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ピュートドリスとティベリウス  作者: 東道安利
第三章 オリュンピアへの道
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第三章 -7





 結局、その日もデメトリアス市に泊まった。翌日は、「土産」を携えてパガサイ湾をまわった。ローマ街道を駆ける楽な旅路ではあったが、それでも湾岸を半周した。途中の街々で休息も挟みつつ、夕方には湾口そばのアントロン市に到着した。対岸にはエウボイア島があり、夕空と海の境界に真っ黒く、見渡す限りどこまでも居座っていた。

 トラシュルスが待っていた。曰く、丸一日早くこの市へ到着し、すでに同行していた手勢をマリヌスに任せて船で送り出したという。

「次の船も手配済みです」

 彼はそう知らせたが、ティベリウスはすぐに乗り込もうとはしなかった。代わりに港前の食堂で夕食を求めた。ひととおり皿をきれいにした後、ピュートドリスはようやくトラシュルスの星読みを聞く機会を得た。

 外はどっぷり日が暮れていた。ティベリウスは食堂の外に立った。

 それほど待たなかった。戻ってきたときには、連れが四人いた。

「のんきなもんだな」

 卓上に広げられた星位図と色とりどりの小石を見下ろし、アスプルゴスは鼻を鳴らした。

「こちとら朝から晩まで走りどおしだったぞ」

「母上は見つかったの?」

 ピュートドリスが問うと、アスプルゴスは大きなため息をつき、手荒く頭を押さえるのだった。

 ピュートドリスは、もうデュナミスにアマゾン呼ばわりされる筋合いはないと思った。それにしても本当にいったいあの婆はどこへ行ったのだろう。今ごろ無事ローマ本土へでも足を踏み入れただろうか。

 アスプルゴスの同行者はお馴染みのニケウスとミダスだったが、加えてアクロンではなくレオニダスを連れていた。犬のように見える彼は、食卓に置かれたいかにも怪しい土産の包みに興味津々だった。

「開けていい?」

「駄目です。お前は大騒ぎするに決まっています」

「ちょっとくらい」

「駄目です」

 トラシュルスとの押し問答は、結局ティベリウスによって止められた。彼にうながされ、全員が食堂をあとにした。

 それぞれ馬を引いて、船に乗り込んだ。それでも貸し切ったわけではなく、定期の荷船であるらしかった。船室に落ち着くと、ティベリウスはアスプルゴスたちに夕食を与えつつ、自身も葡萄酒を口にした。それから、今後の策を話した。

 彼はこれを最初で最後の作戦会議にするつもりのようだ。七人が床に広げられた地図を囲んで座した。聞けば、マカロンの協力で用意したそうだった。テッサロニケイアでもデメトリアスでも、ティベリウスはただのんきにピュートドリスと逢引きしていたわけではなかった。後者の市でも、早々にアスプルゴスへ宛てて使者を送っていた。偽者一行とにらみ合いながら、できるかぎりゆっくり南下すること。そしてアスプルゴスが密かにこのアントロンに来ること。それが指令だった。

 この指令は、今後も慎重を期して継続されねばならなかった。夜が明ければ、船はエウボイア島の北岸を通り過ぎ、マリア湾口から少し陸へ入った場所にあるニカイアという街に着く。テッサリア地方はもう終わりで、ロクリス地方に入る。接岸次第、アスプルゴスはすぐさま部下とティベリウスの手勢三十人の中へ戻ることになる。この時点で、偽者一行をマリア湾に西から注ぐスペルケイオス川より南へは進ませない手筈になっていた。理想は手前の古都ラミアに留まらせることだったが、それはアスプルゴスが指揮を預けてきたドリュクロスの手腕によるだろう。つまりはティベリウスが偽者を追い越すのである。

 偽者一行には徒歩の者も少なからずいる。一方、アスプルゴスの部下は全員が騎兵か馬車である。今やデュナミスという暗黙の人質がいないので、偽ティベリウスたちの横暴に腹を立てているふりをしつつ、歩みを遅らせることが可能となる。喧嘩腰で威嚇しながら、実際に取っ組み合うことは間際で回避し、じりじりと後退するのである。

