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ピュートドリスとティベリウス  作者: 東道安利
第二章 呪われし者
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第二章 -8





 ネアポリスからフィリッポイまでは十五キロ足らずで、しかもローマ街道でつながれている。まさに目と鼻の先である。もっとも、偽者軍団は都市の中ではなく、おそらくはその北にあるフィリッピの野にいるのだろう。先代カエサルの仇討ちが果たされたその現場には、今は祖父アントニウスを讃える小さい祠があるそうだった。彼こそが、フィリッピの戦いの凱旋将軍と呼ぶにふさわしい男だったからである。

 昼過ぎ、ネアポリスに入ったその足で、アスプルゴスは港へ向かった。自国の船と合流するためだった。アブデラでは海が荒れていたし、おまけにピュートドリスも現れた。

 船はまだ到着していなかった。もしかしたら昨日の嵐でタソス島を大回りする羽目になったのかもしれない。苛々と、アスプルゴスは自ら港を歩きまわった。このたびは家臣すべてを連れて市内へ入ったが、それはティベリウス一行の目を意識したようだった。海路を行くといった手前、船もなしに港の外をうろついていては怪しまれる。フィリッポイから偵察が来ているかもしれない。そうでなくてもティベリウス一行に噂を届ける者がいるかもしれない。見つかれば、また伺候を求められるだろう。今度はティベリウス当人から。それで市門をくぐる時も、ボスポロス王ではなく、トラッレイス出身の競技者だと名乗った。

「勝手に私の故郷を使わないでよ」

 幕越しに、ピュートドリスは文句を垂れた。

「あなたはアジアの男に見えないわよ」

 ピュートドリスは輿に入れられていた。これもデュナミスのために用意したものだろう。アスプルゴスはまだ自分の手駒をティベリウスに見せる決心を固めていないようだ。

 だが肝心の船が到着していないのだ。

 船に乗るならば、ネアポリスを逃してはいけなかった。これより西はカルキディケ半島という三又の穂先が待ち構えている。航路はそれを大きく迂回しなければならない。

 家臣たちを港に散らし、アスプルゴスはすべての船を確かめさせている様子だった。そんなことをしなくとも、あの豪奢な船は目立ちそうなものだが。

「畜生!」

 輿がゆれたので、アスプルゴスに殴られたのだとわかった。ピュートドリスは幕を上げた。

「ねえ、港の人たちがなにか話していなかった? あなたのところの船じゃなくても、なにか変ったこととか?」

「なにもねえよ!」

 ピュートドリスを見もせず、アスプルゴスはわめいたのだった。

 ピュートドリスはひそかに眉根を寄せた。ということは、まだ到着していないのだ。本物のティベリウスの手勢も。何隻かに分けて渡すとしても、武装した大勢の男たちのはずである。人目を引かないわけはない。

 確かに昨日の今日のこの時間ではまだ早い。しかし今を逃せば、フィリッピの野にいる偽者軍団を襲撃できない。間に合わないのだろうか。

 あるいは、市の外に手勢を上陸させるのか。適切な浜があるのだろうか。ともあれ東側にはその様子がなかったので、あるとしたら西側だろう。

 いずれにしろ、とピュートドリスは落ち着かなげな若者を見やる。デュナミスではないが、彼をフィリッピの野へ近づけるべきではなかった。

「待ちましょう」

 気楽な調子の提案に、彼は横目だけ向けてきた。

「そのうち来るわよ」

 輿をひっくり返さんばかりの勢いで幕を引き下ろしてから、アスプルゴスは方向転換したようだった。荷馬車だけ見張りをつけて残し、どこかへ歩き出した。足取りはやけに早く、家臣たちの足音さえ踏みつぶしていくようだった。

 ピュートドリスはのんびりと声をかけた。

「どこへ行くの?」

「おい、フィリッポイでなにか聞かなかったか? だれか、競技祭に向かう集団いるとか。俺みたいな?」

 ピュートドリスへの言葉ではなかった。輿が突然止まったので、ピュートドリスは前につんのめった。後方でもわたわたと足音が乱れる気配がした。国王陛下がいきなり立ち止まり、声をかけたのは通行人らしい。いくつかの否が聞こえたが、ついに壮年の男の声が言った。

