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ピュートドリスとティベリウス  作者: 東道安利
第三章 オリュンピアへの道
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第三章 -2





「大変な事実を知らせていなかったわ」

 ピュートドリスはぐるりと首だけティベリウスに向けた。彼は小屋の壁に燭台を一つ下げたところだった。それで、その肩がかすかに張りつめるのが見えた気がした。

「ちょうど先月の今日、私三十四歳になったのだったわ」

 彼が振り向くと、ピュートドリスは目を丸々と開いた。干し草の上に座り込み、身じろぎもしなかった。

「だからといって若い女のところへ行ったら、今度こそ殺すわよ」

 ティベリウスは目を閉じて、小さく息をついた。それからピュートドリスを胸いっぱいに抱きしめ、干し草の中にずぶずぶと埋め込んでいった。

 こうして今日も彼は、ピュートドリスが望むものをあっさりとくれるのだった。

 むせ返るほどの熱の中で、ピュートドリスは思った。三十六歳から四十二歳になるこの年までの人生を、彼は引退という形で過ごした。男の盛りは女よりも遅くて長いのかもしれない。たとえば、十八歳から二十四歳の六年を異性の目に触れることなく過ごせと言われたら、女は耐えうるか。そのような問いに相当する事実だろうか。

 たかが一年だ。けれど私が三十三、四歳ではなく、もう三十年ほど年を取っていたら、今このような状態になっているだろうか。デュナミスも言っていたではないか。あと二十年若かったら――と。

 残酷な事実だった。けれども自然のなせる業でもあった。ピュートドリスもまた十三歳だから二十一歳に恋をした。もしもあのとき三十四歳だったのなら、二十一歳に恋をしたとて、きっと違う形で焦がれただろう。

 一方で、こうなってみて思うのだ。ピュートドリスにとって、二十一歳であれ四十一歳であれ、ティベリウスはティベリウスだった。会う前こそその価値の差に恐れもしたが、今となってはそんなものはどこにもなかったことに気づいた。幻想だった。たとえ個人の存在に価値なるものがあるとしても、ピュートドリスにとって、十一歳でも六十一歳でも八十一歳でも、彼がティベリウスであることに変わりはない。等しく貴く愛おしいと思うだろう。

 子どもたちがそうであるように。家族がそうであるように。

 ひと月前の誕生日は、アントニアと二人、トラッレイスに向かう道すがら迎えた。

 「彼ら」にとっては、そうではなかったのだろうか。

「私ね、最初はユバを殺そうと思っていたのよ」

 今のすべてが夢にも思わなかった日のことを、ピュートドリスは話して聞かせていた。実際にティベリウスの首に手をかけて、絞めるふりもした。身代わりだ。

「男ってやつはなんで若い女ばかり欲しがるのかしら!」

 ティベリウスは一応ピュートドリスの手首を押さえはしたが、本気で退けようとはしなかった。

「だってあんまりでしょ。なによりひどいのが、エジプトに入れないセレネ叔母様の分まで墓参りをしてくると言いながら、このあり様だってことよ。本当に、なにもわかっていないのよ。自分の浅はかさも、妻の屈辱も、信頼を裏切ったことも。都合よく、馬鹿みたいに軽く考えているのよ」

 この非難に、ティベリウスはなにも答えなかった。実際に窒息しかけているわけではないはずだ。聞こえないふりをしているのか。取り合わないでいるつもりか。世の多くの男どもがそうであるように。