 そこには、ティベリウスの手勢が合流している。騎士アッティクスに、アスプルゴスの指揮下に入るようにと、ティベリウスは命じているそうだった。アッティクスは胸中複雑かもしれない。ローマ人が、王とはいえ若き異国人に率いられるのだ。ましてデュナミス捜索の件では、王に借りを作ったと言えた。だがそもそも彼は軍人ではないし、大きくは、指揮系統の頂にいるティベリウスに従っている状況だった。

 会議は長くはならなかった。実のところ、ティベリウスへの唯一の異議は、一傭兵の配置に関することのみだった。

「えっ、俺も国王陛下と一緒に戻るよ。だってそうすればテルモピュライの峠を通るでしょ? いよいよ我が家の悲願、伝説の戦地を目の当たりに!」

「名前をあやかったというだけで、縁者でもなんでもないでしょうに」

 ぐっと拳を握るレオニダスのきらめく目へ、トラシュルスはじとっと醒めたまなざしを送った。同じようにしながら、アスプルゴスも指をしゃくった。

「こいつは本当に俺より年上なのか?」

 それでもティベリウスは、結局容認したのだった。それならばそれでやってもらう仕事があるから覚悟をしておけ、と。

 会議がお開きとなると、アスプルゴスはしたたか葡萄酒をあおった。

「まったくどこ行ったんだよ、我が母上はぁ~~っ!」

「わかるぜ。駆け落ちしたんだよ」

 レオニダスが聞かせていた。杯を手にとろんとした目つきで、国王と肩を組んでゆらし合っていた。

「きっと偽者軍団の中にとんでもない美男がいたんだよ。アキレウスみたいな。そんでそいつをかき口説いて、今ごろめでたく愛の逃避行中」

「本気でありそうだから怖いぃ~~っ!」

「実は俺の母ちゃんもさ、父ちゃんと駆け落ちして結ばれたんだよ。腹の中には俺がいたってのに、ナイル川をルクソールまで下っていったんだ」

「お前もか! でも俺なんかもっとひどい! この男と結婚するのは嫌だと言って、国を飛び出したんだ! 真冬! 俺だけ連れて! まだ六つだったのに!」

「そりゃ、気の毒だ」

「なのにあのときの母上の顔といったら! 愛する男の胸に飛び込むんだと! まったく女ってやつは、好きな男のためだかなんだか知らんが、想像を絶することをやってのける。自分が巨人だったと突然思い出したみたいに。巻き込まれるほうの身になれ! おいっ! あんたもだぞ、アマゾン女王!」

「別所を確保しました」

 トラシュルスが来て、ピュートドリスとティベリウスへ言った。ティベリウスは地図から顔を上げた。

「わかっています。そろそろ寝かしつける努力をします」

 それでも半ばあきらめているようなトラシュルスにうながされ、二人は寝場所を移動した。ニケウスとミダスはすでに酔いつぶれているか、そのふりをしていた。





 夜半だっただろう。ピュートドリスはふと目を覚ました。蝋燭一本にのみぼんやりと照らされた部屋にいた。傍らの男は静かだったが、周囲からはいくつかのいびきが聞こえていた。

 船乗りたちの眠り場所の一つだった。蒸し暑く、男だらけの臭いが壁から床からじっとり染みついていたが、寝ていられないほどではなかった。なによりもまず、愛おしい男の腕の中にいたのだ。今夜も。

 無邪気にさえ見えるその顔を見つめていると、ピュートドリスは胸の詰まる心地がした。

「愛妻家だな」

 頭をもたげると、向かいの壁に、船乗りの一人がもたれていた。蝋燭の明かりを吸っていく暗がりで、組んだ手足と、口元の笑みだけを浮かび上がらせていた。

 そうでしょう、とピュートドリスは心内で応じた。ティベリウスを起こしたくはなかった。

 眠りにつくとき、ティベリウスはピュートドリスを壁際に寝かせた。自分はその隣に横たわり、互いの腹まわりを上掛け代わりのマントで覆った。それから、あまり重みにならないよう気遣いつつ、けれども断固として、ピュートドリスの腰に腕をまわした。しかと抱え込み、部屋のほかに向けたその背中は、なに者も近寄るなと声高に警告していたに違いなかった。

