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ピュートドリスとティベリウス  作者: 東道安利
第三章 オリュンピアへの道
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第三章 オリュンピアへの道 -1

第三章 オリュンピアへの道 







 八月五日、昼下がり。アッピア街道を下りながら、ドルースス・ネロがオリュンピア旅行の真の目的を知らされた頃、ピュートドリスはテッサロニケイアの知人宅で、ひっそりと体を休めていた。例によってアントニアは、屋敷内の子どもたちと中庭を駆けまわっていた。マカロンじいやもつき合わせていた。

 何度かこの屋敷を出入りした末に、アスプルゴスの家臣の大半が、先ごろこの都市を出立した。彼ら曰く、偽ティベリウス御一行もすでにテッサロニケイア近郊を離れているそうだ。

 結局、あまりにも偽者と明らかになる危険が高いために、彼らの本隊はテッサロニケイアに入らなかった。本物がちゃんと追いかけてきていることだけ確認し、早々にペロポネソス半島に向けて南下をはじめた。

 だが、いよいよ時は迫っていた。オリュンポス山を過ぎれば、そこはもうまぎれもなくギリシア本土である。

 ティベリウスによると、彼のクラウディウス・ネロ家のクリエンテスは、ペロポネソス半島には多いが、テッサリア地方には少ないという。ギリシアで最も地味豊かな平原が広がるその地は、ラリサを母市とする。陸路を行くからには、東西南北からローマ街道が結集するその都市を通らないわけにはいかない。そしてその近郊にネロ家のクリエンテスが少ないのであれば、偽者軍団も大いに暴れまわるだろう。そして陰謀成就の機会を待ち構えるだろう。おそらく下手にペロポネソス半島に入るよりも好都合と考えて。

 ティベリウス・ネロを捕らえて殺害し、その罪をピュートドリスに着せる。遺体は首のみ香油漬けにして、オリュンピアまででもどこまででも行進し、悪評を広めつづけ、いよいよという時になったら知らしめればいい。謀反があった。だが東方の女王によって、首謀者は打倒された。

 だがティベリウスのほうも、そろそろ始末をつけるときだと考えているだろう。タソス島からテッサリアに向かわせた彼の手勢と合流する。そして愚かな偽者軍団を壊滅させる。そのときは確かに近づいている。

 だが、アスプルゴスが言った。

「『女の誘惑にうつつをぬかし、ことごとく我らの後手後手にまわっている平和惚けした流罪人は恐るるに足らず』だとさ」

 アスプルゴスの使いが、土産の酒を届けた際に耳にしたとのことだった。

 ピュートドリスは劇場にいた得体の知れない男を思い浮かべた。あの男か、あるいはほかにも数名いたであろう偵察者が、本隊にそう伝えたのだろう。けれどもそのように見なしたとしたら、あの男の目は所詮その程度なのか。それともあえてそのように報告したのだろうか。なんのために?

「不都合はあるまい」

 と、ティベリウスは今日もまたキュウリの漬物をかじっていた。この一見した平穏の中、さすがに欲求に屈したのか、一杯の酒も口にしていた。

 それを見るアスプルゴスの視線は、少し疑わしげだった。昨日丸々つき合わせた以上、ピュートドリスは無理もないと思ったが、あえて彼に弁解を試みる立場にはなかった。

 それでもアスプルゴスは、今後も家臣たちと離れ、ティベリウスと行動をともにするとのことだった。

 日の沈む間際、ピュートドリスはアントニアに暇を告げた。眠っているあいだにこっそり出発することも考えたが、それではここまで懸命に従ってきた娘に対して不義理だと思った。

「行ってくるわね」

 娘の頬に接吻をしたとき、我ながら堂々として、自信をたたえていると思えた。

「お母様はまたみんなで一緒に暮らすためにがんばるの。だからもう少しだけ辛抱してね、アントニア」

 それでもその「みんな」の中に、アルケラオスが含まれているかどうかは、自分でもわからなかった。

「わかっているわ」

 けれどもしかとうなずいたのは、アントニアのほうだった。それからきらめく目でティベリウスを見上げた。

「おじちゃま、お母様をよろしくね」

 ピュートドリスはしばしあんぐり口を開け、それから苦笑した。マカロンも困ったような笑みを浮かべたが、アントニアに倣うように大きくうなずいた。

「王女様は我々がお守りします。陛下、どうかご無事で。ティベリウス、陛下をお頼み申し上げる」

 マカロンには、アントニオスの預けた従者が四人同行していた。全員が女で、文武いずれの心得もあった。アントニオスがいずれ姉の宮殿に仕えさせるために育ててきたという。まるでアントニアが預けられることを想定していたかのようだった。ピュートドリスは胸中でまた苦笑しながらも、弟に感謝した。

