第二章 -11
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「ねえ、アスプルゴスはどうしてあんなにあなたに肩入れするの?」
ピュートドリスが尋ねたときは、船室の中にいた。傍らで壁に背中を預け、ティベリウスは横目を向けてきた。けれどもしばらく待っても答えはなかった。
一夜明けて後、ガレプソス市の港から定期船に乗り込んでいた。ストリュモン湾を横切り、カルキディケ半島の根本に到着することになっていた。一方、アスプルゴスの家臣たちはローマ街道に戻っていた。今ごろはアンフィポリスに着き、引き続き一路西へ向かっているはずだった。
いずれどちらも、テッサロニケイアには南東から近づくことになる。けれどもアスプルゴスの家臣たちのほうが、一日程先着するだろう。
当のアスプルゴスも船室にいた。ニケウスとミダスという家臣二人を従え、ピュートドリスとティベリウスから最も離れた端に陣取り、今のところは他人のふりをしていた。ところがその傍らには、豹の皮に顔をうずめて眠っているらしいアントニアがいた。
相変わらず、アントニアはご機嫌斜めだった。それでも昨夜はティベリウスがテントに入ってくると、あきらめたように大人しくなり、彼の腕をぎしりと抱いてようやく眠ったのだった。ところが今日になって、そのおじちゃまの裏切りに遭った。
早朝、乗船してまもなくのことだった。ピュートドリスがふと尋ねた。
「アントニア、おじちゃまと二人でお船に乗ったときは、お利口さんにしてた? 泣かなかった?」
「泣いてないわ」
アントニアはうなずいた。
「大泣きされた」
訂正がなされた。
「泣かないのよ!」
憤然と去り際、アントニアは言い放った。
「アルケちゃんとお兄様たちが泣いているから、泣かないのよ!」
ピュートドリスはうなだれた。
それから船は順調に進んでいた。アスプルゴスはじっと素知らぬ体でいたが、時折ピュートドリスへ、さすがにもういい加減にしろと言うような、うんざりした顔を向けてくるのだった。
けれども、彼にこちらの話し声は聞こえないはずだった。ティベリウスの袖を引っ張り、ピュートドリスは答えを急かした。
「十五年前、よっぽど楽しく遊んであげたの? あなたが?」
ここに至るまでのアントニアへの応対を見れば、それがあり得ないことは明白ではあった。ピュートドリスがじっくり顔を覗き込んでも、ティベリウスは口を開かなかった。
「教えられないっていうの?」彼の肩を押さえ、ピュートドリスはねめ上げ続けた。「ちょっと妙でしょ、あの人の態度」
「どうしてそう思うんだ?」
ティベリウスは逆に質問してきた。
「どうしてって――」
ピュートドリスは思い返した。
――言え! ティベリウス・クラウディウス・ネロ! 俺はだれだ!
泣いていたのだ、彼は。どうして。
「…あの人は、ガイウス・カエサルに反感を抱いているわ。無事に会見を済ませたらしいのに」
――誇るものがないのか。アウグストゥスの血のほかに。
――それもこれも、あの祖父さんの血を笠に着ても安心できない臆病者のせいで――。
「ちょっと待って……」
なにか、おかしい。矛盾がある。
酒の席ではあるが、彼はこうも言っていた。
――どこの息子がさ、父親を誇りたがらないんだよ。
この「息子」とは、ガイウス・カエサルのことのように聞こえた。だが、だとしたら妙ではないか。彼の父親はアウグストゥスだ。その血筋と威光を笠に着ているのが目に余ると、アスプルゴス自身が文句を漏らしたし、彼の目にばかり余ったのでもないのも、明白だ。ピュートドリスもガイウスを見ている。彼はまぎれもなく父親を誇っている。唯一にして最大の頼みにしている。
――あいつは一度でも、あんたから父親の話を聞きたがったか?
