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ピュートドリスとティベリウス  作者: 東道安利
第一章 初恋の人
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第一章 -4



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 運命の出会いをする十三の春まで、ピュートドリスはなに不自由ない生活を送ってきた。

 生まれは三十四年前、ローマ属州アジアのトラッレイス市である。父ピュートドロスは、ローマ将軍大ポンペイウスとの親交により、一代で巨万の富を築いた人だった。ローマによる属州統治を補佐する「アジアの長」の地位を生涯保持し、地元の名士として知らぬ者はいない存在だったが、第一子を授かったときは、すでに初老になっていた。ゆえに大喜びし、溺愛し、ローマ式に我が名の女性形を与え、しかと胸に抱きしめると、マルクス・アントニウスの陣営に自慢に出かけた。

 当時、地中海世界はもはや完全にローマの覇権下にあったが、マルクス・アントニウスとカエサル・オクタヴィアヌスが、東西に分かれて戦争の火蓋を切る間際にいた。先代の神君ユリウス・カエサルは、世界を股にかけて戦い、勝ち続け、ローマの覇権を確立し、終身独裁官となって新しい世界を構築して後に、共和政主義者に暗殺されたが、二人はその後継の地位を争っていたのである。

 マルクス・アントニウスは、神君カエサル亡き後、世界で最も強い将軍と謳われていた。自らもヘラクレスとディオニッソスを称し、その豪放磊落の人柄で、兵にも市民にも愛されていた。

 だがこの当時には、すでにその盛名に濃い影が差していた。隣国パルティアへの遠征は無残な失敗に終わり、エジプト女王の胸に身を投じた。そして彼女に求められるがまま、エジプトで凱旋式を挙行した挙句、ローマや他国の領土を勝手に貢ぎ、かの女人を「女王の中の女王」であると宣言したのだった。

 当然激怒したローマ市民の心は、アントニウスから遠く離れていった。

 だがそれでもなお 彼は十一万の大軍を率いる将軍だった。エジプトをはじめ、東方諸国から集まる富も、西方とは比較にならなかった。

 父ピュートドロスが訪れたときは、エフェソスで連日連夜のどんちゃん騒ぎを続けているところだった。

「見ろ、クレオパトラ」

 赤ら顔で、正体なく酩酊した様子のローマ将軍だったが、相好を崩してピュートドリスを抱きかかえたという。

「俺の初孫だ。とうとう俺はジジイになった」

 ピュートドロスの妻は、アントニウスとその従姉妹のあいだにできた娘アントニアだった。したがってピュートドリスにはローマ人の血が流れている。それも当代最強と謳われ、一時は世界の頂に足を掛けた男の血が、濃く、熱く。

 だがもちろん、ピュートドリスはこの祖父との生涯一度かぎりの出会いを覚えていない。

「愛しい孫よ」

 祖父アントニウスは赤子に語りかけたという。

「すこやかに育てよ。そうしたらこの爺が、いずれお前を女王にしてやる。そうだ、ぜひ、見習うんだぞ、このすばらしき義理の婆をだな――」

「おやめになって、アントニウス!」

 女王クレオパトラが花冠を投げつけてきたそうだが、その顔には鷹揚な笑みが浮かんでいたという。

「あなたが祖父になったからといって、わたくしまで祖母にするつもり?」

「君は俺の妻だ。当然だろう?」

 アントニウスは意地悪げに笑い返したそうだ。

「おお、怖い。祖母になりたくないからと、我が初孫に毒を盛るなよ。この子はきっと君に忠実な女王になる。君と俺が治める世界の一翼を担うのさ」

 アントニウスは若い時分から色恋沙汰の絶えない男だったので、奴隷や遊女の類を含めれば、その数はかの神ゼウスとも渡り合えるほどだろうが、結婚した女はそのうちの五人だった。ピュートドリスの祖母は彼の二番目の妻で、クレオパトラは五番目の妻である。ただし後者は、ローマにいたオクタヴィアヌスの姉オクタヴィアとの重婚で、それがまたローマ市民の非難を招いた理由の一つだった。

 ピュートドリスの母は、彼の第一子だった。認知されたうちの、という但し書きがつくが。ピュートドリスも世界各地に叔父叔母従兄弟がいるであろうことは想定している。認知された子はほかに、フルヴィアとの二男、オクタヴィアとの二女、クレオパトラとの二男一女で、セレネ叔母は、クレオパトラが産んだ双生児の一方である。

 結局、祖父の見通しは当たらなかった。このあとアクティウムの海戦で、祖父とクレオパトラの軍はオクタヴィアヌスの軍に敗北したのだ。愛する女王の尻を追いかけて、祖父は戦場から逃亡した。世界じゅうでそのようにささやかれた。

 このとき、後にピュートドリスの最初の夫となるポレモンは、すでにポントス王の地位にあり、アントニウスへ援軍を差し向けていた。現夫のアルケラオスもまたカッパドキア王として、こちらは自ら戦場に立っていた。戦後は、双方ともにオクタヴィアヌスに許され、引き続き王位を約束された。つまり敗者となったアントニウスを見限ったのだ。

