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ピュートドリスとティベリウス  作者: 東道安利
第二章 呪われし者
37/66

第二章 -16



16

 


 星空の奔流は、あふれ返りながらも一滴もこぼし落とすことなく、光を満々とたたえていた。

「…どこがいけなかったのかしらね…」

 ピュートドリスは星々に力なく笑いかけていた。

「ねえ? 確かよね? 私はこの二十年間、一度もあなたに会いに行かなかった。手紙でさえ、あなたがアルメニアから帰る時の、あの一巻だけだった」

 尋ねたが、わざわざティベリウスを見て確認しなかった。自分がよくわかっていた。

「ポントスの宮殿に、あなたの石像を置いてあるわ。あなたのカメオをこしらえて、こっそり覗き込んでは夢に浸っていたわ。けれどもそれが、そんなに悪いことだったのかしら?」

 ティベリウスは答えなかったが、そもそも彼に向けた問いではなかった。

「でも隠していたわけじゃない。わりとおおっぴらに、セレネ叔母様と恋話に花を咲かせてきたのよ。会うたびに、ずっと。それがあの人をそんなに傷つけていたっていうの?」

 勝手ではないか。確かにピュートドリスと結婚して後、アルケラオスに女の影はなかった。けれどもそれより前は、グラピュラーの母をはじめ、多くの美しい女たちと好きなように恋を楽しんだのだ。二十七歳も年の離れた妻が、心の中にあこがれの男を一人抱いていることが、そんなに許し難いことだったのだろうか。

 剣闘士や俳優に恋をする人妻がいる。彼女らの思いと自分のティベリウスへの思いを、ピュートドリスは同質だとは言いたくない。けれども実際、どれほどの違いがあっただろう。ピュートドリスはティベリウスのためになに一つ行動しなかったが、彼女たちは金まで払って、贔屓の男を支援するのだ。

 会いに行くことさえ、一度たりとも試みなかった。頼んでもみなかった。夫の嫌がることはしたくないと思ったからだ。

「それなら、どうしてそう言ってくれなかったのよ…?」

 許し難いのなら、ひと言言ってくれればよかった。それでどうにかなるかは別にして、教えてほしかった。

 なぜなにも言ってくれなかった……。

「一緒になって、もう七年になるのよ」

 ティベリウスへそっと首を向けた。

「あの人のことを全部わかったと言うつもりはないけど、そんなに鈍いのかしら、私は? いちばんそばにいる人の気持ちがわからないくらい、鈍くて非情な女かしら?」

「あなたの気持ちの問題ではなかろう」

 ティベリウスは口を開いた。わずかに眉間に皺を寄せていた。

「あなたの夫がそれだけ私を憎んでいたというだけだ」

「そうかもね」

 ピュートドリスは小さく首をすくめた。

「でもそれだけなら、どうしてわざわざ、ほかのだれでもない妻に、殺しに行けなどと言うの?」

 アルケラオスは一国の王だ。他人を亡き者にしようと試みるならば、刺客の候補はいくらでもいた。自分のただ一人の妻に、自ら手を下すように促す必要などまったくない。

「彼は、あなたになんと話した?」

「あまり覚えていないのよ…」

 鋭さを帯びるティベリウスの問いに、頭を押さえながら、ピュートドリスは苦笑で返すしかなかった。

「衝撃で、頭が真っ白になって。…私は、死にに行けと言われたのだもの」

 それ以外の意味はなかった。

 アルケラオスの理屈はこうだった。ユバの裏切りで我を忘れたクレオパトラ・セレネは、周囲の制止も聞かずにティベリウス・ネロの腕の中へ身を投げた。実際になにが起ころうと、もう弁明の余地はない。ティベリウス・ネロはもはやだれがどう見ても、第二のマルクス・アントニウスとなり果てた。いずれ必ずガイウス・カエサルの脅威となる男を排除するのに、これ以上の好機はない。

 君は英雄になるのだ、とアルケラオスは言った。悪辣な謀反人から叔母を救い、ひいてはローマをも救うのだ。

 なぜ、あなたがそこまでしなければならないの、とピュートドリスは訊いたはずだ。なぜローマのために、わざわざ手を汚すことまで考えるのか。ほうっておけばよいではないか。

