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ピュートドリスとティベリウス  作者: 東道安利
第二章 呪われし者
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第二章 -6





「んで?」

 ボスポロス国王一行は、ネストス川のほとりに来ていた。厚い雲を残し、太陽はすでに沈んでいた。それでも雨は止んでいた。川の増水も、大事にならずに収まりそうだった。

「そろそろ話してもらおうか。なにを考えてんだ、アマゾン王妃」

「それよりもまず、祝意を述べさせていただくわ」

 ピュートドリスはすまして言った。

「いつのまに王様になったの?」

「この夏だ」吐き捨てるように、アスプルゴスは答えた。「ガイウス・カエサルから承認された」

 その顔も、誇らしげで当然であるのに、やけに苦く歪んでいた。

 アブデラ市の外で待機させていた者も含めれば、総勢四十人程になった。この国王にしては少ない護衛を従え、アスプルゴスは陸路をオリュンピアに向かっていた。否、実際はへレスポントス海峡からは海路を行くつもりだったはずだ。母デュナミスと合流して。今もトラキア沖には紅紫の幕を纏った船が浮かび、オリュンピアで走らせる予定の馬を収めているのだろう。

 ピュートドリスは事態を確かめなければならなかった。アスプルゴスはすでにこの場所で野営をすると決め、テントを張らせていた。国王用のひときわ大きなそれの前に、彼は臥台を一台だけ置かせた。元はそれなりにきらびやかだったが、愛用の末にすり減ったように見えた。彼はそれに腰を下ろし、クッションだけを与えて、ピュートドリスを真向かいに座らせた。二人のあいだには先程丸焼きにされたばかりの豚肉をはじめとする料理が並べられた。野営にしては豪華に違いないが、それにしても食べる前から大味であることがわかる。家臣たちはたいまつを掲げながら二人を囲んでいたが、それでも交代でほとんど同じものを食していた。

 いささかぎこちなくふんぞり返り、アスプルゴスは一丁前に葡萄酒を口にしていた。一気に飲み干すと、どうだと言わんばかりにピュートドリスへ顎を突き出してきた。軽く笑ってから、ピュートドリスも杯を唇に当て、一口含んだ。元々あまり飲まないのだが、このごろはさらに子育てに追われ、付き合い程度になっていた。

「ほっとした?」

 努めて悠々と、ピュートドリスは笑いかけた。敷物の上に横たわり、肘の下にクッションを入れ、頬杖をついていた。臥台がないので娼婦にでも見えたかもしれないが、くつろいでいるふうを装った。

「これで私に国を取られる心配がなくなったって」

「あんたなんかに取られるもんかよ」

 アスプルゴスは鼻を鳴らした。

「私だって、一度でもボスポロスが欲しいなどと言った覚えはないわ」

 ピュートドリスはそっけなく杯を振った。

「あなたたちが勝手に心配したんでしょ。私のゼノンのことを」

「母上が、だ」アスプルゴスは即座に訂正してきた。「俺はあんたの息子が攻めてこようが、すぐさまこてんぱんに負かしてやったさ」

「だから……」ピュートドリスの顔につい翳が差した。「息子にボスポロスを攻めさせるつもりなんてないわ。私の目の黒いうちは」

「遠慮するな」アスプルゴスは豪快に豚肉を食いちぎってみせた。「俺はいつでも大歓迎だ」

 ピュートドリスは杯に目線を落とした。

 思うに、まさにこの一事だった。ほかでもない我が次男が生まれたがために、ポレモンは死ぬ羽目になった。長男だけならばまだよかった。ポントス王位を父親から継げばいいのだ。だが次男はどうする。当然ポレモンはこの息子にも相応の地位を与えようと考える。そうならば、なぜどこの蛮族との子かわからないデュナミスの息子のことなど考えようか。邪魔でしかない。

 けれどもポレモンは、結局デュナミスに先手を打たれてしまったのだ。

 ピュートドリスは夫の死を呼んだ子どもを見つめていた。今二十一歳であるそうだ。

 言いがかりだった。少なくともあの当時のピュートドリスは、無邪気なもので、夫が留守のあいだの統治を覚えることと息子二人の育児に没頭し、外の世界の思惑になど思いを馳せたこともなかった。そんなことは万事夫が上手くやってくれるはずと信じて疑っていなかったのだ。

