第三章 -5
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昼、街道はキュノスケファラエ丘とボイベイス湖に挟まれることをやめた。そのとたんにぺライ市が姿を現した。ティベリウスとピュートドリスはその市に入り、我が身と馬たちに休息を与えた。たらふく食事をとったところまでは同じで、その後人間どもは浴場で湯船につかり、干物屋の上階の片隅で少しばかり眠った。目を覚ますと、ティベリウスはボイベイス湖に棲む魚の干物を一掴み買った。その場で葡萄酒とともに味わいたかったに違いないが、皮袋に突っ込んで、ピュートドリスを連れて市のアクロポリスへ足を向けた。それでも二人のほうが早く、トラシュルスが現れたのは、ゆっくりと空を行く光の戦車が、明らかに下り道に差しかかったとわかる頃だった。
「にらみ合いです」
トラシュルスは先に結果を述べた。
あれからなにが起こったか。曰く、アスプルゴスはラリサからスコトゥッサに至る平原一帯を捜索した。そのあいだ、主に北と西へ散っていた彼の家臣たちは、王の召集を受けて集まりだした。ところが王と合流が成る寸前、同じくデュナミスを探していた偽者軍団の一部が、アスプルゴスの存在に気づいた。ボスポロスの男たちは、ドリュクロスではない、新しい男を中心に動いていた。もしかしたらテッサロニケイアでも彼を目撃していたかもしれない。
豹の皮を荷馬車に突っ込んだアスプルゴスは、王らしい身なりはしていなかった。しらを切り通せたかもしれない。だが結局、集まってきたボスポロスの男たちの物々しさには、明確に伝えるものがあった。偽者軍団の手下たちは、アスプルゴスを囲んだ。アスプルゴスもまた、母にいったいなにをしたのかと詰め寄った。ニケウスとミダスが手下たち相手に戦闘をはじめたが、中の一人、ローマ軍団兵の身なりをした男が、アスプルゴスに剣先を突きつけた。ボスポロスの男たちの怒号の中、その兵は彼らに武器を捨てるように命じたそうだった。
王の家臣たちが地面に武器を落とし、偽者軍団が彼らの無力化に取りかかり、軍団兵らしき男が王とともに彼らの側へ、つまりラリサのある北の方角へ向き直った時、矢がその男の背に突き刺さった。南の草陰で身を低くしていた、アッティクス率いるティベリウスの手勢だった。だが彼らは一切その事実を公言せず、レオニダスを先頭に飛びかかっていった。おのおのが「我らが王になにをする!」と叫んでいた。その場の敵自体は十名にも満たず、無論のことボスポロスの男たちもただちに戦闘態勢に戻り、あっというまに事態は収束した。
敵のほとんどがならず者で役立たずだったが、ローマ軍団兵の身なりをした男は尋問に値した。だがアスプルゴスが引っ張り起こすと、すでにその男は我が喉をかき切っていた。
これを聞くと、ティベリウスは眉を暗くした。
「死んだのか?」
「レオニダスによるとまだ息はあるそうですが、無理でしょうね」
トラシュルスが答えたが、ピュートドリスは別の意味を考えていた。この陰謀のために本気で命をかけている人間が敵側にいることを知らされた。本物のローマ軍団兵だったとしたら、彼はなんのために我が身を捧げたのだろう。ガイウス・カエサルか。アウグストゥスの孫のためなら、偽ティベリウスを用意するという呆れる策にも参加したのだろうか。
確かに上手く事は運んでいた。デュナミスに逃げられたことは誤算だろうが、呆れる策とも言えないのかもしれない。今のところは。
だが、それにしてもなんのためにこれほど手間のかかる陰謀をめぐらし、命を賭すのだろう。
ともあれ、それからにらみ合いがはじまった。アスプルゴスは今や偽者軍団に遠慮する必要もなかった。事実上の人質だった母がいなくなったのだ。ラリサから偽者軍団の本隊が出立してくれば、堂々と警戒態勢をとる。なにもおかしなことはなかった。毛色が多少違う部下が増えただけだ。カスタナイアから一緒に上陸してきたという名目が成り立つ。ティベリウスの手勢を預かり、アスプルゴスは戦力を増やした。ティベリウスもそれと知られずに手勢を連れ行くことができるようになった。
「いつでも連中をぶっつぶせる」
アスプルゴスはティベリウスへそう言伝てしたという。
「このままあの人に任せてしまうのも悪くないかもね」
ピュートドリスは提案したが、本気ではなかった。けれども実際、アスプルゴスにとってはルキリウス・ロングスもセレネ叔母も人質になりえないのだ。ただ戦うだけならばなんの問題もない。
「恐れながら女王陛下、ボスポロス王にはラリサから来る偽者本隊を見張りながら、ゆっくり南下していただくよう話を通してあります」
トラシュルスが教えてきた。もちろんただの真っ向勝負をすれば、まだ数で劣るアスプルゴスの方が不利で、無用な犠牲を出すだけとなる。人質が無事のまま勝つ保証もない。
