第二章 -10
10
明くる朝、人々は起床すると、アウグストゥスの月の第一日目を営みはじめた。太陽はまた当たり前のように天頂に昇っていく。客室を出て、その日差しに目を細めたピュートドリスは、ふと思い出した。八月一日とは、祖父アントニウスの命日だ。ちょうど三十年前の今日、祖父は女王クレオパトラの腕に抱かれて息を引き取った。
偽者軍団はこの日を意識していたのだろうか。気勢を上げるにはこのうえもなく効果的だが、セレネ叔母が気の毒でならない。父を静かに悼むどころではない。捕らわれて、独りきりで迎える今日の日になろうとは。ピュートドリスは初めて祖父の霊に祈りたいと思った。
暑さが落ち着いてから出立するので、それまではゆっくり休むようにと、ティベリウスはピュートドリスとアントニアに言った。それから自分はこの屋敷の主人たちとなにやら話していた。
フィリッピの野で実際になにが起こったか、情報をまとめているようだった。だがおおむねは想像していたとおりのようだ。偽ティベリウスは、クレオパトラ・セレネを客人として歓待しながら、その父であるマルクス・アントニウスを称賛し、その霊へ敬意を払った。すでにネストス川一帯で大いに噂となっているらしかった。
それでもぼろが出るのを恐れたのだろう。あるいは本物の逆襲も警戒したのだろう。偽者軍団は夜も更けないうちに宴をお開きにし、早々に引き払ったそうだった。
アントニウスの祠に、命日だからと花を手向けにくる人々への警戒もあったかもしれない。
ティベリウスは屋敷の主人に斥候を用意してもらい、さっそく偵察に向かわせた。彼の手持ちの奴隷ではなく、ルキリウス・ロングスの、しかも縁故の者なら、偽者軍団に気づかれる可能性もずっと低い。そのうえ信頼もできる。
本当に信頼できるのかとピュートドリスは少し訝ったが、捕らえられているのはルキリウス・ロングスなのだから、縁者としても手を貸さずにいられないのだろう。あとでティベリウスは、この家がルキリウス・ロングスの生家なのだと教えてくれた。実家ではなく、文字通りの生まれた家だと。四十二年前、ルキリウスの母は、ブルートゥスとカッシウスの陣営にいた夫の身を案じながら、この家で息子を産んだのだという。
ピュートドリスは遅い朝食と、それから軽い昼食も取った。ほとんどが前夜ピュートドリスのために残されていたものだった。さらに新しく用意された甘味のあるスイカを、ティベリウスはピュートドリスに勧めながら、自身はキュウリの漬物をかじっていた。ピュートドリスは笑わざるを得なかった。
「毎日欠かさず食べているわね」
午後遅く、ティベリウスは主夫妻に礼を述べて、馬の手綱を取った。主は彼とピュートドリス母子のみか、アスプルゴス一行までもてなしてくれたのだ。すべてが終わった後のティベリウスの名誉回復も請け合い、ルキリウス・ロングスの無事を託した。ティベリウスはうなずいた。
心地良い海風に吹かれながら、二騎はネアポリスを出発した。ピュートドリスの腰には、買ったばかりの細身の剣が携えられていた。
馬の歩みは軽快で、どんどん進んだ。偽者軍団を追走しながら、次の指標はテッサロニケイアになるはずだった。
行く道は限られているので、これまで以上に偽者軍団と接触する危険があった。けれども馬を駆るティベリウスは、ためらいも疑念もなく、自信に満ちている様子だった。今や偽者軍団は一線を越えたのだ。叩き潰す大義名分は、本物にこそあった。だれのどのような意図が働いていようと、偽者軍団の謀反は止められなければならないのだ。
しかしどこでどのように勝負に出るつもりなのだろう。相も変わらず連れていない手勢をどこへやって、自分はどうするつもりなのだろう。
ピュートドリスは尋ねてみようとした。けれども後方から、ものすごい蹄の音が聞こえてきたので、止めにした。自分が尋ねるまでもなさそうだった。
「待てぇぇぇぇぇぇーーっっ!」
声は一人分だったが、蹄の音は一騎や二騎ではなかった。ティベリウスもわかっていた。それで馬を止め、ピュートドリスと一緒にゆっくりと振り返った。