 ガイウス・カエサルに恩を売るためだ、と夫は答えたと思う。所詮我らは属国の王。ローマの意向次第で、いつ地位を追われてもおかしくはない。カッパドキアもポントスも、いずれ属州にされて滅びる運命であろう。だがティベリウス・ネロは私を嫌っているが、ガイウス・カエサルはそうではない。このうえネロの脅威を始末した恩義を、忘れることはあるまい。彼の弟たちも然りだ。幼いアルケラオスの代に至るまで、王家の安泰は必ず約束されるはずだ。

 そして――夫は続けた。君ならばティベリウス・ネロを殺しても罪に問われないだろう、と。

 そんなわけはないだろうと、ピュートドリスは思った。今や失効しているが、ティベリウス・ネロはアウグストゥスと護民官特権を分かち合った男だ。

 そのアウグストゥスが、ほかのだれよりもティベリウス・ネロを邪魔に思っているはずだと、アルケラオスは主張した。家族を見捨てて逃亡した男だ。それも今や息子たちが成長したのだから、用済みだ。

 ピュートドリスはティベリウスを見た。微笑みながら、何度もうなずいた。わかっている、わかっている、と。

 百歩譲ってアウグストゥスが許しても、リヴィアが許すまいと、ピュートドリスは指摘したのだった。残るただ一人の息子を奪われて耐えられる母などいない、と。

 それでも命を奪うまではできまいと、アルケラオスは言った。最終決定権はアウグストゥスにあるのだ。自分への裏切りと謀反を働いた男。彼を殺してくれた勇敢な女を、どうして極刑にできようか。アウグストゥスは女に死を宣告したことは一度もないそうだった。

 女王ピュートドリスには、二つの大義があった。一つは叔母を救うこと。もう一つは謀反から国家ローマを守ること。すべてその二つの「正義」から行われることだった。

 だから世界でただ一人、ピュートドリスだけが、ティベリウス殺しの罪をまぬかれうる。

 ティベリウスの暗殺に成功すれば、ピュートドリスは英雄になるだろうか。首都ローマに引き立てられていき、裁判にかけられるだろうか。首都じゅうの好奇の目を浴びながら、ガイウス・カエサルの友人に弁護され、なんとか一命を容赦されるのだろうか。

 そうだとしても、カッパドキアにもポントスにも、二度と戻れないだろう。どこかに幽閉されて余生を送るのだろう。

 それでも息子ポレモンと幼いアルケラオスは、それぞれ次の王位を約束されるのだろう。母の凶行をその礎として。

 あるいは、暗殺を果たしたその場で殺される可能性が、最も高かった。そんなこと、まったく考えるまでもなかった。

 最後に、アルケラオスはつけ加えた。マルクス・アントニウスの血を引く女が、第二のマルクス・アントニウスを打倒し、ローマの平和を守るのだ。「君たちの悲願」がついに成就することになるだろう、と。

「君たちの悲願」

 そうではない。父の悲願だ。

 女王として、歴史に名を残すこと。

 では、私の悲願とはなんだったのだろう――。

 そこまで話し終えてから、ピュートドリスは大きく息をついた。それから眼下の小さな光たちへ、泣き顔めいた笑みをこぼした。

「アントニアには悪いことをしたわ。辛い旅路につき合せて、そのうえ母が死んだ後は、見知らぬ土地に独り置き去りにされる羽目になっていたのよ。でも、どうしても…置いてこれなかった…。ただただ私が、独りになりたくなかったから。すべてを捨てて来るべきだったのに、それができなかったからよ…」

 剣が、手から滑り落ちた。震える両手で、ピュートドリスは顔を押さえた。

「…本当は、四人とも連れてきたかった……」

 母上! 母上! と満面の笑みで飛びついてくる息子たちを忘れた日は一日もなかった。幼いアルケラオスはまだ言葉を話せないが、それでも懸命に母を求めていた。母が抱いてあげなれば泣き止まない子だ。今ごろ病気になってはいないだろうか。

 こんなひどい母親になるとは。あの日から、すべてがおかしくなった。ピュートドリスは狂人になった。けれどもそれはきっとアルケラオスも同じだ。

 戯言であると、無視すればよかったのか。相手にもせず、セレネ叔母のことも捨て置き、ポントスに引き返せばよかったのか。

 どうしてそれができなかったのだろう……。

「事が終わったら……」

 静かなティベリウスの言葉には、聞き覚えがあった。

「カッパドキアに戻り、『ティベリウス殺しには失敗した』と、ただそう言えばいい。それから、息子たち三人も連れて、ローマへ向かう。首都まで同行はできないが、道中できるかぎりのことはする。カエサルにも私から事情を伝える。私を信じるかはともかく、あなたのことを無下にはしないだろう。保護を求める友人を、ローマは決して見捨てはしない。それにローマには、あなたのもう一人の叔母もいる。アントニアがあなたの味方になるだろう」