「そう言えば、沼の向こうにだれか来ているみたいで」

「だれが?」

 噛みつくようなアスプルゴスの声に、さあというのんきな返事が応じた。

「名所見物だろうかね。ちょくちょく来るんだよ。旦那と同じように競技祭に向かうなら、ご加護を願っているのかもね。アントニウスの霊に」

「なんのご加護あるんだよ」

 アスプルゴスは吐き捨てるように言った。

「アクティウムで負けて、女の尻を追っかけて逃げた男だぞ」

「ちょっと」

 ピュートドリスは抗議したが、弁護してくれたのは通行人だった。

「あそこでは勝っただろ。それにヘラクレスと呼ばれた男だよ、あの将軍は」

「笑わせるなよ。じゃあ、なにか? あの場所ではアントニウスを神として祭ってでもいるのか?」

「そこまではまさか。そうなったらさすがにカエサル・アウグストゥスが怒るだろうからね」

 少しもおかしげでないアスプルゴスの声色に対し、通行人の声は笑いまじりだった。

「旦那も行ってみたらいいのに」

「興味ないね」

 輿がまた進み出した。ピュートドリスは少しばかり幕を持ち上げた。

「孫の前で、祖父を悪く言わないでくれる?」

 アスプルゴスは相変わらずむくれ顔で、ピュートドリスを見もしなかった。

 ともあれ、噂はすでに届いていた。偽ティベリウス御一行はやはり来ていた。まだ存在を知らしめていないようだが、日が傾くころには宴会を開き、そこで声を張り上げるだろう。通行人が言うように、アントニウスの加護を願うだろう。否、もしかしたらキュプセラにいたときと同様、昼から酒樽を開けるかもしれない。つまり今この時にも、陰謀は一線を越えてしまっているかもしれない。

「どいつもこいつもいかれてやがる!」

 まもなく、輿はまた止まった、それどころか下げられた。ピュートドリスが幕を上げると、列柱がずらりと並んでいた。その奥を覗き、さらに上を見上げると、首を痛めるほどの高い外壁がたたずんでいた。体育場だった。やり場のない苛立ちを、アスプルゴスは運動で発散するつもりのようだ。

 あるいは、ほかに行くところがないのだろう。

 輿から下ろされ、ピュートドリスは観客席へ上がるように言われた。

「私が連中に見つかると面倒なことになるんじゃないの?」

「ご心配ありがとうよ。もう十分面倒なことになっているがな」

 この数日で、同じような台詞を二度も言われてしまった。

「向こうから話を持ちかけてくるなら、それに越したことはないだろう」

 かかって来いとばかりに鼻を鳴らした。それでもやはりまったく面白そうでなく、アスプルゴスは家臣たちを連れて施設内に入っていった。男六人と侍女二人とともに、ピュートドリスは階段を上がった。やれやれ、いったいどれくらい待たせる気だろう、とため息をついた。

 それでも、見つかる可能性はそれほど高くなさそうだった。観客席からは体育場のすべてが見渡せたが、偽者軍団の仲間らしき不審な影はなかった。体育場には若者たちが、観客席には暇を持て余している中年や老年の市民がぽつぽつ座っている。

 そのうえピュートドリスの頭上には、日よけが掲げられた。アブデラで王が使っていたものだ。ありがたいというのが正直な気持ちだった。見つかる恐れ以外にも、真夏の真昼に屋外に居座り続けるのは、それだけで体力を消耗する。まして昨夜一睡もしていない身だ。日よけの下でも、まったくしんどくないと言えば嘘になる。

 若いアスプルゴスとその家臣たちはそうではないのだろう。体を動かすことこそ生きる意味と言わんばかりに、元気いっぱいに見える。ただ駆けまわる者、円盤を投げる者、チームに分かれてボールをぶつけ合う者、馬に障害物を飛び越えさせている者――。

 一日で最も混み合うべき時間だというのに、地元の若者の姿は少なかった。毛色の違うアスプルゴス一行に遠慮した者もいたのかもしれないが、おそらく暑さを避けているのだろう。こんな日は、港町であるし、どこかで水泳をして楽しんでいるのかもしれない。

 ピュートドリスもできればそちらに加わりたかった。腰回りの下着だけ残して裸になり、アスプルゴスは腕立て伏せをしていた。見えないが、汗まみれなことは確かだ。なぜこんな暑い時期にわざわざ自ら汗をかきたがるのだろう。そんなことと考えてしまう自分は、やはり年を取ったのだろうと思った。発散せずにはおれない若さを、もはやどこかに置き去りにしてしまった。

 今はただ涼しいところで休みたかった。無理ならばせめて寄りかかりたかったが、わずかに背中を倒せば、ごつごつしてしかも熱い石造りの後列の通路にぶつかるばかりだった。

 そんな本音を見せまいと、背筋を伸ばした。膝上にそっと両手を置き、女王ではなくとも貴婦人には見えようと努めた。

 視線の先では、今度はアスプルゴスが槍を手にしていた。体育場で貸与される、穂先を丸めた練習用のものだろう。それを右手に、彼は家臣たちを下がらせ、大きく振りかぶって投げた。槍は体育場の対辺へ飛び、地面を滑って止まった。アスプルゴスの舌打ちが、ピュートドリスにまで聞こえた気がした。確かに綺麗な弧を描けず、調子が悪いらしかった。彼は家臣たちにも槍を持つよううながした。

「今日の俺に負けたやつは、髭をジグザグに刈るからな!」

 王のその言葉に、いくつもの笑い声が続いた。国王と家臣というより、青年団の組長とその仲間たちに見えた。

 家臣たちは横並びになり、次々と槍を投げたが、王と似たり寄ったりだった。より遠くへ投げた者もいたが、大差はなく、弧も綺麗ではなかった。アスプルゴスはへまをした家臣たちを、短刀を片手に追いまわした。家臣たちは叫びながら逃げた。上手く投げたほかの家臣たちは追い立たり、羽交い絞めにしてつかまえたりしていた。じゃれ合っている猫の兄弟に見え、外の世界の諸々など忘れてしまっているかのようだった。