「なんで置いてくんだっ!」
アスプルゴスは家臣たちをだいぶ置き去りにしていた。駆けてきたのはあくまで馬だったが、それに乗る彼がいちばん息を切らしていた。
ティベリウスが口を開いた。
「昼に船を訪ねたが、君はまだ眠っていると聞いた」
「とっくに起きた!」
おそらく昨夜の深酒がこたえていたのだろう。アスプルゴスは顔を真っ赤にしていた。
ピュートドリスも無頓着な感じで加わった。
「あなたは海へ行ったものだと思っていたわ。もう船がなかったから」
「船は出した! だがなんで俺まで乗っていかなきゃならないんだ!」
「母上への手紙にそう書いたんでしょう? なんでわざわざ陸路を行く必要があるのよ?」
「おい、ネロ!」とぼけるピュートドリスを無視し、アスプルゴスはティベリウスへわめいた。「俺なしで連中とどうやって戦うつもりだ!」
「ありがたいが、君にも都合があるだろう」
ティベリウスは平淡だった。同じ調子でピュートドリスも付け加えた。
「そうそう。一国の王なんだから、立場を慎重に考えるべきよ」
「あんたが言うな!」ごくまっとうな言い反しを済ませてから、アスプルゴスはあくまでティベリウスへ訴えた。
「俺は母上を捕らえられているも同然なんだぞ!」
「だが、そうだと知らされてはいない。本当にいいのか?」
「あんたにつく!」このうえなく大きくうなずき、そして信じられないとばかりに、アスプルゴスはますます声を張った。「どこのだれであろうと、偽者を使うなんてふざけた真似をするやつに、どうしてついていけるんだよ!」
「なにも得がないかもしれないわよ」
と、ピュートドリスは指摘してやる。
「だからあんたが言うな!」
律儀に切り返してから、アスプルゴスはティベリウスへ胸を張った。
「俺は母上を取り戻す! そして、オリュンピア競技祭であんたに勝つ!」
ピュートドリスは目をしばたたいた。
「…あなた、まだ勝負するつもりなの? この人と?」
「元からそのつもりで来たんだよ!」
今更とばかりに鼻を鳴らしてから、アスプルゴスはティベリウスへ指を突きつけた。
「覚えておけよ! 決着はオリュンピアだ! それまで死なせねえからな! 昨日の借りは必ず返すぞ!」
「頼もしいですこと」
ピュートドリスは首をすくめた。ティベリウスを見ると、彼はこくりとうなずいたところだった。
「感謝する、アスプルゴス」
そう言うと、彼は前方へ向き直り、少し声を小さくした。
「元は私に向けられた謀なのだからな」
「なに言ってんだよ…」
打って変わって眉尻を下げるアスプルゴスは、弱りきった様子だった。率直な謝意は居心地悪いとばかりに。
「あんたがなにをしたっていうんだ? あんたに言いがかりをつけるために、連中はありもしない事件をでっち上げようとまでしているんだぞ。それもこれも、あの祖父さんの血を笠に着ても安心できない臆病者のせいで――」
「やめろ、アスプルゴス」
静かだが、鋭い制止だった。アスプルゴスは言葉を呑んだが、それでもまだなにか、腹に溜まったものを消化しきれないでいるような、不満顔をしていた。
ピュートドリスはそんなボスポロス王に横目を向けていた。背中のアントニアもまた、突然増えたおよそ四十人の男たちを注視しているようだったが、なにも言わなかった。
パンガイオン山を右手に、西へ進んだ。ここまでの旅と同じように海沿いを進み、陽の沈むころには、アポロニア、ガレプソス両市を前にしていた。
一行はまだどちらの市にも入らなかった。アスプルゴスは後者の市に家臣を食料調達に出向かせたが、自身は市壁を背に、野原にどかりとあぐらをかいた。野営の準備をするあいだ、ティベリウスと今後について話をするつもりらしかった。すでに先行させていた家臣からは偵察報告も受けていた。
その話をする前に、彼は面白くなさげな目つきでピュートドリスとティベリウスを眺めていた。膝の上に頬杖をついた。
「よりにもよって……」
ちょこりちょこりと、アントニアが彼に近づいていった。おっかなびっくりのようでいて、目が笑っていた。彼の肩にかかる豹の毛皮を指先でつまんだ。
