第二章 -14
14
翌朝目覚めてまもなく、ティベリウスが屋敷のどこにもいないことに気づいた。ピュートドリスは家の者に聞いてまわったが、早朝に外出したという事実のほかに知る者はいなかった。
アスプルゴスもいなかった。彼の家臣たちは市内各所に分かれて宿泊していたが、ここに留まっていた三人も見当たらなかった。
アントニアをマカロンに預け、ピュートドリスもまた屋敷を出た。留め金なしで着るイオニア風の白いキトン姿で、剣を布でくるみ、長いパンに見えるようにして抱えていた。
だれも教えてくれなかったが、見当はついていた。この屋敷は港の近くに位置していたが、ピュートドリスは市の北東へ歩いた。緑の丘の麓から高級住宅街が並び立ち、ローマゆかりの騎士や植民者が多く住んでいるはずだった。
目当ての家も、まもなく見つかった。そばの店舗や水飲み場で、アスプルゴスとその家臣数名が、目立つまいとしながら過ごしていたからだ。ピュートドリスに気づくと、アスプルゴスは「なにしにきやがった」とばかりのうんざり顔を向けてきた。ピュートドリスは無視し、家臣の一人を追い出して木蔭に入り、時を待った。
長くはなかった。邸宅の門が開き、ティベリウスが独り出てきた。彼はすぐにピュートドリスに気づき、目を閉じた。ピュートドリスは木蔭を出た。
慎み深い女なら、足手まといになろうかと遠慮するかもしれない。だがピュートドリスは今更慎み深くも物わかり良くもなるつもりはなかった。
ティベリウスもまた歩き出しながら「こんなことだろうと思っていた」と言わんばかりの顔をしていた。あきらめたように、ピュートドリスを招くそぶりさえ見せた。
遠慮なくその左腕を取り、ピュートドリスはティベリウスとゆっくり街路を下った。暑い日だったが、時折丘を撫で上げてくる風が心地よかった。なるべく日蔭を歩きながら、あちこちの店舗を覗き込んだ。富裕層御用達の服屋は、これからご婦人方の家々を行脚するらしく、荷車に艶やかな生地をたくさん積み上げていた。店の奥では、奴隷たちが機織りや縫製に勤しんでいた。数件先には書店もあり、同じように奴隷たちが目にも留まらぬ速さで筆写に励んでいた。
香料の店からは、花々があふれかえるような香りが漂ってきた。ピュートドリスはティベリウスのわずかに汗ばむ腕の感触と匂いで大いに満ち足りていたが、ここに至って自分はなんの香水の類もまとっていないことを思い出した。なんてことだ。
店内には、「あの女王クレオパトラも愛用!」などという売り文句のついた小瓶すら売られていた。それの信ぴょう性はさておき、ピュートドリスは同じ女王として恥じ入りたい気持ちになった。そんなことでローマ一の将軍を落とせると思っているのか。男に非日常を味わわせずになにが恋か。そう叱られているように思えた。
ティベリウスは例の小瓶を手に取り、鼻に近づけていた。それからすぐに顔をしかめ、首を振った。
それから別の店に入ったが、こちらは香料も含めて薬も扱っていた。ティベリウスは淡い緑の蜜蝋を見た。「エジプト産」との札がついていたが、これの匂いを確かめたときは、軽くうなずいたのだった。
ピュートドリスが訊いた。
「それが好みの香り?」
「よく眠れるとされる。彼らが使っていた」
そういう話ではなかった。
ティベリウスの顔にある二つばかりのにきびに、ピュートドリスは軟膏をぐりぐり塗りつけてやった。店の女主人が試用させてくれたのだ。効果があったら買いに戻ると言い置き、店を出た。
まったく急いではいなかったが、ティベリウスの足は市の中心部へ向かっているようだった。それに従いながら、ピュートドリスは考えた。なにかをねだってみせればよかったかもしれない。けれども余計な荷物は不要であるし、いくら考えても特になにもほしいと思わなかった。
水場があり、そこで休憩した。噴水を背に腰かけて振り返ると、そこに石像群があった。ピュートドリスはこれはどの神話の場面だったかとぼんやり思いを巡らせた。ティベリウスが水で冷やしたスモモを買って戻ってくると、ぱっと顔を輝かせた。彼の解説を聞きながら、皮ごとかじった。
