第二章 -4
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ピュートドリスははたとまぶたを開いた。視野を占めるのが濃紺の空であると認識するまで、しばらくかかった。目を閉じていた場合よりほんのわずかに明るいのは、星々のおかげか。それでもそれほど多く散らばって見えるわけではなかった。今夜は。
いつのまに夜闇を迎えていたのか皆目わからなかった。どこでどうして眠ることになったのか、まったく覚えもなかった。
左耳が、小さな呼吸をとらえた。顔を向けると、アントニアの可愛らしい寝顔があった。今夜もぐっすりと眠っていた。柔らかな草の上で。
体を起こすと、自身とティベリウスのマントが重ねて掛けられているのがわかった。アントニアもろとも。
もしもアントニアが三回ほど寝返りを打てば、そこからはゆるやかな斜面になった。転がると、地面に埋まっている石の並びに当たり、それでも止まらずに落ちたことだろう。
切り石に縁どられた、円形の泉だった。否、人口の水場だ。水流はビストニス湖から引いているのか、あるいは地下水を上げているのか。いずれその中からは、水草の一本も伸びている様子が窺えない。
縁石は銀色の輝きをまといながら、うっとりとまどろんでいるように見えた。まるで月の欠片をはめたようだと思ったら、確かにその真上で、猫の目の形をした白い月が悠然と座していた。
だがその縁石たちは、母なる月を恋しがって惚けているのではなかった。母が今そっと光を当てる人間の肉体を囲み、とろけてしまいそうに見えた。
古来、天上天下で最も美しいとされるものが、人の肉体である。だからこそ神々は、生身の人間では不可能なまでに美を極めた体躯で描かれるし、造られる。その極限に少しでも近づかんと、肉体美を競う人間は数知れずである。オリュンピアをはじめとする競技祭で男たちが裸になるのも、不正を防ぐためもあるとはいえ、結局は堂々と自らの肉体を誇りたいからであろう。神々がそれを喜ぶという名目もある。
もちろん、ピュートドリスも肉体美を愛する。美しいほうがすばらしいに決まっている。
しかし神々とは違い、人間の肉体美は有限である。だからこそ、その限りある華を人々は競おうとするのだろう。男も女も。
たぐいまれな運か、努力か、ひときわ長持ちする華もあろう。あるいはすぐに散る華もあろう。咲かずに終わる華もあろう。咲いても気づかれずに終わる華もあろう。
いったい己の有限な体を、存分に誇ったと思える人間がどれほどいるのだろう。はかなかった。あまりに。咲かず気づかれずの無念も痛ましく、誇った瞬間があるほどに大きい喪失も残酷である。
だから、人は他者に美を求めるのか。生まれては消えていく他者に、決して死なない神々に、美を求めるのか。
美がある瞬間の存在も、美を持たない存在も、美を求めてやまない存在も、神々は愛おしいと思ってくれるのだろうか。
ピュートドリスの見つめる先にある肉体は、すでに四十歳を越えていた。それを息が止まるほどに、吸い込まれていきそうなほどに美しく見せるのは、月明かりの助けだろうか。磨き上げた大理石さえもかなわぬような無垢の輝き。それは白銀で、光を浴びているというよりは、内側から静かに放たれているようだった。
彼はこちらに背を向けていた。腰より下は水に浸かっていた。それでも十分にわかった。そのくっきりとした、まっすぐの背筋、肩甲骨、腕の筋肉の線――そのまま本物の石と化したら、世界じゅうの人々がうっとりと見入ることだろう。
しかし次の瞬間には肉体であってくれと、ピュートドリスは思うのだ。夫二人はいずれも今の彼よりも年上だった。五十歳を過ぎていたのだ。しかしもっと若い肉体を見たことがないわけではない。けれどもたとえ今このとき傍らにヘラクレスが現れようと、ピュートドリスが世界で一番に求めるのは、あの肉体だった。
結局、卑小な人間は、美しか愛せないのか。女もまた、若い娘ばかり求める男と同様か。否、愛ではなく、欲望でしかないのか。神々ですらそうだ。ゼウスがまず筆頭ではないか。
私は彼のなにを愛したのだろう。彼のなにを知っているというのだろう。