 マカロンたちはアントニアを連れ、いずれはピュートドリスを追走してくるとのことだった。ピュートドリスはそれでも、自分とティベリウスにもしものことがあった場合は、エグナティア街道を突っ切ってローマへ行くよう言い含めていた。

 ティベリウスに従い、ピュートドリスはテッサロニケイアの門を出た。そこではアスプルゴスと家臣二人が、馬を連れて待っていた。

 五騎はテルマイオス湾を西へまわり、ほどなくカラストラ市に着いた。すでにどっぷり日が暮れていたが、テッサロニケイアの知人が話を通してくれていたので、すぐに宿に入ることができた。

 離す気配のなさそうな腕の中で、ピュートドリスはなんとか寝返りをうった。

「ようやくまともに母親らしいことをした気がするわ」

「無事に帰るまでだ」

 言いながら、ティベリウスは目を閉じた。

「あなたもでしょ」

 その唇に、ピュートドリスは噛みついた。

 翌六日、五人はさらにテルマイオス湾岸を進んだ。西から南にまわる頃には、アスプルゴスの家臣が一人、引き返して合流していた。

 彼らは昨晩、この先のアロロス市に宿泊していた。ローマ街道はそこで二手に分かれ、一方は海沿いの道、もう一方は山沿いの道となる。いずれもオリュンポス山を挟み、ラリサへ伸びる。その分岐点で、偽者軍団は海沿いの道を選んで下っていったとの報告だった。家臣たちは引き続き、偽ティベリウス宛てに三度目の酒を送りながら、ゆっくりと追走しているとのことだった。

 馬上で、ピュートドリスは口を開いた。

「よく伺候を求められなかったわね。デュナミスがいるのに」

「オリュンピアで決着をつけるまでネロとは馴れ合うなと王に命じられている。そういう体だ」

 アスプルゴスは自ら説明した。

「酒は礼儀と、偵察という名目だ。ネロの馬のな。連中にもそれは伝えている。母上ならばいつでも引き取るけれども、と」

「いつまでごまかせるかしらね」ピュートドリスは訝ってみせた。「あなたもボスポロス王だけど、デュナミスだって女王なのよ」

「万一連中に混ざる羽目になったところで、不都合はないだろ。むしろ今後の決戦の時に、こいつらが内部にいてくれたほうが人質の確保が簡単だ」

「今は極力避けろ。そして、なにがあっても武器は捨てないように」

「わかってる」

 ティベリウスの言葉にアスプルゴスはうなずいた。

「本当に万一のときは、全速力で街道を引き返して来ることになっているさ。俺の部下は全員騎兵だからな」

 六騎は湾岸をゆるりと進み、やがてアロロス市を目にしていた。

「アクロン」来訪したばかりの部下に、アスプルゴスは引き締めた声で呼びかけた。「休息が必要なら、遠慮なく言え」

「問題ありません」

 アクロンは即答した。

「よし」

 アスプルゴスはうなずき、前方の都市へ目線を鋭くした。

 昼、ティベリウスとピュートドリスの二騎は、アロロス市の前を通過した。しかし向かった先は、南ではなく西だった。市に届く二本目のこのローマ街道は、やがてオリュンポス山の麓を行く山沿いの街道と合流するが、北のエグナティア街道にもつながっている。

