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ピュートドリスとティベリウス  作者: 東道安利
第二章 呪われし者
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第二章 -9





 港前の黄色い屋根の家は、豪邸とまでは言わないまでも、大きく立派だった。てっきりクラウディウス・ネロ家のクリエンテスの屋敷かと思ったが、聞けば、ルキリウス・ロングスの友人宅であるそうだった。ティベリウスはどこまで事情を話したのだろうか。ともかく六十代半ばの主とその妻は、快く迎え入れてくれている様子だった。空が夕焼けに染まる少し前、夫妻は港へ使いを出し、ボスポロス王とその家臣たちを晩餐に招待した。もちろん、ティベリウスの名も添えて。

 ボスポロスの船はすでに無事到着し、一行はその上で休んでいた。王からはすぐに承諾の返事が届いた。

 宴を待つあいだ、ピュートドリスは屋敷内の浴室に入り、久しぶりに貴婦人らしい扱いを受けた。薔薇の花びらと果実の皮が浸かった香油を塗り、だれの目も気にせず体を清めた。髪も、蜂蜜入りの香油を適度に揉み込みながら、女奴隷が念入りに梳いてくれた。ただ今開いたばかりの花びらのように、全身がみずみずしく新たに生まれたようだった。

 入浴後は、軽食として、香ばしいパンによく熟れた桃を添えて出された。三口ほどで満足したが、それでも生気がふつふつと湧いてくる心地がした。食事の相手を務めてくれた女主人に感謝すると、彼女はにっこり笑って、見違えるように輝いていると褒めた。

 これでさらりと化粧をして、優美なキトンをまとって、髪をきちんと結い上げて花飾りでも差したら、とピュートドリスは考えた。女王らしいとまではいかなくとも、その場の注目を一身に集めるくらいの美しさは見せられると信じた。きちんと装った自分を見てもらいたかった。ティベリウスに。宴席にいるすべての人間に。彼らの息を呑む姿を想像し、思わずにやにやした。

 けれどもいったん客室に入るや否や、寝台に伏して、起き上がれなくなってしまった。目を覚ました時、すでに周囲は濃紺の夜の色だった。窓からは、宴のにぎやかな声が聞こえた。少し遅れて、肉の焼ける香ばしいにおいも感じ取った。

 ピュートドリスはぼんやりと寝台に座った。見ると、傍らでアントニアがぐっすりと眠っていた。いつのまに来たのだろう。屋敷の奴隷の子どもたちと生簀のまわりで遊んでいた。人懐っこい子だ。

 おとといと同じ状況だったが、環境はかなり違った。まず寝台が柔らかく、十分すぎるほど大きい。上掛けも清潔で、適度な重さと涼しさがある。今は料理のにおいとまざってしまっているが、蜜蝋の澄んだ甘さの名残が残っている。そこへ夜風がそっと入ってきて、昼間の強い日差しを忘れてしまうほどにひんやりとして快適だ。

 部屋には灯火一つと、切り花も飾られている。壁には直にポセインドンとその妻アンフィトリテが描かれ、床にはイルカたちが飛び交うモザイク画がある。

 いつしか我知らず、長いため息をついていた。ここまで、決して悪い旅ではなかった。なによりティベリウスと会ってからは、毎日が心躍るときめきと興奮でいっぱいだった。

 しかしこうして久しぶりに手にした安堵感は、たとえ仮初であれ、ほっと心身の緊張を解いてくれるのを認めざるをえなかった。しばらくはこのまま身をうずめ、どこへも動きたくないと思った。

 それでも、とピュートドリスはおもむろに寝台から抜け出た。アントニアの頬にそっと接吻をしてから、部屋の扉を開けた。

 列柱廊の前は、中庭だった。日中アントニアと子どもたちが遊んでいた生簀があり、梨の一切れのような半月を映してゆらめいていた。魚たちも眠っているのか、動く気配はない。草木も花々も、多くが生命の盛りを迎えて誇らしげだが、今は月光にのみ照らされて、濃淡様々な無彩色だ

 ピュートドリスはゆっくりと右へ目線を移した。列柱廊を挟み、向こう側にも庭があった。ただしそこに観賞すべき草花はほとんどなく、広場と呼ぶのがふさわしそうだった。日中は港に届いた品々を所狭しと並べるが、今夜のように宴の席を置くこともあると聞いていた。