なにをもって欲か。なにをもって愛か。
美しくなければ愛せないのか。しかし今どれほどさらに美しい存在があったとしても、求めるのはただ彼だけだった。
ピュートドリスは立ち上がった。アントニアの足をまたいで、水場に近づいた。円の中心から水が噴きあがっていて、ティベリウスはそこに頭を入れて髪を洗っていたのだが、すぐ気配に気づいたらしい。ゆっくりと首だけ振り向けてきた。例のじっとりとした目で。
ピュートドリスがキトンの留め金を外しながら縁石に近づくと、やはりにべもない「よせ」との声がかかった。ため息をついて、ピュートドリスはその場にしゃがみこんだ。本当に、まったくひどいったらなかった。普通は逆だ。それともなにか。
「私はどこかのニンフかしら。美男子の入浴を覗き見した挙句にさらおうとする。どう考えてもそんな柄じゃないでしょ、あなたが」
ティベリウスはなにも答えず、また頭を噴水に入れた。
「私だって汗を流したいんだけど。それも許してくれないの?」
頭を揉みながら、ティベリウスはまだ無視を続けた。
「喉も乾いたわ」
そう言うと、今度は無言のまま反応があった。彫刻の美男よりたくましい右腕が伸びて、その真横を差した。そこには石造りの臥台があり、豊満な女体像が横たわっていた。その乳房からは、絶えず水が吹き出していた。
飲料用と言いたいわけだろうが、この場所を造った人々はなにを考えていたのだろう。透明な乳は、円形の水場と合流し、細い水路へ入って海のほうへ向かっていく様子だった。
ピュートドリスはまたため息をついた。切実に喉の渇きを感じていたわけではなかった。肌がべたつく感じがあるのは事実だが、顔と腕だけはやけにさらりとして、清潔になっていた。眠ったか倒れたかした後、アントニアでなければ目の前の男が拭いてくれたに違いなかった。
ティベリウスは髪を洗い続けていた。ローマの貴族であれば、普段は奴隷にさせている仕事かもしれない。厭う様子もないその背筋の見事な曲線を、ピュートドリスは見て、それから横臥する石像をにらんだ。なんにせよ、この女はここまで好き放題に覗き見してきたのだ。うらやまざるをえないではないか。どうせ触れることができないのならば、石像のほうがまだましだろう。
ピュートドリスは草の上に膝を抱え込んで座った。傍らには、ティベリウスが脱いだトゥニカが、無造作にではあるが、畳まれていた。長剣のほうはアントニアの横に置かれていたが、短剣は噴水の上に置かれているのが見えた。
「明日には国境まで行けそうね」
しかたなく、色気もなにもない現状の話をはじめた。
「連中、やっぱりローマ街道沿いを進んだみたいね。ディカイアにもイスマリスの街にも立ち寄った様子がなかったわ」
キュプセラから、ピュートドリスたちは昔ながらのギリシア系都市が点在する海岸線を進んできた。一方、偽者一行はそれよりも内陸の、ローマ街道を行進したようだった。当然、きちんと整備されて道に迷う心配もなく、その気になれば海岸線沿いの都市から補給を得ることもできる。ただ、人通りは多いので、偽者であることを知られたくないなら、海岸線を歩いたほうが良さそうなものだった。噂の広がりは早いだろうが。
トラキアを横断するそのローマ街道は、ひたすら西へ歩けばテッサロニケイアに達する。つまりはエグナティア街道とつながっている。
「思ったとおり、連中、あなたがローマ街道を驀進して、そのまま首都まで行ってしまうのを恐れたのね。『父さん、母さん、助けて! 悪い連中がぼくを陥れようとしているんだ』って、あっさりローマに帰ってしまわれたら台無しだものね」
つまり、見張りだった。陰謀の成就まで、連中はできるだけティベリウスの動向を監視していたいに違いなかったが、殊にローマ街道を歩かれるのは警戒する必要があった。本物が彼らを追い越し、無事首都に帰り着きさえすれば、あとは破綻するしかない。人質ですら、連中も簡単に殺せなくなるかもしれない。相手が一私人ではなく国家ローマとなれば。
無論のこと、当人にその気があればだが。