 ピュートドリスは少しだけうらやましかった。それでも漫然とアスプルゴスたちを眺めていると、頭がしだいにぼんやりしていくのを感じた。退屈か、あるいは眠いのか。とにかくなにを考えようにも思考がまとまらない。頭の中が、日差しを直に浴びて溶けていくかのようだ。

 そのうつろな視線と同じ高さを、槍がゆったりと通り過ぎていった。惚けて、その虹のような弧の美しさに見とれた。体育場の対辺の際に、それは突き刺さって止まった。

「お母様!」

 どこかでそんな声が聞こえたが、ピュートドリスはまばたきだけした。だれかに呼ばれたかのように、アスプルゴスたちが一斉に背後を向いた。

「お母様!」

 次の声は、耳元で聞こえた。仰天するよりも早く、ピュートドリスは膝上に重みを受けていた。跳ねるようで、柔らかく、ひんやりとした体の、我が娘。

「アントニア!」

 ピュートドリスは信じられなかった。

「なにしてるの? こんなところで!」

「おいっ!」

 下の体育場からもなにかが聞こえたが、それどころではなかった。ピュートドリスは周りを見渡した。侍女と男たちに「私の娘よ!」と知らせて、しかとアントニアを抱きしめたが、日よけを掲げる者もそうでない者も、一様にあっけにとられていた。見張りのために残されていたのだが、七歳の女児一人は警戒対象ではなかった。

 アントニアは一人きりなのか。否、階段のそばに、四十年配の女が一人、ひっそりと立ってこちらを見ている。見知らぬ人間だった。それだけだ。

「どうやってここへきたの?」血相変えて、母は問い質していた。 「おじちゃまはどこ?」

「あのね」アントニアは元気そうだった。母を映す大きな金色の目も、とてもうれしそうだった。「あのね……」

「だれだ、お前!」

 下が騒がしくなったが、ピュートドリスが目を向けたのは、観客席にいる者たちの中で最後だった。侍女も見張りたちも、今やぽかんとした顔をそのまま体育場へ下げていた。

 家臣たちが色めき立って誰何の声を上げる中、アスプルゴスだけが固まっていた。茫然と、背後を見たままだ。

 どよめきは、ひとときで収まった。代わって奇妙な静寂が、体育場を支配した。その張りつめた空気を束ねるように、遠目でも明白なたたずまいの男が、場内に進み出た。

 ピュートドリスがさらに信じられなかったことに、彼もまた一人だった。しかも身につけているのはトゥニカだけ。グラディウス剣はあったが、体育場の際に突き立てて放置し、今は丸腰だ。そのうえ背後の列柱廊に仲間がいる気配はない。証拠に、アスプルゴスの家臣たちは一様にその男だけを目で追っている。

 男は――もちろん本物のティベリウスは、ごく当たり前のように、アスプルゴスの家臣の手から槍を取った。そして数歩離れ――もう一度――とくになにをするでもないというふうに、振りかぶった。

 穂先は、見事な弧を描き、今度は対辺の列柱に当たって落ちた。どよめいたのは、事になんの関わりもないネアポリス市民の観客ばかりではなかった。ピュートドリスの周囲も思わず喚声をこぼした。下の者もそうだったかもしれない。

 だが、王の御前だった。

「どけ」

 アスプルゴスもまた家臣から槍を受け取ったが、その目はティベリウスから少しも逸れない様子だった。ティベリウスが場所を譲ると、せわしなく構えた。

「あのね、お母様」

 あっけにとられるピュートドリスへ、アントニアが小声で話しかけてきた。見ると、その小さな握り拳を開き、ぐしゃぐしゃの紙切れを差し出してきた。

「うおらぁっ!」

 気合いにもかかわらず、アスプルゴスの槍は地面を滑るように走って止まった。最初の一投よりもひどかった。だんっと思いきり地面を踏み鳴らし、今度はティベリウスを見もしなかった。ピュートドリスにもわかるほどの赤い顔をして、すぐさま次の槍を手にした。だれかになにかを言う隙も与えずに、また投げた。

 槍は、今度も地面をえぐって終わった。

「畜生!」

 アスプルゴスは飛び跳ねた。

「こん畜生! 馬鹿にするなよ!」

「力みすぎだ」ティベリウスの声は、低いのによく通った。「心を落ち着けて、余計な力を抜け。それから、大きく振りかぶるのは結構だが、手を離す時宜が違う」

 アスプルゴスが向けた顔は、怒りと屈辱で歪んでいただろう。だがティベリウスはおかまいなしに、また別の槍を手に取ると、それを若者の前に差し出した。聞き取れなかったが、アスプルゴスの腕を取り、槍の柄に乗せ、持つ位置に構え方から手ずから教えている様子だった。

