第三章 -4
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馬の疲労に注意しながら、その日もできる限り距離を稼いだ。エウロポス川を越えると、ティベリウスはローマ街道から外れた。すでに山道は終わり、テッサリア平原の広がりが始まっていた。その中心都市であるラリサも、そのまま道なりに行けば目に入る間際だった。
日の長い時期であることは幸いだっただろう。ティベリウスはさらにペネイオス川を越えたところで、夜を迎えることに決めた。ラリサにつながるローマ街道二本に挟まれた地帯にあるわずかな木蔭だった。六騎は来る道で仕入れた食料の大部分を馬に与え、その労をねぎらった。自らも夕食を口にしながら、ピュートドリスは北東を見やった。ラリサはまだ見えない。オッサ山の影だけがまだ夜闇の襞よりもくっきりと見える。月も空に見えない。今日が新月だとティベリウスが言っていた。いくら辺りは平原であろうと、星明りのみを頼りに先を急ぐのは良くなさそうに思われた。
それでもティベリウスは、夜明けを待たなかった。ピュートドリスの肩をそっと揺すり、動けるかとささやいてきた。目を開けて、ピュートドリスが頷くと、まずパンと牛乳と干し葡萄という朝食を勧めてから、アスプルゴスたちを起こしにいった。
ピュートドリスはしきりにまばたきをした。眠気のためというより、暗さに少しでも早く目を慣らしたかったためだ。ティベリウスはそんなピュートドリスを手助けして馬上に乗せると、すぐに自らも手綱を取って、ひっそりと平原へ踏み出した。
一行はゆるりと南へ向かった。馬たちは特段疲労を残している様子ではなかったが、足元のおぼつかないうちに速度を上げるわけにもいかなかった。慎重に、ローマ街道をまた一本跨いだ。数台だが、荷馬車がラリサへ向かって車輪をやかましく軋らせながら通行していった。首都ローマもそうらしいが、諸々の通行規制のために、荷馬車は一日じゅう街に出入りできるわけではない。それで夜から早朝までが混雑時間帯となる。
街道を過ぎると、ティベリウスは進路をゆるやかに東に移していった。あとに続きながら、ピュートドリスはオッサ山の影が再びくっきり際立ってくる光景を眺めていた。朝日がもうすぐそこまで来ていた。
ふと視野の左端に、小さな光がちらついた。首を向けると、そこは地上であるはずなのに、いくつもの星屑がこんもりした闇を飾るようにして固まっていた。闇はラリサ市で、星屑はその灯火だ。
すでに昨夜、ネアポリス以来の斥候から知らせが届いていた。偽ティベリウス一行は、この夜をラリサで過ごしているとのことだった。思う存分に浮かれ騒いでいるのだろう。暗いので確かではないが、見張りの姿は見えなかった。
ラリサ市には六本ものローマ街道が集結している。そのすべての上に偽者軍団は見張りを置くことができるだろう。ぺロイアでそうしたように、市門の前にでも立たせておくだろう。
それでもキュプセラでしたように、荷馬車の積荷にでも紛れて市内に入ることは、やってやれなくはない。だがティベリスは、今回はそれを試みるに値しないと見なしたようだ。たかだか六人が、市内に入ったところでなにができよう。救出したい人質は、一人ならまだしも三人もいるのだ。決着は、市外に広がるこのテッサリア平原で迎えられる。
そしてその前にやるべきことがあった。
「アスプルゴス」
口を開くティベリウスもまた、明らみはじめた空の下の影だった。
「君の部下を呼んでほしい」
「おう!」
いく分不意を突かれた色もあったが、アスプルゴスは勇んで応じた。
「待ちかねたぞ。どこに集める? ファルサロスか?」
「スコトゥッサだ」
ティベリウスは答えた。
「キュノスケファラエ丘の麓」
それからティベリウスは、手短に、ようやく作戦の概要を話した。
アスプルゴスは無言で聞いていた。一切質問をしなかった。そして話が終わるや、アクロンをラリサ市近郊にいる仲間たちの下へ走らせた。
ピュートドリスもティベリウスの戦法を理解した。つまりは待ち伏せであり、挟み撃ちでもあるということだ。