 息子を預けている義妹の名を、彼は挙げていた。アントニア叔母は、ローマでティベリウスのいない家を守り、事実上、妻の仕事を担っている。

「もしもあなたに、夫を見限る決意があるなら」

 振り向くと、ティベリウスはピュートドリスを見ていなかった。腕を組み、伏し目がちに下の景色を眺めていた。ピュートドリスはにいっと強く口角を上げた。

「考えておくわ」

 それから数歩、ゆっくりと丘を下った。闇の衣がかすかに浮き上がった。

「…夫は、当然知っていたわよね。私が殺すのが偽者だと」

 いずれ本物の亡骸も用意するつもりだっただろう。だがピュートドリスと本物のティベリウス、どちらの身体も同時に確保するのは難しい。そして、ピュートドリスがティベリウスを殺す明確な現場を第三者に見せつけなければ、陰謀は完全な形で成就しない。

 ピュートドリスは苦笑しながら目を閉じた。妻が衆人の目の前でティベリウスを刺し殺すという形をとることさえ、アルケラオスは見通していたかのようだ。そこまで妻の性格をわかっていた。

 それでいながら、結局アルケラオスは本物を殺す誉すらピュートドリスに与えるつもりはなかったのだ。

 これほどの非情はない。

 すでに打ちのめされていた。痛みに慣れたから立っていられるわけではなかった。ティベリウスの存在が、現実の非情を直視することをずっと忘れさせてくれていた。

 そして今は、分かち合うためにそばにいてくれる。

「だれかにそそのかされたのだろうな。彼には重要な役割があったたが、彼だけでは計画できない」

 ティベリウスが沈着に言い、ピュートドリスはうなずいた。

「ガイウス・カエサルの計画でもなさそうね…」

 あのガイウス坊やが、マルクス・アントニウスの血縁者を利用し、偽者まで用意してまで陰謀を企てるとは思えなかった。そこまで手の込んだことはできそうにない。

 よしんばティベリウスを亡き者にしたいと思っていたとしても、それとなくその気持ちを示すだけで、彼のために動いてくれる者が少なからずいる。側近、軍団兵、大勢のごろつきたち、そしてアルケラオスがそうだ。

 だれか――ガイウス・カエサルの意向を汲んだ、あるいは汲んだつもりになっているなに者かが、計画を練ったのだろう。マルクス・ロリウスだろうか。カッパドキアで彼は、ガイウスにティベリウスを始末する決断を迫っていた。