アクロポリスは市民でにぎわっていた。武器を置かねばならないため、神殿の中には入らなかったが、それでも見事な建築と奉献物を外から見ることができた。アレクサンドロス大王を生んだ、今は亡きマケドニア王国の名残である。
ピュートドリスはこの都市に来るのが初めてだったが、ティベリウスは二十年ぶりだと話していた。アルメニアに向かう途中の、一度だけだと。
かつての王宮は、今はマケドニア属州総督の住居となっていたが、ティベリウスはそこへは足を向けなかった。アクロポリスに面した図書館に入り、詩集を見てまわった。ピュートドリスが彼の勧めるラテン語の詩人を求めると、作品を数巻借り出した。貸出札に名前と出身地を書き込んだ。
背中を列柱の土台に預け、外の階段に腰を下ろした。紙を傷めないように日蔭に入っていた。
隣に座り、ピュートドリスはティベリウスの音読に耳を傾けた。彼が母語を話すのを初めて聞いた。それを忘れるほど完璧なギリシア語を話す人だった。
詩を聞きながら、ピュートドリスはデュナミスのことを考えた。彼女はマルクス・アグリッパとどうやって意思を通わせたのだろうと思った。彼は東方での仕事に通訳を伴っていたと聞く。デュナミスがラテン語を話したのだろうか。互いの拙さを埋めて余りある情熱があったのだろうか。
ティベリウスが語学に堪能で助かったと思った。けれども同時に、同じくらいに自分がラテン語に通じていなければ、彼を完全には理解し得ないのではないかと考え、じんわりと悲しみを覚えた。
ティベリウスは朗読を続けた。足を止めて耳を傾けなければ、ピュートドリスにしか聞こえなかっただろう。
彼の選んだ歌には難解なものもあった。けれどもピュートドリスはあえて止めて意味を尋ねはしなかった。声と韻律に身を任せ、彼が見出した愛の跡を感じ求めた。
「もう一回読んで頂戴」
唇を離してから、ピュートドリスは頼んだ。
いつのまにか、日は傾きはじめていた。少しずつ静まっていく雑踏を眺めながら、ピュートドリスはとりとめもなく考えていた。彼はかつての妻たちと、このような時を過ごしただろうか、と。家の中でならいくらでも睦まじくしていられるだろう。けれども二人だけで外を歩き、思うままに楽しんでまわるとなると、想像ができなかった。ましてローマとなれば、彼は有名人だ。人目をはばからずにいられるだろうか。相手がたとえ妻であっても。ローマの貴婦人は専ら家を守るという印象があった。家で夫の帰りを待ち、子どもを育て、外出も家族ぐるみか女同士でする。よしんば夫婦二人で出かけるとしても、奴隷を従えるのが当然だろう。
そう思うと、ピュートドリスはいく分うれしくなった。あくまで印象であり、なにも確かめたわけではなかったが。
ピュートドリスでさえ、二人の夫以外と恋仲を見せつけて歩いた記憶はなかった。複数人で友人めいたつき合いはしたが、結婚するまでずっと、初恋の男以外に見向きもしなかったのだ。もしかしたら人生を損したとされるのかもしれないが、今このようになっていることを思えば、まったく悔いはない。
それとも、彼もまた妻を連れ歩いただろうか。ヴィプサーニアとは幼い頃から許婚の仲だった。ユリアとだって、最初は良い関係になろうと努力もしただろう。
いずれ彼女たちは、特にヴィプサーニアは、ピュートドリスが見たことのない彼を見ていたのだろう。
ピュートドリスは彼の横顔を眺めた。唇と時折のまばたき以外、まったく動きがなかった。青い目はやはり曇りもなく、美しかった。
ティベリウスの腕をぎゅっとつかみ、その肩にピュートドリスは額を埋めた。
片思い、ではないと思った。彼は十分に良くしてくれていた。けれどもピュートドリスは、彼がかつて捧げ、今も変わらず捧げ続けているような深く限りもない愛を、この身に受けることは永遠にないと思った。
彼の愛の在り処を知っていた。
ふと目線を上げると、ティベリウスが不思議そうに見下ろしてきていた。泣き顔めいた笑みは一瞬にして、ピュートドリスはもう一度唇を重ねた。
