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ピュートドリスとティベリウス  作者: 東道安利
第三章 オリュンピアへの道
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第三章 -3





「まだ文字の跡が見えるわね」

 明くる日は、果樹園の作業小屋で迎えた。ピュートドリスはティベリウスのトゥニカをばんと音を立てて張ったところだった。朝の光にかざすと、薄青色の生地に、アブデラで書きつけた文字が、もう判読はできないものの、染みになって残っているのがわかった。

 幸い、背面だった。ティベリウスはそのトゥニカをかぶり、ベルトを締め、剣帯を下げ、皮靴を履き、身支度を整えた。ここにマントを羽織れば、背中の染みは見えなくなる。

 マントを掛けてあげる前に、ピュートドリスは彼の髪に自分の櫛を入れた。

「次は『この男は私のもの』と書くことにするわ」

「馬鹿な真似はやめろ」

「なによ。『ピュートドリスよ、愛している』でもいいのよ」

「そうではなくて、二度と勝手にいなくなるなと言っている」

 髪を梳く手を止め、ピュートドリスは首を傾げてティベリウスの顔を覗き込んだ。

 あの日、ピュートドリスは単身アスプルゴス一行のところへ乗り込んだ。その前に『私が対処します。アントニアをよろしく』と、このトゥニカに書き込んだ。手持ちの口紅を使った。宿の寝具でもよかったのだが、それではあの食堂にいた気の良い娘に手間をかけると思った。

 だが、言伝てを残すに適した紙がなかったわけではなかった。

「心配をかけたのは悪かったわ。でも、両親の前で遺言状を読み上げて、六年も家に帰らない人にはかなわないと思うわ」

「……両親と言うが――」

「両親でしょ。どう考えても」

 直截に、ピュートドリスは言った。

「そんなつもりはなかったけど、手紙を見たのよ」

 それは、ティベリウスも気づいたはずだった。なにしろその手紙を、ピュートドリスは部屋の机に広げたままにしておいたのだ。

 アウグストゥスからの手紙だった。キュプセラで本物であることを示すために、ティベリウスが出す羽目になったものだ。それを思い出したピュートドリスは、その余白にでも言伝てを書こうと考えた。

 けれどもいざ手紙を開いてみると、そんな意図は失せてしまった。

 それにはこう書かれていた。

『私のティベリウス。

 お前の弟と私は、今日も賽の目遊びに興じた。例によって客も私も居心地良くあるために、私はあらかじめ金を配っておいた。ドルーススはそれでも大負けした。前回はなんとか一部だけでも取り戻したのだが、今夜はそうもいかなかった。かく言う私も、一万セステルティウス失った。

 知ってのとおり、こういう話で、お前の母は一度も私を責めたことがない。だがドルーススは、今夜はとてもアントニアのところへは帰れないと騒いでいた。ファビウスの家にでも泊めてもらうだろう。ファビウスが彼の金の一部を持っていったのだから、その義理はあるだろうという理屈だ。

 こんなことをしていたら、また夕食を忘れた。だがパン二切れと野苺で、今日は十分満足している。

 今年は葉の色づきが早い。冬が来る前に、早く帰っておいで』

 なんということもない手紙だった。だからこそティベリウスは持ち歩いていた。統治や軍事に関わる重要なやり取りが記された書類など、この危うい旅に伴えるはずもなかった。

 今は亡き彼の弟がいた。だからこそ持ち歩いていたのかもしれない。

 けれどもピュートドリスが思い巡らすのは、これを書いたアウグストゥスの思いだ。

 十年より前に書かれたことは確実だった。もしかしたらティベリウスは二十代だったかもしれない。

 ピュートドリスは知っていた。思いとは言うが、大仰な思いなどまったくなかった。なんということもない手紙。今日なにを食べたとか、なにをして遊んだとか、どうでもいい話。それを書き送る相手は限られていた。思いなど自明で、考えもしない。手紙を書かねばならない理由などない。そんな相手だと見なしていたのだ。

