第二章 -7
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想定してしかるべきだったのに、ティベリウスの短剣を取られたときだけは動揺を隠せなかった。
「なにするのよ!」
アスプルゴスの家臣はピュートドリスから強引に剣帯を外しにかかった。その手をピュートドリスがはたくと、逆に羽交い絞めにされた。
「触らないでよ!」金切り声をあげた。「私をだれだと思っているの! 身を守る道具も持たせないつもり?」
「どこの捕虜を凶器を持たせたまま拘束するものか」
アスプルゴスの家臣は冷淡に言った。ピュートドリスはぎろりとにらみつけた。
剣帯が外れると、ひとまず腕は解放されたが、短剣は野蛮人の手中に収まっていた。
「なにもしないわよ。あなたたちの国王には」
「それは当たり前だ。我らがさせるものか」
女王の怒りのまなざしも、その家臣は沈着に受けた。
「自殺でもされたら面倒だからな。本来なら、毒物を隠し持っていないか体を調べさせてもらう必要があるが」
ピュートドリスは右手をその男の頬に叩きつけんとしたが、すんでのところで手首をつかまれ、そのままテントの奥へ突き飛ばされた。
転がり、テントの出入口がふさがるのを茫然と眺めた。中にはだれもいなかった。敷物一枚が引かれ、あとは簡易寝台が置かれてあるのみだった。
幕に、先程とは別の家臣が見張りに立つ影が映った。だが中に入ってくるそぶりはなかった。
ため息をついて、ピュートドリスはそのまま這うように寝台へ寄っていった。小さく固い枕を抱え込んだが、すぐにはっとした。自分自身に呆れて、苦笑した。
こんなものがなんの拠り所になるの。なんでもかんでも拠り所にできるほど、お前はおめでたい頭をしているの、と。
自分の弱さに恥じ入るばかりだった。いつもそうだ。こんなことなら短剣など置いてくればよかったのだ。取られて当たり前ではないか。ティベリウスには悪いことをした。大事そうにしていたのに。
アントニアだって同じだ。母の弱さからくるわがままで、しなくてもいい苦労を強いた。心身ともに。そのうえ最後まで守りきれず、ティベリウスに押しつけてしまったのだ。
なんてひどい女か。母親か。
すべてを捨てることができなかった。完全に独りになることができなかった。今この時まで、その心細さから目を背けていた。
ピュートドリスは寝台の上で体を丸めた。
家臣たち全員分の寝台はありそうにない。そうなるとこれはデュナミスのために用意されたものかもしれなかった。ひとまずにしろ、アスプルゴスは客として扱う気がなくはないのだろう。
だが彼の家臣の使う言葉が真実だった。捕虜以外の何者でもない。
だがだれに対しての捕虜なのだろう。
テントの中には一つだけ、頼りない燭台が灯されていた。そのあたたかな光を、ピュートドリスは漫然と眺めていた。
とうとう独りになってしまった。その心境はどうか。
それほどに心細くもなければ怖くもないと思った。少なくとも今のところは。ただ自分に嫌気が差し、みじめに思った。
セレネ叔母も今ごろこんな気持ちでいるのだろうか。だとしたらあまりに気の毒だ。もう連中の手に落ちて幾日になるか。デュナミスも、気丈にも息子を追い返そうとしたが、事実はどうしたらよいか途方に暮れているのかもしれない。
それもこれも全部愚かな男どものせいだ。
けれども結果を予想できていながら自ら飛び込んだぶん、ピュートドリス自身こそいちばん愚かだろうと思った。今この時にでもアスプルゴスの家臣が乗り込んできて、拷問なり強姦なりするかもしれない。その危険を招いたのは自分だ。
それでも自分が最善と思ってしたことだ。最後まで意地は張り通さなければなるまい。
いずれティベリウスは、手勢を上陸させ、偽者軍団を粉砕しにかかるだろう。上手くいくはずだ。すべてを捨てた一私人とはいえ、ローマ一の将軍なのだ。
確かにデュナミスはなにかを恐れている。だがそれは息子を巻き込むまいとしてのことだろう。母を助けよと書かずとも、このティベリウスは偽者だと知らせることもできたはずだが。
いや、もう、他人のことなどどうでもよい。そのはずだ。だからピュートドリスが考えるべきは、自分自身のことのはずだ。
――あなたの望みはなんだ?
ピュートドリスは目を閉じた。
私がなにも望まなくても、結局なるようになるのではないの? なるようになれと、願ってはだめなの?