 今は、夫の無念はさておけば……とピュートドリスは考えないでもない。デュナミスの立場を慮れるまで長い時間がかかった。

 ローマ人の勧めでポレモンと結婚した。デュナミス自身が言っていた。ポレモンはボスポロスに「安定と安全をもたらした」けれども息子に関して言えば、心は休まらなかっただろう。ピュートドリスがゼノンを生み、元気に成長していると知らされれば、その危機感は膨らむばかりだっただろう。

 だれの子にせよ、アスプルゴスはデュナミスの一人息子だ。数奇な年月を長く生きてきた彼女に与えられた、唯一の宝だ。だから命を賭けたのだ。殺らねば殺られるとさえ、考えたのだろう。

 一方、とピュートドリスは我が次男を思う。兄との仲は決して悪くない。しかしどこの兄弟もそうかもしれないが、次男は長男に負けまいとするのだ。実際、言っていたではないか。兄よりも大きな国の支配者になってやる、と。子どもらしい無邪気な対抗心だ。けれどもそれを抱いたまま大人になってしまう男が、この世にどれほど多いか。

 温厚で気の優しい兄に比べ、ゼノンは確かに活発で好戦的だ。母亡き後、対抗心を野心に変えた彼がなにをするか、あるいはしないか、だれにもわからないと思った。

 つくづく自分はお嬢様だと思った。恵まれていると思った。むしろ憎まれるべきは自分であり、デュナミスを憎む筋合いはないだろうとさえ思った。

 それでもデュナミスは、なぜいつもあんなふうに陽気に笑っていたのだろう。意地と誇りなのか。だとしたらなんと途方もなくたくましく、恐ろしいか。

 いずれにせよデュナミスは、息子の壮健な成長をこのうえもなく喜んでいるに違いない。そして今や王として、ローマのお墨付きまで得たというのだから。

 ピュートドリスは目線を上げ、再び若者を見つめた。背丈は並みだが、がっしりした体つき。髭のおかげでだいぶ隠れているが、まだあどけなさの残る顔。今にも火花がほとばしりそうな熱をたぎらせているが、どこか深みのある鳶色の瞳。

「それで、無事王位を承認されたことを、母上に報告しないの? 国に帰って民にも知らせて、盛大な戴冠式でも行うべきじゃないの?」

「オリュンピア競技祭の優勝も引っ下げてからな」

 家臣に葡萄酒を注がせつつ、アスプルゴスは何気ない様子で言った。ピュートドリスは目を丸くしてやった。

「優勝するつもりなの? 戦車競走で?」

「出場するからには勝ちにいくのが当たり前だろ」

「そもそもあなた、ギリシア人じゃないでしょ」

「馬鹿言え」アスプルゴスは眉をしかめる。「ローマ人がギリシア人だって言うなら、俺だってそうだ」

 古来、オリュンピア競技祭にはギリシア人しか出場できないという規定があった。だが現在は、ギリシア人となんらかの血縁があることを主宰者に認められれば良しとされている。ローマ人も神話の時代にまで遡って縁を主張したのだった。

 実際、少しずつ規定はゆるくなってきた。伝統は長く、世界で最も名誉ある競技祭であることは事実であるが、その意義は失われつつあるのだろう。ギリシア本土の都市国家が、一時休戦をして集う場ではなくなって久しい。マケドニア人に、その後はローマ人に支配されて三百年余り、オリュンピア競技祭はかつての栄光の名残となりつつあるのだろう。伝統を継ぎつつ、新たな意義を与えていくのでないかぎり。

「あんたは俺を蛮族の子呼ばわりするがな」杯をすすり、面白くなさそうな顔でアスプルゴスは話し続ける。「俺たちの国のことも蛮土だと思っているんだろうがな。見ているがいいさ。我が国の馬がどれほどのものか。柔弱なアジアやギリシア産の馬とはわけが違うぜ。ボスポロスの騎兵は恐るべしと、世界じゅうに知らしめてやるさ」