キュノスケファラエ丘は、およそ二百年の昔、ローマ将軍フラミニウスがマケドニアのフィリッポス王を打ち破った戦で知られる。今や近くのファルサロス平原のほうが有名だが、その戦も、ギリシアをマケドニア勢から解放したがために名高い。戦の規模からは信じ難いほど、ローマ側の人的損害がごくわずかだったことでも知られている。アスプルゴスの部下に至るまで人命をひと際気にかけるティベリウスは、故国の名将とその戦場にあやかろうと考えたのだろうか。それとも、自身の手勢を使える時宜で見える最も有利な地勢であるからというだけか。
けれども――。
「人質を盾にされる前に、決着をつけられるかしらね?」
ピュートドリスは訝らざるをえなかった。ティベリウスが戦う以上、どうあってもその問題は避けられないだろう。
するとティベリウスは、一昨日と似たまなざしをピュートドリスへ向けてくるのだった。思慮と懸念の色だ。
「…なによ。なにか考えがあるの、私に?」
「おそらくな」
「だから、なによ?」
「合流してから話す」
だったら今そんな目をしないでいいでしょうと言いたかったが、どうもティベリウスはまだなにかを迷っているようだった。将軍はそれを見せるべきではないのかもしれないが、対象が女であるゆえか。
朝日がすっかり姿を現す頃、一行はラリサへ東南からつながるローマ街道に乗っていた。行く手右にキュノスケファラエに違いない丘陵が見える。左からはオタマジャクシの尾のようなボイベイス湖の先端が始まる。けれどもたちまちその湖から来る靄によって、街道の先は霞んでいった。朝の柔らかな日差しもまた鈍っていった。
水鳥の鳴き声が聞こえてきた。ピュートドリスはなんとはなしに左を見て、首を伸ばしてさえいたが、ふいに馬からずり落ちそうになった。プヒーッと、ひどく調子外れな声を上げる鳥がいたからだ。
そうではなかった。白い靄の中にゆらりと影が現れる。やがてぼんやりと人型になったが、それは朝の湖畔の情趣を台無しにする笛吹きをやめなかった。
「おっ、客が来たぞ!」
ようやくそれが終わったのは、その人型がこちらの影に気づいたからだった。
「五人くらいいるぞ! 一人くらい呼べるんじゃないのか? 俺の客引きのおかげだな」
「私はお前に苦情を言いに来た方々ではないかと思いますがね。朝っぱらからこんな間の抜けた音色を聞かされては」
よく見たら、傍らにもう一体、草原に座しているらしき影があった。立っているほうが、笛を持ちながらの腕をぶんぶん振った。
「いらっしゃい! いらっしゃい! 旅の御仁! 一日のはじまりに占いはどうかな? なんとアレクサンドリアはムセイオン仕込み! 本格占星術だよ!」
「レオニダス」ティベリウスは馬を下りた。「目立ちすぎだ」
「旦那だった……」
影は腕を下ろした。皮の胸当てと肩当てを身に着けた。二十代前半に見える男だった。頭には赤い布地を巻いて、長い髪を首の後ろで結わえていたが、ピュートドリスはどこかで見た覚えがあった。
「お待ちしておりました」
ティベリウスが真正面にあぐらをかくと、占い師役の男が自信ありげにうなずいた。こちらも髪を結わえていたが、笛吹きの男よりも濃くうねる質感に見え、髭も生やしていた。一見武装はしておらず、それこそ朝靄のような薄紫のヒマティオンを纏っていた。
彼とティベリウスのあいだには、すでに星位図を描いた布が広げられていた。
「やりますか」
と、三十代半ばに見えるその男は、自身の胸元から首飾りを外した。紐を解くと、星位図の上にいくつもの石が滑り落ちた。それぞれ色が違っていた。これを星に見立てるというわけか。
「本日の星位ですが、月は獅子座、太陽と木星の角度が――」
「愛の運勢を読んで頂戴」
ティベリウスの両肩に手を置き、ピュートドリスが身を乗り出した。
「絶好調のはずよ。ところで、私は先月の六日が三十四回目の誕生日だったんだけれど――」
男二人が、悲鳴とともに退いた。
「やっぱりだ!」
レオニダスが叫んだ。
「言ったろ、トラシュルス? 女王なんてそう何人もいやしないんだよ!」
「へレスポントス海峡でお見かけしました、女王陛下」
レオニダスの足に寄りかかり、冷や汗らしきものを浮かべながらトラシュルスが知らせた。それで、ピュートドリスは思い出した。
「あなたの仲間だったのね」
ティベリウスを見ると、彼は目線を返さずに小さくうなずいた。そのままトラシュルスへ口を開いた。
「いつ着いた?」