 一方、ピュートドリスは彼の手書きの字が記された紙切れを持っていた。

『隙を見て逃げ、国に帰るように。港前の黄色い屋根の家に、船の用意がある』

 ピュートドリスはあ然と顔を上げた。

 ティベリウスはアスプルゴスとほとんど密着していた。槍を掲げる若者の背中を支え、その姿勢を細かく正していた。指先から腕、肩、そして頭部の位置に至るまで、念入りに。それから力を抜くようにとばかりに肩を叩いてやりつつ、実際に右足を上げさせ、腕の引き具合を調節する。指先で狙う先を示し、ひと言ふた言なにかをささやく。その間、アスプルゴスの表情は見えなかったが、されるがままだった。

 ティベリウスがそっと離れた。アスプルゴスはその体勢のまま、流れるように槍を投げた。

 距離はそれほどでもなかったが、美しい弧が描かれた。

 ぱっとその顔が華やいだ一瞬を、ピュートドリスは見逃さなかった。その顔のままアスプルゴスはティベリウスへ振り返り、慌てた様子で元の面白くなさげな顔に戻った。だがあまり上手くいっていない。家臣から次の槍を受け取る様子が、遠目にもいそいそしていた。

 今度はティベリウスの手を借りずに投げた。半円を描きつつ、前回よりも遠くへ飛んだ。

「よし!」

 彼が嬉しさで跳ねるのを、ピュートドリスは初めて見た。「どうだ、見たか!」と教えてくれた相手に向かって誇っていた。「おおっ」と家臣たちからも歓声が上がった。

「勝負しろ! おっさん!」

 調子に乗ったアスプルゴスは、挑戦が早かった。

「よかろう」

 と、ティベリウスはあっさり受けた。

 なにをやっているの、とピュートドリスは胸中大声で問いかける。

 そんなところで丸腰で独り、なにをやっているの。

 遊んでいるの。あなたより半分も年若い男たちに囲まれて。

 その隙に、私が本当に逃げるとでも思っているの。

 本当にいったい、なにを考えているの。

 実際、観客席にいる見張りたちは、日よけを掲げるのもなおざりに、もう下の様子に見入っていた。場内のアスプルゴスの家臣たちも、ひとまず王と乱入者のために場所を開けた。

 アスプルゴスとティベリウスは並び立った。「いくぜ!」と若者は自ら号令を発し、二人はまったく同じ動きで槍を構えた。足を上げ、振りかぶり、柄が離れていく指先までそろっていた。

 槍は、体育場の対辺の寸前に刺さり、倒れた。

「どっちだ!」

 よろめきから立ち直る間も惜しむように、アスプルゴスはわめいていた。穂先に目を向けながらも、ティベリウスは力を抜いた様子でじっとたたずんでいた。体育場付きの奴隷二人が駆けていった。地面に残された穂先の跡を確認する。けれども二人とも首をかしげている。

「どうした!」アスプルゴスはたまらずまたわめいた。「どっちの勝ちなんだ! 見ればわかるだろ!」

 すると奴隷二人は顔を見合わせた。もしかしたら、ほかのたくさんの跡に混じって判別し難くなっていたのかもしれない。それからしぶしぶのように、二人はティベリウスの側へ腕を向けた。

「ふざけんな!」

 アスプルゴスはすぐに抗議した。

「ちゃんとよく見ろ! この役立たずどもが! 俺がこのおっさんに負けるわけないだろ!」

 それから一人猛牛のように駆け出し、奴隷たちを追い散らした。が、あまりに勢いづいていたがために、大事な跡まで一部踏んでしまったように見えた。わざとではなかったのだろう。思いきり、しまったという顔をした。

「ほ、ほら、見ろ!」

 それでもアスプルゴスは指差した。彼以外のだれにも見えなかったが。

「俺の勝ちだ! ほんの拳程度の差だけど、俺の勝ちだ!」

 へへんと鼻を鳴らしながら、振り向く。

「どうだよ、おっさん? 見たかよ、俺の実力! なあ、おい――」

 足下の槍を一本、アスプルゴスは拾い上げていた。助走をつけ、教えられたとおりの姿勢を守りながら、十全に振りかぶる。

「聞いてんのか、おっさん!」

 ティベリウスは一歩下がり、家臣たちは慌てて押し合いへし合いした。槍は地面に突き刺さり、一陣の砂塵を吹き上げた。ティベリウスが穂先から顔を上げると、すでにアスプルゴスがまた闘牛さながらに駆け戻ってきていた。残るもう一本の槍を、投げずに掲げて。

 ティベリウスもまた突き立てられたばかりの槍を抜いた。

「おい、貴様!」「陛下、お待ちを――」

「手を出すんじゃねぇぇぇぇぇぇっ!」

 家臣たちの声をかき消し、アスプルゴスは力任せに槍を突き出した。ティベリウスはそれを柄をかざして逸らす。そのまま薙ぎ払う。

 アスプルゴスはすぐに次の攻撃を突き上げてきた。ティベリウスは身をかわすと、上から相手の槍を押さえつけた。

「馬鹿にすんなぁ!」

 アスプルゴスが押し返し、力の向きが逆転した。押さえ込まれながら、ティベリウスは慎重な手つきで、槍の角度を少しずつ変えていく。得意げに笑いながら、アスプルゴスは力だけ込めて、すでに勝ち誇り顔だ。