「そういう評判は戦場で立てるものでしょ」

 ピュートドリスは首を振った。結局男というものは、競い合いが好きなのだ。

「そんな話をあんたとしたいわけじゃないんだ」

 と、アスプルゴスはだしぬけに杯を臥台の縁に叩き置いた。

「そもそもなんで俺がこんなところであんたと酒を飲まなきゃならない? 田舎の成金に大笑いされるような態で」

「いいんじゃないの、質実剛健というやつで。富を見せびらかすのは流行らないのよ。西に行くほど。そもそも富があればだけど」

「海路を行くはずだった」彼は縁を叩き続けた。「陸を行くとわかっていたなら、もっとまともな装備を用意したさ」

「海路を行ったらいいでしょ。船はもう出しているんだから、乗り込めばいいだけでしょ」

「俺じゃない。あんただ」アスプルゴスは身を乗り出してきた。「あんたこそ、こんなところで一体なにをやってるんだ? 正気なのか? 女王で、王妃が、独りきり」

「私が狂人に見えるの?」

「見えるね」

 目玉を剝き出しに、アスプルゴスはうなずいてきた。

「一緒にいた男はどこへ行った?」

「野暮なこと聞くのね」

「愛人と駆け落ちとでも言う気か?」今度はわざとらしく身を反らした。「女王が? それであっさり捨てられたってか。あまりのアマゾンぶりに」

「あなたの母上がなにを言ってるか知らないけど、私はそれほどやんちゃじゃないわよ」

「よく言う」と吐き捨てる。「子どもはあんたの娘じゃないのか?」

「あの人の娘よ」

 さらりと言いながら、ピュートドリスは考えていた。アントニアとアスプルゴスは会ったことがないはずだった。この数年、デュナミスは年に一度黒海上で開くピュートドリスとの「お買い物会」に、アスプルゴスを連れてきていた。もうゼノンが脅威でないほど健勝に成長したからだろう。一方ピュートドリスは、この数年、アントニアを同行させなかった。話が二人の縁談に及びかねないと思ったからだ。アントニアをデュナミスの嫁にする気にはなれなかった。

 ともあれそういうわけだ。やはり目をつけられたのはピュートドリスで、ティベリウスではなかった。偽者軍団に見つけられたのでもなかった。

 アスプルゴスはまた身を乗り出してきて、今にも臥台から転げ落ちそうだった。いよいよ本題だ。

「そもそも、だ。だいたいなんであんたが、ティベリウス・ネロを殺そうとした?」

 杯を唇に当てながら、ピュートドリスはアスプルゴスをただ見た。彼はまばたきもせずににらんできていた。

「キュプセラで、あんたと男が一緒にいるのを見た」結局焦れて、先に口を開いた。「ポントス女王がティベリウス・ネロを殺そうとしたって話で持ちきりのキュプセラでな」

 ああ、そうだったの、と胸中でうなずきつつ、ピュートドリスは無表情を保っていた。ごろつきどもはともかく、一国の代表として何度も会っていた男の目は素通りできなかったわけである。

