第二章 -3
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イスマリス湖の次には、さらに大きなビストニス湖が待っている。その昔、ヘラクレスが海水を引き入れて造り上げたとの言い伝えで知られる。
ビストニス湖の南端には、ディカイアという昔ながらの都市がある。ヘラクレスが掘ったとされる浜は現在ふさがり、湖と海を隔てる地峡となっている。海側では、この地峡も湾の一部となり、荒波から上手い具合に守られた港が出来上がっている。
三人はこの港湾の市に入ったが、まだ宿を求めるには早い時間だった。地元自警団の詰所を見つけ、ピュートドリスは単身乗り込んでいった。出てきたときには練習用の木剣を二本携えていた。
詰所そばの井戸で、ティベリウスは馬に水を飲ませていた。アントニアは彼にまとわりつきながら、水汲みに来る市民や奴隷に、うれしそうに話しかけていた。
「かっこいいでしょ? 私のお父様なのよ」
二人を連れて、ピュートドリスはいったん市の外に出た。目立つだろうと思ったからだ。適当な草原まで歩き、ティベリウスに木剣を一本渡した。しばらく馬に乗るばかりだったので、悪くない運動にもなると思った。それから手持ちの袋の一つから皮紐を抜き、右手のひらに剣の柄を乗せて、ぐるぐる巻いた。結びをティベリウスに手伝うよう求めた。アントニアは十分に距離を取ったところで待たせるが、万一にも飛ばされた剣が当たることは避けたかった。
二度ほどまばたきをしてから、ティベリウスは求められたとおりにした。それから意外にも自分も皮紐を用意して、同じようにした。アントニアに結ばせた。今度はピュートドリスのほうがまばたきをした。この人は私にしてやられる可能性があると思っているのかしら。
そうではなく、配慮だったのだろう。母親への。ここに至るまでしぶっていたティベリウスだったが、とうとう右手に剣の柄を結わえつけ、ピュートドリスと向き合った。
ピュートドリスは木剣を構えた。
「良い運動でしょ?」
「人を殺すための練習が?」
ティベリウスは首を振った。
「古来より、どうして剣の競技祭がないか考えたことはあるか? 明らかに戦争のための技術だからだ」
「槍や弓はあるでしょ」
「それらは動物を狩るための技術だった。それに獲物がいなくとも競える」
「拳闘の類は?」
「取り返しのつかない事態になる前にやめられる」
「戦車競走は?」
「相手を害する必要がない」
「しょっちゅう、車をぶつけてひっくり返ったり、走りながら鞭で叩き合ったりする人たちを見かけるけどね」
と、ピュートドリスは苦笑する。
「つまりあなた、戦いたくない人なのね。優しくて素敵だけれど、甘いという人もいるでしょうよ、ローマ一の将軍さん。どうして自分や他人を守る技とは言わないの?」
「やることは同じだ」それこそ斬るように言ってから、ティベリウスはピュートドリスを見つめた。「自分のやっていることをわきまえておくべきだと言っているんだ。日頃の運動や、まして娯楽と同じ意識で敵に挑む人間こそ甘いし、軽率だ。ましてあなたは女だ。わざわざ剣を持つ必要はないし、軽い気持ちで戦場に出ては痛い目を見るだけではすまない」
「身を守る必要はあるでしょ」
ピュートドリスが片眉を上げると、ティベリウスは短くまた首を振った。目を逸らさないまま。
「その状況に身を置かないことが最善だ。それでもどうしても必要と思うなら、それは好きにすればいい。やっていることがわかっているなら。ところで、自ら相手に斬り込んで乱戦を招いたのはだれだったか」
「ねえ、私をだれだと思っているの。これでも一国の女王よ?」
「クレオパトラもそうだった。自ら剣を取ったわけではないが、戦場で指揮を執ろうとしたな」
「女は戦場に出るな。遊びじゃないんだからってこと?」
「好き好んで、単にやってみたいから、そういう意識ならばやめておけということだ」
「世の男どもだって、全員が全員国家への義務と献身から戦いに行くわけじゃないでしょ。少なからずいるでしょ。力を誇りたいから、戦いたいから戦士になる輩が」
「そうだ。だからわざわざ女までやる必要はない」
話しながら、ティベリウスはまだ構える様子もなかった。ピュートドリスはいったん剣を下ろし、鼻から大きく息を吐いた。
「祖父アントニウスが私の祖母の次に結婚した人は、自ら甲冑をまとって戦場に出たそうよ。フルヴィアという人なんだけど」
するとティベリウスの顔に、一瞬だが濃い苦みが差したように見えた。なにか縁のある人だったか。ユルス・アントニウス叔父の母親だが。
ひゅっと音を立て、ピュートドリスは剣を横に払った。肩幅に足を広げ、右足をわずかに下げて立つ。
「あなたがなんと言おうと、私は剣術が好きなのよ」
見つめ返し、意識を相手にだけ注いでいく。
「なぜかはわからないけど、ほかのなにをするより落ち着くの。人の肉を斬りたいわけじゃないわ。あなたには遊びでしょうけど、木剣でかまわないの。相手がいればそれはそれで面白いけれど、目に見えなくたっていいのよ。独りで素振りをするわ。剣を振るっていると、ごちゃごちゃした考えがまとまるのよ。集中できて、考え事をするのにも、気持ちを晴らすのにもいい。終わったあとは心も体もすっきりする」