ティベリウスは案の定、答えるのも馬鹿馬鹿しいとばかりに応じてこなかった。せっかく話題を変えてあげてもこれである。継父と母に泣きつくなど、ありえない。
あるいは、できない。
「そうすればいいのに。でも、もう帰りたければいつでも帰れるなんて状況じゃないんでしょ。カエサル・アウグストゥスがあなたを許していないから」
ティベリウスは噴水から頭を上げたが、なんの反応も寄越さなかった。否定できないのだ。エライウッサの宮殿で、ピュートドリスは聞いていた。自主的に引退してきたはずが、今では流罪人呼ばわりされていた。故郷であるのに、なんの罪を宣告されたわけでもないのに、自由に、自らの意思のみで帰ることはもうできないのだ。そして二度と故郷を見ることがないという、最悪の事態さえありえそうだった。
ピュートドリスは首を大きく傾げた。濡れた髪を貼りつけ、水滴の伝う頬を少しでも見たいと思った。
「それでもやろうと思えばできなくはないでしょうに。無理矢理ブリンディジに乗り入れて、首都に迫って。途中で取り押さえられたってかまいやしないでしょ。あなたが本物で、謀反は濡れ衣であることが証明できればいいわけだから」
上手くいかなかった。がくんと頭を下げた。
「まあ、そんなあなた見たくないけど。でも連中はそんなあなたも考慮しているから、街道を押さえて、おかげで私たちは今こうしてとりあえずでものんびりあとを追いかけることができているけど。それにしても連中、今ごろどの辺りにいるのかしら。探していると思ったのに、ここまで気配も感じなかったわね。やっぱりよもや女と子ども連れとは思わないからよね。ちょっとでいいから、ありがたがって」
ささやかな要求には、ため息だけが返ってきた。ティベリウスは髪を絞って水を抜いていた。
「私の予想だとね」
めげるどころか、その上げられた両腕と肩の線にいちだんと見惚れながら、ピュートドリスは話し続けた。
「連中はフィリッピの野に入るわよ。ローマ街道の近くだし、そばにフィリッポイ市もあるし。なにより絶好の場所でしょ。あなたとセレネ叔母様を印象づけるのに」
「だろうな」
ようやく、ティベリウスは言葉を返してきた。他人事のように、平淡に。
すでに彼も想定しているように、連中は必ずフィリッピの野へ行くだろう。そこでキュプセラのときよりも盛大に宴を張るだろう。そして偽ティベリウスとセレネ叔母を並べ、大声で言わせるだろう。「偉大な将軍アントニウスに敬意を! かの将軍が、その先祖たるヘラクレスが、守護神ディオニッソスが、そしてこの大王アレクサンドロスの後裔たる姫君が、我を祝福してくれますように!」
こうなればもう陰謀は本格的に走りだし、もう止められなくなろう。名目は完璧だ。ティベリウス・ネロが、アントニウスとクレオパトラの娘を抱いて、カエサルによるローマの始まりと言える場所で、幸運を願う。耳目を集めないわけがなく、憶測を呼ばないわけもない。そして憶測ではなく、本当の反旗に仕上げようとしているのだ。
そうなる前に、ティベリウスは連中を止めなければと考えているはずだ。だが一方、連中も連中で、その止めにきたティベリウスを始末して、陰謀を成就せんと目論んでいるはずだ。
勝負は、テッサロニケイアより前に決するかもしれなかった。
「間に合いそうなの?」
ピュートドリスは訊いてみた。いずれなんの策があるにせよ、ピュートドリス母子を連れ、出遅れてしまっているだろうと思った。するとティベリウスは、いともあっさりと横顔を向けてきた。足も引き、体も半分まわした。
「カルテラ」
と、その薄い唇は動いた。ピュートドリスはその名に覚えがあった。ビストニス湖の北にある、要害の地だ。
「昨日、そこを出発したそうだ」
水滴の伝い落ちる首筋、胸元。ごくりと唾を飲んでから、ピュートドリスはなんとか声を出した。
「どこで聞いたの?」
「ディカイアで。湖から船が下ってきていた」
「そう…」
とすれば、追いつけなくはないのか。急げば。
しかし今の状況では近づきすぎるのも問題だった。逆に捕らえられるのが関の山だ。だからこの海岸線をゆっくりと進みながら、ひそかに追跡してきたのだ。
結局どうしても必要なのは、数と策だ。
