第二章 -13
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その日はスタゲイラの近くで野宿をした。かの集落で宿を求めてもよかったのだが、とくにアスプルゴスたちが、長い時間船に乗り続けたことによる運動不足解消を求めていた。馬の手綱を引きながら、一行はゆるりと徒歩で西を目指した。もっともピュートドリスは散々集落内を走りまわる羽目になっていたので、アントニアとともに騎乗していたが。
道すがらの話題は、「お買い物会」だった。
「一生結婚なんかしなくていいかな、と思わせてくれる」
腕を広げ、アスプルゴスが訴えるようにティベリウスに説明していた。
「黒海じゅうの商船が嬉々として集まってくる。そりゃそうだ。客は女王と王妃なんだからな。しかも年に一度の機会だ。これぞと思う一級の品々ばかり、ずらりと並べる。それは確かに壮観なんだが、俺にはなにが良いのかよくわからんね。布やら宝石やら化粧道具やらの、赤やら緑やら黄金やら、あまりに色がありすぎて目が痛くなる。頭もくらくらする」
「夢のような光景だと思うけど?」
「いいや、悪夢だね」
すまし顔のピュートドリスに、アスプルゴスは食いつくように反論した。
「しかもあんな船が沈没しかねないほど買って、なにに使うんだ? 俺の母上が買えば、このアマゾン王妃はもっと高い物を買う。すると母上ももっともっと高い物を買う。たくさんだ」
「人を浪費家みたいに言うのはやめて頂戴」
「悪かったな。浪費なんて生易しいもんじゃないよ。あれは戦だ。お供の貴族の妻や、果ては侍女たちまで参戦するんだから。もうすさまじい修羅場だよ。女同士の見栄の張り合い、意地のぶつけ合い、欲望のままに奪い合い――」
「国の代表者として会談をしているだけでしょ」
ピュートドリスは変わらず平然としていたが、こっそりとティベリウスの顔を盗み見た。
「買い物はその余興よ。年に一度、ちょっとばかり散財したっていいじゃないの」
「ちょっとばかり」
信じ難いとばかりに、アスプルゴスはくり返した。ピュートドリスは自信を保ってうなずいた。
「そうよ。だいたい私は、日頃わりあい質素な統治者として知られているのよ」
「そいつは『黒海上の恐怖のお買い物会』を見たことがないんだろうよ」アスプルゴスは間髪入れずに指摘した。「だいたいなにが余興だ? 買い物が第一目的で、会談が余興だろ? その会談もまた、本当にぞっとする――」
アスプルゴスは改めてティベリウスへ身振りした。
「当てこすりすぎて火花が散って、異様に緊張感のある晩餐会なんだ。いつ惨劇の現場になってもおかしくない。あそこにいると、俺はちっとも食事が喉を通らなくなるし、酒も戻したくなる。この女が母上につかみかかって殴り合いにならないように、毎回トラキアの王妃も来てくれるんだけど、結局あの人も火に油を注ぐ役にしか立っていないように見える。ほんとにもう、女ってやつは……」
「アントニア、あなたもトラキアの王妃様になったら、一緒にお買い物をしましょうね」
前に乗せたアントニアへ、ピュートドリスはにっこりと言った。
「あたしはトラキアの王妃様にならないわ」アントニアは輝く目で見上げてきた。「ずっとお母様と一緒にいるわ」
ピュートドリスはその額に接吻を落とした。
「だれが発起したのか、その会は」
ティベリウスが訊いていた。
「結局、ポレモンだったみたいね」
ピュートドリスは応じ、それから少し首をかしげた。
「まぁ、私もデュナミスも、顔を合わせる機会は作るべきとは思っていたのよ」
「俺は別にポレモンが好きじゃないがな」アスプルゴスがにらんできていた。「ある年の『お買い物会』が終わったあと、げっそり痩せて見えるあの人を見かけたよ。かわいそうに、結局両方の妻に気を遣って、痛めたのはいずれ自分の懐なんだもんな」
「王家の富を市民に還元することは大事よ。年に一度の大盤振る舞いよ。良い政治の一環だと思うけど」
「あんたは母上がポレモンを殺したと思っているみたいだけどな」とアスプルゴスはさらに訝った。「二人の妻の散財を埋めるため、毎年戦利品を求めて戦いに行かざるを得なかったってのが本当なんじゃないのか?」
