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ピュートドリスとティベリウス  作者: 東道安利
第一章 初恋の人
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第一章 -18



18



「それで、あなた、これからどうするつもりなの?」

 ようやく夕日に染まりはじめた空の下、ピュートドリスは馬上の人となっていた。ティベリウスはといえばその下で、あちこちへこんだ兜を小脇に抱え、手綱を引いて歩いていた。なぜこのようになったと、その背中だけで声高に訴えているように見えなくもなかったが、ピュートドリスは気づかないふりをした。

 これは彼の馬だった。森の中に隠していたものだ。賊に奪われた四頭には及ばないのかもしれないが、良い馬だ。乗っていて、とても安心感を覚える。ありふれた鹿毛に見えて、その毛並みにも肉づきにも気高さを宿している。だれに仕えているのか、よく知っているようだ。そこらの奴隷よりかよほど素直で忍耐強く、献身的な、ティベリウスのただ一人の従者。

 ピュートドリスの愛馬のほうは見つからなかった。おそらく連中に奪われたのだろう。落胆したが、どうしようもなかった。取り返せるだろうか。

 ティベリウスが結局ピュートドリスに耐える選択をしたのは、アントニアの話を出したからであるようだ。連中がまだ我々を探しているであろうから大声を出すなと、ティベリウスはつきまとう暗殺者に注意した。それでようやく思い至ったのだ。

「アントニア!」

 ピュートドリスは森じゅうが跳び上がるような声を上げた。

「私のアントニアが捕まってしまうわ!」

 ティベリウスが事情を把握するのにしばらくかかった。彼はピュートドリスが子連れで暗殺に来たという事実をなかなか信じようとしなかったのだ。

「落ち着け!」

 ティベリウスはとうとうその手でピュートドリスの口を塞ぎにかかった。

「連中のだれ一人、あなたがキュプセラに娘を預けていることを知らない」

「デュナミスがいるわ!」

 ピュートドリスは彼の手から逃れようともがいた。

「アントニアと二人でいるところを見られたわ! あの婆が連中に教えるに違いないわ!」

「デュナミスがわざわざそんなことする理由はない」

「あの婆は私の敵よ! 私を陥れるためならなんでもやりかねないわ!」

「あなたはデュナミスに偏見を持ちすぎだ。それにもし仮にそうしたとしても、キュプセラのどの家に預けられているかまでわかるはずなかろう」

「ティベリウス・ネロを暗殺しかけた女王の娘をかくまっている家はどこだって、片っ端から聞いてまわればいいのよ!」

「とにかく少し冷静になれ!」

 やっとのことで、ティベリウスはピュートドリスを黙らせることに成功した。片腕で、その両腕もろとも抱きしめ、残る一方の腕を口元へまわしたのだ。

「キュプセラに着くまで騒ぐな。ここで連中に見つかったら元も子もない。道々、あなたが娘を預けた友人はどれほどの信頼に値するか、よく考えてみろ」

 それで、ピュートドリスは冷静になった。少なくともアントニアへの脅威に関しては。けれどもたちまち別の理由で頭が沸騰した。

 皮の胸当てが邪魔だった。もっと言えば、その下のトゥニカも邪魔だった。

 馬上のピュートドリスは上体を傾けた。腕を伸ばし、拳でティベリウスの背中を小突いた。

「ねえ、どうするつもりなのよ?」

「あなたには関係ない」

 ようやく振り向けてきたその顔は、やはりうんざりしていた。

「関係あるわよ。私以外のだれかにあなたを殺させるわけにいかないもの」

「あの偽者ことなら、今度は止めはしないから好きにするがいい」

「そうじゃなくって、あなたがたった一人で乗り込むとか馬鹿な真似をして命を落としやしないか、心配してるんじゃないの」

「……」

「ちょっと。そんなあからさまに、いちいち言い返すのも面倒、みたいな態度はやめて頂戴」

「…十分伝わっているのにな」

「かといって、このまま連中をほうっておいたら、行く先々であなたの評判を落とす乱痴気騒ぎをくり返した挙句、オリュンピアに乗り込んで、大勢のギリシア人にその姿をさらすことになるのよ。あなたとセレネ叔母様が並んでいる姿をね」

 皮肉を流し、腕組みをしながら、ピュートドリスは鹿爪らしく考えた。それから身震いした。

「あの下品な偽者とセレネ叔母様が並ぶだなんて、考えるのも恐ろしいわ! あいつ、セレネ叔母様になにをしでかすか! 競技祭を見に来た大観衆の前で、セレネ叔母様に接吻でも迫ろうものなら……殺してやるわ!」

 歯を剥き出しにしてうなるピュートドリスへ、ティベリウスはまたもどんよりとした目線を寄越した。

「でも時すでに遅しよね」

 ピュートドリスはすぐにあっさりうなずき返した。

「あなたとセレネ叔母様の仲睦まじさはあっという間に世界じゅうに広まって、たちまち謀反だ、武装蜂起だの騒ぎになり、ローマからあなためがけて暗殺者どころか軍勢が差し向けられるでしょうね」