 そちらへ近づくにつれ、当然聞こえてくる声量も増す。ピュートドリスが列柱の傍らに立つと、もはやたけなわも過ぎた様子の晩餐が窺えた。料理はおおかた食べ尽くされ、宴席を囲む者も、彼らに給仕する者の動きも緩慢だ。しゃべっているほとんどがボスポロス王家の家臣だが、宴の中心にいる王の声が、だれよりも大きかった。

「アクティウムの海戦の話を聞かせてくれ」

 いささか呂律の怪しい調子で、王はティベリウスにせがんでいた。

「あんたはその目で見たんだろう? まずどのように敵を包囲したんだったか。周到で、鮮やかに、手際抜かりなく――」

「陛下、その話はもう伺いました」

 たまらない様子で、傍らの家臣が指摘した。

「そうかぁ?」臥台に寝そべり、アスプルゴスはうつろな顔で振り返った。「だが俺は何度でも聞きたい。見事な戦話は何度聞いてもいい」

「もう三度目です」

「なにが悪いんだ?」

 そううなってから、アスプルゴスはティベリウスへ向き直った。もう満面の笑みになっていた。

「じゃあ、ラエティアの山賊討伐の話がいい。あんたと弟の完璧な挟み撃ち作戦。どうやってあの策を考えて、実行したんだ?」

 ティベリウスはアスプルゴスから垂直の臥台の上にいた。思えば、彼が正餐らしく臥台で食事をしているのを見るのは初めてだった。どこで用意したのか、トーガまで纏っているようだった。ピュートドリスの位置からは顔は見えない。見えるのは、見たことがないほど陽気なアスプルゴスの笑顔ばかりだ。

「十五年前もその話を聞きたがったな、君は」

 そう言って、ティベリウスは杯を干した様子だった。

「十五年ぶりに聞きたいんだよ。あのときはまだ六歳の餓鬼だった。話してくれたのも、ほとんどあんたの弟だったぞ」

「そうだったな」

 臥台から身を乗り出しすぎて、アスプルゴスはそろそろ地面に手をつかなければならなそうだった。彼は今度は給仕へ声をかけた。

「おい、ネロと俺に、さっきの葡萄酒をもう一杯。割らないでくれよ」

「陛下、そろそろお控えになっては…」

 また落ち着かない様子で、家臣の一人が口を挟んだ。

「うるせぇ。十五年ぶりの再会なんだ。俺が一人前になったことを、この人に見てもらいたいんだ」

 それでもその家臣は、王の見えないところで、葡萄酒に水を差し入れていた。どの道すでにだいぶ出来上がっている王にはわからないと判断したに違いない。

 ティベリウスの酒豪ぶりは噂で聞いたことがあったが、少なくともピュートドリスと過ごした旅のあいだは、一度しか口にしているのを見たことがなかった。野宿をしなかった夜の、一杯だけだ。けれども確かに、そうするのが普通であるのに、彼は葡萄酒を水で割ることをしなかった。

 やはり気づかないアスプルゴスは、満たされた杯を誇らしげにごくりといった。ぷはっと気持ち良さげなその顔は、本人の意図にそぐわず、無邪気な少年のそれにしか見えなかった。彼はティベリスの肩に腕を乗せた。

「なぁ、ネロ、話してくれよ。あんたの弟の代わりにはなれないけどさ、俺だってもう国王なんだ。あんたの戦となれば、いつでも参戦する準備はできているんだぜ」

「陛下――」

「なぁ、おい、本当に、こんな話があるかよ。どこの息子がさ、父親を誇りたがらないんだよ。違うだろ。あいつは一度でも、あんたから父親の話を聞きたがったか?」

「陛下――」

「酔いがまわってるぞ、アスプルゴス」

 指摘するティベリウスの声は、素面のときとまったく変わらず、平淡だった。酒に飲まれれば、この人も少しは陽気になるのかしらと、ピュートドリスは少なからず興味を抱いた。