「本土には三日前です。それからデメトリアス経由で、このあたりに来たのは昨日の午後。ところで、後ろの方たちは?」
「ボスポロス王アスプルゴスと、その家臣」
これには、トラシュルスも呆れ返った顔をした。
「…ネロ、気安く大物をお連れしすぎです」
「旦那の言葉じゃなきゃ信じないくらいだよ」
レオニダスも口を挟んだ。
「そういえば、あの女児は?」
トラシュルスがまた問うのは、タソス島でティベリウスが連れていたアントニアのことだろう。
「マカロンに預けた」
「え? マカロンのおっちゃんがいるの?」
レオニダスが目をしばたたき、ティベリウスが軽く応じる。
「テッサロニケイアにな」
「おい、ネロ」
アスプルゴスはまだ馬上にいたが、焦れたとばかりに声をかけてきた。ティベリウスはそちらへうなずきながら立ち上がった。トラシュルスも本日の星占いはあきらめたようで、手早く石たちを紐に戻しはじめた。
「我々のほかは、手筈どおり、上に」
と、首飾りをかけ直す。上とは、つまりキュノスケファラエ丘にいるという意味か。
「何人いるんだ?」アスプルゴスが訊いた。「五十人弱」とティベリウスは答えた。アスプルゴスはうなずいた。
「俺のと合わせて、九十か。連中より少ないが、気にするほどの差でもないよな」
「挟むのですか、王の軍と?」
トラシュルスはティベリウスを見上げていた。
「それでルキリウスを無事取り戻せますか?」
「それなんだがな…」
と、ティベリウスはわずかに眉間に皺を寄せた。
「首であればいいと思うか?」
「はい…?」
トラシュルスばかりでなくピュートドリスも訝った、そのとき、馬の蹄の音が聞こえた。疾走しながら一騎近づいてくる。
「おい、だれだ?」
アスプルゴスが靄の中へ問う。
「陛下ですか!」
アクロンだった。たちまち手綱を引き、靄をくぐって現れた。血相を変えていた。
「どうした? なにか問題か?」
「わけがわかりませんが、陛下!」
下馬する暇さえ惜しんで、アクロンは報告した。
「女王陛下が――デュナミス様が行方不明とのことです!」
「なに?」
耳を疑ったのは、アスプルゴスばかりではなかった。ピュートドリスはもちろん、ティベリウスもまた意味が分からないという表情を浮かべた。
「連中が血眼になって探しております!」アクロンはさらに声を大きくして続けた。「この夜明け前に、ラリサの中から消えたとか」
「ちょっと待て」
アスプルゴスは信じ難いとばかりに首を振りだした。
「母上がいなくなったって言っているのか? つまり、連中のところから逃げ出したと?」
「そういうことだと思うのですが、ドリュクロス将軍のところにいらっしゃらなかったのです。すぐそばにいることはお分かりだったはず」
ドリュクロスとは、アスプルゴスが残る自分の部下たちの統率を任せた男だった。アロロス市から海側のローマ街道を南下し、偽者軍団を追走していた。その間葡萄酒を献上して礼を尽くしていたのだから、デュナミスも自国の家臣たちが近場にいることを知っていたはずだ。逃げるならば、真っ先に彼らのもとへ向かうのが当然だ。それがなぜ来ていないのか。
そもそも、逃げ出すとはどういうわけか。
「私が到着したとき、連中とドリュクロス将軍たちがつかみ合いになっているところでした。連中は女王をどこへ隠したと詰め寄り、我らは知らないと主張し、実際に荷物の中からなにから全部探させていました。連中は、我らが女王を隠していないと認めざるをえませんでした」
アクロンは早口で説明した。
「ドリュクロス将軍たちもまた連中に怒っておりました。女王陛下になにか狼藉を働いたのか。相応の待遇で預かっていただいているのではなかったか。なにをここまで傲慢無礼に探しまわっているのか。デュナミス陛下は我らボスポロスの女王であり、諸君らに脱走した奴隷のごとく追われる立場にない、と。結局、我らと連中は入り乱れて四方を捜索する事態になりました」
「まずいわね…」
ピュートドリスはつぶやき、ティベリウスを見た。アスプルゴスの部下たちは一纏めになるどころか散り散りになっている。これではキュノスケファラエで合同作戦を取るどころではない。第一、女王デュナミスの所在がわからない状況では、ボスポロス軍の統率が危ういだろう。
アスプルゴスが直接指揮を執らなければ。