だがティベリウスが残りの手勢を連れて合流し、密かに指揮を執ればどうか。ようやくこの陰謀に終わりの見通しが立ったのではないか。
ティベリウスがラリサまでの敵人数を確認した。トラシュルスは、百五十人程度であると、生き残りのならず者から聞き出したという。
「このにらみ合いに至る過程で、もう十人ばかり減ったはずですが、長引けば長引くほど敵の数は増えるでしょうね…」
トラシュルスの言葉に、ティベリウスはただうなずいた。百五十対九十。それも大事な話だが、ピュートドリスにはまだ訊いておきたいことがあった。
「それで、彼にとって肝心のデュナミスはどうなの?」
「…見つかっていません」
他人事ながら、トラシュルスは困り顔をした。
「……ですが実は、それかもしれない目撃情報はありまして。ファルサロス平原のほうで」
つまりデュナミスは南へ向かったことになる。まったく信じ難いが、やはりアテネに息子がいると信じて飛び出したのだろうか。ピュートドリスはティベリウスへ目をやった。
「私が母親なら、素直に引き返す息子かどうかくらいはわかるけどね。海路を行くとの返事も、真に受けないと思うわ」
キュプセラでの皿の伝言もそうだ。息子がなんでも言うことを聞くと考える母親も世の中にはいるが、デュナミスは違うだろう。すべて思いどおりに動かせると信じてもいないだろう。
一方、母親にとって我が子はなににもまして大切だ。すべては子どものためだ。それ以外だとしたら、なにがあるだろう。
ピュートドリスは首をすくめた。
「でも、ここまでよ。あの婆はなんで息子のいそうなところへ逃げてこないのかしら?」
ピュートドリスを見返しながら、ティベリウスはなにか考え込んでいるような色を浮かべていたが、結局口は開かなかった。代わりにトラシュルスが言った。
「いずれ、ネロ、それほど時間は作られていないと思いますよ。ボスポロス女王は有利な状況を我らにもたらしましたが、連中はまだ懸命に女王を探しています。王の壁をかいくぐるか、あるいは強引に突破してくるかもしれません。軍団兵のような手練れもいますから」
「そうならないように適当な距離を取って、あの人は南下するんでしょ?」
「おっしゃるとおりです」
トラシュルスはピュートドリスへうなずいた。彼はこれからマリヌスの下へ戻り、ティベリウスには同道しないと話した。
「お邪魔するつもりはございませんから」
彼は微笑み、それからピュートドリスへひっそりささやいた。
「ネロをよろしくお願い申し上げます、女王陛下。それと、今夜はもしや素敵な空を見られるかもしれません」
この世にティベリウス・ネロをよろしくとの言葉を口にする人間がそれほどいるとは思えなかった。そして、彼を頼まれるとも思っていなかった。ピュートドリスはぽかんとしながら、ティベリウスに手を引かれてアクロポリスを去ったのだった。再び馬上の人となり、ぺライ市を出立していた。
やはり日の長さは幸いだった。姿をくらます前にデメトリアス市をとらえられた。とはいえパガサイ湾の最奥で栄える都市であるから、夜の帳の下でもたどり着けただろう。ローマ街道に導かれてもいた。
頭上を流星が駆けていった。東から西へ、市門の前に来るまでに三筋も見ることができた。
ピュートドリスはティベリウスを見た。彼もまた茫然と夜空に魅入っていた。
「そんな顔も美しいわ」
横に身を乗り出し、笑いながらティベリウスの左頬を押した。
「この首をくれるのね?」
「君の望むように」
夜闇より明るい瞳の青も、きっとひとかけらの流星だ。
「ドルースス、星が綺麗だよ」
レントゥルスにそう声をかけられても、ドルーススは頭から上掛けをかぶり、寝たふりを続けた。寝たふりであることを知らしめたいとも思っていた。
本当に眠ってしまいたいとは思わなかった。そんなことをしたらあっというまに明日が来る。父に会う時が一気に近づく。
もはやローマ本土から連れ出されていた。イオニア海を渡り終え、今はエピルス属州沿いを南下する船の中だった。むかむかと気分が悪かったが、それは船酔いのためばかりではないと思った。
レントゥルスが船室から去る気配がした。ドルーススはわずかに上掛けから顔を出し、壁の木目をだれかの仇のようににらんだ。レントゥルスが大好きだった。こんな駄々っ子のような非礼を働く自分に腹が立ったし、だからといってそんな態度を取らせるに至った彼とピソの強引を受け入れる気持ちにもなれなかった。
明日にはニコポリスに上陸するそうだ。三十一年前の勝利を記念して、アウグストゥスが建てた市だ。アクティウムというかつての本陣跡に、そのまま植民したのである。
若き日のルキウス・ピソは、その地で初陣を果たした。そして父も、義理の従兄弟マルケルスとともに従軍し、戦局を見守っていたという。