――なにも考えていないのではないか?
願わない者には、なにも叶わないのだ。なにも願わずに叶うほど、この世界は優しくないのだ。
でも、だから、なにを叶えたいの?
まぶたの裏に、いくつもの顔が浮かぶ。
その中の生きている者一人一人へ、ピュートドリスは最善を望んだ。それからまた思わず苦笑する。
結局、そうだ。捨てきることなどできないのだ。ティベリウスだってそうだった。
だれも信じてくれなくとも知っている。お互い、捨てたくて捨てたわけではない。
ならば、捨てない方法があるだろうか。お互いに、すべてを守り、取り戻す方法があるだろうか。私たちは強欲だろうか。
ああ、結局やはり、目先のことしか願えない。統治者として、もう少しばかり先見の明というものを持ち合せるべきなのに。
ティベリウスに会いたい。叶った今は、いっそうそれを願う。
取り返しのつかないものも確かにあるだろう。けれどそのためにあがくかどうかは、自らで決められる。
よかったわね、と。ピュートドリスは自分を讃える。お前の愛は、実物に会ってもゆらがなかった。それどころか思いは増した。これに優る幸福はない。それほどの男でいてくれたことに感謝する。
愚かでみじめな女を、あなたはいつも愛で満たす。だからもう決してみじめではない。
これ以上を望むのは欲深いだろうか。
外が明らんでいくのを見守るまでもなく、迎えが現れた。侍女が二人。元はデュナミスに従いながら、途中で離されてしまったらしかった。水桶を持ってきて、ピュートドリスの最低限の身支度を手伝った。
結局アスプルゴスは、ピュートドリスを持て余したまま新しい一日を迎える羽目になったようだ。ピュートドリスが外に出ると、彼は目の下に隈を作って、不味そうにパンをかじっていた。ピュートドリスもまた一睡もしなかったが、つくづく彼にそれほどの苦悩を強いたかと思い返した。
けれども、大事なことだ。
「どうするか決めたの?」
早朝、ボスポロス王一行は、ネストス川を越えてマケドニア属州に入った。海沿いの野原を、馬と馬車が西へ進む。
尋ねるピュートドリスもまた馬上にいた。周りを国王のいかつい家臣たちに囲まれていたが、身体の拘束は受けていなかった。
「いずれ母上の手紙を無視したままでいるわけにもいかないんじゃないの?」
「とっくに返事は送ったよ」
晴天の下にもかかわらず、白馬の上のアスプルゴスは陰鬱な顔をしていた。
「『驚きましたが、ネロ殿のお世話になっているようでなによりです。 私もぜひともお目にかかりたいですが、かの祭典において、ネロ殿と私は競争相手。今はお互いの手の内を見せないでおくが上策と考えます。対面の栄誉は、オリュンピアまでの楽しみとしましょう。母上こそ、我々は海路を行きますが、あまりネロ殿にご迷惑をかけないうちに、お戻りになっては?』」
「すごいじゃない」
ピュートドリスは反り返ってみせた。
「ごくまっとうな手紙に思えるわ。本当にあなたが書いたとしたら」
「だから馬鹿にするなって。俺はラテン語だって使えるんだぞ」
「いつ返したの?」
「四日前だ。それから母上が帰ってくる様子もないから、ビストニス湖を南下した。そういう体だ」
「でもあなたは今まだ陸路にいるわ」
ピュートドリスはうなずいて指摘した。
「どうするの? もうすぐネアポリスよ?」
「言われなくてもわかってる。あそこだって港湾都市なんだから、別に不自然でもないだろ」
「あそこからフィリッポイ市まで、すぐよ」
「だからわかってるって」
うるさそうなうなずきを見ながら、ピュートドリスは初めて不思議に思った。アスプルゴスはティベリウスとセレネ叔母が共にいる意味について、一度も話題に出さなかった。そして二人がちょうど今ごろフィリッポイ市にいるであろうことにも、なんの疑問も持っていない様子だった。察しているのだ。まずい事態を。
でもどうして?