ティベリウスは眉根を寄せたまま黙していた。
「見つからないのか、それでも?」
アスプルゴスは自分の髪を鷲掴みにしていた。「まったく」とアクロンは答えた。
「陛下、ドリュクロス将軍の部隊は、テンペ渓谷を挟む街道二本を二手に分かれて進んでおりました。もしも女王が現れたらば、見逃すはずはございません。そのうえ陛下が山の街道を歩かれていた。ですから女王陛下は、それ以外の道へ行かれたとしか考えられないのです。連中は、ラリサの西の街道に追跡の重点を移しました」
「西だって?」
アスプルゴスが信じられないとばかりにくり返した。
「ピンドス山脈を越えるのか? 母上が? それでローマへ逃げ込もうとしてるってのか?」
確かに、とピュートドリスは思う。もしもデュナミスが偽者軍団に嫌気が差し、脱走を試みたとすれば、自国の配下のところでなければローマへ向かうだろう。事の次第をアウグストゥスに訴えるために。
ただし、デュナミスは六十二歳の貴婦人である。その彼女が、ローマ街道が走っているとはいえ、山越えを試みるだろうか。さらにイオニア海を渡って、ローマ本土へ入ろうとするだろうか。無茶ではないのか。女王とともに消えたのは侍女一人と馬二頭らしいというアクロンからのさらなる情報は、その感を強めるばかりだった。
まったくわからなかった。脱走まではまだあり得なくもないにしても、家臣たちのところへ逃げてこない理由に、まったく見当がつかなかった。
だがアクロンから様子を聞くに、連中は本気で焦っているようだった。デュナミスは偽者軍団にとって不都合な情報を持ったまま行方をくらましたということだ。不都合な情報しかないと思うが、彼らはつい先ごろまで、決して必要ではないデュナミスを手元に留め置いて、結局逃げられてしまったのだ。愚かだ。セレネ叔母とルキリウス・ロングスの二人を捕らえておくので手一杯だったのだろうか。その隙をつかれたのだろうか。
それにしても、デュナミスはなぜ逃げたのか。
「私たちが見逃したのかしら…?」
ピュートドリスの訝りは、この場にいる全員と同じであるはずだった。デュナミスは自国の家臣ではなく、ティベリウスを頼りにしたのだろうか。テッサロニケイアにいたあの不気味な男をはじめとする見張りたち。それに加えて、アロロスにいた見張りたちは帰らなかったことだろうが、それが答えだったはずだ。ティベリウス・ネロと女王ピュートドリスが行動をともにし、近くまで来ていた。山沿いの街道を進んだことさえ、いくら遅くとも昨日には連中も確信を持ったはずだ。
夜闇の中、ピュートドリスたちとデュナミスはすれ違いになったのだろうか。山の街道を抜け、ラリサの都市を前にしたあたりで。だが、果たして見逃すだろうか。夜の帳の下だが、女人だけを乗せた一騎ないし二騎を。
そもそも、デュナミスは馬に乗れたのか。六十二歳にもなって単騎疾走するなどという技ができたのか。
「こっちには来ていないよ」
レオニダスが首をすくめて知らせ、トラシュルスも首を振った。
「未明からここにおりましたが、それらしき通行人とはすれ違いませんでした」
「じゃあ、やっぱり西へ行ったのかしら? そうでなければ、あとはテッサリア平原を突っ切っている以外ないわよ」
ラリサの真南には、ローマ街道が走っていなかった。街道を敷設する必要がないほどの真っ平らな土地が広がっているからだが、キュノスケファラエ丘を左手にその平原をひたすら下れば、ティベリウスがアスプルゴスの部隊を集めたがったスコトゥッサ、それにかの有名なファルサロスの地に届く。そこからはまたローマ街道が伸びていて、南下を続けるならばやがてコリント湾へぶつかる。あるいはその前に、東へ街道を替えることもできる。
するとアスプルゴスは目を剥いたのだった。
「…まさか母上、アテネへ向かわれたのか? 俺がいると思って!」
なぜなら体面上、アスプルゴスは手紙で母にそのように伝えていたからだ。ピュートドリスは彼とネアポリスに向かう道すがら、その話を聞いていた。
「でも、ちょっと…いくらなんでもまだ遠すぎるんじゃないの?」
ピュートドリスは指摘せざるを得なかった。正確なことはマカロンにでも訊くしかないが、地図を思い出すかぎり、ラリサからアテネへは、陸路を行くならば、テッサロニケイアからラリサまでの距離の二倍はあった。途中で海路を選ぶにしろ、今ピュートドリスたちがいるローマ街道に乗り、デメトリアス市に入ってパガサイ湾に出るのが最も近道のはずだった。