「もう一回読んで頂戴」
「…君は、私の弟みたいだな」
「ドルースス」ピュートドリスは小さく首を傾げた。「二十年前、アントニオスを抱いて馬に乗せてくれたわね」
ティベリウスはうなずいた。それから詩集を繰り、彼の弟が描かれた一遍を開いた。
陽はゆっくりと傾いていった。胸の痛みを覚えながらも、ピュートドリスはさらにゆっくりと歩んでくれるよう、天空の戦車に願わずはいられなかった。彼の今この瞬間を預かっているのは、ほかのだれでもない、世界でただ一人だ。運命にそれを感謝した。
祖父アントニウスとクレオパトラは、庶民になりすましてアレクサンドリアの裏路地を冒険した。同じように今この時間もまた、互いがなに者でもないからこそ持てるほんのひとときだ。
そもそも、私たちはなに者だったのだろう。
人の流れが変わりはじめた。市民の多くが競技場に足を向けているようだ。アクロポリスのお触れ役が大声で呼ばわっていたので、知っていた。これから剣闘士試合が開催されるそうだ。普通より遅い時間だが、暑さを避けたのだろう。それにまだ日は長い。
ピュートドリスが行くかと尋ねたが、ティベリウスは首を振った。剣闘士試合は好まないと言った。
「娯楽で殺し合いをするのは馬鹿げている。それに熱狂する意識も知れない」
と、にべもなかった。
ピュートドリスにもその気持ちはわかった。うなずいた。
「私はあなたが変わった人だとは思わないけれど、あの人たちからしたらそうなんでしょうね」
以前、剣の手合せの時も話していた。戦場で何度も殺し合いを見てきた彼は、わざわざむごたらしい光景を楽しむなどできないし、それを好む人々にも失望する。戦場の兵たちは、競技場で平和を満喫する人々の生活を守るために命を危険にさらしているのだ。
だが戦場を見たことがあろうとあるまいと、人には残酷を忌避する意識があるはずではないのか。彼はただそれを主張しているだけだ。
「戦車競走、競技祭、演劇――娯楽の手段はほかにいくらでもある」
「そうね…」
同意したものの、ピュートドリスは思った。人は残酷を忌避するが、同時に残酷な性を抱いてもいる。もしも剣闘士試合がなくなったら、市民は退屈を募らせた挙句、代わりにろくでもないことを考えるかもしれない。剣闘士たちでさえ、食い扶持がなくなると怒るかもしれない。多くが奴隷身分であれ、彼らにしてみれば仕事なのだ。
剣闘士は負ければいつも死ぬわけではない。だが主宰者の判断で生死を決められる。死の宣告をことごとく避ける主宰者もいるかもしれないが、それではいずれ観客が不満の叫びを上げるだろう。死があってこその興奮だ。生の価値だ。いかに愚かであろうと、人は喜んで我が生を確かめたがる。自分ではない人への残虐を通して。
では、敵であればいいのか。敵側から捕虜にした奴隷を剣闘士にして、殺し合いをさせればいいのか。ティベリウスはそれも見る気にならないのだろう。怒りさえ覚えるのだろう。奴隷でも敵でも、命に変わりないのだから。
ピュートドリスは彼を横目で見た。
「私は動物相手の闘技も嫌よ。かわいそうでしょ。人間が勝手に捕まえてきて、楽しみのために殺すのだもの。でもあなたには、どうしてもやらなければいけない時があったんじゃない? ローマ貴族として、剣闘士試合を主宰するとか、来賓として臨席しないといけないことが。それが市民への奉仕だから。私だってそうだもの」
「もうそんな必要はなくなった」
ティベリウスはおもむろに立ち上がった。
そうか。彼はこの六年間、そんな不条理からも遠ざかることができていたのだ。
死も、別れも、無理解も、不条理も、世界にはあまりに多すぎる。
彼には必要な時間だったのかもしれない。そして、まだ時間が足りていないのかもしれない。
それでもティベリウスは、自らが厭うものを今後もおのれの一部とすることを拒み続けるだろう。無知な市民たちもいつか心を改め、殺し合いを求めなくなると、信じているのかもしれない。だとすれば、彼はやはり純粋すぎるのかもしれない。