当時の父は十歳だった。それでいながら半年もローマを離れ、陣営暮らしを続けた。一方その息子は、十三歳でようやくの「外遊」だ。父が引退などしなければ、もうとっくに従軍経験を積んでいただろう。
確かに父の十歳は早すぎるとも考えられた。だがアウグストゥスは、十二歳のガイウス・カエサルを父に預けてゲルマニアに行かせたことがあった。
成人式の見通しも立たないのに、従軍なんておこがましいと言われているような気持ちだった。父無し子なのだから。
「焦るなよ、ドルースス」
ゲルマニクスは言ったものだ。今年自らの成人式を、母親とアウグストゥスの立会いの下で終えた時だ。
「伯父上だって、成人式は十四歳と半年後だったそうだぞ」
ドルーススはなんとか笑みをつくってうなずいた。別にすぐに成人式を挙げたいわけではないとの言葉は呑み込んだ。
けれどもでは、ドルーススはなにを欲しているのだろう。
あるいはまた、なにをいらないと思っているのだろう。
蒸し暑いくらいの船室であるのに、ドルーススはぞっと身震いをしたのだった。結局じっとしていられず、ずるずると寝台を出た。
だれにも見られないように祈りながら、通路を歩いた。階段を上がり、甲板に出た。すると言葉を失うほど輝く満天の星空が現れた。
ドルーススはすぐに伏し目になった。そうして目に映るのは、彼方まで広がる真っ黒い大地だった。船縁に寄ると、その大地は不気味にうごめいているのがわかった。けれどもなにも映してはいない。圧倒的な天界の光も寄せつけない。ドルーススはそこに不思議な安らぎを覚えた。顎を引いて、じっと覗き込んだ。
この中に飛び込んでしまったら、ドルーススはもうなにも欲しがらず、なにもかもなくし、なにも感じなくなるのだろうか。レントゥルスとピソには思い知らせてあげられるだろうか。母や祖母やアントニア叔母は泣いてくれるだろうか。そして父は、父は――。
ごんとドルーススは船縁に頭を打ちつけた。三度、四度、それを続けた。それからぎゅっと目を閉じて、うずくまるように船縁にしがみついた。
会いたくない。そんなぼくの気持ちはだれもかれも無視するのか。いつだってそうだ。ぼくが子どもだからか。でももう七歳ではないのだ。
会いたくないなんて気持ちを抱くことさえ許されないか。一人息子なら。勝手に一人息子にしたのはだれだ。勝手に置き去りにしたのもだれだ。だれなんだ。
いつだって、ぼくのことは無視だ。
いなくなればいいのか。
どちらかが。
ドルーススはうめき続けた。
ゲルマニクスは、六歳で亡くした父親をよく覚えているそうだ。叔父ドルーススは、ゲルマニアで戦を指揮しながら、冬営期にはガリアのリヨンに戻ってきた。そこでゲルマニクスと思いきり遊んでくれたという。ゲルマニクスの思い出には、そんな父親の笑顔ばかり残っているようだ。
父親の死に耐えながら、ゲルマニクスはいつも陽気で笑顔を絶やさない、優しい若者だった。立派だとドルーススは思う。神々の傍らで、ドルースス叔父もどれほど誇りに思っているだろう。
一方、ドルーススは死に別れたわけでもない父親と、遊んだ記憶など一つもない。七歳までは近くにいなかったわけでもないのに、微笑みすら見た覚えがない。
父もまた一年のほとんどを戦地で過ごしていて、留守だった。ドルーススも義母ユリアとともに、冬営地のアクレイアまで出かけたことがある。だがいざ家に帰ってきても、父は固く厳しい表情のまま、ろくにしゃべらず、家族と進んで関わる様子も見せなかった。それどころか、近寄るなと言わんばかりの突き刺すような雰囲気を、いつも纏うというより放っていた。
だから、決まっているではないか。
会わなくてもわかる。
六年ぶりだろうがなんだろうが、なにをしに来たと恐ろしい顔で責めてくるに決まっている。たとえ無理矢理連れてこられたのだから仕方ないとしぶしぶ許したとしても、これまでと同じように、一切の関わりを拒むに決まっている。
好き好んでなぜそんな目に遭いにいかなければならないのだろう。
ドルーススは父といると息苦しかった。義母ユリアの関心も干渉もない振る舞いのほうが、まだ楽だと感じていたものだ。
だが、だからなんだというのだろう。
ドルーススにはそんな父親の代わりをしてくれる大人がいっぱいいた。ピソもレントゥルスも、アシニウス・ガルスも。アウグストゥスも、あんな父親を持ってかわいそうにとはばからず同情しながら、実の孫のように優しく気にかけてくれる。父がいなくなったおかげで、母ヴィプサーニアには以前よりもよく会えるようになっている。
ドルーススは決して不幸ではなかった。むしろ今の暮らしのほうが楽しく、喜ばしいことを多く見つけられた。七歳だった、あの日からずっとだ。
そう、ずっと幸せに暮らしてきたのだ。父の思惑どおりに。
思惑どおりに!