デュナミスはいったいなにを考えているのだろう。
「どうせ脱走するなら、もう少し待ってからで良いのに」
「今でなきゃならない理由があったんだろ、なにか」
「それにしたって、近くにいる味方じゃなく、はるか遠くにいる息子を頼らなきゃいけないほど? なにか伝えることがあるにしたって、自ら出奔するような危険を冒す必要はないでしょ」
「だからなにかあったんだろ、なにか!」
アスプルゴスは苛々と頭を掻きむしった。
「俺にわかるかよ? 息子だからって、なんでも母親のことがわかると思うか?」
「私に八つ当たりしないでよ」
「だが少なくとも一つ言えることがある。母上はどんな突拍子のないこともやりかねない。女だからとかもう年だからとか、関係ないんだ。熱に浮かされたみたいに。…それが……母上の心から望むことなら……」
アスプルゴスの手が止まっていた。目線は宙に留まり、なにかふと、昔の出来事を思い返しているようだった。
だが彼はすぐにぶんと首を振った。動機は後まわしだとばかりに。それからティベリウスへ向き直った。
「ネロ、俺は母上を探しに行く」
ティベリウスがなにか言う前に、すぐ言葉をかぶせてきた。
「良くないのはわかっている! あんたの作戦だって狂うし、俺にも危険がある。だが行かなきゃならない。それが息子ってもんだろ。俺には母上以外の家族なんていないんだから。なんとしても連中より先に母上を保護する。でないとあいつら、母上になにをするかわからない」
「理解する」
そう述べるのは、実母に六年も心配をかけたままでいる男だった。
「ありがとうよ」アスプルゴスの謝意は、皮肉めいてなく素直に聞こえた。自分がティベリウスにとって必要な男だと信じているのだろう。
「俺たちはあんたの味方だ。これからどうなろうと、それだけは当てにしてくれ」
「どうなろうとじゃないでしょ、国王陛下」
ピュートドリスはわざとため息まじりに言った。
「ちゃんと自分の心配をなさい。デュナミスに万一のことがあろうと、あなたさえしっかりしていれば国ごと危うくならずに済むのよ」
「あんたには言われたくないんだよ!」
やはりアスプルゴスからは、馴染みとなった台詞が返ってきた。
「とにかく、散り散りになっている部下たちを一つにまとめるのがいい」
ティベリウスはもう少し神経を逆撫でしないよう気をつけていた。
「デュナミスが西へ行ったなら、もう連中より先に見つけるのは困難だろう。南に絞って探すほかない」
「だから、なぜ南へ行くの?」ピュートドリスはまだどうしても腑に落ちなかった。「本気でアテネまで行くつもりだというの? 途中にはこの坊やがあやかったのでしょう国王で有名な、テルモピュライの峠もあるのよ」
「おっ、さすが女王様。気づいてくれた?」レオニダスが顔を輝かせた。「実は俺もまだ行ったことがないんだ。ところでもう俺ってもう三十歳なんだけど、そんなに童顔かな?」
「それは私もわからない。我々が先行していると思ったのかもしれん」
ティベリウスはレオニダスを無視して答えた。それからアスプルゴスへ続けた。
「君が国王だと知られないようにすることだが、それも厳しくなるだろうな。万一知られた場合は、東岸のカスタナイアから上陸したと説明しろ」
「本当にいいのか?」
若くて根が良い王は、次第に命令調子になっていくティベリウスの言葉が気にならないようだ。それよりも自分がいなくなることの影響を懸念しているのだから、お人好しだ。彼より二十年早く生まれ、長年ローマ軍の総司令官であり続けた男には、そうさせる格もまたあった。
「部下を一纏めにしろ。それからだ」
ティベリウスの指令は、アスプルゴスだけでなく、アクロンやニケウス、ミダスにも向けられているようだった。
「止めなくてよかったの?」
アスプルゴス以下四騎が西へ急行するのを見送りながら、ピュートドリスは訊いた。
「無駄だろう」
ティベリウスは低い声で言った。
「レオニダス」
「はいよ」
「丘へ上がれ。それから、三十人連れて下れ。指揮はアッティクスに執らせろ」