 ティベリウスはまたふいと前を向いた。継父と実母のいる故郷から、自分に対する軍勢が向かってくるとは考えたくもないのだろう。

「でもそうなる前に、さすがにだれかが気づきそうなものよね」

 彼の気持ちを慮ったわけではなく、ピュートドリスは至極まっとうな展開だと思ったので、そう続けた。

「いくらあなたの知り合いがいそうな大きい都市を避けて進んでいるとはいっても。それともローマ人はオリュンピア競技祭にそれほど興味がないみたいだから、だまし通せると踏んでいるのかしら?」

 根拠もなく言ったわけではなかった。史上、オリュンピア競技祭で、いかなる種目においてもローマ人が優勝したことはない。出場者がいないわけではないが、競技に全情熱を傾けるギリシア人らと競えば、目立った成績を残せないのも当然だった。彼らにとって、競技とは観るものだ。あとは政治に軍事に道路や水道建設と、ローマ人の関心事とは、人生は楽しいかと訊いてしまいたくなるほど、実用第一だ。

 そんなローマ人とその友人は、もしかしたらオリュンピアにほとんど顔を出さないものなのかもしれない。

「このまま黙って静観している? あの偽者が、ローマ軍に袋叩きにされるまで、どこかに身を潜めてる? それから実はあれは偽者でしたと弁解に出てみる? でもそうもいかないのよね。そのためのルキリウス・ロングスだものね」

 ピュートドリスはうなずいた。それから前方を見据え、もう一度強くうなずいた。

「それからセレネ叔母様だものね」

 やはり連中は、なんとしてもティベリウス・ネロを亡き者にするつもりのようだ。謀反人の罪を着せて。

 しかし、本物に隙がないからといって偽者を用意するとは。

 けれども、決してやりとおせない陰謀ではないのだろう。ティベリウス・ネロが東方にいるかぎり。

 ピュートドリスは、今度はその肉厚な肩を叩いてみた。

「ねえ、私以外のだれが、あなたを殺したがっていると思うの? やっぱりガイウス・カエサルかしら?」

「めったなことを口にするな」

「なに? 元継子に義理立てしているの? あなただって、考えていないわけじゃないでしょ」

 するとティベリウスはまた黙り込んだ。こういうところは世の男どものご多分に漏れずである。女が鼻先まで詰め寄るまで、聞こえていないふりをする。

 聞こえていることは知っていたが、ピュートドリスは詰め寄るつもりもなかった。少なくともこの件では。

「でももっと怪しいのは、マルクス・ロリウスかしら」

 だから平淡に先を続けた。

「エライウッサの王宮で会ったんだけど、あなたをいちばん敵視していたわ。あなたになにか恨みでもあるのか、それとも単にガイウス・カエサルのためと信じ込んでいるのかは知らないけど。ガイウスのほうはなにも知らないのか、知らないふりをしてロリウスに汚れ役を引き受けてもらう気でいるのかしら」

 ティベリウスはなんの反応も寄越さなかった。いずれとっくに考えていたことなのだろう。

「あのローマ人が知っていそうよね?」

 ピュートドリスは首を伸ばし、ティベリウスの顔を覗き込もうとした。

「ルキリウス・ロングスの隣にいた、あの茶髪の男。ガイウス・カエサルの側近でしょ?」

「プブリウス・ファヴェレウス」

 ティベリウスは言い、それからうなずいた。

「知っている人?」

「顔はな。だが挨拶を受けたことがある程度だ」

 その言い方は、そのファヴェレウスが軍の幕僚級の男ではないことを教えていた。少なくともティベリウスが現役であった時点までは。

 将軍は、一度でも直属の部下になった者の名は忘れないものだという。その働きをしかと覚え、昇進させたり褒美を与えたりするのだから。一個軍団六千人すべてではなくとも、百人隊長級までは覚えているのだろう。また一兵卒でも、目覚ましい働きをしたならば記憶されるだろう。

 するとファヴェレウスとやらは、ティベリウスと直の接点を持たない男となるが――。

「彼がこの陰謀の実行役と見て間違いないのかしらね」

「実行役か」

 ティベリウスはふいに足を止めた。そしてようやくピュートドリスをまともに見つめてきた。否、にらみつけてきた。例の鋭い眼光とともに。

「あなたよりその言葉が適切な者もいないと思っていたがな」

 ピュートドリスが思わず言葉を失っていると、ティベリウスはすぐに目線を外し、また前方を見つめた。

「キュプセラだ」

 言うとおり、目線を上げると、ピュートドリスもまたキュプセラの市壁を確認できた。

 ティベリウスに促されるより早く、ピュートドリスは地面に下りていた。そろりと馬を引きながら、二人は森の縁を進む。木の枝の奥に身を隠しつつ、市門の様子を窺う。

「…ちょっと、やっぱり連中がいるじゃないの」

 門の前に、明らかに市の門番ではない男が三人ほどたむろしていた。身なりはローマ軍団兵のそれではない。宴会に加わって泥酔していたごろつきか、あるいは偽ティベリウスの傭兵の類か。