 ピュートドリスも知っていた。なんということのない手紙を書いたことは、これまでに幾度もあった。だからこそ彼らに対する思いもわかった。

 そして、これを保管し、ロードス島まで持ってきていたティベリウスの思いも、たちまち解した。あの日、ピュートドリスは、思いがけずその深さに触れたのだった。

「私、あなたの継父が好きよ」

 彼の肩にマントを掛け、留め具を刺した。そうして手を動かしながらも、ピュートドリスはティベリウスの目を見つめた。

「トラッレイスの恩人よ。地震で倒壊した私の故郷を、見捨てないで支援してくれた。あの時初めて、私はあの人のような統治者にならなってみたいと思ったのよ」

 ティベリウスもまた真摯にピュートドリスを見つめていた。そこでピュートドリスはふくれ面になった。

「まあ、姦通罪と女の独身税だけ、腹が立つけど!」

 するとティベリウスの顔の端々が、わずかにゆるんだように見えた。

「悪気はないんだ」

「わかってるわよ。だからなおさらタチが悪いんでしょ」

 ゆるんだ口の端は、今や確かに上がっていた。

「国益を考えている」

「国益のためには、いちいち他人の気持ちを慮っていられない? そんな次元の問題じゃない? でも断言するわ。それにしたってあなたの継父は、他人の気持ちに気づかなさすぎ」

 ティベリウスの喉と腹が、くつくつと動いているように見えた。こんな様子を見せられるまで、彼は六年の時間を要した。

 あるいは、女の言葉だから許容できたのかもしれない。

「行くぞ」

 ティベリウスが立ち上がった。ピュートドリスもそれに倣うと、ふわりと頭上から、朝日と見紛うヴェールが下りてきた。ピュートドリスのマントだ。テッサロニケイアで、彼が新しく作らせていた。

 マントをかけて、そのまま肩にとどめた手をそっと押して、ティベリウスは歩き出した。

 小屋の扉を開けて、いっぱいにあふれ出てきた本物の朝日は、ピュートドリスの目にいつになく染みた。

 この腕の中から、彼は幾度も愛する人たちを手放さなければならなかった。





 ドルーススは心外このうえもなかった。

「帰ります」

「だめ! だめ! 帰っちゃだめ!」

 レントゥルスにたちまち抱きすくめられた。

「もうすぐお父上に会えるんだから!」

「ぼくは会いたいだなんて言ってません!」

「おっ、怒り方が父上に似てきたな」

 そう鷹揚に応じたのは、ルキウス・ピソだった。アッピア街道を南へひた走る馬車の中、ドルーススとレントゥルスの向かいにゆったりと座していた。

「ティベリウスは会いたがっているぞ」

 ピソが続けたが、ドルーススはまったく信じられなかった。

「父は…ぼくのことを知っているのですか?」

「知らないだろうな。ルキリウスがばらしていなければ」

「帰ります」

「待って! 待って! だから待ってって!」

 馬車の扉を開け、ドルーススは身を乗り出したが、四本の手によってあっけなく引き戻された。

 走行中の馬車から飛び下りるのは危険だ。だがドルーススは身を投げ出してでも抗議したかった。もうローマを出て三日目だ。今更一人で歩いて帰ることは困難だ。ましてまわりはピソとレントゥルスの従者ばかりだ。ドルーススは自分の奴隷もいなければ、馬も連れていなかった。

 この人たちは、十三歳が自力で帰れなくなった頃合いを見て、とんでもない真相を告げてきた。

 これは誘拐だ。

「大丈夫だから」

 困った笑みのまま、レントゥルスもまた言い張っていた。

「ティベリウスはきみを怒らないよ。ぼくら三人のことは、戦車につないで引きまわすかもしれないけど」

「そういう問題ではありません!」

 こうしてドルーススは、最も信頼していた大人二人に裏切られたのだった。

 まったくこれが、四十八とか七にもなる男のすることだろうか。この怒りと衝撃を、ドルーススはどうしていいかわからなかった。二人そろって、ローマで知らぬ者などない名門の家父長だった。元老院の重鎮であり、勲功著しい将軍だった。それなのにまるで今は、ドルーススと大差ない年の若者のように振る舞っている。悪ふざけに興じ、友人の驚く顔を今か今かと待ちかねて浮かれているように見える。

