第二章 -15
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街路に出ると、人通りはもはやほとんどなかった。ティベリウスに従い、ピュートドリスは無言で歩いた。途中、アスプルゴスたちとすれ違ったが、彼らはまた一瞥を寄越しただけで、反対方向へ進んでいき、それからまったく気配がなくなった。屋敷に帰ったのか。
ティベリウスはどこへ行くつもりなのだろう。ゆるりと上り坂の、狭くはない道だった。家々の窓からもわずかに明かりが漏れるばかりでなく、小さいながら街灯も灯されている。それでも暗く、静かな道だった。自分たちの足音以外聞こえない。
けれどもピュートドリスは気を緩めてはならないと思った。不審な気配をすべて感じ取れると思うほど、自惚れてもいなかった。先程の男やその仲間に、今にも取り囲まれないとどうしてわかるだろう。ピュートドリスはティベリウスの腕を離した。二人で捕まるくらいなら、二人で大暴れしたうえで死ぬほうが良いと考えた。
ティベリウスは二歩進んだ。それから振り返って、手を差し伸べた。
「離れるな」
ピュートドリスは微苦笑せざるを得なかった。あなたの剣を抜く手の邪魔にはなるまいと思っただけなのに、と。
手持ちの細身の剣は、すでに布を外して腰に下げていた。もう一度思いきり彼の腕を抱きしめて、ピュートドリスは歩き出した。
市壁を越えた覚えはなかった。それでもいつしか足下が柔らかな草ばかりになっていた。
ティベリウスは丘を登っていった。ピュートドリスがわずかに頭を上げると、丘はやがて木立に、林に、そしてなだらかな山に移っていくように見えた。それでも今確かにわかるのは黒々とした塊というだけで、それが南から海風が吹き上げてくると一斉にさざめくのだった。
ティベリウスはどこまでも行かなかった。八分ほど丘を登ると、ぐるりと身を翻して、草の上に腰を下ろした。ピュートドリスもそれに倣おうとした。けれども背後へ向き直ったそのときに、思わず立ちつくした。
足下からしだいに色を濃くしながら、漆黒の衣が襞を広げていた。その上に散りばめられた黄金のビーズは、テッサロニケイア市に残された灯火だ。ビーズの細い水流がせき止められているかに見えるぽっかりとした闇は、テルマイオス湾だ。彼方にオリュンポス山の鋭い影もまた突き出て見える。東に向かい合うようにアトス山の影も立つ。
漆黒の衣は、その下で眠る地上の命をそっとくるんでいるかのようだった。代わって華やぎを見せているのは、天蓋だった。静寂と安らぎをかぶせる闇の上で、無数の星々がここぞとばかりに輝きを競っていた。
ピュートドリスは茫然と魅入っていた。星々のまたたきに、空はその濃紺を薄くしていた。地上との境界がくっきりとわかった。星々の奔流は、ピュートドリスとティベリウスの背後彼方からはじまり、頭上を覆い、大小零れ落ちんばかりの光を放ちながら、テルマイオス湾の果てに注いでいた。手を伸ばせば、その流れを優しく掻き、光の粒たちを掬い上げられるのではないかと思った。
月は細く、今は星々の大群に遠慮しているかのように、天蓋の奥へ引いていた。奔流の片隅から、あくまで一かけらの光として、そのまばゆくにぎやかな祭りに加わる機会を窺っているようにも見えた。
「綺麗ね……」
ピュートドリスはすとんと腰を下ろした。そのありきたりな言葉以外なにも浮かばなかった。
「二十年前も、ここで景色を眺めた」
言いながら、ティベリウスは小筒の栓を抜いていた。
「星空がこのとおりだ。朝日も見事だった」
一口ごくりと喉を鳴らしてから、小筒をピュートドリスに差し出してきた。ぼんやりした顔のまま受け取り、口に含むと、中身は葡萄酒ではなく水だった。相変わらず、好きであるのに、酒で気を緩める気はないらしい。
けれども――。
「…あなた、ひょっとして、私にこれを見せたくてここへ連れてきたの?」
「…もう一度見たかったんだ」
心持ち声を張って、ティベリウスは小筒をピュートドリスから奪い返した。ぐいともう一度、自分の口に流し込んだ。ピュートドリスは笑いながら、それを横取りした。喉へ落ちる前に吸い取った。
「ありがと」
ティベリウスは不服そうな顔をしていた。目を景色へやりながら、手の甲で顎をぬぐった。その肩に腕を乗せたまま、右大腿にまたがり、ピュートドリスは彼の景色を半分遮った。首を傾げ、腰をわずかにひねると、鞘の先が草原を這った。
「ねえ、大丈夫なの? さっきの男が言うように、私があなたの隙をついて殺しにかかるかもしれないわよ」
「今更か」
ティベリウスは小さく鼻を鳴らした。
「気が変わるかもしれないわ」
ピュートドリスはうなずくと、彼はにらむように視線を合わせてきた。
「あのとき、あの宴の席に座っていたのが私だったら、同じように殺そうとしたか?」
ピュートドリスは目をしばたたいた。しばし考え込んだ。
「……いいえ。ちょっと、待ったかもしれないわね…」
殺す前に、もうひととき彼を見ていたい。もしも本物を目にしていたら、そのような誘惑に逆らえた自信はない。今思えば、なおさらだ。
「…でも、私はあの後でもう一度殺そうとしたわよ。あなたとわかったうえで」
「ああ。まるで挨拶代わりに拳や蹴りを入れてくる子どもみたいにな」
「そのわりにあなた、ものすごく怒った顔をしてたじゃない」
「当たり前だ」
さも気に入らなそうに、ティベリウスは言った。小筒に栓をしながら、ピュートドリスを見ていた。
ピュートドリスは笑った。それから彼の肩を借りて立ち上がり、草原に躍り出た。くるりと身を翻し、剣を抜いていた。
星空に掲げた刀身は、たちまち輝きを纏い、透き通るように見えた。まだ血の穢れを知らないのだ。
ならば、思い知るがいい。
ピュートドリスは斬った。斬って、構えて、また斬った。ひゅんと鋭い音だけが鳴った。それからもう一度構えた。研ぎ澄ませた眼光で、切っ先をにらんでいた。
「私が斬ってやりたいのは、あなたじゃなかったわ。殺したいわけでもない。でもそれくらい、斬って斬って斬りまくってやりたいわ。夢にでも出てあげられないかしら」
切っ先から目を離し、ティベリウスを見やる。彼は黙して見守っていた。顔に意固地の色はもうなく、ただ真摯に待っていた。
ピュートドリスは目尻を下げた。
「もうわかっているんでしょ? あなたを殺すよう私に言ったのは、私の夫アルケラオスよ」