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ピュートドリスとティベリウス  作者: 東道安利
第一章 初恋の人
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第一章 -3



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「ねえ、私は美しい?」

 ピュートドリスは用心棒の行く手に割り込んだ。用心棒は面食らったように上体を反らした。

「…なに?」

「私が美しいかどうかって聞いてるのよ」

 だが用心棒が口を開きかけると、ピュートドリスは待ったをかけた。

「正直に答えなさい!」

 用心棒は口を閉じた。兜の銅色に囲まれた顔は思いきりしかめられていたが、それでも誠実な性質なのだろう、一歩後退し、不躾にならないように素早く、ピュートドリスを上から下まで眺めた。

「……悪くはない」

「ちょっと! それが女王陛下に対する言葉? アフロディーテと見紛うほどお美しい、くらい言えないの?」

「…どうしろと言うんだ……」

 用心棒は今にも頭を抱えだしそうだった。

 ため息をつき、ピュートドリスは愛馬の背中へまわった。皮袋から手鏡を取り出し、髪を撫でつけながら、アフロディーテと見紛う女を探し求める。

 しかし手鏡に映るのは、いつもの見慣れた顔ばかりだった。

 悪くはない。それが三十四歳で、四人も子どもを産んだ女の現実か。

 せめてこの再会が、もう十年、いや五年でも早かったら。

 まだ若いといくら自負しようと、まわりの三十女よりは見栄えがすると信じようと、肌も体型も、二十代のそれではなくなってしまったことは嫌でもわかる。そして老いの残酷は、決して元には戻らないことだ。だれ一人、この現実から逃れられない。

 しかしティベリウス・ネロは、今四十一歳で、デュナミスやセレネ叔母に言わせると、成熟した魅力的な男になっているという。

 まったく不公平だ。男は二十代が美しいのはもちろんのこと、三十代四十代それ以上になっても、成熟という言葉で賞賛されるばかりか、男盛りとさえ言われてもてはやされる。子どもだって、作り放題だ。楽なものだ。女の盛りはなぜこうも短いのだろう。十代後半からせいぜい二十代までで、それ以降の人生を、日に日に失われて二度と戻らない美を嘆きながら過ごさねばならないとは。六十二歳で笑っていられるデュナミスが信じられない。きっともう色々とあきらめてしまっているのだろう。

 子どもを四人も産まなければ、少しはましな体つきになっていただろうか。いや、それではまた別の問題が起こる。

 私はまだいいと、ピュートドリスは思わずにはいられない。夫との子を四人も産んだのだから、もしも子どもも産まずに三十代を迎えていたら、ティベリウス・ネロも世の人も、私をどう見るだろう。

 首都ローマでは、子を産まない未婚女は税金を課せられるそうだ。一定の資産がある者のみだが、社会に貢献しなかった罰として。

 裕福な家に育ったピュートドリスは、税金の支払いなど問題ではない。問題なのは、税金を課すという考えだ。

 若さと美しさを失った女に価値はない。世の男どもはそう考えているのか。セレネ叔母がこんな事態になったのも、そんな男のせいではないか。

 いや、女どもだってそうだ、とピュートドリスは自嘲する。現に私はデュナミスを、若さと美しさを失ったからと言って嘲った。自分もいずれそうなるにも関わらず、ただ今この瞬間だけ、彼女より若いからと。

 そしてデュナミスの息子は、十中八九、彼女の実子ではない。

 ピュートドリスは勝っていた。女として、世界が求める女として、デュナミスに完全に勝っていた。

 セレネ叔母にも勝っていた。彼女より六歳若く、妻の地位をおびやかされてもいない。

 勝っていた。吐き気がした。

 少しもうれしくはなかった。デュナミスの手前、その優位をあげつらったが、少しもうれしくなかった。

 ならば、どうすれば私はうれしいのだろう。

 若さも美しさも夫も子どもも持たなければ、私という女はいったいどうなるの。

「…行かないのか?」

 声に、はっと我に返る。振り向くと、用心棒がほとほとうんざりした様子で立ちつくしていた。

 世の不条理に悶々と挑んだところで、目前に迫った現実は変わってくれない。

 用心棒は馬の手綱を引いた。鬱蒼とした獣道を、心持重たげになった足取りで行く。

「待ちなさい」

 今度はなんだとばかりに首をまわした彼に、ピュートドリスは手鏡を押しつけた。櫛で髪をとかし、口紅を塗り直す。頬紅をはたこうとして、やめた。そんなものなくともすでに十分上気した顔をしていた。むしろ必要なのはお粉のほうだ。だが果たしてそれで隠しおおせるか、この赤。