 アロロス市の門から、四騎が離れた。内三騎は跡をつけてきて、一騎は海沿いの道を下っていった。

 街道は混み合ってはいなかったが、人通りはあった。荷物を背負った徒歩の者。驢馬や騾馬を引く者。荷馬車も行き来していた。

 そのあいだを急がず、ティベリウスとピュートドリスは進んだ。

 しばらく行くと人通りがまばらになった。海沿いの道は選ばないという確信を抱かせるにも、十分な時間と距離が費やされた。

「どけえ!」

 抜け出したのは、三騎のうちの一騎だった。猛然と駆けて、追い抜こうとしてきた。ティベリウスとピュートドリスはあっさり道を譲った。

 だがすれ違いざま、ティベリウスは手中に忍ばせていた短刀を、馬の尻めがけて投げた。

 いななきとともに、馬がのけぞった。それを駆る男もまた悲鳴とともに地面に落ちた。

「貴様…!」

 後ろの二騎が色めき立った時、すでにティベリウスとピュートドリスは馬を飛ばしていた。

 二騎は怒号を上げながら追いかけてきた。ティベリウスはピュートドリスを先に行かせたが、それでも相手との距離はそれほど縮まらなかった。

 まもなくゆるやかな坂が現れた。ピュートドリスとティベリウスは瞬く間に上りきった。

 二騎が坂の上に達したとき、すでに下馬したティベリウスが下り坂の途中で待ち構えていた。

 二騎は止まれなかった。あわてて手綱を引いたものの、手遅れだった。勢いそのままに、ティベリウスの剣に飛び込んできて、次々と打ち落とされた。

 それでも刃を立てはしなかったのだろう。血が飛ばなかった。下り坂の果てで、ピュートドリスは騎乗したまま、念のため剣を抜いて見守っていたが、手出し無用だった。立ち直る間もなく、尾行者二人はティベリウスの拳で昏倒させられていった。

 彼が尾行者二人を縛り上げて街道脇の茂みに寄せた頃、西から人影が現れた。無関係の通行人に目撃された場合、ピュートドリスは私を襲おうとした暴漢を夫が捕まえたとでも言い訳するつもりだったが、やって来たのはアスプルゴスとアクロンだった。

「なんだよ」

 アスプルゴスは面白くなさそうな顔をしていた。

「俺の出番はなしか」

 時宜に恵まれ、三騎すべてを止められるとは限らなかったので、アスプルゴスとアクロンはアロロス市を一足先に通りすぎて、さらに距離を置いて待ち構えていたのだった。

 この街道を二十キロほど先にいくと、ぺロイア市につく。そこでローマ街道は三本に分かれ、内一本は南にラリサへ向かうが、残る二本はエグナティア街道と合流する。

 偽者軍団は、本物をテッサロニケイアからエグナティア街道に入れまいとした。劇場にいた男に教えられるまでもなく、ティベリウスにローマに帰られるのだけは避けねばと考えるのは当然だった。だからそれなりの数の仲間をエグナティア街道に配置して、封鎖しているはずだった。

 連中もティベリウスが海沿いを来る可能性は低いと考えてはいただろう。確かにその街道のほうが、ラリサまでの距離も短く、平坦である。しかし海とオリュンポス山に挟まれて、逃げ場がない。偽者軍団が夜にでもこっそりと引き返せば、たかが二人は簡単に捕縛できる。エグナティア街道に残してきた見張りたちと挟み撃ちにもできただろう。

 したがって本物が海沿いの道を選ばなかったのは想定内だろう。アロロスにいた見張りの一騎は、それを本隊に報告しに駆けていった。だが残る三騎は、せっかく確認できた本物の姿を捉えつつ、西のぺロイアへ先行することを企んだ。

 なぜならぺロイアからまだエグナティア街道への合流を図る可能性が考えられる。アロロスより多くの見張りがそこに置かれているだろう。そしてアロロスの見張りが、本物を追い越してそこに達すれば、知らせを受け、迎える態勢を整えるだろう。全員ぺロイアに集結し、ローマへの帰路を塞ぎがてら、いっそもう捕らえてしまおうとすら考えるだろう。

 ティベリウスは自分の動きをわざわざ知らせるつもりはなかった。彼が取った策は、アロロスの見張りを一人残らず黙らせるというものだった。連中の規模からエグナティア街道に置くだろう人員を差し引いて、五名より多くはないと推し量ったが、実際にそのとおりだった。そうなれば、アスプルゴスたちもいたので、不可能ではなかった。