がーーっ! とアスプルゴスが吠えた。両手を掲げ、爪を立てるふりまでした。アントニアは悲鳴を上げ、満面の笑みで母とティベリウスのあいだに飛び込んだ。背中に隠れると、指を差し、母へ言った。
「お母様、私もあれが欲しいわ」
「だめよ。女の子が着るものじゃないわ」
「なんで?」アントニアはむくれた。「強そうなのに。あれのキトンを着てみたいわ」
「なんて趣味のお姫様なの」
「私はお姫様じゃないのよ。女大王になるのよ」
「まったくもう…」ピュートドリスはため息をついてみせた。「だったらあのお兄ちゃんにお願いしてみなさい」
それで、アントニアはまたもアスプルゴスへ近づいていった。だれの目にも見えていたにも関わらず、こっそりと足音を忍ばせていた。今度は頭から豹の皮をかぶり、アスプルゴスはひと吠え威嚇した。
「おい」それから家臣たちへ、毛皮を放った。「かまってやれ。その辺りで」
そうして、アントニアは豹や鹿や猪の毛皮をかざしたアスプルゴスの家臣たちと追いかけっこをはじめた。けれどもアスプルゴスの指示したとおり、ピュートドリスの目の届かないところへ行くことはなかった。
「優しいのね」ピュートドリスは認めた。「でも娘はあなたには嫁がせないわよ」
「願い下げだ」アスプルゴスはすぐに言った。アントニアに向ける目はどこか遠くなっていた。「だれだって子どもだったことはある。無茶な母親を持つ気持ちもわかる」
ピュートドリスは目をしばたたいた。
そう言えば、アスプルゴスがローマに行ったのは、アントニアと同じ年頃の時だったはずだ。
だがピュートドリスがなにか質問する前に、アスプルゴスは真正面にいるティベリウスへ話していた。あいだには、乾燥食材が数種と杯が置かれていた。
「連中はパンガイオン山の向こう側の道に入り、そのまま北へ向かったとのことだ。数はおよそ百二十」
ティベリウスも斥候から同じ報告を受けていたのだろう。ただうなずいた。干し肉をつまみながら、アスプルゴスは続けた。
「テッサロニケイアも、北から迂回するだろうな」
フィリッポイから西へ、ローマ街道は二本に分かれる。パンガイオン山を囲んで敷設されたわけだが、北側の道が支線と言うべきだろう。
二本の道は、アンフィポリスという都市で合流するのだが、北側の支線は、その都市を迂回して、さらに内陸へも伸びている。偽者軍団はそちらの行路を選んだようだ。
遠回りにはなる。だがアンフィポリスのような要所を通るより、偽者とばれる危険は少ない。一方、田舎は都市に負けず劣らず噂が広まるのが早い。ティベリウス・ネロとクレオパトラ・セレネの噂も、尾ひれをつけて飛び立っていくに違いない。
一方、ティベリウスは相変わらず海沿いの道を進んでいる。このまま行けば、明日にはアンフィポリスに着く。さらにローマ街道に沿えば、テッサロニケイアまですぐで、嫌でも行き当たる。
現在、遠回りにせよ、偽者軍団がおよそ一日行程先を行っている。テッサロニケイア近郊にはほぼ同着となるかもしれない。
そういうわけで、ひとまず敵はこの近辺にはいない。けれども噂は届く。向こうからも偵察が来ている可能性もある。
アスプルゴスは杯に口をつけたが、今夜は陽気に飲み明かす気分ではなさそうだ。
「それで、あんたの手勢はカルキディケ半島をまわらせたんだろ?」
彼が問うと、ティベリウスはまたうなずきを返した。
「どこに上陸させるつもりだ? アテネまでは行かないよな?」
「テッサリアに」
ティベリウスの言うテッサリアとは、ギリシア本土にある平原地帯である。マケドニアとの国境を南下したところに、オリュンポス山をはじめとする山々に囲まれて、盆地が広がっている。ギリシアの穀倉地帯とされる。
「ラリサの辺りか?」
アスプルゴスの推察に、ティベリウスはまたうなずいた。テッサリア地方の中心都市の名だった。
「上手くいくといいがな」
アスプルゴスはわずかに顔をしかめた。というのも、ギリシア本土東岸はなかなか良港と呼べる場所がないのだ。ラリサへ続くペネイオス川の河口近辺が理想だろうが、なにしろ山が多く、船を寄せ難い。