それと、近づきたいものは別にある。
「カルテラは、トラキア王家の屋敷があるところでしょ。突然の来客、しかもそれがティベリウス・ネロだなんて、困ったことでしょうね。ロイメタルケスはリュシマケイアの王宮にいたけれど、家族のだれかがいるかもしれないのに。しかもあんな下品な連中ばかりじゃ……」
ピュートドリスは首を振ったが、目はティベリウスの肉体から一瞬も離す気になれなかった。
「まあ…事が終わったら、ロイメタルケスには私からも説明しておくわ。心配しないで」
「事が終わったら」
いかにも不審に満ちた顔つきで、ティベリウスはくり返した。それは月光下の白銀の美を、ほんの少しだけ損なったかもしれないが、それでもさらに振り向けられた胸を見て、ピュートドリスは思わず身を乗り出していた。
「ああ、言ってなかった? アントニアと王子を婚約させているのよ」
「事が終わったら」
ティベリウスはもう一度、語気を強めて言った。
「あなたはどのように事が終わればいいと思っているのか?」
ピュートドリスは固まった。ついに真正面をティベリウスが向いたが、その胸部も、鎖骨も、腹筋も、この瞬間は忘れた。厳しいまなざし以外、なにも目に入らなかった。
「あなたは私を殺しに来た。それが今は、当たり前のようについてくる。自分と娘をいたずらに危険にさらしながら。一体なにがしたいのか?」
ピュートドリスは口を開けた。ぱくぱくと動かしたが、どんな言葉も続かなかった。
ティベリウスはいつまでも待たなかった。
「なにも考えていないのではないか? 私のことも自分自身のことも、どうでもいいと思っているのではないか?」
「ち――」
違うと言いたかった。だがどうしてか、声さえ出ない。
ティベリウスの目線は、ピュートドリスを磔にするかのように、容赦なかった。
「言ってみるがいい」要求は、ひどく冷酷に響いた。「あなたはなにがしたいのか? あなたの望みはなんだ?」
我知らず、ピュートドリスは震え出していた。目を逸らしたいと望んだが、どうにもならない。なにかを言うまで、少しでも逃れられそうにない。
「……あなたが、欲しくて――」
「たわ事はもういい。言ってみろ。なにが望みか?」
ピュートドリスは沈黙した。そうしたくはまったくなかったが、そうせざるをえなかった。
ティベリウスはピュートドリスを注視していた。今度は執拗なまでに待っていた。
ピュートドリスは見つめ返すしかなかった。おびえて体をすくませながら。喉も胸も詰まらせながら。
とうとうティベリウスがその仮借ない目を閉じたのは、このままピュートドリスが死んでしまうと見て取ったからかもしれなかった。彼は鼻を鳴らしたようだった。それからまたピュートドリスに背を向け、今度はゆっくりと、肩まで水に浸かっていった。
「それすらも話せない相手に、いつまでつき合えと?」
水面に浮かぶ白い月。それを相手にこぼした愚痴のようだった。とたんにピュートドリスは体じゅうの緊張が解けていくのを感じた。捨てられた氷菓のように、みるみる形を失くしてしまいそうだった。崩れ落ちそうな頭を、右手で支えねばならなかった。
「残酷な人」
ピュートドリスは笑っていた。それはいつもの強気も熱も消えて、泣き顔のようだった。それでも涙の一粒も零れなかったのは、あまりに奥まで引っ込んでしまったからだろう。
「たまに聞こえてくるあなたの悪評も、あながち間違いじゃなかったのね」
ゆるんだ笑い声で言っていた。頭を抱え、くしゃくしゃな顔をしていた。それでも腹に張って震えるような痛みを覚えた。おかしいことに違いはないのだ。
「でも決めつけなくたっていいじゃない。そんな頭の空っぽな女みたいに」
抗議にもならない、弱りきった声。まったく自分らしくもないと思った。それでも、言い返した。どうしようもなく締まりのない笑い顔で、無情の後ろ頭へ。
「そうだとしても、なにも考えていないのがそんなに悪いこと?」
「それが一国の女王で、母親の言葉か」
切り捨てるような、詰責。
「なに者でもないあなたが、非難するの?」
もう、おかしくてたまらない。
「大国の第二位の立場を捨てた人が。全責任を継父一人に押しつけて、家出した人が」
