その顔は!

 ずるい……。

 ドルーススにできたのは、胸中で叫ぶことのみだった。あとは、張りつめた背中が玄関に消えて以後の、恨み言だ。

 そんな顔があるならば、なぜもっと早く現わさなかった。

 どうしてそんなになるまで隠していた。

 いつもの、あの取りつく島もない顔はどうした。あの怖い顔はどうしたんだ。

 どうして、どうして最後まで隠しきらなかった。

 別れの時まで演じきらなかった。

 演じきれないなら、最初からやめればよかったのだ。

 比類なきあなたの誇りはどこへいったんだ!

 そんな顔をするくらいなら、連れていけばよかったではないか。息子一人ぐらいではぬぐえない苦しみか。だったら、見せるな。見せるなんて、卑怯だ。

 それが息子の幸福だった。事実、そのとおりだ。ぼくは、あなたがいなくて幸せだった。

 だが息子の幸不幸など、知ったことではないではないか。あなたは父だ。家父長だ。家子を好きにする権利がある。おのれのためだけを考えて、思うがままにすればよかったのだ。

 七歳では力不足か。話してもわからないと思ったか。

 アントニア叔母の兄アンテュルスと、万一にも同じ目に遭わせたくなかった。わかっていた。そんなことはわかっていた!

 馬鹿にするな!

 今再び、ドルーススは目を剥いていた。震える足の上で、トゥニカの裾が引きちぎられようとしていた。

 だが、もっとひどい。父の残酷は、こんなものではない。

 アントニア叔母の家で暮らすようになって、一年が過ぎた頃のことだ。のどかな昼下がり、奴隷たちが家の大掃除に明け暮れるなか、ゲルマニクスがいそいそと部屋に額縁を持ち込んできた。

 そこには、父がいた。父と母と、ドルースス叔父とアントニア叔母。四人が長椅子に座している絵だった。妻たちをクラウディウス兄弟が挟んでいる。さらに赤子が二人いる。ゲルマニクスとドルーススだった。

 ゲルマニクスは母親の膝の上にいた。ドルースス叔父は陽気な笑みを満面に、アントニア叔母の肩を抱き、頬を寄せていた。それに比べてもう一組の夫婦は、ずいぶん控えめに見えた。けれども母は笑っていた。はにかんでいるように頬を赤らめて、うれしそうに。父は眠るドルーススを抱えていた。弟と違い、肩を抱いてはいない。それでもわずかに首をかしげ、妻にしかと寄り添って、微笑んでいた。

 ああ――、とドルーススはひるむ。

 額に彫られた文字は、『五月二十四日、ガイウス、弟と一緒の初めての誕生日』

「ぼくがおとうとだ」

「お前はまだ生まれていなかった」

 ゲルマニクスと四歳の弟ティベリウスの会話が遠ざかる。

 当然のように、ドルーススはこの絵で初めて微笑む父を見た。それまで、こんな顔をしたことがあるなど想像もできなかった。さらには、こんなに美しい母も見たことがなかった。

 父の微笑みは自信に満ちていた。母の笑顔は幸せいっぱいだった。

 これは画家による誇張か。美化か。だとしても、なぜそんなことをした。

 この絵は、あまりにまぶしすぎた。

 離婚後、父は母にまつわる一切の品を処分したという。だがアントニア叔母はこの絵を残した。息子ゲルマニクスに贈られた作品であり、義兄にどうこうされる覚えはないと突っぱねたそうだ。

 ドルーススは、今や見なければよかったとさえ思っているのだ。見なければ、永遠に失われたものを思慕することなどなかった。

 永遠にだ。どうしてゲルマニクスとティベリウスははしゃいでいる。ドルースス叔父はもう戻ってはこない。けれども父と母は生きている。

 だが、もう二度と、もう二度とこんなふうに笑うことはないのだろう。絵の中で赤子を抱いた男は、妻と弟を失った。どちらも永遠に彼のところへ戻ってくることはないのだ。輝く顔は消え去った。そして、膝上の赤子にさえ別れを告げて、彼はいなくなった。

 ドルーススはこれほどに酷い男を知らなかった。

 だから、もう会いたくない。あんな輝きを知った後で、どうして会えるというのか。

 だったら、返してくれ。

 ぼくにあの父と、あの母を、返してくれ。

 ぼくはなに一つ、なに一つ、覚えていない。

 覚えていないものを見せつけておいて、二度とはないという現実を突きつけるのか。

 返せ。返してみろ。

 それができないなら、せめて忘れさせろ。

 妻も子も愛さない、冷酷非情な父親をくれ。

 邪魔だから置いていったと、言わせてみろ。

 ねえ、あなた。

 あなたはすべて知っていただろうに、どうしてこんな将来を放置して死んだのか。

 ねえ、返してください。あなたが遺して、奪ったもの、全部。

 返してください――。

 孫の一方的非難に、銅像は耳を貸す様子もなかった。見上げたところで、目も合わせてくれなかった。

 結局、あなたにはなにもないんでしょう、とドルーススは恨み言を連ねる。アウグストゥスへの忠義と国家への奉仕、それがあなたのすべてだった。そのためには、何度でも結婚も離婚もした。いくらでも孫をこしらえて、あっさり養子に出した。ついには命さえ差し出した。

 自らの愛なんてないのだ、あなたには。あったとしても、顧みなかったのだ。

 国益に比べたら、ぼくらの情なんて取るに足りないものだったんでしょう。ああ、そうだ。国のほうが、大多数の人の幸福のほうが、絶対に大事だ。

 でもそれは、本当に国益だったの?