そう、ぼくは、父上がいなくて幸せだった……。
甲板の見張りが近寄ってくる気配がした。
「来るな!」
と、ドルーススは鋭い声を発していた。彼は気づいていなかったが、その調子も、きっと上げた横顔も、父親と瓜二つだった。
だがドルーススはすぐにその色を消した。
「大丈夫だよ。ちょっと酔っただけ」
振り向き、詫びを込めて見張りに微笑んだ。ぎこちなかったが、それでも笑みには違いない。父ならば絶対にしないことだった。
見張りが離れていくと、ドルーススはほっとため息をついて、船縁に背中を預けた。しばしぼんやりとして、気がついたときには両眼に星空を映していた。またまぶたを伏せてしまいたかったが、もはや遅く、あきらめて吸い寄せられるがままになった。
流れ星が一筋、ケラウニア山脈を越えて東の空から、頭上を走り抜けていった。ドルーススは茫然となった。
幼児の頃、ドルーススは寝つけなくてよく泣いていた。そんなときばかりは、奴隷たちを困らせるのが得意な子どもだった。
すべての人間がいなくなり、自分一人だけが世界に取り残されている気持ち。母はいなかった。継母もどこかへ行っていた。祖母も叔母も従兄弟たちも別の屋根の下だ。そんな夜ばかりだった。ドルーススは独りぼっちだったが、それは当たり前として慣れるほどの日々でもあった。
けれどもその夜は、ひときわ声を上げて泣きじゃくったのだ。
「どうした…?」
父が現れたのだから、それは冬の夜の出来事だったはずだ。そうでなければ、父も家にいなかった。ゲルマニアかイリュリクムの戦場にいたはずだ。
奴隷から代わって父に抱き上げられ、ドルーススはとたんに泣くのをやめた。それは満足や安堵のためではない。父の前で泣くなどできなかった。そのくらいの分別はすでに身に着いていた。みじめな泣き顔も、聞き分けのないわがままも、父に見せることなど許されない。
父の腕の中で、ドルーススは固く身をすくませていた。しゃくる喉だけは抑えがきかなかったが。父はそのまま家の柱廊を歩いた。
言葉を交わした記憶はない。いつまでしゃくるかと背中をさすられはしたかもしれない。寒かろうかとしかと羊毛のトーガにくるまれたかもしれない。父の腕の中で、ドルーススはひたすらじっとしていた。いつしか父は庭に出ていた。
「見えるか、ドルースス」
その一言さえ、息子に向けられたものではなかったかもしれない。なぜなら、ドルーススが恐る恐る顔を横向けると、父は冬空を見上げていた。この夏の景色とは違うが、きんと冷えた空気の彼方で、その星の川は壮絶なまでに澄んだ輝きを放っていた。父の横顔は、ただじっと、焦がれるようにその天の川を見上げていた。
石像のように冷たそうな横顔だった。固くて、なにものも寄せつけないとばかりに、超然としていた。
けれどもそれは、触れたならば今にも壊れてしまいそうに見えた。
本当は、知っていた。限度を決めていたが、泣きわめけば父が来てくれることを。そしてその一夜、傍らで共に眠ってくれることを。どうせ継母ユリアはいなかった。
ただこれは、最初の試みだった。ドルースス叔父が亡くなってからの。
触れる代わりに、ドルーススは両手の指をぎゅっと父のトーガに食い込ませた。岩のような肩に、それでも食らいついたのだ。顔を伏せたのは、見ないためだった。それからそっとその横顔に頬を当てた。
ぼくだけはずっとここにいると伝えたかった。