 それにこの胸の高鳴りは、本当に聞き取られないだろうか。

 少なくともこの用心棒の耳は届いていないらしい。彼は天を仰いでいた。女の化粧を見まいと気を遣っているのか、神々に助けを求めているのかはわからない。

「どう? もっと美しくなった?」

「ああ、なったんじゃないか」

「失礼ね。化粧などしなくてもあなたはアテナに匹敵する気品をお持ちだ、くらい言ってみなさいよ」

 用心棒は、今度はほとんどうなだれた。

「見なさい」

 しかしピュートドリスは強制し、両腕を広げ、くるりとその場でまわってみせる。

「どこか乱れたところはない? ティベリウス殿のあの青い瞳に、ちゃんと美しく映りそう?」

 重大な問題だったが、ピュートドリスはあまり自信がなかった。まず頭だが、横に広がる髪を後ろでまとめただけだった。それも自分でやったのだ。侍女数人がかりで仕上げてもらう毎日を送ってきたので、これだけでも苦労した。しかも出来はいまいちだと思う。

 衣装も、デュナミスやセレネ叔母には確実に見劣りしてしまうだろう。二人は色鮮やかなキトンとヒマティオンを纏っているに違いない。一方のピュートドリスはただの白いキトンとその下にトゥニカで、どちらも飾り気ない。ベルトは金糸で編まれているが、それに重ねているのは皮の剣帯という、決して優美ではない代物だ。

 これでよくもあの人に会いに行こうなどと考えられたものだ。ピュートドリスは自分に呆れ返る。そしてつくづく運命を呪う。もっとましな再会の機会を用意してくれなかったのか、と。

 だが、贅のかぎりを尽くして飾り立てたら消えるのか、この自信のなさは。

 装飾品も、ごくわずかしかない。重量の問題と、道中追い剥ぎに遭う危険を避けるためだったが、女王で王妃とはとても信じてもらえないかもしれない。真珠をあしらった髪留め、カッパドキア王妃としてアルケラオスから贈られたアメジストの指輪、そして首飾りは、愛しいあの人から二十年前に届けられたものだ。

 彼は、覚えていてくれるだろうか。

「…どうして短剣を隠しているのか?」

 用心棒の指摘は、夢を見かけていたピュートドリスをたちまち現実に引き戻した。顔からすっと火照りが引いた。胸の高鳴りもぴたりと止まった。

 ピュートドリスの纏うキトンはペプロスとも呼ばれ、ギリシアの昔ながらの衣服である。その作り上、右側が開かれたままになる。 留め金をつけるか、あるいは巻き方次第では、足が剝き出しになることはないのだが、乗馬の邪魔にならないこともあって、ピュートドリスは閉じないままでいた。

 そして確かに、右太腿に短剣を忍ばせていた。襞に隠れて見えないと思っていたが、さすがはティベリウスの用心棒か。

 ピュートドリスはさも疑わしげな目つきを作った。

「これも用心のためよ。道中、なにがあるかわからないものね。ティベリウス殿を前にしたら、その場で武器は置きます。ご心配なく」

「…そんなに我が身を思うならな」用心棒はため息まじりに言う。「そんなに身だしなみが気がかりならな、護衛や召使の一人くらい、なぜ連れてこなかったのか?」

「だれ一人、私より巧みに馬で駆けられないから、置いてきてしまったの」

 すまし顔で言うと、ピュートドリスは手鏡を用心棒から取り返し、すたすたと歩きはじめた。

「なにしてるの? さっさと案内なさいって言ってるでしょ」

 用心棒は、岩にでものしかかられているように、またうなだれていた。それでも首を振り振り、手綱を引いてくる。

「…そうか、アマゾンは実在したか……」

「なにか言った?」

 無言のまま、用心棒はたちまち足早になった。突然、さっさとピュートドリスを送り届けようと、固く心に決めたようだ。もはや言葉もかわすまい。目の端にも入れまい。そんな決意を全身からみなぎらせつつ、ピュートドリスを追い抜いていく。

 木の葉のささやきに、人のざわめきが交じりはじめた。

「待って」

「なんなんだ?」

 とうとうほとんど叫び声を上げる用心棒。ピュートドリスは彼のマントの端をつかんでいた。

「心の準備が……」

「なんのだ?」

 用心棒は大声で知りたがった。

 無神経な人、とピュートドリスは思う。女心がまるでわかっていない。

 顔の火照りと胸の高鳴りがぶり返してきていた。このままではティベリウスの眼前にたどり着く前に、気を失ってしまうかもしれない。か弱いから、女は。

 あなたにはわからないでしょうよ、とピュートドリスは思う。

 二十年間待ち望んだ瞬間を迎える女の気持ちが。

 運命の人に再会する喜びが。恐怖が。

 腹をくくった女の強さが。






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