 アスプルゴスの柄が胸の高さを越えたとき、ティベリウスはすぐに足を上げた。蹴り抜かれ、練習用のそれはあっけなく真っ二つになった。

 あんぐり口を開けたアスプルゴスだが、寸前で止められたのか、ティベリウスの足を顔面にくらうことは回避した。数歩下がり、信じられないとばかりに折られた柄の先を交互に見やる。それからたちまち顔を真っ赤にし、ぶんと後ろに残骸を投げ捨てる。

 ティベリウスもまたすぐに槍を地面に置いたが、そのときアスプルゴスはすでに家臣の腰に下げられた剣を奪い取っていた。

「抜け!」

 切っ先を突き出し、彼はティベリウスへ叫んだ。

「陛下!」

 当然ながら血相を変えて制する家臣たちを、さらなる大声でアスプルゴスは制した。

「邪魔するな! これは俺の相手だ!」

 それでもどの家臣もティベリウスに剣は渡さなかった。王命であれ、王の命を脅かすものには従えなかった。卑劣漢ではないアスプルゴスは、地団太を踏んで、それでも待った。

「早く! だれか、こいつに剣を持たせろ!」

 従ったのは、ティベリウスだった。彼はするりと踵を返し、列柱廊の前まで戻った。突き立てておいた、自らのグラディウス剣を手にした。

「貴様――」

「よし!」

 さすがに気色ばみ、おのおの剣を抜きかける家臣たちを、アスプルゴスは左手を上げて止めた。満足のうなずきは、ティベリウスへのみ向けられていた。

「思い知れよ、おっさん!」

 アスプルゴスの一撃を、ティベリウスは沈着に受け止めた。だがピュートドリスとの手合せとは訳が違った。真剣だ。それこそ命のやり取りをする、人殺しの技だ。しかも相手は一国の王だ。

 三合目で、アスプルゴスの剣を宙に飛ばしたのは賢明だった。それより続けたら、三十人の家臣全員の剣で貫かれていただろう。

 だがアスプルゴスはまたも信じ難いという顔をしていた。どこの二十一歳が、四十一歳に負けると思ったのだろう。だが、剣の勝負とはもちろん、若さ頼みの力と速さだけで決するのではない。

 家臣たちは安堵したに違いない。だが王としては、これ以上の屈辱はない。家臣の眼前で、力の差を見せつけられたのだ。それも何度もだ。ここでこの男の首をはねるよう命じてもおかしくなかった。

 けれどもアスプルゴスはそうしなかった。そればかりか、今度はなにも持たなかった。両拳を振り上げ、ただひたすらにまっすぐティベリウスへ飛びかかっていった。

 すでにティベリウスは剣を捨てていた。アスプルゴスをそれで斬るどころか、牽制もしなかった。拳の直撃を避けながら、アスプルゴスの腰を受け止め、横向きにともに倒れ込んだ。しばし、アスプルゴスのでたらめに突き出される拳を押さえながら、地面をあちこちに転がった。

 ピュートドリスは砂埃の中へ目を凝らしていた。すると二人は同時に立ち上がり、アスプルゴスがすぐ右拳をくり出した。ティベリウスは左腕でそれを防ぎ、自身の右拳を振るったが、アスプルゴスの顎はかすめただけのようだ。相手がかわしたのか、ティベリウスが加減したのかはわからない。

 だが次はアスプルゴスの膝が、ティベリウスの腹を打った。遠目にはどれくらい強く入ったか定かでないが、ティベリウスは二歩下がった。アスプルゴスはすかさず得意げにまた拳をかざしたが、今度はティベリウスの左拳が彼の腹に埋まるほうが早かった。「がっ…」と、うめいてよろめいたアスプルゴスだが、ティベリウスに背後は取らせなかった。ティベリウスのトゥニカをつかんで引き寄せ、自らの頭を振り上げた。

 ティベリウスもまた自身の頭を下げて受けるしかなかった。アスプルゴスのほうが背が低いので、顎を打たれる恐れがあった。頭部がぶつかり合うと、二人はそろってよろめき、離れかけたが、アスプルゴスはティベリウスのトゥニカを離さなかった。ふらつきながらも、もう一度頭を振り上げようとした。

 ティベリウスの足が、アスプルゴスのそれを薙ぎ払った。アスプルゴスはそれでもトゥニカを離さず、ティベリウスごと倒れ込んだ。

 ティベリウスに反撃されないよう、アスプルゴスは彼の袖を頑なにつかんでいた。それから思いきり足を振るい、身を跳ね返らせ、上下の位置を逆転させた。

「へっ…」

 アスプルゴスはまた勝ち誇り顔になり、今度こそ袖から手を離して拳をかざした。ティベリウスはその手首をつかんでとめた。

「っ…!」

 二人は硬直したが、アスプルゴスの顔が驚きへ、それから恐怖に近いものへ変わっていった。つかまれた腕がわなわなと震えていた。たまらずアスプルゴスはもう一方の袖も放し、ティベリウスの首を締めにかかったが、その瞬間にティベリウスの右拳に頬を打たれた。