ティベリウスがセレネ叔母を輿に担いで謀反を起こす。その気勢を上げるためにフィリッピの野に行く。そこまでとんでもないことをティベリウスがしでかすと、どうしてすぐに信じられる。
現状は、軽率な振る舞いに見えるのみはないのか。まだなにもしていないのだ。フィリッピの野で叫ぶまでは。
ピュートドリスは我知らず凝視していると、アスプルゴスはそっけない目線を返してきた。それから口を開いた。
「考えていてな。あんたと母上を交換するのはどうかって」
今更ではあったが、ピュートドリスは驚いた。先程までの違和感が吹き飛ぶほどに。
「それで私を連れ出したの?」
「それ以外になんの使い道があると思ったんだよ?」
「でもそれじゃあ、デュナミスが人質であることを認めることになるわよ。ティベリウスはそんなこと一言もほのめかしていないのに」
「じゃあ、なんで母上は帰ってこないんだ? 俺に帰れと言って。つまり帰れないからだろ」
確かに、そういうことだ。アスプルゴスは尋常ではない母の言葉から、ティベリウスによる謀反を察したということか。
「連中は私のことは喜んで受け取るでしょうよ」ピュートドリスは認めるしかなかった。「でもデュナミスは? あっさり帰すと思う? 彼女はもう『知っている』のよ」
謀反を、という意味ではなかった。偽者であることをだ。だがアスプルゴスは前者の意味でしか解釈できないだろう。
「じゃあ、無邪気を装って迎えにいけばいいか?」
アスプルゴスは鼻を鳴らした。
「せっかく手土産があるのに、見せもせず?」
その顔は少しも面白そうではなかった。
ピュートドリスは首をひねった。
偽者連中はあの手紙をデュナミスに書かせたが、果たしてアスプルゴスがのこのこ伺候に訪れるのを喜ぶだろうか。訪れたら、ティベリウスに味方をする気があるということにならないか。だが連中は本物のティベリウスを陥れようとしているのだ。
一方でまた、すべてを知るデュナミスを、連中は野放しにはできないだろうと思った。陰謀が進行中のあいだは無論だが、成就した後でも。彼女がリヴィアに真実を知らせたらどうなる。デュナミスが完全にガイウス・カエサルの側につき、沈黙を守ると誓えば別だが。連中はデュナミスをそこまで信用するだろうか。
とどのつまり、連中にとっての最善もまた、アスプルゴスを仲間に引き入れることではないかと思った。いっそ偽者であることを打ち明け、ガイウス・カエサルの味方として。そもそもガイウスと懇意にしようとしていた男だ。片棒を担げと持ちかけ難くはないはずだ。
だが連中は、今のところアスプルゴスに直接話を持ちかけてはいないらしい。一国の王であり、今も四十の手勢を連れているのだから、慎重を期さなければならないのは当然だった。だがそれにしても――。
「ったく、ややこしくて頭が痛くなる!」いつのまにか、アスプルゴスはまた頭を掻きむしっていた。「どいつもこいつも、どうして俺に本当のことを言わない!」
アスプルゴスの問題が見えた気がした。彼はだれからも仲間に誘われていないのだ。蚊帳の外だ。
それなのにどちらの味方なのか問うのは不条理だった。
「ガイウス・カエサルとはどうだったの?」優しい姉のように、ピュートドリスは若者の顔を覗き込んだ。
「気に入られた? 上手くやっていけそう?」
前者の質問の答えはすでに出ていた。王位を認められたのだから、最低限の成果は収めたのだ。後者だが、アスプルゴスの社交性次第と思われた。二人は年も近い。ガイウス・カエサルは今をときめいて良い調子だが、決して気難しい性格ではなかった。ピュートドリスの目には、むしろ素直で単純で、繊細に見えた。
アスプルゴスはじっと視線を返してきた。それはひどく雄弁に見えた。そのまましばらく黙ったままだった。ピュートドリスは面食らった顔をしたが、ほとんど演技だった。
そういうこともあるだろう。
意外ではない。ピュートドリスだってガイウス・カエサルに会った。無論、そのような情のみに従えるならば、小国は外交で苦労などしないが。
「俺はな」ゆっくりと言葉を出す。若さに似合わないまでに、まなざしが苦りきる。「あんたや世の中の連中に蛮族呼ばわりされようが、どうでもいいんだよ。なにも知らない奴らには、好きに言わせておくさ。だれがなんと言おうと、俺はボスポロスの王なんだ。勇名はこれからいくらでも立ててやる。でもよ――」
馬の腹を蹴るや、ふいと顔を前方へ向けて、先へ行ってしまった。残された声は、怒りや屈辱より無念に近いような色を含んでいた。
「誇るものがないのか。アウグストゥスの血のほかに」