だが上陸してしまえば、山の蔭に身を潜めて奇襲をかけることが可能だろう。
ティベリウスは手勢をタソス島に集めたうえで、海路カルキディケ半島を大きく迂回させる戦法でいたのだ。自分が武装した複数人といるころを見られる懸念なく、偽者軍団に先回りできる。いつかピュートドリスが言ったように、待ち伏せするのである。
ピュートドリスはアスプルゴスの船はどこへ向かったのかと尋ねた。彼はひとまずアテネへ向かわせたと答えた。それはあくまで四頭の競走馬を無事オリュンピアへ届けることが目的で、戦力となりそうな家臣はすべてこの陸路に従えたという。
つまりはもう待ち伏せばかりではない。連中を挟み撃ちにすることができるのだ。
それでも――と、ピュートドリスは思った。
「仲間が増えるのはありがたいけど、あなたたちと一緒にいたら、かえって目立つんじゃないかしら? せっかくここまで物々しさを隠してきたのに」
「俺たちが邪魔か」
憎らしそうに、アスプルゴスは顔をしかめた。だが認めはした。
「目立ちはするだろう。だが俺たちはあくまでボスポロス王一行だ。どうしてその中にティベリウス・ネロがいると思うんだよ?」
「いずれ疑われるわよ。だってあなた、海路を行くとデュナミスへの手紙に書いたんでしょう?」
「しらを切り通せばいい。気が変わったと。陸路を楽しみたくなったし、母上を預けたままだから、と。だいたい俺は、オリュンピアに着くまでネロと顔を合わせるつもりはないとも書いた」
「でも、確かめにくるわよ。そのとき、この人と私は身を隠したとしても、今度こそ伺候を求められるでしょうよ」
「なら、行ってやればいい」アスプルゴスは自信に満ちた顔でうなずいた。「そ知らぬ顔で挨拶してくる。そうすれば偵察になるし、母上の無事も確かめられる」
「そうして、戻って来られると思うの? なに事もなく?」
「こっちは四十人はいるんだぞ。そう簡単に手出しできるか」
ピュートドリスの疑念を退けたうえで、アスプルゴスはさらに強気に言った。
「なんなら、テッサリアまで待たなくていい。俺たちでぶっつぶせるさ」
「危険すぎる」
ティベリウスが低い声で指摘したが、アスプルゴスは挑むような目線を返した。
「俺たちは強い。それに連中は、ほとんどが寄せ集めのごろつきだろ? あんたとこのアマゾン王妃でさえ、懐まで飛び込んで無事に抜け出してこれたんだ。朝飯前だ」
「二度も通じるとは思えん」ティベリウスは首を振った「まして大人数だ。相手も警戒する」
「上手く油断させてやるさ。なんなら連中の味方になるふりをして、ここぞという隙をついて――」
「だとしても、少なからぬ犠牲が出る」
ティベリウスの声色は、ゆっくりとして重かった。
「君の部下に。これは喧嘩ではない」
アスプルゴスは一瞬言葉を詰まらせた。だがすぐにむきになるように身を乗り出してきた。
「俺は母上を捕らえられているんだ。戦う理由がある」
「本当に?」あくまで沈着に、ティベリウスはアスプルゴスを見返した。「デュナミスは巻き込まれたにすぎない。人質にすると示されたわけでもない」
それからわずかに重みを少なくし、吐息も交える。
「そもそも連中は君と数人の同行者のみ許し、残りは寄せつけないだろう。デュナミスにそうしたように」
「じゃあ、俺たちはどうしたらいいんだよ?」
眉尻を下げ、アスプルゴスはまた困った顔になった。苛立っているというより欲求不満に見えた。
「同じだ。連中には近づかない。伺候の要求には応じず、私とともにいることを見られもしない」
ティベリウスは単語を一つずつ区切るように言い、それから結論づけた。
「別行動を取るべきだ」
「あんたまで俺を邪魔者扱いか」
失望したように、アスプルゴスはうめくのだった。それからピュートドリスへ腕を振った。
「わかってないわけじゃないよな? このアマゾンと一緒にいるのは、クレオパトラ・セレネといることと、たいして変わらないぞ」