 女が面倒なら、一生面倒だと思って生きていく不幸を味わえばいいのだ。

「ねえ、ユバを擁護しないの? 男の立場から」

「どう考えても、今最も辛い立場にいるのはセレネだ」

 だがそれがティベリウスの答えだった。ユバとセレネは離婚していないとか、愛していることに変わりはないとか、御託を並べはしなかった。

「そうね……」

 ピュートドリスは、ティベリウスの首から両手を外した。夫に裏切られたばかりではない。陰謀の要として利用され、セレネ叔母はひと月も捕らわれの身でいるのだ。

「セレネのいちばんの味方になれるのは君だろう。このもめ事が終わったら慰めになってあげてほしい」

「とりあえず、コリント湾で恐怖の『お買い物会』でも開催しようかしら。デュナミスも誘って」

「…出資するか」

「だめよ。ユバに支払わせるの。それからアルケラオスにも」

 ピュートドリスは言い張った。女が欲しているのは、決して豪奢な品々ではなかった。なにより女を喜ばせるものを持っていることに、どうして多くの男は気づかないのだろう。

「あなたはひと言、『これくらいで女の気持ちが済むと思うな』と教えてあげてくれればいい。女が言ったって、どうせわかってくれやしないんだから」

「そうだろうか」

「そうよ。なんでも都合よく解釈するんだもの」

「言えるだけ言ってみたらいい。わかってもらうために。見切りをつけるのは、それからでもできる」

 ピュートドリスは口を閉じた。ティベリウスの腕を抱えて横たわり、しばし黙考した。それからまた口を開いた。

「…ユバは真実を知らないでいるでしょうね。今ごろ本気であなたにセレネ叔母様を取られたと思い込んでいるかもしれないわ」

 これを聞くと、ティベリウスもさすがに頭痛を覚えたかのような顔で、天を仰いだ。干し草小屋の天井は、ただ一つだけの灯火をあっけなく吸い込み、ただの暗闇だった。

「まあ、グラピュラーにせいぜい優しく慰めてもらっているでしょうけどね、自分を棚に上げて。ローマの法律でいうと、ユバは自分の家父長権を行使して、妻を罰することができるのだっけ? 不貞行為の相手を殺すこともできるのだっけ?」

 無論、それ以前にユバは一国の王である。自国内でならば、妻になにをしようとだれもなにも文句をつけないだろう。

「そもそもが無実なのだがな」

 うめきまじりに、ティベリウスはセレネ叔母と自分の立場を述べた。

「私が証人になってあげるわ」ピュートドリスは約束した。「ユバがあなたに決闘を挑んで、ぼっこぼこに返り討ちにされるのを見届けてから」

「そんなことはしない」

 ティベリウスは横目でにらんできた。

「ユバは私には兄のような人だ。恩義もある。あの心優しい人柄を愛している」

「私だって、そうだったわよ」

 ピュートドリスはふくれ面をして、その顎をティベリウスの肩に乗せた。

「でも、ねえ、セレネ叔母様も昔、私に言っていたのよ。あなたが初恋の人だって。それでユバったら、しょんぼりしちゃって、可愛くて。だから今も、叔母様があなたの胸に飛び込んだなんて噂を耳にしたら、なんと思うか……」

 そこで、ピュートドリスの記憶になにかがひっかかった。

「ちょっと待って! あのとき、セレネ叔母様はこう言ってユバをなぐさめていたわ。『あなたより先にティベリウスに出会ったってだけなのに』」

 規則的に上下していた胸が、ぴたりと動きを止めた。

「でも、おかしくない? セレネ叔母様とユバが初めて会ったのは、エジプトよ。私の祖父を負かして、アウグストゥスがアレクサンドリアを制圧したときよ。それより前に、どうして叔母様があなたに出会えたっていうの?」

 ティベリウスは石化したように固まっていた。ピュートドリスはその上に身を乗り出した。

「ねえ、どういうことよ?」

 とたんにティベリウスはピュートドリスへ思いきり背を向けた。この数日で初めてのことだった。

「ちょっと! ねえってば…!」

 素直すぎる。なぜピュートドリスの記憶違いとでも言えないのか。全身で秘密があると声高に叫んでいた。

「なんで叔母様の初恋の人なの?」

 その強情な肩を、ピュートドリスは揺さぶった。剝き出しの背中に爪を立てた。首筋に噛み跡をつけた。

「話してくれるまで寝かさないわよ」





 翌日は、ひたすら山あいの道を南下した。追跡の気配はなかったので、アスプルゴスたちもティベリウスと馬の歩みを揃えていた。

「どういう策でいくつもりだ?」 

 アスプルゴスは知りたがった。ピュートドリスも同様だったので、訊いてみた。

「タソス島を出航したあなたの仲間は、順調ならそろそろ上陸する頃じゃないの?」

 行く手を見たまま、ティベリウスはただうなずいた。

「挟み撃ちにするのか?」

 眼前に一人も敵は見えないのに、アスプルゴスは今にも出撃の号令を発せんばかりだった。否、むしろ大暴れの許しを今か今かと待ちかねている一騎兵に見えた。

「俺の部下とあんたの手勢で。テンペ渓谷が最適だろうにな」

 テンペ渓谷には、アロロス市から海沿いの街道を進んだ場合に差しかかる。オリュンポス山とオッサ山に挟まれたその場所を抜ければ、テッサリア平原が開け、ラリサ市に至る。今ごろ偽者軍団がちょうど通りかかっている頃かもしれない。