肩がかすかに引きつったように見えた。彼には見えていなかったが、ピュートドリスはこれまでに見せたことのない柔らかい笑顔になっていた。
「もうあなたはティベリウス・ネロでさえなくていいのよ。なぜなら湖の向こうで、盛大にそう名乗っている人がいるんだもの」
腕を上げ、漠然と北を差してさえやる。
「あなたこそなにを考えていたのよ。なにも考えたくないって、一度でも思ったことがないわけがあるの?」
ゆっくりと、ティベリウスは振り向いてきた。まなざしに、もう磔にするような厳しさはなかった。ただじっと、深い色を湛えて見つめてきた。ピュートドリスはくしゃくしゃと笑い続けていた。
「どうにでもなれと思ったことがないの? 自分のことも、大事な人のことも」
腹が痛かった。どうして涙が出てこないのだろうと思った。こんなに滑稽ならば、涙があふれてもおかしくないはずだ。
笑えばいいのだ。笑うしかないではないか。自分がわからない自分も、他人がわからない自分も。
確かなのは今相対している存在、それへの思いだけだ。ほかはもうなにもない。なくなってしまったのだ。あったはずのものが、どこかへ行ってしまったのだ。
涙の一粒でも流して、どうしてわかってもらおうとしないのだろう。
「ねえ、逃げましょうか? どこか遠くの土地へ。私たち三人で」
「それが、あなたの望みか?」
問う声に、ゆらぎはなかった。まなざしも真摯そのものだった。
ピュートドリスは笑みを大きくした。顎を上げて、口の端を強く引いて、目を見えなくなるほど細めて。筋肉が痛み、痙攣をはじめてもそのまま固まっていた。
夢に見たことがないわけもなかった。ほかになにもいらないと思った。二十年間ずっとあこがれていた。
愛している。その思いは、今この時もまったく変わっていない。
変わっていなかった――。
老婆のようにしわくちゃで、それでも青銅のように頑なな笑みのまま、ピュートドリスはしだいにうなだれていった。膝のあいだに頭をうずめ、動かなくなった。
縁石を越えた水が、足指をくすぐった。
「ポントス女王ピュートドリスは――」
ゆらがぬ声は、先程より近くから聞こえた。
「真面目な統治者とされていた。二十歳の若さで王妃になって以来、年の半分にもなる夫の留守を、一人で守り続けた。毎年、領土の視察を欠かさず、しばし我が子らを市井の子らと遊ばせながら、自らは国民の声を聴いて歩き、学識者から意見を請い、可能なだけ裁判に同席した。治安の維持に熱心で、暴漢・野盗の類は厳しく取り締まった。日照りや洪水等の災害への対処は迅速で、適確だった。そのひたむきさはカッパドキアの王妃になっても変わらず、中でも貧しい婦女子への援助は惜しまなかった。仕事のできなくなった娼婦を学ばせ、新しい暮らしの術を与えた。災害や夫の戦争で寡婦や孤児となった者を、宮中に召し抱えた。王族にとって贅沢は仕事とされているが、とくに自身がカッパドキアに嫁いで後は、自らが国を留守にするあいだの余剰の富という名目で、それを貧しい者に与えた。すべて上手くいったわけではないだろうが、近隣王侯との会談を欠かさず、ローマへの礼も尽くし、少なくとも在位の間、一度も国内で戦争をさせなかった。
ローマへの息子の留学だけ回避し続けているのは、母の情か、子らの仲違いを防ぐためか、それとも少なからず親パルティアの家臣もいる周囲への配慮か。いずれにせよ、これまで、女の身であり、正統とされる王族の血も一滴も引かないが、夫亡き後も当然のごとく統治を引き継ぐことができるほどに、国民に認められていた」
ピュートドリスは茫然と聞いていた。のろのろと顔を上げると、肩から剣帯だけを下げた神像にもまがう男が、手を伸ばせば届くところにいた。けれどもその気力を奮い起こすことさえできない。ピュートドリスは苦笑を続けるしかなかった。なによ、と。六年間一度も挨拶に出向かなかった女王について、抜からず調べてはいたとでも。
「御大層な噂話ですこと」
厳しさのやわらいだその真面目な目を、笑い飛ばしてやりたかった。憎たらしいとさえ思った。
「で、どうなの? 実物を見た感想は?」