 転がるアスプルゴスの上へ乗り、ティベリウスはその体を固め込んだ。相手の肩の関節に圧力をかけて。

「畜生! 畜生!」

 アスプルゴスは暴れたが、まったく動けそうにもなかった。

「くそぅ! 放せよ!」

 すると、ティベリウスはあっさりとアスプルゴスを解放した。立ち上がり、なに事もなかったかのように後ろへ下がる。だがそのトゥニカは胸の真ん中から裂けていた。

 自由になるや否や、アスプルゴスもがばっと立ち上がった。それからまたも身構えたが、今度は結局相手の腹目がけ、ただ頭から突進していった。

 なにをやっているのよ、とピュートドリスはもうくり返し問うばかりだ。

 これは拳闘? 組打ち? 相手を倒すためにはなんでもするパンクラチオン?

 この隙に逃げろと、ティベリウスは言っていた。つまりこれは彼なりの陽動作戦だ。ピュートドリスのための。

 その一事で若者と殴り合い、蹴り合いしているのか。

 だが今の彼は、もっぱら目の前の相手に集中しているようだった。アスプルゴスに至っては言うまでもない。若さがあるとはいえ、あそこまでむきになっているのはそれにしても不思議に思えた。

 腰に腕をまわし、アスプルゴスは自分より大きい相手を持ち上げかけていた。ティベリウスは一瞬爪先立ちになったように見えたが、彼が両腕をそれぞれ翻すと、アスプルゴスはどさりと地面に転がった。砂にまみれてむせ込みながら、若者はなおも立ち上がった。そしてがむしゃらに左右の拳を突き出し、息もつかせないとばかりに迫り来た。それをことごとく防がれ、かわされ、反撃まで食らうと、今度は蹴撃も加えてきた。拳と足の乱撃を何度か受け止めた後、ティベリウスは肩まで来た若者の足をそのままつかんで、また地面へ倒した。アスプルゴスの動きは少しずつ鈍ってきていた。

 ピュートドリスは立ち上がった。アントニアの手を引き、観客席の出入口へ足早に向かった。そこでは四十年配の女が待ち構えていたが、ピュートドリスは彼女の案内を受けるつもりはなかった。アスプルゴスの家臣たちが追いかけてきたのは、ピュートドリスが出入口をくぐったあとだった。

 体育場に足を踏み入れる。砂埃に煙る中、アスプルゴスはまだティベリウスに挑み続けていた。ふらふらになりながらも地面から手を離し、立ち上がるより早く拳を振り上げて襲いかかる。それをひらりとかわされて、また地面に倒れ込む。それでもまた立ち上がり、振り向きざまにまた突進する。相手の胸に、腹に、精一杯の力で拳をぶつける。上がらない足で蹴りを放つ。がくがくと頭突きを試みる。

 その腰をつかみ、ティベリウスは若者を浮かせて、地面に落とした。若者は倒れ込まず、ティベリウスの太腿にしがみつき続けた。そのまま倒す意図だったのだろうが、びくともしないとわかると、そのまま相手の体を這い上がろうとした。じりじりと、そうしなければもう立ち上がれないのだろう。

 ティベリウスは自ら若者の腕を取り、引き上げてやった。肩を組み、若者の顔を、まなざしを、まともに見据えたに違いない。若者は吠えた。空しき獣の断末魔の叫びに聞こえたが、体育場を震わせた。彼は今一度思いきり頭を反らし、ティベリウスの顎を打ち砕かんとした。だがそれより早く腕を引かれ、胸に手を当てられ、相手の肩を越えて宙を飛んだ。両手足を広げて地面に倒れた。

 その胸は激しく上下し続けた。けれども足はもうぴくりとも動かなかった。

「もういいでしょ」

 アントニアの手を離し、ピュートドリスは体育場へ進み出た。

「年甲斐もないと言うのよ。どれだけ体力を誇ろうと、あなたはもう若くないの」

 ティベリウスは目を向けてきた。さすがに息を切らしていたが、中でも大きい吐息は、ピュートドリスにだけつかれていた。「言ったはずだ」と、その唇は動いた気がしたが、聞き取れなかった。胸を反らし、ピュートドリスは腕組みをした。

「男って人は…。過信は取り返しのつかない事態を招くと、両親のどちらかに教わらなかったの?」

 ティベリウスはずんずんと歩いてきた。茫然とたたずむアスプルゴスの家臣を次々退け、ピュートドリスの真ん前に来た。両肩を痛いほどの力でつかまれ、次は自分が投げ飛ばされると、ピュートドリスは覚悟した。