書物を脇に抱え、ティベリウスの背中は階段を上っていった
「ローマ人はあなたのことを、面白味のない人とか、市民を気にしない傲慢な人とか、人気取りとも割り切れない馬鹿正直な人と思うんでしょうね」
彼は振り返った。ピュートドリスはにやりと大きく笑っていた。
「これからもそのままでいて、と言いたいわ」
追って、駆け上がった。彼の頬にそっと触れ、それからむにっとつねった。
「私がずっとそばにいられるなら」
図書館に詩集を返し、二人はアクロポリスを離れた。競技場に向かう人の流れに逆らい、小さな露店に入った。パンと出汁の効いた具だくさんのスープで、身も心も満たした。
それから、近くの小劇場に足を運んだ。市民の多くが剣闘士試合のほうに出かけていたため、客席には余裕があった。演目を確認しがてら、出入口担当の者に聞くと、演者は奴隷ではなく、俳優志望の若い市民らしかった。なかなか後援者が就かないので、剣闘士試合の日時と重ねるしか劇場を押さえられなかったそうだ。それでも今後売り出していく希望に満ちているとのことだった。
剣闘士にも自ら進んでなりたがる市民がいる。人生の大博打を打たねば気が済まない男たちなのだろう。俳優はそれに比べれば穏やかな職業だ。彼らもまた命を賭けていると言うかもしれないが。
二人は最後から二列目の席に座った。後ろにはだれもいなかった。
演目は悲劇だった。若者たちの演技も合唱も、大きく熱情たっぷりだったが、ティベリウスの表情は終始微動だにしなかった。演劇にもあまり関心はないようだ。演者の得手不得手とは関係なく。
ロードスの一流学府で学んだ男にしてみれば、作品の解釈が浅いと思うのかもしれない。あるいは、演技をするということ自体に価値を見いだせないのかもしれない。一刻も見失わず四六時中、そのままにもほどがある男だった。
この人にとっての娯楽とはなんだろう。学問か。戦車競走の馬を育てることか。そのとき彼は、この観客や、あるいは舞台上の若者たちのように、らんらんと輝く目になるのだろうか。
どうせなら喜劇を観る彼を見てみたかったと、ピュートドリスは思った。
上演が終わった。余韻はそれほどなさそうで、早速感想を言い合いながら、観客たちはぞろぞろと出入口に呑まれていった。
ピュートドリスとティベリウスは動かなかった。アスプルゴスと家臣二人が立ち上がり、さっと一瞥を寄越してから出ていった。残されたのは三人だけだ。
もう舞台にはだれも立っていなかった。それなのにその男は、階段を挟んで斜め右の、ピュートドリスとティベリウスから三列前の席に、足を組んで座ったままだった。剣闘士であるかのように、軽装の甲冑と、兜まで身につけていた。
髭の無い口元だけがかろうじて見えた。
「帰ったほうがいいですよ」
無人の舞台を見たまま、男はラテン語で話した。
「そうは言っても、帰る場所もないのでしたか。今更ロードスに戻っても身の危険が増すだけ。この騒動が起これば、ましてあなたの首を欲しがる連中であふれかえるでしょう。かつてエジプト人が大ポンペイウスにしたように、香油漬けにして利用するだけ利用しますよ。それにしても、だれがあなたの首に涙を落とすのでしょうね」
流暢な語り口だった。淡々としていながら、あふれる自信を隠しきれないでいるような。
だが声は若い。二十代半ばほどか。
男の口元が歪んだ。注視を喜んでいるかのようだった。
「肩すかしかもしれませんね。この市にそれほどの手先がいなくて。私ぐらいのものですよ。あなたの仲間が送りつけた美酒を我慢したのは。けれどもどうするつもりだったんですか? 私がもし大勢を連れてきていたら?」
ピュートドリスはティベリウスの腕に指を食い込ませていた。得体のしれぬ悪寒が背筋を這っていたからだが、それは男が言及した可能性が思いがけなかったからではなかった。ティベリウスはそれも考慮していた。わざわざ見つかるような場所へ行き、無防備を装って歩き、人通りの多いアクロポリスに居座り、最後はこの劇場へ来た。偽者軍団の仲間をあぶり出すためだ。あえて見つかることにしたのだ。たとえ大人数で来ようと、日中のアクロポリスのど真ん中で襲撃することはできない。アスプルゴスたちと協力して連中の数を見極め、それから相応の対処をすることにした。連中からすれば、自分たちの一人芝居ではなく、ティベリウスがちゃんと単独で追いかけてきていることがわかれば、十分満足だろう。