ティベリウスはまばたきもせず見つめてくるばかりだった。
「信じられないのだっけ? 本当に女王で、王妃か。あなたの言葉を聞いたあとじゃ、私も信じられなくなってきたわ」
ピュートドリスは見つめ返した。笑みにしだいに力が戻っていった。にやりと口角をあげ、目にも小さいながら情熱の光をまた灯していた。
「だれよ、その人。どこにいるの…?」
もう一度挑んでやろうと思った。目の前の超然とした美しい男へ。彼は知りもしないだろうが、これまでだってずっとそうしてきた。そして今は、もう一人芝居ではないのだ。
きっとこれからだって、そうするだろう。
「私も、偽者かもしれないわよ」
ピュートドリスは不敵に笑っていた。
女王でなくとも、王妃でなくとも、意地はある。だれの意地かはわからない。女の意地か。女とはなんだろう。女であることを終えたなどとどこかの下衆が言っていたが、男に欲の対象と見られなければ、もう女ですらないのか。
では、私は一体なに者か。
世の命のすべてが、なに者なのか。
負けたくなかった。優らなくとも。目の前の男のそれとは比べられなくとも。意地がある。誇りがある。愛がある。
根底がわからなくなったはずなのに、そればかりあるのだ。形もないのに。今日までどれほど長く続いたとしても、明日には失くすかもしれないはかなさ。そうであってもおかしくないのに。
けれども、世界のだれにも譲りたくなかった。
波紋が、また足指を浸した。一歩、二歩とティベリウスが水中を進んで、本当に目と鼻の先に来た。
心臓が、左胸を突き破ったと思った。まったく呆れたことに、つい一瞬前の意地もなにも吹き飛ぶほど、頭が真っ白になった。頬に大きな手が当てられると、とたんに体が沸騰したように熱くなった。
ああ、わからない。もうわけがわからない。この数日間、散々誘惑にもならない誘惑をした。恥を恥とも思わず迫った。それがなんだ。今、ほんの少しばかり触れられただけで、十三歳の少女に逆戻りだ。
まったく、私とは一体なんなのだろう……。
目尻に、彼の親指が沿う。濡れていて、決して熱くはないはずなのに、肌がひとりでに火傷していくようだ。それでももう微動だにできない。
「ピュートドリス」
青の双眸は思いのほか大きい。のみ込まれそうだ。色の見えない唇がかすかに動く。
「あなたの望みは――」
ふいに、茂みがさざめいた。石像の後ろだ。二人は同時にはっとなった。立ち上がるより早くピュートドリスは身を翻し、斜面を飛び、アントニアの上に伏した。ティベリウスもまた水場から飛び出し、短剣を抜き放っていた。
風の仕業にしては一瞬で部分的だった。獣にしても、ウサギや鳥の類より気配が大きかった。
ピュートドリスはティベリウスのグラディウス剣を抜いていた。決して大振りではないので、女でも振りまわせなくはない。しかし片手で持つにはやや肉厚だ。それでもそれを構えながら、斜面のさらに上で木々につないである馬を見やる。
馬たちに動揺は見られなかった。穏やかに草を食んでいた。ティベリウスもそれを確認したのだろう。ピュートドリス母子をもう一度一瞥してから、独り茂みへ近づいていった。
ピュートドリスは少しも油断しなかった。茂みをゆらし、ティベリウスが暗がりに消えた後は、なおさら辺りに気を張り詰めた。
「…お母様、どうしたの?」
「大丈夫よ。じっとしていなさい」
不服そうに目をこするアントニアを脇に抱えて、ピュートドリスはひざまずいていた。剣先を地面につけ、いつでも振りまわせるようにして。ティベリウスの姿が見えるのを早く早くと祈っていた。
彼は長くは待たせなかった。争う気配は一切なかった。少しばかり茂みをきしらせながら、落ち着いた様子で月光の下に戻ってきた。ピュートドリスは安堵の息をついた。
「…だれかいたの?」
「ああ」と返事をしながら、ティベリウスは肩越しに後ろを指差した。「逃げていった。二人」
「それだけ?」
「おそらく」
短剣を地面に突き立て、ティベリウスは手早くトゥニカを着た。
「ここを離れる」
もちろんだった。アントニアの手を引き、ピュートドリスは立ち上がった。ティベリウスが来ると、グラディウス剣もろとも彼に差しだした。
