第二章 -12
12
昼過ぎに、船はスタゲイラに着いた。この地はかの哲学者アリストテレスの出身地として知られていた。現在は残念ながら廃市になっているが、それでも人の集落はあり、小さいながら船着き場もあった。カルキディケ半島の根本に位置し、ローマ街道はこの地から南に三十キロほど離れたところにある。
ティベリウスはアスプルゴスの家臣二人とともに馬を下船させていた。その隙に、ピュートドリスはアスプルゴスへひっそりと寄り添った。目を合わさずにささやいた。
「あなた、あの人の元の妻を知ってる? ユリアじゃない、無理矢理別れさせられたほう」
なぜなら、例の話が事実なら、ヴィプサーニアは彼の異母姉だった。しかも十五年前の当時は、まだティベリウスと夫婦として幸せに暮らしていたはずだ。
「もちろん」
アスプルゴスはあっけなくうなずいた。隠すどころか、誇らしげでさえあった。さらにはピュートドリスへ体を向け、心外とばかりに指を突きつけてさえきた。
「あんたなんかとは似ても似つかない、それはもう気立てが良くて、優しくて、芯が強くてしとやかで可憐で――」
そのとき、すとんと音がした。ピュートドリスはアスプルゴスときょとんとした顔を見合わせた。目線を下げると、アスプルゴスの豹の毛皮が地面に落ちていた。
アントニアは、彼の腰まわりにまとわりついていたのだが、今ひらすらに集落の中へ駆けだしていた。
「アントニア!」
わけがわからずに叫んだ。
「どこに行くの?」
するとアントニアは立ち止まった。ひょんと振り向き、ピュートドリスへいーっとばかりに皺の寄った顔を見せた。それからまた一目散に走りだし、たちまちのうちに村人たちの蔭になった。
「ちょっと――!」
ピュートドリスは立ちつくした。なにが起こったか把握したときは、数呼吸ものあいだ時間を浪費していた。
「待ちなさい!」
急ぎ大慌てで駆けだした。信じられなかった。だがもうアントニアの姿は目の届くどこにも見えなくなっていた。まばらな村人とその家と、そして灌木。どの向こうへ行ったのかまったくわからなかった。
娘は逃げ出したのだ。母に反抗していなくなったのだ。これは家出ではないのか。七歳にして。
「なんなんだよ、おい!」
後ろからアスプルゴスの呆れ返った声が聞こえてきた。だが足音がして、振り向くと、そこにいたのはティベリウスだった。彼は身振りでアスプルゴスたちにそこに留まるように示し、すぐにピュートドリスに追いついたばかりか、追い越そうとしていた。彼はピュートドリスにも身振りしたが、冗談ではなかった。アントニアの母親なのだ。
結局二人は手分けして探すしかなかった。集落じゅうを走りまわり、娘の名前を呼びながら、ピュートドリスは苛立っていた。
無論、アントニアに本当にいなくなる気などないことはわかっていた。すべて母の気を引きたいがためだ。困らせたいのだ。
だが初めて訪れたさびれた集落でやることではなかった。迷子になって、見つからなくなったらどうするつもりか。井戸にでも落ちるかもしれない。悪い大人にさらわれるかもしれない。獣に襲われるかもしれない。
あの子は馬鹿だと思った。もっと分別のつく子どもに育てたと思っていた。まったくだれに似たのだろう。
ピュートドリスは娘に十分すぎるほど負い目があることはわかっていた。だがこれはさすがに許されない。アントニアに万一のことがあったら、ピュートドリスは生きておれない。
それにしてもなぜ今なのか。
娘はなかなか見つからなかった。焦るあまり、どこかで見落としたのか。それともすでにだれかにさらわれ、屋内に連れ込まれてしまったのか。
ピュートドリスは気が気ではなかった。焦燥と走り続けたことで、今にも心臓が破裂しそうだった。
けれどもそうならずに済んだ。粗末な家と家のあいだの狭い路地に、ティベリウスの背中がたたずんでいるのが見えた。
その足の向こうに、小さい影がうずくまっていた。
息を切らしながら、ピュートドリスは近づいていった。もう走ることはできなかった。せめて娘の頬を一発張るくらいの力は残しておかなければと思ったが、なによりもひとまず安堵して良いのかと訝っていた。
けれども途中で止まった。どうしてかはわからない。
ピュートドリスは家の蔭に隠れるようにして立ち、路地の奥を覗き込んでいた。ティベリウスがなにかを話し、それにアントニアがすぐさま首を振ったところだった。
「母上が心配している」
今度は声が聞こえたが、アントニアはティベリウスに背を向けて丸まったまま、動こうともしなかった。
「あたしのほうが心配しているわ」
ピュートドリスは両手で頭を抱えた。聞かなければよかったとさえ思った。
「でもおじちゃまと会って、お母様は元気になったから、あたしうれしかったし、よかったって思ったのよ。でも……」
アントニアはそう続けたが、途中で言葉を切った。聞こえないように、ピュートドリスはうめいていた。
いつのまに、娘は母をそこまでとらえるようになったのだろう。
「君は家に帰りたいのではないのか?」
ティベリウスが尋ねると、アントニアはさらに首を大きく振った。そしてきっぱりと言った。