 また、劇場にいた男の言葉がある。

 ――私ではファヴェレウスを止められません。

 ファヴェレウスとは、暗殺未遂のあの日、ルキリウス・ロングスの傍らにいたローマ人だ。実行者であることは間違いない。そして首謀者でもあるのだろうか。

 捕らわれのデュナミスは、なにかを恐れていた。あの不気味な男は、忠告にもならない忠告をしながら、あることを指摘していた。

 だが最悪の可能性を、ピュートドリスは決して口にするつもりはない。首謀者がだれかなど、少なくともピュートドリスにとってはどうでもいい。

 ただティベリウスのために祈るだけだ。

「いずれローマ人が、あなたがた夫婦を、起こってもいない騒動に巻き込んだのだろうな」

 ピュートドリスがまた振り向くと、今度はティベリウスが視線を合わせてきた。

「すまないと思っている」

「…あなたの謝ることじゃないでしょ」

 ピュートドリスはどうしようもなく顔をくしゃくしゃにした。

「こうにでもならなければ、私はあなたに会えなかったのよ」

 キュプセラから今日までの日々に、ピュートドリスは感謝していた。救われた。そして、天にも昇る心地でいた。それは事実だ。

 まったくどういう人間なのだろう。

「ねえ、どうして私に良くしてくれるの?」

 ピュートドリスはティベリウスに向き直った。手を後ろに組んでわずかに上体をかがめ、無邪気そうな十代の少女のように尋ねていた。

「そのローマ人としての罪の意識?」

 ゆっくりと、ティベリウスは首を振った。

「…まったくないとまでは言わないが、同情の無礼を、あなたに働きたくない」

「ありがとう」

 ピュートドリスは素直にうなずいた。

「でも、じゃあ、なにかしら?」

「私はあなたに約束した」

 まっすぐに見つめ、ティベリウスは言った。

「必ず力になると」

 ピュートドリスは息を呑んだ。

「…覚えていてくれたの」

 それは、ここ最近の記憶ではなかった。初めて会った、二十年前のあの日の言葉だ。

 本当に忘れられていなかった。

「クリエンテスの力になるのは当たり前だ」

 だがティベリウスはきっぱりとした調子で話した。

「ましてあなたは、アントニウスの一族だ」

「アントニア叔母様たちがいるから、私のことも身内だと思っているの?」

 ピュートドリスは微笑んだが、少し固かった。余計な情は不要とばかりに、それが自分の義務であると、彼は知らせていた。

 それでもやはり、覚えられていたのはうれしかった。

「やっぱり似ている? 私たち親族は?」

 問うと、ティベリウスは小さくうなずいた。

「君がいちばん似ているのは、アンテュルスだな。アントニウスの長男の」

「アンテュルス叔父様…?」

 ピュートドリスの母の次に生まれた、アントニウスの息子だった。ピュートドリスは会ったことがない。なぜなら三十年前、アレクサンドリアが陥落して後、アンテュルス叔父はアウグストゥスの軍に捕らえられ、処刑された。まだ十五歳の少年だった。

「あくまで、面影だが」

 と、ティベリウスは言い置いた。

 ピュートドリスはようやく独りきりでいるティベリウスの心情を解した気がした。ローマに残ったユルス叔父は生き続けたが、アンテュルス叔父は父親に忠実に同行したというだけの理由で殺されたのだ。

 だが、それにしてもどうしてティベリウスはアンテュルス叔父を思ったのだろう。アントニア叔母やユルス叔父とは違い、彼と家族として暮らした時間はないはずだ。

 そしてティベリウスは、結局ユルス叔父も見殺しにした人だった。彼と妻ユリアとの密通を放置し、ロードスへ出奔し、とうとうアウグストゥスが事態に気づいて死を宣告するまでなにもしなかった。

 その男が、「身内と思うから」という理由でピュートドリスに情けをかけたなら、亡き叔父たちは怒るだろうか。偽善である、お前にそんなことを思う資格はない、と。

「そういうこと?」

 ピュートドリスはいたずらっぽく首をかしげた。

「私があなたの家族に似ているから。そして、約束をしていたから。そんな責任感?」

 ピュートドリスは深い敬意を抱いた。彼の精神の大部分はそれでできているのだろう。

 だがそれは、本当に責任感とだけ名づけられるだろうか。

 彼はなにに対してそれを抱くのだろう。なにがそれを支えているのだろう。

「本当にそれだけ?」

 ピュートドリスはにやにやと問い続けた。ティベリウスは無表情のままだったが、視線は逸らさなかった。ひどく真面目なまなざしをしていた。

「あとは、なにかしら? 同情でなければ、共感? なに者でもなくなった者同士の。愛を失った者同士の」

 左に、右に、首をゆっくりと傾けながら、ピュートドリスはふらりふらりと所在無く歩いてみせた。今にも鼻歌でも歌い出しそうに機嫌よく、星空に微笑みかけていた。

 それからだしぬけに、ティベリウスへ両腕を広げた。

「愛しているなんて、言わなくていいのよ!」

 大声と、思いきりの笑顔で知らせた。

「でも私は、信じてもらえないかもしれないけど、本当に愛していたのよ! あなたのことも、ポレモンのことも、アルケラオスも。これはやっぱり欺瞞だったのかしら? ポレモンにはデュナミスがいた。アルケラオスとだってこんなことになった」

「愛していれば、すべて上手くいくわけではない。愛のすべてが伝わるわけでもない」

 ティベリウスは変わらず真摯に見つめてきていた。その言葉にピュートドリスはうなずき、それから首を振った。

 ティベリウスはそうだったに違いない。彼の思いに偽りはなかった。愛をかけたという事実は確かにあった。けれどもピュートドリスは気づかなかった。目の前にいる男への思いのみが真実の愛だと信じ込んでいた。失うまで気づかなかった。愛していたことにあまりにも無自覚だった。