 この山沿いの道のほうが、海沿いの道よりも長いうえ、極力避けられているとはいえ、やはり起伏もある。それでもこちらは全員騎馬であるから、無理をすれば先まわりできなくもないのかもしれない。だがティベリウスは、ゆるりとはしていなかったが、かといって猛然と馬を走らせるでもなかった。

「ただ挟み撃ちにするだけでは、人質を無事に取り戻せない」

 彼は言った。それにテンペ渓谷では、偽者軍団を追走しているアスプルゴスの部下たちとの連携も不十分になるだろうともつけ加えた。

「じゃあどうする?」

 問うアスプルゴスは、噛みつくようだった。偽者軍団の後ろを歩き続けるばかりであることに、いよいよ焦れてきたのだろう。

「考えている」

 ティベリウスは相変わらず前方を見たままだった。アスプルゴスは怪訝な顔で馬から身を乗り出した。

「もう考えがあるという意味か? それとも今考えている最中だという意味か?」

「どちらでもある」ティベリウスはそう応じた。「いずれテッサリアで事を終わらせるつもりでいる。ラリサが見えてからが忙しくなるだろうから、今は体力を温存しておいてほしい。この急ぎの道ではあるが」

「心配するな。体力ならもう十分温存しすぎて、今にも噴火しそうだよ」

「ファルサロスの決戦再びね」ピュートドリスはティベリウスとアスプルゴスへにやりと笑いかけた。「あなたが総大将の神君カエサルで、私が副将のアントニウスね。そうなるとこの坊やは、もう一人の副将のドミティウス・カルヴィヌスかしらね」

「ドミティウスのほうが首席副将で、年上だったろう」

 アスプルゴスが指摘した。彼も神君カエサルの著作『内乱記』を読んでいたのだろう。

「もっともあいつらは、自分たちのほうがカエサル軍だと思っているだろうがな」

 彼の言葉に、ピュートドリスも考えた。フィリッピの野と同様に、かのファルサロスで、あの偽者は宣言するだろうか。おそらくファヴェレウスというローマ人に担ぎ上げられて、自身をアントニウスと重ねさせただけではなく、さらに想起させるだろうか。

 我こそがカエサルである、と。

 とたんにピュートドリスはティベリウスをまともに見つめた。彼を挟んで反対側にいるアスプルゴスも同様だった。表情もまたそっくりだったに違いない。二人の頭の中心を、なにかが突いていた。

 だがそれが言葉にまとまることはなかった。思いがけずティベリウスが、ピュートドリスを見つめ返していたからだ。そのまなざしは、かの史上熾烈な内乱を、結局は偽者相手になる今回の騒動と重ねている軽口への、怒りや呆れではなかった。まして昨夜の、それからおそらく今夜も続くであろう長い睦まじさを思っての欲望でもなかった。澄んで冷静なまなざしには、深い思慮と、かすかな躊躇が潜んでいるように見えた。心配しているのか。

 まばたきを返し、ピュートドリスは胸中で探った。私はなにかをしでかしたかしら、と。それとも、これからなにかしでかしそうかしら。またしても。

 いずれ彼は、ピュートドリスやアスプルゴスとはまったく違うことを考えているらしかった。

「あーっ、もうっ!」

 アスプルゴスは一週間ぶりくらいに頭を掻きむしっていたが、その苛立ちは見せかけに思えた。自分の頭の中にある正体不明のなにかを追い払おうとしているようだった。

「やっぱりやつらの内部に、俺の部下たちを混ぜておいたほうがいいんじゃねえのか? 人質全員の無事確保なんて、ただ戦に勝つより難事だぜ」

「そうだな」

 ティベリウスはまた前方を向いた。ピュートドリスへの視線など気のせいであったかのように、平淡だった。

「だがきみの部下を侵入させるのはどうしても危険だ。まだそのときではないから、絶対に連中に近づきすぎてはならない」

「あんたは他人の部下のことまで気にしすぎだぞ」

 指越しに目をやりながら、アスプルゴスはうめくように言った。ティベリウスは変わらず前方を見据えていた。

「人命を軽んじたら、どんな戦も負けだ」







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