「あんたはしくじったが、ネロときたらそれはもうみっともなく逃げ惑ったらしいな」

 敷物に手を突き、腰を落として臥台をよろめかせ、とうとうアスプルゴスは下りてきた。丸焼きの豚の頭越しに、顔を近づけてくる。

「なんでそんな馬鹿な真似をした? 女王が、御自ら、宴席じゅうの注目を集めながら串刺しにしようとしたって?」

「言っても信じないでしょうよ」

 と、ピュートドリスはそっけなく杯を振る。

「ガイウス・カエサルの命令か?」

 決して大声ではないが、口は大きく動かして、アスプルゴスは尋ねてきた。杯を振り続けながら、ピュートドリスは彼を注視し続けた。

「あなた、ティベリウス・ネロに会いに行ったことがないの? ロードスへ?」

「…ないよ」

 吐息とともに、アスプルゴスはわずかに視線を逸らした。「母上は毎年のように出かけたがな。ティベリウス贔屓だから」

「一方、あなたは今年東方へ来たガイウス・カエサルに、ここぞとばかりに取り入って、まんまと王位を認められたと」

「うるせえよ!」

 と、アスプルゴスは怒鳴った。ピュートドリスは目をしばたたいたが、続けた。

「お母ちゃまと坊やによる、見事な共同統治の連携ではなくて? 私も見習わなきゃならないかしら」

「あんたとアルケラオス王は、ティベリウスに会いに行ってもいなかったんだろ?」

「そうよ。それでかわいそうに、今あなたは板挟みになっているのね。勝手に」

 ピュートドリスが指摘すると、アスプルゴスの口元からぎりぎりと音がした。

 ここに至れば、ピュートドリスは確信を持った。アスプルゴスはデュナミスに会っていないのだ。

「わけわかんねえよ!」

 敷物にあぐらをかき、アスプルゴスは髪を思いきり掻きまわした。

「あなたはキュプセラで私と男を見つけたものの、あっさり見失ったわけね」

 ピュートドリスは沈着にたどったが、そのはずだった。真夜中、キュプセラの友人宅から直接小船に乗り込み、ヘブロス川を渡ったのだ。だからアスプルゴスが目撃したのは、ポントス女王とどこかの屈強な男の二人だけだ。

「それで昨夜になってようやく見つけた」

「ローマ街道沿いのどこを探してもあんたと男の姿はなかった。だからビストニス湖を南下してきた」

 心底忌々しげに、アスプルゴスは頭を掻き続ける。

「そんなことよりもまず、母上に直接訊いたらよかったでしょ。へレスポントス海峡で、あの人と会ったのよ、私」

「らしいな」

「あなたをティベリウス・ネロに紹介するつもりだと言っていたわ。どうして会いにいかないの?」

「キュプセラに戻ってきた芸人の一人が、俺のところに皿を持ってきたんだよ。使用済みで、洗ってもいない。それになんて書いてあったと思う? 母上の字で、『ボスポロスに帰りなさい。母のことはかまわないでよろしい』」

 なるほど、とピュートドリスは思う。それがデュナミスの判断か、と。

 けれども――。

「外はあんたがティベリウスを殺しかけた話で大盛り上がり。その芸人も話していたよ。あんたが母上の目の前で、ティベリウスを刺し殺しかけたって」

 ばんと両手を叩きつける。料理が浮き上がる。

「俺にどうしろっていうんだよ?」

 興味なさそうに、ピュートドリスは一瞥を投げた。

「お母ちゃまの言いつけを守ったらいいんじゃないの?」

「俺はこのオリュンピア競技祭のために何年も準備していたんだ!」

「やっぱりあなたをティベリウスに会わせるのは良くないと、お母ちゃまは考え直したんでしょ。あなたはガイウスの側にいるべきだと」

「俺は別にティベリウスと馴れ合いにいくんじゃない。同じ競技祭に行くんだ。いずれ顔は合わせるだろ。ガイウス・カエサルだって、俺が出場することは承知している」

「だったら、会いに行ったらいいでしょ、さっさと。デュナミスがなにを考えているのか知らないけど」

「なにを考えているのかわからないのは、あんただろ。わけがわからんが、あんたがティベリウスを殺そうとしたから話がおかしくなった。それは間違いないだろ」

 皿越しに、ぐいと髭面を近づけてくる。それはひどく真面目に見える。

「もういっぺん訊くぞ。どういうわけだ? ガイウスの命令にしろ、なにかの私怨にしろ、なにも女王が自ら手を下すことはないだろう。いったいなんであんな真似をした?」

「それが重要?」

 ピュートドリスはそっけなく訊き返した。

「重要なのは、私を連れたあなたが、これからどうするのかってことじゃないの?」

 この若者は演じているようには見えなかった。まだそこまで器用なことができるほどすれていない。彼はなにも知らないのだ。

 そうであるならば、と、ピュートドリスは試してみる。

「母上とティベリウスのところへ行く? 喜んで誇らしく、悪い女王を捕まえたよって。それとも私と手を組んででもみる? ティベリウスを殺す手伝いをする? ガイウス・カエサルのために?」