 また聞いた話では、このときオクタヴィアヌスの軍に、当時十歳のティベリウス・ネロが従軍していたという。オクタヴィアヌスは、この妻の連れ子を自分の甥とともに軍団兵に紹介したのだった。

 一年後、祖父アントニウスはエジプトのアレクサンドリアで自害する。享年五十二歳。彼を腕の中で看取った女王クレオパトラも、このひと月後にあとを追った。

 世界は定まった。すでにローマの覇権が確立した世界だったが、その頂にただ一人の男を置いた。ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタヴィアヌス・アウグストゥスである。

 ポレモンやアルケラオスと同様に、父ピュートドロスも、アウグストゥスの世を生きるに不遇をかこつことはなかった。むしろアントニウスとクレオパトラの気まぐれな統治と浪費に振りまわされることがなくなり、ほっと胸を撫で下ろしたのではなかろうか。母アントニアとのあいだにはさらに息子ももうけ、穏やかで満ち足りた日々を過ごしていたようだ。

 けれども娘への愛だけは、穏やかになるどころではなかった。

「世界一の我が娘」

 トラッレイスの市壁の見張り台に、父は娘を座らせた。そこからは世界で最も豊かな土地と羨望されるアジアの景色が、彼方まで見渡せた。

 らんらんと目を輝かせる娘を、父は胸いっぱいに抱きしめていた。そして何度となく聞かせた。

「お前を必ず、最高位の女にしてみせよう。それすなわち、女王だ。女王になって、歴史に名を残すのだよ」

「じょうおう?」

「そうだ。女の、いちばん偉い人になるんだよ。お前はそれにふさわしい」

 そう言って、娘のこめかみに接吻した。

「お前の名が――ピュートドリスの名が、私たちがこの世を去ったあとも、永遠に語られんことを」

 ピュートドリスは女王がどれほどの存在かはよくわからなかったが、父たちがいなくなると言われたのだけはわかった。この時は泣き出してしまい、おろおろする父に背負われて、見張り台を下りた。

「ピュリスは、クレオパトラになるの?」

 ある時ピュートドリスは尋ねてみた。エジプト女王の物語を、乳母に語ってもらったからだ。

「ううむ」小さな頭の上で、父は少し苦笑したようだった。

「ローマ男をたぶらかし、ローマ相手に戦争をすれば歴史に名が残るか。しかし父さんは、それはあまり望まないよ。母さんも、これ以上家族のことで涙したくないだろう。もっと賢明な女王になってくれたまえ。……しかし、あまりに賢明で無難だと、歴史に名が残りきらない恐れも――」

 その日は日が暮れるまで、父は娘を抱えたまま首をかしげていた。

 父の、この娘の将来へ対する願望は、祖父アントニウスから継いだものなのか。いや、おそらくは娘を授かった瞬間に、おのれの内から抱いた野心だったのだろう。そしてピュートドロスの富とアントニウスの血があれば、決して不可能な夢ではないと知っていた。

 女王になるのだ。そう言い聞かされて育った。しかしピュートドリスが決してそれを負担に感じなかったのは、父がそのための労苦を強いなかったためだろう。父は娘になにも求めなかった。健康で美しく育っていることを神々に感謝したが、娘にああせよこうせよと命じることはなかった。アジアの風雲児と呼ばれた彼だが、甘い父親だったのだ。娘への夢は、自分がかなえるべきものと決めていた。

 ピュートドリスは自由奔放に育った。欲しいものはなんでも手に入ったが、周囲が困るほど多くを望んだことはなかった。生まれつきの満たされた環境が、物欲に駆り立てられる精神を縁のないものにしたのだろう。また、例えば容姿も、美しい美しいと皆が褒めてくれたので、それほど着飾ることにも熱心ではなかった。必要を感じなかったのだ。東方屈指の富豪の家に生まれたのだが、ピュートドリスより華やかに着飾った子女はそこらじゅうにいた。勉学に関しても、少しできればたちまち皆が褒めてくれたので、自然とやる気になった。一般教養を身につけるまで、さして苦労はしなかった。運動も、男子に交じって競技場で駆けまわったが、だれもとがめなかった。元々、喧嘩をすれば男を泣かすほど勝気な娘だったが、球技や馬術では少年たちの先頭に立った。

 だれより幸福な少女時代だったと、ピュートドリスは思う。

 だがある時、この平穏な日々が突如崩れた。トラッレイス市を地震が襲ったのだ。

 恐怖の中を、ピュートドロス一家は生き延びた。だが本当の恐怖は、一瞬にして街並みを無くしたトラッレイスの姿を見た時だった。

 ピュートドリスは七歳の春を迎えていた。あの光景は、今も時折悪夢となってよみがえる。

 庶民の家は言うに及ばず、富豪の家や神殿までが、ことごとく列柱を折って崩れ落ちていた。下敷きになった人々、彼らにすがりつく人々の泣き声ばかりが轟いていた。

 水道が壊れ、至るところから水が吹き出しているかと思えば、水洗便所の流れがせき止められ、強烈な悪臭が漂った。あちこちで火の手がめらめらと上がっていた。劇場では観客がなだれ落ち、多くが押しつぶされて命を落とした。競技場にいた者たちはほぼ助かったが、屋内体育場にいた者たちは倒壊に巻き込まれた。