そして今や大人数で強硬手段に出る可能性はなくなった。アスプルゴスたちは外で待っている。ほかに手先らしき影があれば、上手く追い払うだろう。
残っているのは、この底気味の悪い男一人だけだ。
「あながち飲んだくれているだけでもないんですがね」
男は口元の歪みを大きくしていた。
「…あなた、だれなの?」
ピュートドリスはラテン語で問うたが、男はまるで聞こえておらず、眼中にもないかのようだった。彼はぐるりと上体をよじり、ティベリウスへだけ顔を向けた。
「お察しでしょうが、すでにエグナティア街道は封鎖されています。あなただけに。それでも帰るべきです。ここから海路を行けばいい。湾口の封鎖まで企まれる前に。ローマに着くころには騒動は勃発しているでしょうが、本物のあなたがローマに現れたなら、それで終わりです。ルキリウス・ロングスのことはあきらめるのです」
ティベリウスは黙してその男を見つめていた。男のまなざしは目深にかぶった兜のために見えなかったが、口元からはあっさり笑みを消し去っていた。あたかも真剣そのもののようだ。
「できませんか?」
男は待たなかった。
「そこのアマゾン並に勇敢な女王陛下と情交を楽しんでいたいですか。いつあなたの寝首を掻くとも知れないのに」
「ちょっと――」
「それが起こらないとどうして言えますか?」
ピュートドリスの抗議に、男は微塵も取り合わなかった。ティベリウスへだけ身を乗り出すように語りかけるばかりだ。
「会った覚えがあるな…」
ティベリウスが口を開いた。
「だとしたら光栄です」
男は軽く頭を下げた。
「私があなたの敵ではなかったことも、覚えていてくださるといいのですがね」
「この人は敵よ」
ピュートドリスは言い、ティベリウスの腕を引きながら立ち上がった。男の言葉に苛立ったのではない。ただ雰囲気に耐えられなかった。心を乱してくるなにかが、この男にはあった。生まれながらの勘としか言えないものが、即座に嫌悪感を知らせていた。
近づけてはいけない存在だ。
だがその男も立ち上がっていた。
「私にはファヴェレウスを止められません。でもあなたになら止められるでしょうかね…?」
あくまでティベリウスにだけ話しながら、男はすたすたと通路へ出てきた。
「どうかお帰りください、クラウディウス・ネロ。あなたはこんなところにいるべき男ではない。第二のアントニウスなんて、馬鹿げている」
男はティベリウスを見上げていた。ぎらりと油を塗ったような眼光が瞬いた。たたずまいは真剣なようで、あっさり無頓着で、それが腹立たしいほど尊大だった。
「それともなんですか。あなたは恐れていますか? あの方が――カエサル・アウグストゥスが、この一件の裏で糸を引いていることを。やりかねないと、知っているのですか? かつてアントニウスを狂人に仕立て上げたように、今度はあなたのことも――」
瞬間、ピュートドリスはティベリウスの腕を放した。目に飛び込んできたのは、歪みのないまま凄絶なまでの怒気を走らせた横顔だった。大鷲が飛び立つように見えた。ほんのひと羽ばたきで、ティベリウスはグラディウス剣を抜き、切っ先を男の首につけていた。
「消えろ」
自分に向けられたわけではなく、顔が見えたわけでもなかったが、ピュートドリスは戦慄していた。
男のほうもしばし息を詰まらせたように見えた。
「…わかりましたよ」
それでもかろうじて肩をすくめ、男はまた歩き出した。突き刺されはしないとの余裕を醸し出しながら、飄然と。
「忠告させてくださり感謝しますよ。どうぞ私のことはお忘れになってください。ご武運を、クラウディウス・ネロ」
男は出入口に消えた。ピュートドリスが気づくと、舞台をも客席をも、夜闇の幕が覆っていた。