「やっぱりガイウスの命令か?」

 片頬をゆがめる、アスプルゴス。

「そうは言っていないわ。あなたから見れば、という話。あなたはどうするつもりなの? ティベリウスとガイウス、どちらに味方したいの?」

 その問いを聞くと、アスプルゴスは深くため息をついた。それから体を引き、地べたにどかっとあぐらをかく。忌々しげに、ピュートドリスをじっとにらむ。

 ピュートドリスも小さなため息を返してやった。

「それを決めなきゃならないと思ってるんでしょ?」

 アスプルゴスは右手で頭を押さえた。

「…母上は、従者をほとんど全部キュプセラに残していった。宴席に連れていった者も帰された。聞くに今、母上には侍女一人しかついていないそうだ」

 指のあいだから覗く目に、やり場のない苛立ちがたぎる。

「おまけにその後、今度はまともな手紙が届けられた。これも母上の字で『私のアスプルゴス。母はとても楽しんでいます。あなたもネロを敬愛するなら、早く礼を尽くしに参上なさい』」

「あら、まぁ…」

「参上しろだとさ! 国王に!」

「はいはい」

「ついでに言えば、母上は普段俺をアスプルゴスとは呼ばない!」

「そういえば、そうだったわね…」

「どう考えてもなにかおかしいだろ!」

 飛び散る唾を目にしながら、この男に話すべきだろうかとピュートドリスは思案した。あれは偽者だと。先程まで自分が一緒にいた男こそ本物だと。しかし信用するだろうか。キュプセラでそうだったように、本物であることを証明するのは存外難しい。まして今は当人がいない。

 それに打ち明けたとして、この男がガイウス・カエサルを支持するつもりでいるならば、ティベリウスにとって余計な敵が増えるばかりで、ピュートドリスにとってもなにも良いことがない。

 けれども、もしもどうにか味方に引き入れることができたら。腹の内は知らないが、事実上デュナミスも今や捕らわれの身であることがはっきりした。救出するのだと言って、この男を誘えはしないか。ティベリウスだって手勢が増えることはありがたいに違いない。

 でも、とピュートドリスは思う。ティベリウスに問われた言葉だ。

 ――あなたの望みはなんだ?

 ピュートドリスはまだ答えが出せない。

 そして、目の前の若者もだ。自分がなにを望むのか決めかねている。ならば、判断材料をすべて提供してやるべきか。 

 デュナミスの手紙は明らかに強制されて書かれたものだ。いずれ息子が来ることは隠しようのない事実だった。だからアスプルゴスもわかっているが、母の真意は当然皿に書かれた言葉のほうだ。

 デュナミスは、できなくはなかったのに、息子に助けを求めなかった。ボスポロスに帰れと指示したのだ。この陰謀に息子を巻き込めないと思ったからだ。

 それは、のっぴきならないものが待ち構えていると悟っているからではないのか。

 つまりデュナミスは、この陰謀が成功してしまう可能性を見たのだ。

 デュナミスこそ今なにを考えているのだろう。元来、東方の諸王侯とは冷徹で非情なものだ。いくらリヴィアに頼まれようと、ティベリウスを好いていようと、我と我が国に不利と悟れば躊躇なく背を向けるだろう。

 ティベリウスに指摘されたとおり、自分には軸がないのだとピュートドリスは思い知った。だれのために行動するのか。なにが自分のためなのか。それすらわかっていないのだ。狂人に見えるのも当たり前だ。