「アスプルゴスか…」

 ため息をつくようにつぶやいてから、アスプルゴスは顔の色々な部分の端を下げた。笑い泣きする子どもにそっくりだった。

「嫌いじゃないんだけどな。ほかの名前が欲しかったよ……」

「奥様」

 そばで聞こえたので、自分のことだとわかった。振り向くと、昼間体育場に来ていた女奴隷だった。

「よろしければ、こちらから――」

「いえ、いいのよ」

 ピュートドリスは微笑んで首を振った。今から宴に途中参加するつもりはなかった。それにもうお開きにするべきだ。アスプルゴスはもう限界だし、主夫妻もいい加減疲れるだろう。

 それにしても奥様か。アントニアがいる以上、そう呼ぶしかないだろう。でもティベリウスはなんと説明したのだろう。

「では、お食事だけでも」

「ありがとう。でも、いいわ。明日にする」

 そう言うと、ピュートドリスはもう一度、宴席へ向かって微笑んだ。それから踵を返し、アントニアの眠る客室へ戻った。水だけ口にしてから、再び広く快適な寝台へ横たわる。

 安堵感は増していた。アスプルゴスの件は大丈夫そうだった。彼はティベリウスを慕っていた。どうしてあそこまでかはわからないが。

 ピュートドリスは目を閉じた。

 宴のにぎわいはしだいに小さくなっていった。代わってアントニアの規則正しい寝息がよく聞こえるようになった。

 それでもしばらく眠って起きたあとだ。そう簡単にまた寝つくことはできなかった。それでも心穏やかな、休息のひとときだった。

 やがて外は完全に静まり返った。気のせいかもしれないが、波の音さえ聞き取れる気がした。

 いつまでもティベリウスが来ないことに、ピュートドリスは気づいていた。当然と言えば、当然だ。トーガを纏い、友人の友人宅で、ようやく彼は久しぶりにティベリウス・ネロに戻っているのだ。なに者でもないのは、今やピュートドリスだけだ。

 したがって、そのなに者でもない女と夫婦の真似をする必要もない。どこか別の部屋を借りているに違いない。

 外は、ゆったりと朝を待つ時間が流れていた。ピュートドリスもまた明日のことをとりとめもなく考えた。

 明日になれば、ティベリウスはどうするのだろう。フィリッピの野での機会を、惜しむ色もなく見送った。ではこれからどう動くのか。この静穏なひとときからは信じ難いが、外ではもう陰謀は走りだしてしまったのだ。

 明日になれば、ピュートドリスはどうするのだろう。この屋敷の主人なら、船を用意できる。それに乗って、帰るのだろうか。どこへ。

 ピュートドリスはおもむろに寝返りをうった。明日のことはわからなかった。相も変わらず、これっぽっちも。

 ――あなたの望みはなんだ?

 私の望みはなに……?

 そのときふと、予感がした。

 ピュートドリスはそろりと寝台から出た。さらさらと衣擦れの音を立てながら、扉の前へ行く。そっと押し開けて、首を伸ばす。

 すぐ横の壁に、ティベリウスは寄りかかっていた。

「…なにしてるのよ?」

 呆れ声を出すしかなかった。

 地べたに座ったまま、ティベリウスは視線だけ上げてきた。面白くなさげだが、そもそもだれもなにも強制した覚えはなかった。

「いつから見張り番の奴隷になったのよ?」

 問うと、ティベリウスはふいとばかりに視線を前に戻した。

「酔っているの?」

 見た目はそうは見えなかったが、ピュートドリスは訝った。なにも答えず、ティベリウスはむすっと前を見据えていた。

「入ってきたらいいでしょ?」ピュートドリスは途方に暮れる心地がした。「だれかの目を気にしてるのかもしれないけど、かえって目立つわよ。朝になって、あなたをこんなところで寝かせたなんて知れたら、叱られるのはこの家の奴隷よ」

 それでもティベリウスは動く気配もなかったが、今やその横顔は意固地の色が濃いように見えた。目玉をぐるりとまわし、ピュートドリスは天を仰いだ。天井しか見えなかったが。

「もしくは、自分の部屋に戻るのよ。借りているでしょ?」

 ティベリウスはうんともすんとも言わなければ、身じろぎひとつもしなかった。唇を固く引き結び、まばたきすらしなかった。

「もうっ!」

 ピュートドリスは叩きつけた。とうとう彼の腕を取り、無理矢理に引き上げた。ずんずんと中庭へ進み出た。なんならそのまま生簀へ突き落とし、酔いを醒ましてあげようかと考えた。