声は、これまで眼前の男に接した中で最も低く、落ち着き払っていたかもしれなかった。それからやや調子をゆるめ、小さく肩をすくめる。
「本当に、どうして剣術の競技祭がないのかしら。ちゃんと防具をまとって、木剣や刃を丸めたものでも使えば、精神を磨くすばらしい競技になると思うけど。私が規則を決めて、始めたらいいかしら」
ティベリウスはそれ以上なにも言わなかった。それでも素人のたわ言と軽蔑する色は見えなかった。無表情とともにある瞳は、むしろ真摯で、なにかを見定めているようでもあった。
どちらからともなく剣を構え、どちらからともなく踏み込んでいた。
てっきり、ピュートドリスは思っていた。あっというまに返り討ちにされると。男との実力差を見せつけてくると。女風情が二度と剣を握ろうという気を起こさなくなるほど、完膚なきまでに叩き伏せてくると。
ところがティベリウスは、長いことピュートドリスと打ち合いを続けた。
もしかしたら彼は、練習にせよ女と手合せなどしたことがなかったのかもしれない。第一級の将軍の立場からすれば、侮辱に感じてもおかしくない。
それでもティベリウスは、くり出されるピュートドリスの攻撃を受け止め続けた。適度に反撃もして、ピュートドリスがかわしきれないときは、寸前で止め、すぐに下がった。紛れもない手加減ではあったが、それは相手を傷つけるよりもはるかに難しいことだ。ティベリウスは決して油断していなかった。ピュートドリスを推し量り、その能力に自らを合わせていた。
ピュートドリスは夢中になった。ティベリウスは直接ピュートドリスの肌を打たないように注意していたが、剣が重なれば、力強く押し返してきた。ピュートドリスは何度も地面に転がった。立ち上がるまで、ティベリウスは待っていた。
汗にまみれ、土埃にまみれ、体じゅう草葉だらけになりながら、ピュートドリスはまた立ち向かっていった。どの一撃も受け止められた。また払われて、地面に転がされ、それでもまた無心で立ち上がった。息を切らせていることは忘れていた。
何十回もくり返していた。眼前の男以外、すべてが見えもせず、考えもできなくなるまで。挑み続ける相手はだれなのか、もう判然としない。それでもその影は、ピュートドリスの全力を止めてゆらがなかった。ただ一度、ピュートドリスは空を突き破るような大声を上げた。憤怒か、悲嘆か、それとも歓喜かわからなかった。頭の中はとっくに真っ白だ。次の一撃もまた、動揺の気配もない影によってまともに受けられた。
何度目か、ピュートドリスは顔をぬぐった。額から頬に貼りつく髪の房を引き抜かんばかりに払った。目には汗が染み込み、口の中は土の味がした。膝に手をつき、ゆっくりと伸ばした。腰まではなんとか踏ん張った。だが上半身が、どうしても上がろうとしなかった。
地面をにらむばかりだった。右手はもう剣の柄をにぎることができていなかったが、それでも地面に突き立てて、支えとするほかなかった。皮紐からしぼりだされるように血が滲み、木目を伝い落ちていった。左手は膝頭から離れようとせず、どんな意思もなくただ震えていた。
ピュートドリスはぎゅっと目を閉じた。歯を食いしばり、それで一気に上体を起こそうとしたが、結局上手くいかなかった。頭があまりにも重かった。視界がぐらりとゆらぎ、明滅した。気がつくと、ティベリウスの腕に抱え込まれていた。
「宿を取る」
彼は言い、右手の皮紐を口でくわえて解いた。木剣を腰のベルトに差すと、アントニアを呼んだ。
ここに至ってピュートドリスはようやく意識を世界のほかの存在に向けることができた。ああ、もう、なにをやっていたの、と。目を離した隙に、アントニアがいなくなっていたらどうするつもりだったのか。
母親が夢中になるあいだ、ティベリウスは娘にも注意を向けてくれていたのだろうか。とにかく右手をアントニアとつなぎ、左腕でピュートドリスを抱え、ティベリウスはディカイアの街へ戻っていった。息は乱れていなかったが、さすがに汗は滲ませていた。ピュートドリスはしばしその立ち上る熱と匂いにうずまり、もうしばし母親の役目を忘れることにした。
ピュートドリスとアントニアを水場へ置いて、ティベリウスは詰所へ木剣を返しにいった。そのまま宿探しをはじめているのかもしれなかった。
ピュートドリスは水桶に顔を突っ込んだ。冷たさが頭全体に行き渡り、熱を奪い去るのを待った。アントニアはピュートドリスの右手の傷を洗ってくれた。
薬草を買ってくると言う娘に、ピュートドリスは接吻をして、大丈夫だと話した。それからしばし石塀に腰かけ、日の沈みかける時間のひんやりとした風に身を預けた。
潮の香りがした。いまだしつこく額に貼りつく髪をかき上げながら、ピュートドリスはふと港を眺めた。
太陽の沈みゆく西へ、湾口は開いていた。彼方のそこから、帆を畳みながら船が近づいてきた。
赤みを帯びた陽光にくらませられつつも、確認できた。その船縁の幕に、ピュートドリスは見覚えがあった。まずほかの船はほとんど飾り気もないから、紅紫色でなくても目立つのだ。
「アントニア、おじちゃまを呼んできなさい」
湾口を見据えたまま、ピュートドリスは口を開いた。件の船は、おそらく銀色であろう櫂を慎重に動かしていた。
「宿は取らなくていいからって。ここで時間を使うよりも、先を急ぎましょうって」