 ピュートドリスが毎日当たり前に暮らしていた故郷は、一瞬にして消えた。眼前に広がるのは、アジアでも有数の名高い都市ではなく、崩壊と絶望と混沌だった。

 だが父ピュートドロスは、それらに懸命に立ち向かった。比較的無事だった自邸を、家を無くした市民の避難場所として開放した。貯蔵していた食物をふるまい、奴隷たちを総動員して周辺の街に物資調達に行かせた。周辺も少なからず被害を受けていたので、簡単ではなかったという。それから先頭に立って、市の復旧と秩序回復に努めた。私財を惜しみなく投入した。

 一方で、父は家族によその街へ避難するよう命じた。幸いけがもなく済んだが、このままでは疫病や略奪にさらされる恐れがあったからだ。だが母アントニアは避難を断固拒否し、充血した目を剥き、朝から晩まで負傷者の世話に奔走した。

 ピュートドリスはこのときほど孤独と無力を感じたことはなかった。いつも蝶よ花よと可愛がってくれた父母や家の者たちは、だれ一人かまってくれなかった。皆血走った目をして走りまわるか、頬をげっそりこけさせてうなだれているかだった。七歳のお嬢様は、邪魔者のようだった。なにもできなかった。負傷者を治すことも、彼らに料理を作ることも、物資を調達してくることも、壊れた柱を元に戻すこともできなかった。

 独り、ひび割れた外壁の蔭で、泣いた。

 大好きだったものが、全部無くなってしまったと感じた。

 女王様なら、こんなときなにもかも復活させることができるのかしらと考えた。それならば、今すぐ女王様になりたいと思った。

 一方で、怒った。

 お馬鹿さんのピュートドリス。今なんにもできないお前が、どうして女王様になって、みんなを助けられるというの。

 いつのまにか、頭をそろそろと撫でられていた。いつも意気地なしと馬鹿にしていた、四歳の弟アントニオスだった。ピュートドリスは顔をぬぐった。そして弟の手を引き、桶をつかみ、荒れ果てたトラッレイスの街中へ、飲める水を探しに出かけた。

 ひと月が過ぎた。父ピュートドロスは倒れる寸前だった。だがそこへ、ローマの第一人者アウグストゥスから多額の寄付金が届けられた。

 金銭がありがたかったのはもちろんだが、それ以上に、世界の頂に立つ人物に気にかけられているという事実が、トラッレイス市民に勇気を与えたのだ。後になって、ピュートドリスはそのように悟った。トラッレイスは見捨てられていなかった。結果、三年後には、アジアで有数の名高い都市の姿を取り戻した。

 再建されたアポロン神殿には、アウグストゥスの像が置かれた。ピュートドリスはそれを見上げた。周囲の街並みは、地震以前とは変わってしまったが、美しく整えられた。それでもかつての街並みを二度目にすることはないと思うと、まだ涙がこみ上げてくる。それでもピュートドリスは感謝した。アウグストゥスに、神々に。多くを無くさずに済んだのだから。

 アウグストゥスは、この災害の報告をヒスパニアで受けたそうだ。ピュートドリスも世界地図を見たことはあった。世界の西端だ。それでいながらこれほど迅速に対応してくれた。彼や幾多のローマ人が、人類に並ぶものなき公共心と責任感でもって、世界じゅうに街道を敷き、各所に駅を設けて、連絡網を整備したゆえである。そう父は教えてくれた。だいぶ痩せてしまったが、かつての娘に甘い父に戻っていた。

 彼のような統治ができるのなら、女王になるのもよいかもしれない。ピュートドリスは初めてそう思った。

 だが人間、喉元を過ぎれば熱さを忘れる。ピュートドリスも決して例外ではなかった。地震の恐怖を忘れたわけではない。アウグストゥスへの感謝と尊敬を失ったわけでもない。けれども幸せな日々が帰ってくると、また奔放で自信に満ちたお嬢様に戻った。少しばかり勉学に熱心になったくらいで、男勝りな行動は相変わらず、剣術の練習まではじめたほどだった。賢明な女王を目指すべしという意識はあったのだが、そのためにどうすればよいのか皆目わからなかったし、かといって長いあいだ熟考したり、周囲に尋ねたりするでもなかった。結局思うがままに振る舞ったのだ。元々恵まれた環境に慣れていて、自我が強い。まして若かった。他者に尽くす将来より、自分個人の夢を思い描いても無理はなかった。

それにしても、十三歳での初恋は遅かったかもしれない。









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