言われて、改めてピュートドリスは我が身を振り返った。アスプルゴスの言うとおりだった。ピュートドリスはクレオパトラの血こそ引いていないが、東方の女王であり、アントニウスの孫だ。ローマ人にもそうでない世界じゅうの人々にも、そのように映るだろう。ローマ将軍が、またも東方の女王にたぶらかされて、良からぬことをしでかそうとしている、と。
「そうだな」ティベリウスのほうはあっさり認めたのだった。
「だからこそ、君が私とピュートドリスと一緒にいては、ともに謀反の濡れ衣を着せられる羽目になりかねない。連中は偽者をやめにして、そのまま討伐軍を名乗ればいいのだから。我々二人だけで蜂起はできない。だが君たちがいれば別だ。君たちは生贄にされる危険があるのだ」
「我々二人……」
意味深げに、アスプルゴスはそこだけくり返した。それから指摘した。
「…連中は結局クレオパトラ・セレネを旗印にしたぞ」
「そうだな」
ティベリスはまたあっさりうなずいた。アスプルゴスははたと目を見開いた。
「あんたまさか、待っていたのか? この女を守るために?」
「それは違う」
率直に否定してから、ティベリウスはまぶたをうなずかせるように閉じた。
「確かにこうなった以上、可能性は高くない。だが連中は我々が行動をともにしていることは考えているだろう。キュプセラの森で姿を見たのだから」
「なあ、あんただってわかっているだろう?」
アスプルゴスは上体を倒しがちに、声を低くした。
「俺が思うに、この女の役割は――」
「それでもいつ作戦を変えてもおかしくないのだ。君たちがいるなら」
ティベリウスはアスプルゴスの言葉にかぶせていた。それからまぶたを上げ、もう一度彼をまともに見た。
「加勢はありがたい。だがやはり別行動をとるのが良い。まずはテッサロニケイアまで。そこに私の知人宅があるから、そこで落ち合おう」
「私の知人宅にしましょう」
ピュートドリスは口を挟んだ。傍らのティベリウスへ目線を上げた。
「連中はテッサロニケイアには入れない。でもあなたがテッサロニケイアに入って反撃の用意をする可能性は、十分考慮するはず。きっと手下を遣わして、あなたを捕らえようとするわ。いちばん危険な場所よ」
「あんたごとな」アスプルゴスがそっけなくつけ加えた。
「あんたの知人宅なんて信用できない」
ピュートドリスはアスプルゴスを見た。
「連中はこの人の知り合いには当てをつけるでしょうよ。でも私の知人宅まで知る術はないわ」
「どうだか」
彼は鼻を鳴らした。ピュートドリスはもう一度ティベリウスへ言った。
「信じて。カッパドキアの伝手じゃなく、私独自の伝手よ。だれも目をつけようがないわ」
アスプルゴスがもう一度鼻を鳴らした。
「あなたの考えていることはわかる」寛大に、ピュートドリスはうなずきを返した。「でももっとよく考えて。間に合うはずがない。それにそうだとしたら、キュプセラですでに終わっていたわ」
結局のところ、キュプセラの知人宅は目をつけられていなかった。テッサロニケイアならばもっと街の規模が広いのだから、ますます当てはつけにくくなるはずだった。ましてティベリウスの知人宅も候補に入れるならば。
「こうしよう」アスプルゴスは落ち着いた様子で言った。「俺はあんたたちと一緒に行く。部下を二人だけ連れて」
ピュートドリスは驚いた。
「王がいないなんて不自然でしょ」
「王は競走馬と一緒に海路を行ったと説明させる。そうすれば伺候を求めてきようもない」
それからうっすらと笑みを浮かべた。
「残る俺の部下たちが偽者軍団に加わるわけもないよな。俺が人質同然になるわけだから。ネロの」
ピュートドリスは思わず眉根を寄せていた。
「あなた、どうしてそこまでするの?」
「そこまでもなにもこれがいちばん確実だと思うからだ」
決然と言うと、アスプルゴスはティベリウスへ確認した。
「いいよな、ネロ?」
「ああ」
食料が揃ったのだろう。アスプルゴスの家臣たちが乾燥していない料理を運んできた。肉の焼ける香ばしい匂いも漂った。