 愚かだった。なに者でもなくなって初めて思い知った。そして死へ飛びこむほど深く絶望したのだった。

 ピュートドリスは最後の力で笑みを固めた。

「だからあなたは、私のようにならなくていいのよ」

 力無く腕を下ろした。まぶたも閉じた。その裏に、夫二人がそれぞれ浮かんだ。

 愛していた。愛を与えたとも思っていた。だが足りなかったのかもしれない。もっともっとできることがあったのかもしれない。少なくとも、もっと愛を自覚して共に時を過ごすことはできたはずだ。

 今更取り返しがつかない。

 ピュートドリス、その魂は、それほどの非情だったのか。愛で生きていると知りながら、愛を知らないでいるために失った。

 魂の自由とは、非情と無知と引き換えだったのか。この愛は、愛した者たちを幸福にし得なかったのだろうか。

 いずれアルケラオスは、ピュートドリスを死地へ送った。それが答えだった。

 ふと気配を感じた。まぶたを開くと、立ち上がったティベリウスが、ずんずんと向かってきた。とてつもなく大きな影に見えた。ピュートドリスは息を止めた。

 ピュートドリスは決して小柄な女ではなかった。それでもティベリスはくるりとピュートドリスを横倒しにし、そのまま抱え上げた。そして、わざわざ自分のいた場所まで引き返し、もう一度どかりと座り直した。

 その腕の中で、膝の上で、ピュートドリスはわけもわからずにいた。額に、まぶたに、頬に、唇が落とされていった。それは、天蓋から零れ落ちた星屑かもしれなかった。けれどもこれほど幾多も降り注ぐわけがない。一つ一つ、ねんごろに、慈しんで落ちていくわけもない。

 なにをわかるより早く、涙がこぼれていた。幾筋も幾筋もあとを追った。けれども流星は止まなかった。降り注いで、落ちて、ひびを入れて、穿って、それでもまだ緩まろうとしなかった。

 ピュートドリスは笑った。けれど声を上げ、顔の筋肉を動かしてもなお止まなかった。唇を唇でふさいだが、それでもまた離れていき、また別のところに落ちた。

 ピュートドリスは笑い続けた。涙も止まらなければ、無数の口づけも止もうとしなかった。とうとう「もう、やめて、やめて」と、なんとか身を起こした。ティベリウスの首に腕をまわし、頭を彼の肩の上に避難させて、ようやく終わった。

 がっしりとティベリウスの手が、頭と背中に置かれた。それでも心も体も落ち着くのに、しばらくかかった。壊れて死なずに済む程度まで。

 彼の肩口で、ピュートドリスは涙をぬぐった。

 わかった。わかっていた。言葉はなくとも。

 それで十分だった。

「私は…あなたに助けてほしかったのね」

 ピュートドリスもようやく自分を理解したのだった。頭を起こして真正面に、ティベリウスへくしゃくしゃな、それでも晴れやかな笑顔を向けていた。

「愛している」

 と、彼が言った。

 ピュートドリスは我が耳が信じられなかった。

「……いいの?」

「言わせておきながら」

 ティベリウスは重たげにまぶたを閉じた。

 だが次に彼が目を開けた時、ピュートドリスは我が目をもまた信じられなくなった。

「惜しんでどうする。偽りでもないのに」

 初めて目にするそれは、見る見る明白になっていった。声にさえ、その色がにじんだ。

「アントニウスも恥じていたな。女の勇気に遅れをとることを」

 ピュートドリスは見入っていた。全身で、魂を尽くして、惚れぬいていた。

 くるりと、ピュートドリスは反転していた。柔らかな草の上に横たえられた。

 ティベリウスは星空を背にしていた。翳にはなっていたが、それでも見てとるには十分だった。

 ピュートドリスは死ぬ思いがした。血の奔流が熱く荒れ狂い、たちまち全身が蒸発して果てるのを感じた。もう息もできなかった。

 左胸の下で、ティベリウスの手がその奔流を感じ取ったに違いなかった。

「君は、おもしろいな…」

 これほど溶けるような優しいまなざしを、ピュートドリスは知らなかった。いつまでも見ていたいと思う顔は、ゆっくりと近づいてきて、ついに見えなくなった。

「だから、ゆらぐな。ピュートドリス」

 その身もろとも、草の中に沈んでいった。

 ただ一人への愛を貫くものだと思っていた。だがそもそも愛とは、どれほど複雑に見えようと、その人の中でただ一つなのかもしれない。

 そして一度でも深くだれかを愛した者は、もはや愛で生きるしかない。失った愛を思い、いつまでも愛し続け、そしてまただれかを愛す。永遠に、愛の呪縛からは逃れられない。







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