 それでもここへ独りで来ることを選んだのは、それが最善だと判断したからだ。タソス島行きを邪魔するわけにはいかなかった。ただでさえ遅れていたに違いないのだから。

 ならば、その軸で動くしかあるまい。

 ティベリウス、そしてアントニア。もはや目の前にいないが、それでも確かだった、自分の愛する存在だ。

「私を連れて、ティベリウスのところへ行ったら?」

 提案は、間髪入れず鼻で笑い返された。ピュートドリスは無視して続けた。

「ティベリウスはあなたを歓迎するわよ」

 これを承知したら、アスプルゴスはティベリウスの味方になる気があるということだ。

「なんでティベリウスを殺そうとしたやつに、そんなことを勧められなきゃならないんだよ」

 返事は、ごもっともとしか言いようがなかった。アスプルゴスの目は今や苛立ちよりも訝りが勝っていた。

「あんた、死にたいのか? それとも、ローマ式の拷問ででもいたぶられたいのか? あいつらはなにがなんでもあんたにこれをやらせた首謀者を吐かせるぞ」

「首謀者もなにもいないんだけど。私がやると決めたことだから」

「そんなのだれが信じるか。事実だとしても、だれが信じるか」

 アスプルゴスは地面に足裏を叩きつけた。それからピュートドリスの鼻先まで顔を近づけてきた。その顔つきは親身にすら見えた。

「なあ、いいか? 俺が吐かせてもいいんだぞ。一切合財吐かせたあとで、ティベリウスに引き渡してやったっていいんだ。そのほうが手間が省けたって、さらに喜ぶだろうさ」

「それは気が利きますこと」

「東方式と、あんたの言う蛮族式と、どっちの拷問がお望みか? なんなら、ここにいる俺の部下に今すぐあんたを好きにさせてもいいんだぜ?」

「母上があなたを産んだことを後悔するような所業はやめるのね」

 ばんと力任せに叩かれて、大皿が翻った。骨や食べかすが敷物の上に散った。

「気に食わねえな、ほんと!」

 立ち上がったアスプルゴスはすでに半分踵を返しかけていた。

「あなたが優柔不断なだけでしょ。私はわざわざあなたのところに来てあげたのよ」

 平淡に、ピュートドリスは彼を見上げて、追い込みをかけた。

「どうするの? ガイウスのために、私をほうっておくか、ティベリウス殺しを手伝ってくれる? それとも、ティベリウスのために、私を彼に差しだして、歓迎される代わりにガイウス・カエサルの不興を買う?」

「だから、ガイウスの命令なんだな?」

「そうは言わないってば。でも結果的に、そういう問題になるでしょ」

 ピュートドリスはアスプルゴスを説得することを考えていた。できるだろうか。ティベリウスとはこれほどの男なのだから、つまらない陰謀で死なせるなんて惜しい、と。だが深いため息をつかざるを得ない。結局 ピュートドリスがなにを言っても、彼を殺そうとした前科がある以上、いくらティベリウスを持ち上げたところで信用されない。

 それに、である。よしんばもしガイウス・カエサルが将来失脚したとする。彼にはまだ弟が二人いるのだ。ティベリウスに味方をして得があると思えるだろうか。

 やはりできるのは、時間稼ぎがせいぜいなのか。アスプルゴスたちがティベリウスの邪魔にならないように。最悪は、偽者一行とアスプルゴスが合流し、連中の手勢が増えることだ。あるいは、挟み撃ちにされることだ。

 自分がいちばん邪魔をしてきたかもしれない。そんな疑惑は棚に上げることにした。

「あああっ、もうっ! なんでこんな女連れてきた!」

 もう家臣たちの目もはばからず、アスプルゴスは文字通り地団太を踏んでいた。髪もまた掻きまわした。そこまでの悩みを与えたかと不思議にも思ったが、あくまで平然とピュートドリスは話し続けた。

「あなたが血眼になって探してくれたからでしょ。なんとまあ、ティベリウス御一行よりも先に」

「あんたがいれば、あんたがいればと思ったのに……!」

「なにが?」

「…とにかく」アスプルゴスはピュートドリスへ指を突き出した。「あんたが嘘をついているのはわかってる! 隠しているのもわかってる! 本当のことを言えよ!」

「だから、それが本当に重要なのかしらって聞いてるのよ。いずれあなたの選択肢は変わらないんだから」

「吐かせてやるからな、絶対!」

 まず自らで力いっぱい吐き捨ててから、アスプルゴスはピュートドリスへ背を向けた。豹皮のマントを羽織り、地面を踏み鳴らしてテントへ去っていく。

「本当のことを! 覚悟しておけよ!」







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