 けれども振り返ると、結局意思は挫けてしまうのだった。そこにもう意固地の色はなくて、なにかたまらなく悔やんでいるように、痛ましいのだ。

 彼の腕を持ったまま、ピュートドリスはつくづくと気が遠くなる思いがした。まったく男というものは――。

 生簀が黒い影に覆われると、魚たちは音もなく離れていった。彼らの安眠をそれ以上脅かさず、ピュートドリスはティベリウスを引き下げてから、椅子代わりの石に並んで腰を下ろした。

 どうしてやろうかと考えながら、ピュートドリスは彼の右腕を抱え込んでいた。腕は逃げていく気配はなく、むしろがっしりと引き締まっているのに力無く感じられた。

 ひっそり、ピュートドリスは横目を向けた。すると思いがけず視線が合って、咄嗟に逸らした。それから、なにも逃げる理由などないと思い直したが、胸の鼓動がたちまち高鳴っていくのを感じた。それは恐怖にも似ていて、そろりそろりとまた送った視線は、まともに顔へは注ぐことができなかった。それでもおかげで、あることに気づいた。

「取り返せたのね」

 トーガの襞から女神の柄が覗いていた。ほっとした拍子にゆるい笑みを浮かべながら、顔を上げた。すると今度はまともに見つめられていた。

 息を詰まらせた。だがさすがにもう避けられそうにもなかった。大きな青い瞳に射すくめられたまま、動けなかった。

 月明かりは、この夜も彼の白い肌に無数の銀の輝きを散りばめていた。アスプルゴスとやり合った名残さえ、ほとんど目立たなくしていた。

 美男と評されるには、翳がありすぎた。耐えがたい悲しみを経たためでもあるだろうが、それでも父ピュートドロスは、彼がまだ若い頃から言っていたものだ。第一級の美男というわけでもなかろうと。自分を閉じ込め、他人を入れず寄せつけぬなにかを、彼は備えていた。だれにも多少はあるかもしれないが、殊に彼の場合は比類もなく堅固で、濃いのだった。

 けれどもピュートドリスは、自分が初めて恋をした男を、やはり美しいと思った。

 今、その美しい男から、なにかが迫っているのを感じていた。確かなその気配のために、ピュートドリスは身をすくめ、胸をいっぱいにして、命果てる瀬戸際にさえいた。心臓が飛び出しそうだ。

 けれどもそれは、いつまで待っても来なかった。止まったままだ。

 ピュートドリスは途方にくれていた。窒息するか、破裂するか、いずれかの道しかなさそうだ。でも独りで死なねばならないのだろうか。

 まなざしに、いつかのような厳しさはまったくなかった。ただ黙して、たまらないように黙して、見つめてくるだけだ。

 気づくのが遅かった。なんて意趣を解さない女だろうと思った。かける言葉は自分にあった。これでも十分素直なつもりでいたのに。

「ありがとう」

 両腕を思いきり伸ばさなければ、抱え込めなかった。力を込めるとなると、さらに難事だった。ピュートドリスはそのまま彼の肩に顔を埋めた。

「来てくれて、うれしかったわ」

 ティベリウスの腕が動いた。ピュートドリスの腕の輪は簡単に外されて、跳ねのけられたかと思った。

 そうではなかった。代わってつかまれた両肩は、やはり痛いくらいだった。

「本当に無事か?」

 ピュートドリスは笑いかけた。当たり前でしょう、見てわからないの、と。

 けれどもそのまなざしを受ければ、とてもそのようには応じられなかった。まっすぐ目を逸らさずに、ピュートドリスはただ頷いた。

「では、これは?」

 ティベリウスが取り上げたのは、ピュートドリスの手首だった。赤い痣がまだかすかに残っていた。

「ちょっときつめにつかまれただけよ。それ以上なにもされていないわ」

 どちらかと言えば、ティベリウスにつかまれている左肩のほうが痛いくらいだった。そうとも知らず彼が歯噛みをするので、ピュートドリスはそっと手指を彼のそれに絡めた。

「大丈夫だから。あの人たちだって、王を守ろうと真剣だったのよ」

 握り返された手指は、やはり痛いほどだった。

「眠ったまま起きなかった」

「昨日の昼に眠ってしまったものね。それで夜は上手く寝つけなかったのよ」

 ピュートドリスはなるべく平静に言った。それからふと思いを馳せ、愕然となる心地がした。別れたのが、ほんの昨日とは。あまりにも長い時間が経ったように感じられてならなかった。