 一緒にいると昔に戻ってしまうのだろうか。だがそれにつき合わされる側はたまったものではない。

 ピソとレントゥルスは実にゆったりとくつろいでいた。夕暮れ時にはヴェスーヴィオ山麓の温泉に入り、葡萄酒の杯を傾けた。女のようにいつまでも絶えることなくおしゃべりをしていた。ドルーススの異様な緊張などどこ吹く風だ。

 聞くに、この悪辣な陰謀は二年前から始まっていた。レントゥルスがアジア属州の総督に指名され、その往復の道すがら、当然のごとくロードス島にいる父ティベリウスを訪ねた。父とは生まれた時からの友だちだと、レントゥルスは話していた。それは大げさにしても、彼もピソも少年の頃から父の指折りの親友であることは確かだった。

 そんな親友たちが、父の目を盗んでルキリウス・ロングスと密談を交わしていた。

 父もまた、最も信頼している友三人にまで裏切られているところだった。

 ルキリウスは父にぎりぎりまで真相を打ち明けないだろうと、ピソは話していた。競技祭参加を取りやめるなどと、ごねるならまだしも、意固地に腹を決められては、もうだれにも父を動かせないから、と。なんとかしてオリュンピアまで連れてきて、いざ引くに引けなくなったところで自ら話すか、我々に投げて逃亡するだろう、と。

 やっぱり父はぼくに会いたくないのではないですか、とドルーススは声を張った。涙声になっていた。けれども裏切りの親友どもは、そろって首を振った。六年も会っていない一人息子に会いたくない父親などどこにいる、と。

 実際に六年も捨て置いて平然としているではないか、というのがドルーススの言い分だった。父はぼくを捨てたのだ。家族のことなんてどうでもいいと思っているのだ。愛していないのだ。

 レントゥルスのピソも、このときばかりはふざけた顔をやめ、真面目で慈しむように聞かせるのだった。

「信じてくれ、ドルースス。ぼくらにはわかる。ティベリウスは君を忘れたことなんてない」

「何年つき合っていると思うんだ」

 それから二人は、また良い年をして能天気な大人に戻るのだった。まんまと誘拐せしめた子どもに、聞きたいと言った覚えもないのに、父との思い出話をきゃっきゃと語った。なにかの魔術で自分を麗しきニンフだと思い込み、お花畑を駆けまわっているかのようだった。現実は五十代も近い男であるのに。

 ドルーススはそれでも逃亡を考えた。夜半、こっそり馬を借りて、首都まで飛ばすことを目論んだ。自分だってもう成人も近い男だ。それくらいできる。たとえ父親がいつ成人式を執り行うか、まったく先行き不透明な息子であったとしても。

 だが、やけに重い自分の荷物を確認した瞬間、ドルーススは絶望にも似た思いを味わった。叔母アントニアがあっというまに荷造りしてくれたそれには、自家製のキュウリの漬物をはじめ、小魚のガルム漬け等々が、ぎっしり収められていた。どう考えても父の好む酒の肴だ。アントニア叔母までが与していたのだ。

 こうしてドルーススは、母親代わりにまで裏切られたことを知った。

 もう帰る家などなかった。

 目に涙を溜めてうずくまり、ドルーススは馬車にゆられ続けた。頭の中がぐちゃぐちゃだった。為す術もなく、みじめな思いでいっぱいだった。それに気づかないふりをしながら、ピソとレントゥルスは相変わらず楽しそうだった。今はレントゥルスが、ドルーススの肩を抱いて話していた。

「あるときぼくらはエジプトのアレクサンドリアにいた。ティベリウスはぼくの隣でお昼寝をしていた。そこへカエサルがやってきた。ぼくらの部屋を横切って、自分の部屋に向かうところだったんだ。そこでぼくらはそっと目配せをして、入れ替わった。少ししてからティベリウスが目を覚ました。そして寝ぼけ眼で、『カエサル……』とつぶやいて、ぎゅっとしがみついた。それからまた寝入った。一瞬後、がばっと飛び起きて、もう真っ赤になって取り乱した。『なんでそこにいるの!』とぼくを見つけて怒った。両腕をぶんぶん振っていた。あれは可愛かった。ぼくとカエサルは教えてあげた。『でも君は、カエサルと言ったよ』『言った。言った』その後二日間、ティベリウスはぼくと口を利いてくれなかった」