「万一敵に迫られたら、あなたが食い止めている隙に、私とアントニアの馬が逃げるか、それともあなたにアントニアを任せて、私が囮になるか。私は後者のほうが安全だと思うのよ。どっちにせよ、私にこの剣は上手く使えないわ」
ティベリウスはなにも言わずに受け取った。グラディウス剣もアントニアも。どうして自分が食い止めるないし子守りをするのかと、文句も言わなかった。先に馬にまたがり、ピュートドリスの手伝いでアントニアを皮紐で固定し、後ろに乗せた。それから手元から離さなかった短剣を、ピュートドリスに差し出した。
「めったなことには使うな」
そう言い置いて。
ピュートドリスの笑みが固かったのは、まだ緊張をゆるめられずにいたためだ。
「またあなたを殺しにかかるとか?」
「自分自身にもだ。逃げられる見通しのある時以外、抜くな」
ピュートドリスがまじまじと見上げると、ティベリウスは早く馬に乗るように急かしてきた。それで木の幹に脚をつき、自分の馬に上った。ティベリウスの腕が支えてきた。お互いに普段なら、台なり奴隷の背中なりを使って騎乗する身分だった。
「大事なものみたいね」
剣帯を下げながら、ピュートドリスは指摘した。女神をかたどったその珍しい柄は、握れば不思議としっくりなじんだ。
「次の街に着いたら、私にも剣を買って頂戴」
結局、自前の細身の長剣も短剣も、キュプセラの森で失くしたままだった。よくもまあ、今まで武器も持たずにのんきに歩いていたものと思った。やはり浮かれていたのだろう。夢の世界にいたのだろう。愛する男と旅をして。
身を守る必要も感じないほど幸福だった。安心していた。しかももう殺す意志すら忘れていたのだ。
では、今はどうだろう。夢の終わりはもはやすぐか。
二騎は平原に出た。見渡すかぎり、自分たちのほか辺りに動くものはなかった。だが遮るものがないということは、かえって自分たちが見つけられやすくなることを意味する。夜の帳の下、無垢な月光が残酷なまでに影を浮かび上がらせる。しかもその影は動いている。叔母の名でもある女神で、先程まではこの世のものとは思えぬ完璧な均整の肉体を際立たせてくれたのだが、今となっては恨めしかった。ピュートドリスはティベリウスに続いて馬を駆った。次の木立を一目散に目指した。
「偽者軍団にとうとう見つかってしまったということかしら?」
歩度をゆるめないまま、ピュートドリスはティベリウスに声をかけた。
「私とあなたのどちらに気づいたのかしら? それとも両方?」
「それにしては、逃げる方向が妙だ」
一瞬だけ振り返り、ティベリウスはつぶやくように言った。
確かに、ピュートドリスも気づいていた。ティベリウスが確認した二人組は、ディカイアのほう、つまり東へ逃げていった。偽者軍団が昨日カルテラを出発したのが本当であるなら、知らせに戻るべきは北か、あるいは西だ。
すでにビストニス湖にでも、それなりの人数の追跡隊を控えさせているのだろうか。ティベリウスがのこのこやってくるのを待たずとも捕まえて、あるいは始末したうえで、連れ歩いてもいいのだ。遺体の「鮮度」にこだわらなければ。
否、あるいは――。
ティベリウスよりも長く、ピュートドリスは背後に首を向けていた。それから視線を左に移した。
海は、月が居座る空よりも濃い闇となっていた。昼間の鮮烈な青の裏にある、もう一つの姿だ。底の知れない暗黒からは一度落ちたら這い上がれそうもなかった。
ピュートドリスは我知らず身震いしていた。もしやと思った影が、都合よく浮かんでいるのを確認できるわけもなかった。
視線をティベリウスの後頭部へ戻した。裸体であったことさておくとして、彼はその二人組を追いかけようと思えばできた。捕まえて尋問し、どこのだれだか吐かせることもできた。夜中に街の外で、麗しき女王のではなく、四十歳過ぎの男の水浴を覗きに来ただけの物好きである可能性はまずないだろう。
彼がそれを試みなかったのは、結局ピュートドリス母子を残しておけないと考えたからだろう。
その後ろ姿へ向けてそっと、ピュートドリスは肩をすくめていた。あなたこそ、本当のところなにを望んでいるの、と。