だから、話を聞くのを避ける理由もないはずだった。
けれども、待て。
アウグストゥスはガイウスの父親ではない。養父だ。実際は、実の祖父だ。
彼の実の父親は――。
「嘘でしょ?」
ピュートドリスの上げた頓狂な声は、アスプルゴスにも聞こえたかもしれなかった。だが忘れていた。すぐに言葉を失ったのは幸いだった。
茫然となった。それから頭の中で、猛然と時を遡った。二十二年前、そして十五年前――。
その当時、「彼」はアウグストゥスから東方世界を任されていた。
それより前、アクティウムの海戦の指揮を執ったのは、だれか。ラエティアの山賊討伐の戦術を、若き日のティベリウスとその弟に指南したのは、だれか。
マルクス・アントニウスを倒した男。今は亡き当代一の将軍。
最後に浮かんだのは、笑顔だった。デュナミスの、老いてなお満ち足りて輝いていた、あの陽気な笑顔だった。
ピュートドリスはまじまじと見つめたが、ティベリウスはぴくりとも頬を動かさなかった。答えを得たようなものだった。
そうなると、どういうことになるか。
デュナミスが身籠ったのは、マルクス・ヴィプサニウス・アグリッパの子だった。しかも事実なら、彼の長男だ。
アスプルゴスはガイウスの異母兄だ。
「当事者からはっきり聞いたわけではない」ティベリウスはそれでもそうつけ足した。「ただ、あの頃のデュナミスを見ていたら――」
その先は、確かに言う必要もなかった。
十五年前、ローマで、アスプルゴスは初めて父とのひとときを過ごした。父はすでにユリアとの家庭を築いていたが、思いきり歓迎したに違いない。アグリッパは気さくでおおらかな人柄で知られていた。このティベリウスでさえ笑顔で彼に抱擁を求めたとは、セレネ叔母から聞いた話だ。我が子とまではおおやけにしたはずもないが、後ろ暗いところもなかった。彼にしてみれば、独身時代の子だ。ましてユリアとの子であるガイウスとルキウスは、生まれてまもなくアウグストゥスの養子に出し、次の男児はまだ授かっていなかった。アスプルゴスがさぞ可愛かっただろう。
デュナミスのことも、心から愛したのかもしれなかった。そうでなければ今に至るまでの彼女のあの輝きの説明がつかない。アグリッパは生涯で三度結婚したが、いずれも愛情以外の意図が働いていた。女王であるピュートドリスもそれは当然と思うが、彼をアウグストゥスの言いなりだとか、政略の具だとか、自ら情を抱く心がないとまで見なす者もいた。
そんな彼がデュナミスと関係を持ったのだとしたら、本物の恋であったとするしかなかった。デュナミスはその当時ですでに四十歳になっていたはずだ。
いずれにしろアスプルゴスは、母とともにローマでかけがえのない時間を過ごした。生涯の楽しい思い出に違いなかった。
そして最後は、父であろう人にボスポロスまで送り届けられた。彼に母子を託されたのは、ポレモンだった。
ピュートドリスは亡き夫を思った。彼はデュナミスからアスプルゴスを奪わなかった。知っていたのだ。自分を王位に据えた男の息子だと。
その男が亡き後も、義理を立てたのか。血みどろの王位争いも厭わない東方の王であるのに。確かにポレモンもまた彼を好いていた。
あるいは、容易に手出しできないと思ったのだろうか。ティベリウスが知っていたのなら、アウグストゥスも知っていただろう。アウグストゥスにしてみても、気を悪くする理由もなかった。娘との結婚前の出来事だったはずだ。
今やピュートドリスは、アスプルゴスをじっと眺めていた。「なんだ。いい加減、娘を引き取りに来い」と、愛想のかけらもない顔で文句を言っていた。だがその髭を剃れば、気さくでだれをも笑顔にした男の面影が現れるのだろうか。ピュートドリスはかの人を直接は知らないが、アグリッパの血は濃いらしく、彼の子どもたち全員が父親似だと評判だった。
けれども、けれども――。
衝撃の中、ピュートドリスは改めて考え直す。
だからといって、アスプルゴスがティベリウスに肩入れする理由になるだろうか。血の繋がりがあるのは、ガイウスのほうなのだ。弟だ。
だが、アスプルゴスは知っていた。血の繋がりを知られようものなら、殺されかねないことを。同じ血を引いているというだけで身内同士が殺し合う例は、枚挙にいとまがない。東方世界に数多あった王政国家ならば、特に。
アスプルゴスは言えなかった。言いたくても言えなかった。本心は、打ち明けて、父との思い出を分かち合いたかったに違いない。彼が知らない父の話も聞きたかったに違いない。
だが、言ったところで相手にされない可能性があった。もしくは、途方もない侮辱と見なされ、その場で首を刎ねられる可能性もあった。王位を認められるなどもってのほかだ。
だから彼は、現実に甘んじた。覇権国家の次期第一人者と属国の王。実際は主君とその家臣も同然だ。けれども立場の上下も、多少の傲慢も、アスプルゴスは耐えられたはずだった。
しかし彼が腹に据えかねたのは、ただの傲慢ではなかった。
――誇るものがないのか。アウグストゥスの血のほかに。
ガイウス・カエサルが誇ったのは、養父の血のみだった。実父の血はないがしろにした。否、もっとひどかったのかもしれない。実際、エライウッサで、ピュートドリスにも覚えがあった。ガイウスはアウグストゥスへの賛辞には気を良くしたが、アグリッパに触れられると不機嫌な顔を隠さなかった。容姿が似ていることを指摘されでもしたら、実際に罰を宣告したかもしれない。そんな雰囲気が確かにあった。
マルクス・アグリッパの生まれは低いらしかった。アウグストゥスも貴顕の出ではまったくないのだが、それでもガイウスにしてみれば大変な違いがあり、敬遠したのだろう。彼は実父に触れられたくなかった。その存在を無き者にしたがったのだ。そしてローマの第一任者であり、自分の第一位の未来を約束してくれる祖父の血だけを尊んだ。それが自分の尊さの証明だと思ったからだ。
アスプルゴスにはそれが信じられなかった。
なにも打ち明けられずともよかった。父の話を分ち合えたら、それで十分満足するつもりだった。
おそらく彼は、さりげなく、アグリッパの話をガイウスに振ったのだろう。きっと期待に胸を膨らませながら、「かの名将である父君の才を、あなたは継いでおられるのでしょうね」などと。だが待っていたのは、即座の非情の拒絶だった。「その話はいい」「私の父は、カエサル・アウグストゥスである」ガイウスはそのように応じたに違いない。
その瞬間、すべてを悟っただろう。
アスプルゴスはどうしても許せなかった。血が繋っているからこそ許せなかった。
アスプルゴスの出生がこうなった背景は、当方のブログ記事「平和の祭壇と東方の女王①②」に書いております。(http://anridd-abananas.hateblo.jp/entry/2015/09/02/173858)