「馬鹿げたこと言わないで頂戴」
心外だとピュートドリスは首を振った。だいたいそのポレモンが亡き後も、「お買い物会」は毎年継続されているのだ。
「私も、たぶんデュナミスも、そこまで夫と国庫のことがわからない妻じゃなかったわよ」
「どうだかな」
ポレモンが命を落とした年のみ、喪に服すために休会していた。けれども結局トラキア王妃の呼びかけで再開したのだ。ピュートドリスはかの王妃に感謝していた。そうでなければいつまでもデュナミスと顔を合わせる気にならなかっただろう。必要に迫られたところで、自分から言い出せなかっただろう。
それでもアスプルゴスは、この女なりの外交を理解しかねていた。ティベリウスへこっそりと、それでも聞こえよがしにささやいていた。
「考え直せ、ネロ」
アトス山の際がまばゆく輝き、また夜が明けた。一行は西へ向かう進度を速めた。ローマ街道より十キロほど南の平原を、馬で駆けた。
この時期、太陽神の戦車はごくゆっくりと空をまわる。それでもついにテッサロニケイアの東門が見えたときは、すでにオリュンポス山の頂に神を下ろしたかのように戦車は姿を消し、代わって夜闇が巨大な手を伸ばして追いかけてきていた。
すでにアスプルゴスの家臣たちが先着している手筈だった。おそらくはピュートドリスたちでさえ、偽者軍団より早く州都を前にした可能性があったが、それでも連中の手先がうろついていないか、あらかじめ警戒しておくことができた。ピュートドリスが指摘したように、連中はテッサロニケイアには入るには危うすぎる。しかしだからこそティベリウスが立ち寄る可能性が極めて高いと考える。
また家臣たちは、ピュートドリスの知人宅の安全を確かめる指令も受けていた。まだ疑われているわけだが、ピュートドリスとしても事前連絡もなしに訪問するよりは良いだろうと思った。
アスプルゴスの家臣一人が、東門の外で待っていた。時間も遅くなったので、門番が市の戸締りをするのをとどめていたのかもしれない。とはいえ、問題はなさそうだった。偽者軍団の手先の気配はなく、お互いに予定どおりと言える時宜での合流だった。
ところが、その家臣の傍らにいた人物は、まったく予定になかった。
「女王陛下!」
短い白髪と顎髭の男が、あわあわとピュートドリスの下へ駆けてきて、ひれ伏した。
「ご無事でっ…! ご無事でなによりっ……!」
ピュートドリスはあっけにとられた。彼を馬で跳ねまいと手綱を引いた。その男は、きれいな丸い頭と六十歳を過ぎているにしてはがっしりした肉体の持ち主だ。もちろん見覚えがあった。
「マカロン、なにしてるの? こんなところで…」
「陛下をお探し申し上げていたのです!」
大声で知らせ、マカロンはわずかに顔を上げた。その太い眉でも防ぎきれないほどの汗が顔を伝っていた。
「アントニオス殿から陛下がテッサロニケイアで立ち寄りそうなところを教えていただき、これ以上のことはなんとしてもお止めすべく馬を飛ばしに飛ばし――」
「落ち着いて頂戴」
ピュートドリスのほうが戸惑っていた。すぐさま馬から滑り下りた。「弟に会ったの? トラッレイスで? それから私を追いかけてきたの?」
「さようです!」
陛下を見つけたのだから安心しても良いだろうに、マカロンはまだ慌てていた。
「アントニオス殿も心配しておられました。陛下が王女様とお二人だけで出立されたことを、あとになって知ったと。私はことごとく一足違いだったのです! トラッレイスでもエライウッサでも!」
そう言えば、ユバのためにマカロンを宮殿に呼び寄せたのは、ほかならぬピュートドリスだった。
ピュートドリスが目線を近づけようと地面に膝をつくと、マカロンは取りすがらんばかりに身を乗り出してきた。
「陛下! ティベリウス・ネロを殺してはなりません! 決して決して、陛下のお手を汚してはなりません! 彼もまた絶対に命を落とすべき男ではありません! どうか、どうか、お考え直しください! 御身を無用の危険にさらしませぬよう! だいたい今オリュンピアに向かっているというネロは、なにかがおかしいのです! 私が思うかぎり、まるで……よもや……そう、別じ――」