 ティベリウスも同じ思いでいるのかもしれない。たかが一日だ。それが信じ難く遠く、取り返しがつかない。

 彼はそれを恐れていた。

「大丈夫よ」

 ピュートドリスはくり返した。彼の手指を右手に任せ、左手を彼の頬に添えた。

「あなたは、タソス島に行ったんでしょう? それを後悔しているの?」

 ティベリウスが口を開きかけるのを、ピュートドリスは遮った。

「私の馬鹿な行動に結局従ってしまった自分が許せないの? だったらほかにあなたはどうしたらよかったの? すぐに追いかけて、独りで乗り込んだらよかったの? アントニアを連れて? …まあ、結局あなたはそうしたのだけど」

 止めきれず、つい苦笑をこぼす。けれども目線は外さず、すぐに真面目な顔に戻る。

「でも、アスプルゴスの陣営に子連れで乗り込むよりは、まだましだったでしょ。ここなら、この家の後援もあったし。あなただって、アスプルゴスを懐柔できるか、絶対の確信はなかったんでしょ? 今日だって喧嘩沙汰だったのよ。昨日だったらもっと物騒なことになっていたわよ。私は彼を見ていたからわかる。だれがなにを考えているのかわからなくて、ずっとぴりぴりしていたわ。かわいそうなくらいに」

 彼の頬を軽くつねるようにしながら、ピュートドリスはしかと見上げた。

「だからあなたは最善を尽くした。どんな手段よりも早く迎えに来てくれたわ。だから私も無事だった。もう心配しなくていい」

 それが、知っておいてもらわねばならないことだった。言わなければわかってもらえない。この言葉足らずな人のために、話してあげたいし、話させたいわけでもない。それにしても、酒を飲めば一般的には大胆に、あるいは饒舌になるものではないのか。ますます殻に閉じこもり、どうしていいかわからなくなるとは。

 まなざしは、それでもまだ苦しそうだった。言葉を鵜呑みにできるほど、おめでたくもなれないのだ。酒を飲んでいても。気持ちを忘れるどころか、強めてしまうのだ。

 慰めにならないのなら、どうして酒など飲むのだろうと思った。だれにもどこにも吐き出さず、その重さに果てなく沈むことが、彼の慰めなのだろうか。

 ピュートドリスはまた泣き顔じみた笑みになった。

「言っておくけど、私だって心配したのよ。年甲斐も無いと言ったのは悪かったと思うけど、実際にそうでしょう? アスプルゴスは私たちに苛立っていたから力んでいただけで、本当はもっと槍投げだって上手いし、強かったかもしれないのよ。それに、十五年前の六歳が、今もまっすぐな若者だとどうして確信できるの? 臆病だったり、卑劣だったりしたら、あなたは今ごろ三十の剣で串刺しにされていたわよ。私がそれを黙って見たがったと思うの?」

 手を離し、彼の両頬をピュートドリスは包み込んだ。とてもあたたかで、赤い血潮が確かに通っているのがわかった。

 もう二十一歳の若者ではなかったが、彼女が愛した男は幻ではなかった。向かい合えば、様々が感情を抱いて傷も負う、生身の男だった。

 二十年間、会えはしなくとも見つめ続けていた。長い夢を見ていたのかもしれない。けれども、だからこそ了解できた。無駄ではなかった。

「もう『そもそもあなたは私を殺しに来ただろう』は、なしよ。自分を殺しに来た女を守っているのはそもそもだれって、言い返すわよ」

 両頬から手を滑らせ、そっと首へまわした。このほうが楽だった。そのまま彼の胸へ、ピュートドリスは倒れ込んだ。彼の耳の下あたりに、ぴたりと頬を宛がった。その血潮のために、ひんやりと心地良くあれと願いながら。 

 ゆっくりと、ティベリウスの腕が体にまわされていった。しかと抱えた後は、少しずつ、壊れないか確かめながらのように、力が込められていった。いつしかきつく、激しいくらい切なくなった。