 ピュートドリスは胸が痛かった。それは腕の重みのためでも、身体の窮屈さのためでもなかった。ただ、抱きしめられるたびに苦しさは増した。

「俺も負けてはいないがな」

 静かに、のんびりした調子で、船乗りは話し続けた。

「そういう男は、愛を失って生きてはおれないぞ」

 ピュートドリスにもそれはわかっていた。もうとっくに。だから、この男から愛を奪い続けたものをひたすら憎んだ。何日も、涙さえ浮かべて闇をにらみ、呪ったのだ。

 だがそれは、なんだ。

 きわめて慎重に、ピュートドリスは上体を起こした。もしも腕の下の身体が無くなれば、ティベリウスはたちまち目を覚ます。つい一昨日の夜も、ピュートドリスがふいに目を覚まし、部屋を出て、戻ってくると、彼は寝台に座ったところだった。どこへ行っていたと、きつく、非難の色さえ浮かべてにらんできた。そしてまたがしりと腕の中に収めてから、眠りに戻るのだった。

 まだこれほど親密になる前に、ほんの一日彼の前から姿を消した出来事を思い出さざるをえなかった。あのときでさえ、ピュートドリスは言ったものだ。あなたはもうだれとも関わるべきではない、と。

 それでも彼は求めていた。ずっと愛したかった。はけ口と言えば言葉は悪いが、ずっと心の奥底に閉じ込めていた思いのやり場を求めていた。そうして一度あふれ出たそれは、もう止めどもなかった。自分でもどうしていいかわからないとばかりに。

 世の男どもの脆さを、ピュートドリスも知っているつもりだった。三十四年生きてきたのだ。世を支配していながら、なんともあっけなく傷を負い、それを癒す術も知らずに、世を乱す。臆病なあまり、世を支配しておかずにおれないのではないかとさえ、思う。

 今、傍らにいる男は、それほど脆くはなかったのかもしれない。だが、深手を負いすぎた。

 生涯を共にと願った妻と離婚させられた。

 片割れと慈しんだ弟を若くして亡くした。

 一人息子と離れて六年が過ぎた。

 これが、今しかと自分を抱く男に起こった事実だ。どれ一つ取っても世の男どもには耐えがたい。この男は、その事実一つ一つに、世の男どもよりもずっと深い傷を受けた。

 そんなことはない。俺だって妻を亡くした。兄弟を亡くした。もっとひどい目にも遭った。お前になにがわかるのか。幸福と同様に不幸もまた、可視化も相対化もできるはずないではないか。

 けれども少なくともピュートドリスは、それが感じられて、たまらなく胸が苦しかった。痛みを受けすぎてしまう人間がいるのだ。この超然とした外見の内側でたぎる感情の溶岩。ピュートドリスはそれに触れたのだ。

 そうして男は生きていた。

 どうしてだ。

 妻、弟、息子――それで十分ではないのか。まだ足りないとでも言うのか。

 憎むべきは、運命なのかもしれない。彼に試練を与えすぎた、運命の女神。だがピュートドリスは、その運命を連れてきた存在を思う。そして、暗澹たる気持ちになる。

 とどのつまりは彼自身に帰するのみとは、頭が良いことを自負する優しさのない人間の言葉だ。彼らには決してわからない。わかろうともしない。

 見てみるがいい。真実は、こんなにわかりやすい男もいない。つい昨日も、街道で休息中に、噂話を耳にした。男が二人、フィリッピの野で気勢を上げた偽ティベリウスを話題にしていたのだ。一人が「ついにご乱心だな、流罪人。第二のアントニウスとは」と楽しげにしゃべるときは見向きもしなかったのに、もう一人が「案外、元老院は震え上がって、あっさりアウグストゥスの首をちょん斬って送るかもしれん。もう三十年か。そろそろあのつまらん男の統治にも飽きたよなぁ」と口にした瞬間、彼は顔色を変えた。殴りかかろうとする熱い体を、ピュートドリスは全力で押さえねばならなかった。

 憎みたかった。だが、憎めなかった。

 それは、彼の愛の根源だ。そして、そのすべてを捧げ続けた、彼自身だ。

「どうするんだよ、奥さん?」

 船乗りの笑いは、泣き顔めいても見えた。

「こいつは死んでしまうぞ。意味はわかるな? でも、お前無しじゃ生きていけない人間は、ほかにもいるぞ」

 ピュートドリスはずっとその答えを探していた。愛し続けた、愛していると言わしめた、その責任の担い方を。自らの愛のあり方を。







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