そこでマカロンは、ようやく隣の馬上の男に気づいた。あんぐりと開いた口は、見る見る顎が外れたかと思うほどに下がっていった。
ティベリウスのほうもいささかぽかんとしているように見えた。
「マカロン」
彼はつぶやいた。
テッサロニケイアの知人は、ピュートドリスのために輿を寄越していたが、それに乗らなければならなくなったのはマカロンだった。ひっくり返ってしまった彼を、ティベリウスは心なしか申し訳なさそうに担ぎ入れた。邸宅に入った後も、彼を寝室へ運び、気つけとばかりに葡萄酒の杯を与えていた。
マカロンはむせ返った。それからティベリウスをまじまじと見た。
「わけがわからないだろうな」
寝台の横にひざまずき、ティベリウスは代弁してあげていた。珍しいことだ。
「は、はい……いえ……まあ……その……」
マカロンは自らで杯を持ち直し、一気に飲み干した。
「…ふうっ……、いえ…まず、あなたも、ご無事で安心いたしました。へレスポントス海峡を渡るや否や、陛下があなたを殺しかけたなどという話を耳にしたときは、この心臓も止まるかと思いましたが――」
「マカロン」ティベリウスは遮った。むくれているようでもあった。「やめてくれと言ったはずだ」
マカロンは改めてティベリウスを見た。それからふっと笑みをこぼし、杯を寝台に投げ出すと、ティベリウスを抱擁した。
「会えてうれしい、ティベリウス。陛下を守ってくださっていたとは」
ピュートドリスは寝台に尻を乗せていた。例によってほかならぬ自分が、ポントス女王からの挨拶に代えて、マカロンをロードス島のティベリウスのところへ赴かせていたのだ。だから二人が知り合いであることも承知していた。しかしそれにしても――。
「あなたたち、いったいどういう友人なの?」
「子どものころ、大変世話になった。恩人だ」
「そこまでのことはしていないがね」
ティベリウスの短い説明に、マカロンは微笑んだまま首を振った。
「レオニダスは元気にしているかね?」
「ああ。今は別行動をとらせているが」
「あれからたくさんの兄弟に恵まれたが、あの子がいつまでもいちばんちゃらんぽらんに見えた。けれども今君の役に立っているのなら、私としても喜ばしく思うし、縁とは実に不思議なものだと、まったく運命の悪戯に思いを馳せずには――」
マカロンは、ややこしい現実からの休息を得たように楽しそうにしていたが、ここでピュートドリスの視線に気づいた。
「そんなことはさておき、陛下」
たちまち緊張を取り戻したが、それはもちろん女王の御前というだけでもなかった。
「この方こそ、ティベリウス・クラウディウス・ネロ殿です」
「知っているわよ」
ピュートドリスは苦笑する。マカロンももう驚かなかった。
「では、やはりフィリッピの野で気勢を上げたという男は――」
「偽者よ」ピュートドリスはうなずく。「そこまでは知らなかったのね」
それからティベリウスが、ルキリウス・ロングスの拉致にはじまる経緯を話したが、ピュートドリスと一緒にいる羽目になったあたりは、面倒と思ったのか「色々あって、道連れになった」とぼやかした。
マカロンはその事情については深入りしなかった。ただ険しい顔をして伏し目がちに聞いていた。それからボスポロス王とも道連れになるに及ぶ短い話のあいだ、マカロンはうめき続けていた。上掛けをぐしゃりと握る手が震えていたのは、怒りのためなのだろう。
「偽者まで用意するとは……。ただでさえ、これほどの非情はないのに……」
そして思い切ったように顔を上げ、ピュートドリスを見つめた。
「陛下、私は王にお会いしました。此度のことは――」
「マカロン」
ピュートドリスはやんわりと言った。
「その話はあとにしましょう」
半開きの扉から、アントニアがしきりに覗き込んできていた。マカロンと目が合うと、きゃあと声を上げて首を引っ込めた。それからまた覗いてきた。
物心ついたときから、アントニアはマカロンになついていた。じょりじょりの頭と顎髭をなでまわすのがたまらなく好きらしかった。
マカロンはしばしむずむずと口元を動かしていたが、やがて愛嬌のある笑みとともに、幼い王女を手招きした。