だが夕食もそこそこに、ピュートドリスは寝所に引き取ることになった。アントニアがやけにぐずったのだ。あれは食べたくない、これはおいしくないと文句ばかり言った。しまいには欲しかった苺を、母に食べられたとわめいた。娘がいらないと放り投げたから代わりに食べたのだった。ピュートドリスはほかの苺を渡したが、アントニアは食べられたあれでなければ嫌だと怒った。
「いい加減にしなさい!」
ピュートドリスは叱りつけた。
「どうして急に悪い子になったの?」
「食べ物を粗末にするな。豹に食わせるぞ」
毛皮をかぶり、アスプルゴスがうなった。けらけらと、アントニアは彼にだけは笑い返した。代わって豹の皮をかぶらせてもらうと、餌をもらうという遊びをしながら、ようやく最低限を腹に収めたのだった。
娘を抱いて、ピュートドリスは苛々とテントの中へ入った。おとといと同じ寝床だったが、アントニアはこんな寝台では眠れないとむくれた。つい数日前は、草むらに直に寝ていたにも関わらずだ。では床に寝るかと聞くと、それも嫌だとぶんぶん首を振った。
「なんなのよ、もう!」
突然連れが増えたことには驚いただろうが、アントニアはアスプルゴスたちを嫌っているのではなかった。どうしたというのだろう。
「だったらどこだったらいいの?」
「お母様はあっちに行って!」
アントニアは猫のようにうなった。
「アントニアはおじちゃまとおやすみするのよ!」
「なんですって?」
昨日一日、母が黙っていなくなったことを怒っているのだろうか。だがそれ以外にも、今のピュートドリスは娘に負い目ばかりあった。叱る気持ちもくじけるし、引っ叩くとなるとなおさらだった。
「好きになさい」
娘を独りテントに残し、ピュートドリスは外へ出た。とはいえ出入口の前からは離れず、所在なく立っていた。
テントに囲まれた空き地で、ティベリウスとアスプルゴスは食事を続けていた。いくらか声も聞こえてきた。
「足止めの件はそれにしよう」
アスプルゴスが言い、それからにやりと笑うのが見えた。
「ビベリウス・カリディウス・メロ殿へって送りつけてやるよ」
それは、ラテン語で「大酒飲み」の類を意味する言葉だったはずだ。名前をもじられ、ティベリウスはローマの友人たちにそうからかわれていたと、ピュートドリスもどこかで耳にしたことがあった。
おそらくは仕掛けだろう。偽者軍団をなるべくゆっくり進ませるための。謀反の噂を広めるために、連中も急ぐ気はそれほどないだろうが、テッサロニケイア近郊は別だろう。偽者であることが明るみになりやすい場所なのだ。一方、本物側としては、手勢がテッサリアに上陸し、用意を整えたと連絡を寄越すまで、敵に南下を急がれたくない。
大っぴらに進行を妨害するのは危険が伴う。だから酒樽を送りつけるのだ。偽者もごろつきたちも大喜びだろう。毒でも盛ってやれば話は早いのだろうが、人質も巻き添えになる。ヒベリウスの名で挑発したうえで、マケドニア屈指の強い酒を入れてやるのだろう。
ティベリウスはテッサロニケイアの知人の名を借りてこれをやるつもりだったのかもしれない。だがアスプルゴスのほうが好都合だ。母親が世話になっているという名目がある。若き王はここでも進んで助けになっていた。
ピュートドリスはひっそりと微苦笑していた。ティベリウスは上手くやっていた。捕らわれの女を思う一心に駆られたがために、タソス島から独りで戻るという、無謀を働いたわけではなかった。アスプルゴスを味方に引き入れる見通しを確かに抱いていたからだ。
「なあ、本当にあの女の知人宅に行く気か?」
アスプルゴスがティベリウスに問いかけていたが、その顔にはどこか気遣うような色があった
「あの女は偽者だと知らなかった。そこは信じるよ。ひどい話じゃねえか。でも――」
「いずれ行かねばなるまい。どちらにも」
ティベリウスは杯を干した。
ピュートドリスはため息をついた。我が身へ、仮想敵国の王と言うべき若者に同情されるとは、と。
すると背後でしくしくと、小さいすすり泣きが聞こえはじめた。もう一度ため息をつき、ピュートドリスはテントの中へ戻っていった。