もう二、三言指令を受けた後、レオニダスは馬に乗って去っていった。後頭部で馬の尾によく似た結わえ髪が揺れていた。すでにだいぶ靄は晴れていた。
「行くぞ」
その言葉はピュートドリスへ向けられていた。ピュートドリスを馬上に乗せ、ティベリウスはトラシュルスへ振り返った。
「残りは我々に追走させろ。ただし、まだ合流はしない」
「つかず離れずというわけですね」
「私たちの愛の旅路を邪魔しないようにという意味よ」
ピュートドリスが教えると、トラシュルスはティベリウスを見つめた。ティベリウスは一瞥だけ返し、自分の馬にまたがった。トラシュルスは一瞬天を仰いだように見えた。晴天の霹靂が見えるかとばかりに。
「……指揮は、マリヌス殿に任せますか?」
「お前に――」
言いかけて、ティベリウスは結局首を振ったのだった。
「そうだな」
無論、キュノスケファラエ丘の向こう側でなにが起こるか報告し、連絡を取り合うという任務もあった。トラシュルス一人を残し、ティベリウスはピュートドリスを連れてさらにローマ街道を東南へ進んでいった。
本当に二人だけの旅路になった。右手にはもはやくっきりと、キュノスケファラエ丘が伸びる。
訊けば、アッティクスとマリヌスとは、ティベリウスの騎士階級の友人であるとのことだった。ロードス島に引退した彼を追いかけてきたのだと。元老院議員であるルキリウス・ロングスを別とすれば、身分、年齢ともにその二人が彼の仲間の中では最も上になる。ローマ人ではない、若くて友人としても日が浅いトラシュルスとレオニダスに、指揮を任せるわけにはいかなかったのだろう。騎士二人は不愉快に思い、召集した傭兵たちに言うことを聞かせるのにも要らぬ骨を折るだろう。
どの道、その四人とも軍の指揮経験はないのだと、ティベリウスは話した。レオニダスは傭兵を生業としているが、一兵卒として気ままにあちこち歩いているだけだ、と。ティベリウスにしてみれば、それが引退していながら陰謀に巻き込まれた身の痛いところだろう。
それでも、先のひとときのやり取りを見る限り、ティベリウスはあの陽気な二人組をしかと信頼しているように見えた。妙に気を置かず、息が合っているというのか、昔ながらの知己であるかのようだった。
トラシュルスとレオニダスは、ともにエジプト出身とのことだった。前者のロードス留学に後者がついてきて、そこでティベリウスと友人になったという。
「それは何年前?」
「四年ぐらいになるが、それがどうかしたのか?」
ピュートドリスはにんまりとしたが、あえてなにも言わなかった。トラシュルスのあの顔。少なくともその四年間、彼の友人に女の影はなかったのだ。それにしても、女奴隷とか娼婦にさえ手を出さなかったのだろうか。
本人にその気がなければ、世の男の大部分は、女に言い寄られることのない生活を送るものだ。
「なにがおかしいんだ?」
「いーえ、べつに」
それでもにやつきを見せる意地悪はやめられなかった。
「この混乱に乗じて、一気に決着をつけることもできなくはなかったかもしれないわよ」
「デュナミスの行方がはっきりするまで、連中の本隊はラリサから出てこないだろう」
つまり事の首謀者と当の偽者は、残る人質たちとともに市内に立てこもるのである。それを陥落させんとするような作戦を、真っ昼間から実行する気にはなれないのだろう。
それにしてもこの人はゆっくりとしたものだとピュートドリスは思う。おそらくは性格だろう。人によっては慎重すぎて、事を先延ばしにしてばかりの男に見えるに違いない。優柔不断と非難されるかもしれない。
しかし単なる先延ばし癖の男なのか、堅忍して機を待てる男なのか、もうじき明らかになろう。ピュートドリスにはそれを喜んで見届ける用意がある。不思議なくらいのんびりとくつろいだ気持ちで、その時を待っている。あるいは、過程を楽しんでいる。今だけを生きている。
「本当に、デュナミスの婆はなにを考えているのかしらね」
まだにやけたまま、ピュートドリスは首をかしげた。
「わからないが……」
ティベリウスはじっとりとした横目を向けてくるのだった。
「たぶん、事実を知ったら、君のほうがよく理解できそうだ」
「あなた、すべての女が狂人だと思いはじめてるでしょ」
「まだ、すべての女王が、で留めておいてかまわないが」
「なんて甘ちゃんなの」
「私もそう思う」