 もう三十年も前の話であるそうだった。そのときに父は、レントゥルスと絶交をしないという決定的な過ちを犯した。

 ドルーススはこの二人を父親代わりと思っていた。大好きだし、尊敬していた。実際、父よりもはるかに気さくで、話しやすかった。父がいなくなってからも、なにくれとなく面倒を見てくれた。学業からなにから、男子が知るべきことを全部教えてくれた。この二人がいたからこそ、ドルーススは父の不在による諸々の感情にもそれほど苦しまずに済んだと思う。実を言えば、父がいたときもいなくなってからも、ピソやレントゥルスのような父親であればいいのにと、一度ならず思ったことがあった。

 だが今となっては、アシニウス・ガルスの息子にでもなっていればよかったと考えていた。

 アシニウス・ガルスとは、母ヴィプサーニアの再婚相手だった。今では母とのあいだに五人もの子どもをもうけ、仲睦まじく暮らしている。

 ドルーススは母に会いに、そして弟妹たちと遊ぶために、時折ガルス邸を訪ねていたが、父がいなくなってから、だれがなにを言ったわけでもなくその頻度が増えていた。

 ガルスはいつでも歓迎してくれた。嫌な顔ひとつせず、母ヴィプサーニアと引き合わせ、積極的に我が子らと交流させた。父がいなくなってからは、さらに熱心に招くようになった。「私を父親と思ってくれ」と、実際にドルーススは何度も言われた。

「私も君を息子だと思っている。まったく君のような良い子を置き去りにするなど、あの人はどうかしているのだ」

 ガルスの口吻には、時に怒りが、時に軽蔑が滲んでいた。

「あの人は出世のために君の母親を捨てた。父親を亡くしたばかりの、帰る実家もない妻をだ。これがどれほどの残酷かわかるかね? そのせいで君の弟妹になるはずだった子が流れたのだ。そこまでしてあの人は、カエサル・アウグストゥスの権力に吸いつきたがった。それなのに結局、新しい妻をもまたしても捨てた。君のこともなにもかもを捨てて、出ていった。こんな幼稚が、こんな身勝手があるか」

 憤懣やる方ないとばかりに、しきりに首を振るのだった。

「ユリアは自らの不品行のせいで罰せられたのか? そうだとしても、あの人がまともに愛してさえいれば、ここまで気の毒なことにはならなかっただろう。わかるかね? あの人は二人ながら妻を捨て、二人ながら不幸にした。幸せにできなかったのだよ。二度も」

 そして笑みを浮かべるときには、皮肉と嘲りが窺えた。誇りはなお隠さなかった。

「私なら絶対にそんなことはしない。君の母を娶ったあの日、私は女神ユノーに誓ったのだ。必ず、ヴィプサーニアを幸せにしてみせると。あの人よりはるかに妻を愛し、一生をかけて守り抜いてみせると。そして実際、私はよくやってきたと思わんかね?」

 ガルスがいそいそと振り返る先には、愛しの妻が、少し身を小さくするようにしてたたずんでいた。母はそっと微笑んで、うなずくのだった。

 顔を輝かせ、ガルスは力強くうなずき返した。

「もちろん君のことも、いつでも受け入れる用意があると思ってくれたまえ、ドルースス」

 ドルーススはガルスに反論する気はまったくなかった。実際、そのとおりでしかないと思っていたからだ。それにたとえ息子としての役目に則り、父を弁護するにしても、ドルーススにはなんの材料もなかった。別れたときには七歳だったが、それにしても父とまともに話した記憶がなかった。そして今に至っても、なにも語ってくれはしなかった。