 笑っていなくてもいい。あなたの隣で、同じように国家を担う誇りに輝いていたはずの、あの人のかけらだけでもいい。それさえももう、ぼくは最後の瞬間に至るまで見た覚えがない。

 返してよ、お祖父様――。

 愛に執着のないあなたに、こんな願いなんて無駄か……。

「愛しいあなた!」

 ドルーススはぎくりと飛び上がった。目をぱちくりさせて、首を動かした。

 港へ続く通りから、人影が駆けてきていた。馬らしき影もあったが、じれったいとばかりにすぐ人影に置き去りにされた。それは両腕を広げて近づいてきた。ドルーススへではなく、銅像へ。

「ついに来ましたよ!」

 女の声だった。ふわりとヴェールが舞った。

「大冒険だったわ!」

 その女人は銅像へ向かって話していた。当たり前のように、なんの迷いもなく。

 祖父の像も、湾港を向いていた。つまり、その女人をしかと見ているようだった。女人もまた両腕を広げたまま、満足げに立ち止まった。ヴェールを自ら剥ぎ取って捨てる。その姿は戦場から帰った騎兵さながら、勇ましくも見えた。

 その顔は誇りに輝いていた。やり遂げたとばかりに紅潮しているのさえ、見て取れるほどだった。

 満面の笑みで、その女人は進んでくる。松明の光の輪に迎えられ、ドルーススはさらに驚く。若くはない。それどころか、老女だ。美しいが、それでも六十歳にはなるのではと思った。

 女人の笑みはまぶしいほどだった。そして銅像に近づくにつれ、それは誇らしさとはまた別の色もはっきり見せるようになった。うっとりとした思慕。はにかんでさえいるような頬は、少女のそれにさえ見えた。

 ドルーススはこの女人が勘違いをしているのではないかと訝った。夜だから。あるいは、目が悪いのだろう。

 だが女人はためらいもなく階段を上がった。そして台座に寄り、手を伸ばして、銅像の左手の甲にそっと触れたのだ。

「会いたかったわ、あなた」

 笑顔を少しも揺るがさず、女人は語りかけた。

「十五年前も、こうして会いにきたのでした。ずっと思い出していたわ。今回はあのときに比べたら、まったく楽なものでしたよ。夏で、ほとんど街道を走れて、ぐずる息子もいなくて。…あの子も今や立派に大きくなって、国王になったのよ。見ていてくださるのよね?」

 ドルーススは、どうやら狂人を見ているらしいと思い至った。そうでなければ、どこをどう聞いてもわけがわからない。

 女人はラテン語を話していた。だが服装も髪型も顔立ちも、ローマ婦人のそれとは違って見えた。気品は際立っていたが。

 笑顔のまま、女人はほっとため息をついた。ようやく気をゆるめられるとばかりに。

「…それでも追われる焦燥感というのは、なかなかにぞくぞくさせてくれたわ。侍女とはすぐに離れてしまって、結局わたくし一人でここまで来たのよ。褒めてくださる?」

 女人は小首をかしげる。さらにうっとりと、心地良い歌を聞いているように体をゆらす。それからだしぬけに笑い声を立てる。きちんと口元を手のひらで隠すのを忘れずに。

「年甲斐も無い? まったくそのとおりよ! なんてことをさせてくれるのかしら。明日になったらきっと起きられないわ。骨が何本か折れているかもしれない。ついでに心臓も止まっているかもしれない。でも不思議よね。あなたのためなら、どんなことも、どんなにだって頑張れるのよ。いくらでも若返る心地なのよ」

 女人の双眸はいちだんときらめいた。流星を収めたがごとくだ。それから少しだけ、笑みに自嘲めいた色をにじませた。

「そうしてそのままあなたのところまでいったとしても、それはそれで悪くないでしょう」

 首をすくめるのだった。それからまたなにかを聞いている様子だった。女人の唇がいく度か、短く動いた。ドルーススには聞き取れなかったが、まだなにか話していたのかもしれない。会話できるはずがないのだが。

 ふと、祖父しか見つめていなかった双眸が離れた。いく分髪のほつれた頭が、あちこちへゆっくりと動いた。

「…ところでわたくしは、今夜はここで眠るしかないのかしら? もちろん、あなたと久々に朝日を眺めるのも素敵だけれど、できるならしかるべき人と話を済ませてから、やわらかい寝台でゆっくり休みたいものよ。逢瀬の続きは夢の中にしましょう。なにしろもう三日も野宿をしたのだから。偉大でしょう? この六十二歳の老婆が――」

 そこで、会話が途切れた。光の輪の向こうで、女人は目を見開いてドルーススを見つめていた。

「おや、まあ」

 それから感に堪えないとばかりに、銅像へ振り返った。

「さすが、あなた。もう用意万端とは恐れ入ったわ」

 ドルーススはさっぱりわけがわからなかった。わからなかったが、予想外の危うい事態になったことだけは察した。でもどうしてか、体が動かない。狂人から逃げようとしない。

 夜闇を背に、光の輪に照らされて、その狂人に違いない女人もまた白く澄みきって見えた。実は石像であったのかもしれない。躍動感にあふれすぎだが、大理石で作られていたのかもしれない。

 それでいてその笑顔は、ひどくあたたかだった。

「一目でわかりましたよ、ドルースス。わたくしはデュナミス。あなたのお祖父様の恋人ですよ」










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