「あなたは馬鹿だ!」

 耳が震えるほどの大声だった。

「なぜ私を待たなかった?」

「馬鹿はあなたでしょ?」

 ピュートドリスは言い返したが、止めようもなく体が震え出していた。目を見開き、ティベリウスはすごい剣幕だった。髪を乱して土にまみれ、顔には痣をこしらえ、口の端から血も流して。

 だがこれは恐怖ではなかった。自分でも整理がつかなかったが、とにかく今目の前にいる男に恐怖しているのではなかった。崩れ落ちてしまいそうだった。

「ここでなにをしているのよ、アントニアと二人だけで。正気なの? 私がなんのために離れたと思ってるのよ」

 それでも問い質していた。無理にでも怒りをかき立てなければと思った。

「だれがそんなことを頼んだ?」

 ティベリウスの怒りのほうが正直だった。

「たった独りで男どもの中に乗り込んでいった。やはりあなたは狂っている。自分のことも娘のことも、なに一つまともに考えていない!」

「考えていたわ! アントニアとあなたのために、あれが最善だと思ったのよ。実際そうだったはずよ!」

「本気で言っているのか?」

 ティベリウスはさらに詰め寄ってきた。

「いいか? 私の連れには女がいない。あなたは見ず知らずの男の群れに娘も自分も放置して平気でいられるのか?」

「あなたがいたでしょ」にらみ返すピュートドリスは必死だった。「私だって、あの人とは知り合いだったのよ」

「だったらなぜまずそれを私に言わなかった?」

「確信がなかったのよ。それに見つけられたのは私だと思ったから、私さえ出ていけばあなたの邪魔にはならないはずだったのよ」

「邪魔だと?」信じられないとばかりに、ティベリウスはくり返す。「今更どの口が? どうしてそう、余計なことしかしない?」

「じゃあ、なに? あのまま黙って囲まれていればよかったの? 三人そろって捕まればよかったの?」

「そうはさせなかった!」

「どうしてわかるのよ! やっぱりあなたは自分を過信しているのよ」

「たとえそうなったとしても、そのとき責任を取るべきは私で、あなたではない!」

「どうして? あなたは私たちのなに? 私たちになんの責任があるっていうの?」

 するとティベリウスは一瞬言葉を詰まらせたように見えた。それからまた口を開いたが、出てきた言葉はいく分勢いを失っていた。

「あなたに負われる責任だってない。勝手に」

「それこそ今更よ。私は勝手なのよ。わかってるでしょ?」

 ピュートドリスもまた意気を弱め、瞼を伏せた。立ち続けているために、彼の手首をつかんだ。それはひどく熱かった。

「来ないなんて思っていなかったわよ。あなたの敵はすぐ近くにいるんだもの。でもどうして? どうしてこんなに早く、独りで来たの?」

 ティベリウスは少なくとも海路を来たはずだった。陸路アントニアを連れて、アスプルゴス一行を追い越せたとは思えない。そして、たった今着いたばかりではない。連れに女がいないなら、あの四十年配の人物を手配したのは、このネアポリスになる。おそらく港前の家の奴隷だろう。彼は先着して待ち構え、アスプルゴス一行に近づく機会を窺っていたのだ。そのためには、船に乗り続ける以外になかった。一昼夜、ほとんど止まらずに。

 ティベリウスはうなだれた。ねめ上げてくるその顔は、頭の重みと痛みに耐えかねているかのようだったが、初めて見せるものではなかった。

「そもそも私は、ここで連中と事を構えるつもりはなかった」

「なんですって?」

「タソス島に集まった顔ぶれを確認していなかった。あなたもアントニアもいた。この男たちもいた。なにより、連中はほかのどこよりフィリッピの野で警戒しているはずだった。ましてあなたの襲撃があった後だ。だからたとえどのような奇襲をかけて、勝利したとしても、確実に人質の命を失う結果が目に見えていた」

 ピュートドリスはのけぞっていた。

「だったらなぜ私にそれを言わなかったの?」

「言わなければならなかったのか? その前にあなたがいなくなったんだろう?」

「信じられないわ!」

 言葉足らずにしてもひどかった。あんまりだ。そしてこれで終わりではないのだ。

「だからってなんでアントニアと二人だけで戻ってくるの? 意味がないじゃない! あなたもアントニアもここで斬り捨てられたら、それで終わりなのよ」

「あなたは察していただろう?」

 ティベリウスは忌々しそうに言った。悔しそうにも見えた。

「偽者連中でなく、この男たちがだれか。推測でもそれを私に話していればよかった。なにも言わずに勝手に乗り込んでいって、余計な危険に身をさらしたんだ」

「言わなかったのはあなたじゃない!」

「いや、あなただ!」

「あなたよ!」 

「あなただ!」

 二人はにらみ合った。お互いに歯を食いしばり、まばたきもしなかった。

 真夏の日差しに焼かれていた。それでもなおピュートドリスは両肩が最も熱かった。彼の手首をつかんだままの右手も、まもなく焼け焦げてしまうだろう。

 ピュートドリスは彼の瞳を見つめ続けた。どこまでも穢れのない大空のような青が、同じ色の炎を宿してゆらめいていた。

 ピュートドリスはだらりと腕を下げた。情けなく見えるであろう笑みを浮かべていた。

「上手くないわね、私たち」

 本当になにをやっているのだろうと思った。だから男は男と、女は女としか徒党を組まないのかもしれない。なにをするにも行き違いばかりだ。顧みなければ当然のこと。そして相手を思えば思うほど。