 ドルーススはガルスに感謝していた。母を不幸にせず、義理の息子のために面会の場を進んでもうけてくれるのだから。

 だが、それでもその冷ややかな言葉に、ぞくりとすることもあった。

「もうすぐ成人だというのに」

 ドルーススの肩に手を置き、母には聞こえないささやき声で、ガルスはつぶやくのだった

「なまじ死んだも同然の状態で生きていられるのは、辛いな……」

 ドルーススの心臓はどきりと跳ね上がった。そして家に帰って寝台にもぐり込んでからもずっと、冷たい汗と、腹の底で重い影に居座られる感覚に、じわじわと苛まれるのだった。

 他方、ピソとレントゥルスは、父を決して悪く言わなかった。かといって、父の印象を少しでも良いものにしようと、言葉を尽くして弁解もしなかった。おおむね二人による父の話は、若き日の無邪気な思い出ばかりだった。

 当然だ、とドルーススは思う。いくら最も深いつき合いの親友であっても、息子への弁解は父自身の役目だ。なんの言い訳もないと思っているのだろうか。それでもこの二人の五分の一でも、父が自ら話してくれればいいのに。

 恨みさえ込めて、そう考えていた。そしてドルーススは、思いがけずとうとうその機会を得たのかもしれなかった。もうすぐ父に会える。

 それなのに今は、恐ろしくてたまらないのだ。震えていた。ガルスの非難を聞いているほうがまだましなくらい、腹の中がむかむかして、吐き気を覚えた。

 ドルーススは逃げ出したかった。あるいは声のかぎりに叫び、泣き出したかった。

 一方で、馬車の中で膝を抱えたまま、頑なにじっとしている自分がいた。

 従兄弟のゲルマニクスのことを考えた。今ごろはなんでドルーススだけが出かけたのかと大いに嘆いているかもしれない。同じ屋根の下で暮らしているのだ。アントニア叔母は黙ってはおれないだろうから、ピソかレントゥルスの別荘に出かけたとでも嘘をつくだろうか。オリュンピアに行ったなどと知らせたなら、彼は一人ででも猛然とあとを追ってくるだろう。

 うらやましがるだろうなぁ、とドルーススは思う。ぼくの気持ちも知らないで。いつか自分もオリュンピア競技祭に出場したいと熱望していたから。体育も得意で、戦車競走も大好きで、そのうえこっそりあこがれている祖父マルクス・アントニウスが、ギリシアを愛した人だから。真実を知ったら、弟のティベリウスと二人で地団太踏んで悔しがるんだろう。

 そう思いを馳せ、ドルーススはようやくため息をつくことができた。けれども気分はまったく晴れなかった。

「ブリンディジが見えたぞ」

 馬車の窓から首を出し、ピソが知らせてきた。ローマを発って八日目の昼だった。嫌々ながら、それでもつられて、ドルーススも窓の外へ視線を向けた。東方世界への玄関である都市が、海を背後にうっすらと広がっていた。来るのは初めてだった。無論、ギリシアにも足を踏み入れたことがなかった。

 ブリンディジに近づくにつれ、街道はにぎわいが増していた。何台もの馬車とすれ違った。ピソの馬車の後ろにも、列が出来つつあるようだった。

 歩道を行く人々もいた。牛や驢馬をゆったりと引く者。街道脇の墓所にでんと腰を下ろして休憩している者。身軽な体の徒歩の者。だれもかれもがのんびりと、平穏な人生を謳歌しているように見える。

 ドルーススの目は、そのなかのとある家族に引かれた。三歳くらいの男児が、父親に肩車されて当たり前のようにしていた。ゆるりと歩く父親の少し前方で、七歳くらいの娘が、母親のトゥニカの裾をつかんで飛び跳ねていた。父親を呼んでいたのだが、すぐに待ちきれなくなって、自ら彼に突進していった。父親はたいしてよろめきもせず、また当たり前のように娘がまとわりつくに任せた。

 ドルーススは馬車がその家族を追い抜くまで、首をまわして見つめていた。ピソとレントゥルスの視線に気づいたときには、もう遅かった。けれども二人ともなにも言ってこなかった。

 それがまたドルーススには無性に腹立たしかった。小さいうめき声まで漏らした。そして、つい先ごろまでもそうしていたことに気づいた。

 ドルーススは膝に顔を埋めた。







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