「不思議な人ね」声が出せるうちに、ピュートドリスはつぶやいていた。「親友と、妹同然のセレネ叔母様の救出は、先延ばしにした。もう四週間になるのに。でも自分を殺しに来た狂い女のことは、一夜独りにしたことを悔やんでいる」

 肩と腰に、指が食い込んでくるようだった。

「…ついでに言えば、両親も一人息子も六年置き去り。妻も捨てた人が。二度もよ」

 腕は、さすがに固まった。

「なにも言えないの?」

 首筋に埋まりながら、ピュートドリスは止めなかった。

「望むいかんに関わらず、妻を二度も捨てたのだから、もう二度と女とは関わるまいと思ってるの? そうね。そうすべきだわ。こんなことでここまで悔やんでいるあなたは、もうだれとも関わるべきじゃないわ」

 掻き込むように、その頭を抱き寄せた。

「今は、私も悔やんでいるわ。そして、あなたにそこまでさせたものを、憎みたいわ」

 憎めたらどんなにか楽だったろうと思った。憎んで、それから一切合財捨ててしまうのだ。持っていてもなんの役にも立たないものだからと。そして、あとは忘れてしまうのだ。どれだけ時間がかかろうと、いつかはできるはずだ。そうであるべきだ。

 だが生きる意味だと信じるものを、どうして忘れられるだろう。

「ねえ、許してくれる?」

 私も、あなたも。

「許してくれるなら、一つ、私の望みを聞いてほしいの」

 ピュートドリスは請うた。しかと向き合うために、そっと体を離した。感情の奔流をいく分落ち着けて、青い瞳は待ち構えていた。

「私は明日もあなたと一緒にいたい」

 やっと見つけた答えは、あまりにも刹那的だった。結局彼の言うとおり、なにも考えていないのだろう。先のことを。

 それでもこれだけが確かだった。エライウッサを出て、彼と思った男を殺しかけるまでは、思いつきもしなかった望みだ。勝手に、共に死ぬ決意をしていた。死んだ後は、彼に彼を殺した女だと覚えられて、神々の前に引き出される想像をしていた。それからは、どうするつもりでいたのだろう。彼に無理矢理に迫って、永遠に幸せになろうとしただろうか。

 今はただ、生きていたかった。人の生きるこの世で、彼と共に生きていたかった。

「ねえ、叶えてくれる?」 

 くしゃりと微笑んで、ピュートドリスは問いかけた。だが答えを聞く前に、胸へ引き戻された。今度はきつすぎはしなかった。がっしりと堅固で、ゆらがなかった。

「ここにいていい」

 確かな彼の声が、耳元で告げた。

「力を尽くす。だから心配しないでほしい」

 あたたかい場所だった。ずっと夢に見ていた場所だった。くしゃくしゃと、ピュートドリスは思いきりの笑顔になった。それから声を上げて笑った。笑って、笑って、いつしか泣いていた。ようやくこぼれ出した涙は、続く幾筋ものそれにあとを追われ、止まらなくなった。

 幸せの涙だと思った。初めて流す類のものだが、そうであるはずだった。長年の思いが届いたのだから。初めて恋をした男に受け入れられたのだから。

 喜びは、確かにこの上もなかった。幸福の絶頂にいた。

 けれども力が抜けていくのはなぜなのだろう。

 初めて愛した男は、彼女の望みをかなえてくれた。

 簡単だったとは思わない。二十年も待った。会ってからも、何度も挫けかけた。

 でも彼は、ピュートドリスが失くしたものをあっさりと与えてくれたのだった。

 ずっとずっと願っていた。夢に夢を見て、心底から求めていた。けれどもこの望みは、本来叶うものではなかった。望むべくは別にあったはずだ。愚かにも失わなければ、大切であるとも気づかなかったのだ。

 これは、失わなければ一生味わうことのなかった幸せだ。

 味わうこともなく、死ねばよかったのだろうか。

 うれしくて、悲しかった。いくら泣いてもやりきれない、悲嘆の涙だった。

 それが知られないわけはないだろうと思った。けれどもティベリウスは、ときにピュートドリスの頭や背中をさすりながら、泣き果てるまで抱きしめていた。







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