「お母様のいるところが、あたしのおうちよ。ポントスのおうちも、エライウッサのおうちも、お母様がいないのなら帰りたくないのよ」
それから声は少し湿ったが、力強さをさらに増した。
「帰りたいなんて言わないのよ。帰りたいのはお兄様たちやアルケちゃんだから、あたしが言うなんておかしいわ」
小さい背中は意固地だった。けなげに誇りを保とうとしていた。それでもしだいにしおれていったが、それはくじけたからではなかった。
「でも、あたしたちがみんないなくなったら、アルケお父様が独りになっちゃうわ…」
消え入りそうな声だった。まるで自分が独りにされたかのように。
「どんな人だ?」
ティベリウスが訊いたが、話を合わせただけだろうとピュートドリスは思った。なぜなら一度、彼はアルケラオスに会っている。二十五年も昔だが、彼の鋭い目は、それだけでおおむねその人となりは把握しただろう。アルケラオスも、その件からティベリウスへの態度を決めたのだ。
「あんまりお話ししないのよ。いつもお部屋に入って、独りでお仕事しているか、ご本を読んでいるみたい。お食事は一緒にすることもあるけど、やっぱりいっぱいおしゃべりはしないの。お外をお散歩するときも、あたしたちの後ろをゆっくりついてきて、遠くから見ている感じで…」
それから一度ぶんと首を振り、真面目につけ加えた。
「でも、お話することがあるときは、ちゃんとお話ししてくれるのよ。怒らないし、意地悪しないし、本当は優しいのよ。もうおじいちゃんだけど、お顔が綺麗で、王様らしくってかっこいいのよ」
アントニアは行き止まりの路地を見上げていた。薄暗く、のっぺりとした木の柵以外なにもない。その隙間から覗くわずかな空をたぐるようにして、世界に背を向けていた。
「あたしは本当のお父様を覚えていないから、アルケお父様がお父様よ」
ピュートドリスは家の壁にもたれた。背筋が固まり、目を伏せていた。娘の言葉にはなんの迷いもなかった。
「心配しなくていい」
ティベリウスの声が、落ち着いて言った。
「私は君たちから母上を取り上げるつもりはない」
ピュートドリスは目を見開いた。アントニアの声が訊き返した。
「ほんと?」
「ああ」
ピュートドリスはずるずると壁伝いに座り込んだ。
「君たち」とは、アントニアとその兄弟のことだろうか。それともアルケラオスも含まれているのだろうか。
いずれにせよ、意味するところは明白だった。ティベリウスはピュートドリスといつまでも一緒にいるつもりはない。
わかってはいた。ピュートドリスだってその覚悟があって来たわけでは決してない。
しかしそれでも、彼の答えはピュートドリスを打ちのめした。突きつけられた思いは、我が愛も夢もあっけなく打ち砕いたように思えた。
だがアントニアは違った。彼女は母がいよいよ恥じ入るしかないくらいに優しい子だった。
「じゃあ、おじちゃまは?」
彼女は問いかけていた。
「おじちゃまはおうちに帰りたくないの?」
あまりにまっすぐな子どもの問いに、ティベリウスは答えかねたのだろうか、しばし黙していた。アントニアは待つべきだった。いくらでもねばって、この男から答えを聞き出すべきだった。
けれどもさすがにそこまで気をまわせとは無理な話だ。
「お母様が、おじちゃまはアントニアが赤ちゃんのときから、おうちに帰ってないってお話ししてたわ」
アントニアは助け舟を出してしまっていた。けれどもこれにもティベリウスはすぐには応じてこなかった。
「…私は子どもではないから、自分のいるところが帰る場所だ」
精一杯子どもに合わせたのか、それとも大真面目にそう信じているのか。
「おじちゃまはそれでいいの?」
アントニアもまた大真面目だった。真剣にティベリウスを見つめているに違いなかった。
「お母様とアントニアがいなくなったらさみしくないの?」
ピュートドリスは両手で顔を覆っていた。ティベリウスは微苦笑でも漏らしているだろうか。
「君は色々と心配しすぎだ」
吐息のまじる声。それから足音。
「ゆったり構えていろ。女大王なのだろう?」
彼が冗談を言うのを初めて聞いた。笑いの色は一切なかったが。
動く気配がした。衣擦れの音と、近づいてくる足音。
しゃがみこんだまま、ピュートドリスはのろのろと顔だけ上げた。彼がどんな顔をしているか、それでも見ておかなければと思ったからだ。
ティベリウスは無表情だった。なに事でもないかのように、涼しげでさえあった。腕に、決してもう幼児ではないアントニアを抱え上げていた。
彼はピュートドリスを見つけた。立ち止まり、左肩にアントニアの頭を乗せて、押し上げた。それから右手をピュートドリスへ差し出した。
ピュートドリスの顔が輝いた。飛び上がるより早く彼の手を取った。握り返しながら腕を組み、体を寄せた。
なにもいらなかった。いつか終わるとしても、きっと明日はある。そして永遠なのは、この瞬間のこの思いだけだ。ずっと知っていた。教えてくれたのはこの人だ。
少し背伸びをし、少し首をかしげ、同じ距離を同じだけ詰めて、二人は唇を重ねた。