 そして以降、これまでのようにゆるりと歩むつもりもなかった。

「ぺロイアでは手を借りる」

 ティベリウスはそう声をかけた。「おう」と顎を上げて答えたアスプルゴスは、不服そうであったものの、ティベリウスの手並みに改めて感心もしているようだった。

 やがて街道の東からも見知った顔が現れた。ニケウスとミダスが、最初に落馬した偽者の手先を引き立てて追いついてきた。

「南に向かったやつはどうした?」

「テルマイオス湾にほうり投げました」

 ニケウスが王に報告した。

 三人組を縛り上げて藪の中に転がし、三頭の馬を、内一頭の尻の手当てを済ませたあとで、最初に出くわした通行人に無償で譲り、六騎は街道を西へ走った。

 太陽が真正面まで下ってきた頃、一行はぺロイア市を目にした。

「おぉいっ! 撤収だ! 早く来てくれ!」

 三人の部下のうち、いちばん訛りのないギリシア語を話すミダスが、ぺロイア市の東門に向けて声を張った。念のため、アロロス近郊で伸した敵の兜をかぶっていた。

「ティベリウスの馬鹿が、海沿いの道を行きやがったぞ!」

 のこのこやってきたのは、四人だった。草原に伏せていた男たちに、たちまち一網打尽にされた。

 少し離れたところで、ピュートドリスは馬たちとともに様子を見守っていた。事態が落ち着くと、おもむろに近づいていった。

「ポントス王家に代々伝わる拷問を試す時がきたわね……」

 にんまり舌なめずりをしてみせた。そんなものは知らなかったのだが、いかにも残忍なことに興味津々な女を演じたつもりだった。

 それが効いたのか、それとも捕縛されただけですでにすくみ上がっていたのか、連中はすぐに口を割った。それによると、北門にあと二人仲間が見張りについているそうだった。市の十数キロ北を走るエグナティア街道には、さらに十人が配置されている、と。

 この四人はならず者だが、エグナティア街道の人員にはローマ軍団兵も含まれているとのことだった。ティベリウスが偽者軍団に属す軍団兵の総数を問うと、彼らは十五人と答えた。それはキュプセラまでのティベリウスの偵察や、最近の斥候たちの証言とも合致していた。

「あまりあっさり吐くな」

 アスプルゴスが忠告した。少しながら腕を振るえてすっきりした様子だった。

「それはそれで信用されないから。しかたない。今からでも一人二人馬に轢かれてもらうから、ふさわしいと思うやつの名前を挙げろ」

 捕虜四人はお互いの名前を言い合った。縛られていたのだが、取っ組み合いの喧嘩を始めそうなほどもめた。ほどなくアスプルゴスの部下三人に黙らせられた。

 結局、アスプルゴスたち四人がぺロイア市内に入り、捕虜四人を処分した。奴隷として質に入れたのだ。いずれ逃げ出すかもしれないが、しばらくは動けないだろう。

「殺さないのね」

 すでに南へ伸びる街道に入り、ピュートドリスはティベリウスへ首をすくめた。アロロス近郊でもそうだった。無論、殺しを見たいとはまったく思わなかったが、それがいちばん後方の憂いのない方法のはずだった。

「死体が見つかればそれこそ騒ぎになる」

 ティベリウスは馬を止め、すでに夜の帳が下りつつあるなか、アロロス市を眺めていた。

「埋めればいいでしょ」

「労力の無駄だ。最も残虐な野盗と同類に成り下がるのか。そもそも一私人に他者を殺す大義はないし、殺す価値もない」

 アロロス市南門からアスプルゴスたち四人が出てくるのを確認すると、ティベリウスは南へ馬首を向けた。ピュートドリスもそれに倣い、夕暮れ時の道を駆けた。

 二騎、少し間隔を開けて四騎が、速足で山沿いのローマ街道を下っていく。可能性は低くしたが、北に残る敵が追跡してくることを考慮し、少しでも距離を稼ぐつもりだった。

 そうでなくともまもなく夜道になる。偽者軍団の手先ではない、ただの野盗に襲われる危険もあった。けれどもこれら街道の治安維持の責任を担っているのは、敷設者であるローマ人である。その秩序と誇りを、ティベリウスは犯すわけにはいかないのだろう。捕虜を葬ることを拒否したのも、その信念だ。

 左手にオリュンポス山の急峻な山肌がそびえていた。神々の住処であるその場所は、もはや夕日に焼かれる時間も終わり、今はこの街道を押しつぶしつつあるような、途方もなく巨大で不気味な影になりつつある。右手もまた樹木の生い茂る丘陵地帯だった。それでもローマ街道はきちんと舗装され、可能な限りまっすぐに伸びていたので、走りにくくはなかった。六騎は夜闇で道が見えなくなるまで進んだ。

 幸いその夜は、山羊たちの牧場を間借りすることができた。







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