 確かに、こんな相手は一人で手一杯だ。

「本物の夫婦だったら、こうはならないのかしら?」

 ピュートドリスは首をかしげた。それから我が身を顧み、思わず苦笑した。

「いえ、もっとひどかったかもね」

 それでもその「行き違い」を招いた「責任」とやらのために、ティベリウスが選んだ行動は、ここへ来ることだった。ため息とともに、彼もまた両腕を下ろした。

「あなたの短剣を奪われてしまったわ」

 ピュートドリスはますます眉尻を下げていた。

「ごめんなさいね。大事にしていたのに」

 口にしてから、気づいた。これまでの目に余る所業の数々で、ティベリウスに謝罪したのは初めてだ。

「…あなたは本当に馬鹿だ」

 声を小さく、ティベリウスは吐き出すように言った。

 この人は本当に言葉足らずだった。今の言葉にも二通りの解釈ができた。自身の性根の悪さに嫌気を覚えつつ、それでもピュートドリスが訊いたのは、そうではないと思う解釈のほうだった。

「……持ち出したのは、確かに――」

 だが次の瞬間の恐ろしい目つきに、すぐに口を閉じた。舌の根も乾かぬうちにまた詫びたいと思ったが、込み上げるなにかに胸を圧迫されて、声が出なくなった。

 代わりに、叫びだす者がいた。

「人を痴話喧嘩の出しにしやがって!」

 ティベリウスの肩越しに、ピュートドリスは目線をやった。仰向けに倒れたまま、アスプルゴスが拳を地面に叩きつけていた。

「いい加減にしろ! いい加減にしろよ、ティベリウス・クラウディウス・ネロ!」

 ピュートドリスはぽかんとなった。

 なによ。知っていたの。

 ピュートドリスが見つめると、ティベリウスは「だから言った」と唇を動かして、踵を返した。アスプルゴスへ向かい、ゆっくり歩いていく。

 ピュートドリスはわけが分からなかったが、デュナミスの話を思い出していた。十五年前、夫アサンドロス王の死去による混乱の中、デュナミスはローマに亡命していた。そこでリヴィアの世話になったそうだが、そのときに息子アスプルゴスも同行させていたのだ。当然だ。ほかにだれが彼を守る。彼がアサンドロスの子でないことは確かだった。

 だが当時、アスプルゴスは六歳だった。外地勤務も多く、母リヴィアと同じ家にも住んでいなかったティベリウスと、それほど頻繁に顔を合わせたのだろうか。そうだったとしても、覚えていたのだろうか。

 覚えていたのだろう。だが確信はなかった。だからピュートドリスをあのように尋問した。さらに言えば、ピュートドリスがティベリウスを本物と知っているかさえ、確信がなかった。母デュナミスから、ポントス女王が一度もティベリウス・ネロを訪問したことがないと聞かされていたからだ。

 つくづく、言ってくれればよかったのにと思った。ガイウスとティベリウスによる板挟みだけが、彼の煩悶の原因ではなかった。ティベリウスを殺しに来たはずの女王が、ティベリウスにしか見えない男と仲睦まじげに旅をしていたのだ。ピュートドリスは彼に同情せずにはいられなかった。

 すると驚いたことに、アスプルゴスが泣いているのに気づいた。痣のできた土まみれの顔を、とめどない涙でぐしゃぐしゃに濡らしていた。

「言ってみろ! ティベリウス・クラウディウス・ネロ!」

 彼はまだ拳で地面を打ちつけていた。

「俺はだれだ? 俺はだれなんだよ!」

 拳は血にまみれているように見えた。それでもそれを打ち続け、足も叩き落とし、背筋を反った。それでも起き上がることはできず、涙ばかり飛ばしていた。アスプルゴスは絶叫した。

「言え! ティベリウス・クラウディウス・ネロ! 俺はだれだ!」

 その傍らに、ティベリウスはひざまずいた。それからおもむろに上体を屈め、若者に覆いかぶさるようになった。彼の耳に、短くなにかをささやいたようだった。

 アスプルゴスの目が真ん丸に見開かれるのを、ピュートドリスは見た。そのまま彼はまじまじとティベリウスを凝視した。ティベリウスは沈着に見つめ返し、小さくうなずいたようにも見えた。

 アスプルゴスの両眼からまた涙があふれ出た。堪えきれず声も漏れ出て、たちまち大きくなっていった。ティベリウスは若者を抱き起した。その頭を自身の肩に寄せ、せめて正真の泣き顔を家臣たちから隠した。

 ピュートドリスはやはりわけがわからなかった。ティベリウスにしがみつき、アスプルゴスは長いあいだ泣き暮れていた。







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