「最寄りの街だからな」

 と、ティベリウスはつぶやくように言った。ピュートドリスは思わず横目でにらんだが、言葉を発するより早く、ティベリウスがため息をついた。

 それから一歩、森の縁の外へ出る。

「私があの連中を退けたら、中に入れ」

 顔を半分だけ、ピュートドリスへ向けてくる。

「それから娘と二人、カッパドキアに帰る。いいな?」

「よくないわ!」

 ティベリウスが次に足裏を地面に着けると同時、ピュートドリスはその腕に取りついた。木の枝がさざめいた。

「あなたと私とアントニアの三人で連中を追いかけるのよ! 離れやしないわ!」

「ふざけるのもいい加減にしろ! なぜあなたばかりか娘までついてくるという話にまでなるんだ!」

「アントニアはとっても可愛くてお利口な子よ!」

「そういう問題ではない! いいか? あなたは本気でこれから起こる陰謀沙汰に関わりたいと思うのか? 娘まで巻き込んで――」

 そのようにやむにやまれず、ピュートドリスとティベリウスは揉み合いを続けた。ティベリウスにしてみれば、殴りつけてでもピュートドリスを追い払いたい心境だったことだろう。さっさとキュプセラから離れ、偽者軍団のあとを追いたかっただろう。どのような勝算があるのか知らないが。

 連中の注意を引かなかったのは奇跡に思われた。もしかしたら、むしろ気づきはしたものの、市門の近くでわざわざ言い争いをしている男女が目当ての二人だとは、よもや思いもつかなかったのかもしれない。

 だが、これから市門に向かう者の注意は引かずにおれなかったようだ。

「あ、あのう……」

 声をかけられたとき、二人は同時に静止した。ピュートドリスの目には、頬肉をぴくりと引きつらせるティベリウスが映った。それから、今の自分にまず嫌気が差したとでも言うようにしかめ面になる。

 二人が同時に振り向くと、そこには同じく男女一組が、ぽかんとした顔でたたずんでいた。年齢は十代半ばほどに見えたが。

「…ひょっとして、さっきの人たち?」

 尋ねてきたのは、少年のほうだった。なるほどよく見れば、その二人は、偽ティベリウスの宴席にいた若者のような風体をしていた。

「やっぱりそうだ!」

 少年と少女は顔を輝かせた。すぐさま、絡めて押し合っていたピュートドリスとティベリウスの手に、自らの両手をぎゅっと重ねてくる。

「さっきは助けてくださってありがとうございます!」

「本当にもう、私、あの下品な男たちに犯されるところだったんですから!」

 ピュートドリスはティベリウスと目を合わせた。お互いにあっけにとられていた。若者二人はそれにかまう様子もなく、うれしそうに続けた。

「ぼくもだよ。ティベリウスや連れの奴らに、変な目でみられたり、あちこち撫でまわされたりしてさ。まったく、ローマでいちばんの将軍だって聞いていたのに、あんなど助平親父だったなんて、がっかりだな」

 ピュートドリスは注視せざるをえなかった。かろうじてかもしれないが、ティベリウスは無表情を保っていた。

「お二人はとってもかっこ良かった!」

 少女のほうは頬を紅潮させていた。

「なんて大胆不敵なの! もう少しであのふんぞりかえったいやらしい男を成敗しちゃうところだったわ!」

「成敗してやればよかったんだよ! あんな名前だけの下劣な男、生きていたってガイウス・カエサルの迷惑になるだけじゃないか」

「でも、もう少しでアリオンまで巻き添えになるところだったわ」

「ああ、臆病者のティベリウスが盾にしようとしやがってさ。でもぼくとしては、そばであのティベリウスの震え上がる無様な姿を見られただけで、なんていうの、リュウインが下がる? とにかくスカッとしたね」

「あれは本当にひどかったわね。ど助平で下品で高慢ちきなうえに、臆病者だなんて。本当にもう、あんな人がカエサル・アウグストゥスに次ぐ地位にいただなんて信じられない! ローマ人ってどうかしてるわ!」

 不当な非難を受ける羽目になっている男を、ピュートドリスはただ横目で見やっていた。彼はあらぬ方向に視線をやりながら、ただひたすらじっとしていた。

 目の端口の端が上がりかけたが、結局のところピュートドリスはこらえたと思った。

「あの…本当に女王様なんですか?」

 ひとしきり思いを吐き出したあと、少女は今更のように少しばかり恐縮した様子だった。

「じ、女王様が、どうしてティベリウスをやっつけようとなさったんですか?」

「言ったでしょ。愛しているからよ」

 ピュートドリスは思い出させた。

「え、女王様、趣味悪――」

「ちょっと!」

 びくりと、少年少女が身をすくませる。しかしピュートドリスはすぐにうなずきに替えた。

「いえ、まぁ…確かにそうよね」

 それからそっとティベリウスの腕を取り、ようやく微笑みを浮かべた。ティベリウスは強いてのように目線を返そうとしなかったが。

「ねぇ、あなたたち、女王とその恋人から一つ、命令ではなくて、頼みがあるのだけれど」

 まもなく、ピュートドリスとティベリウスの二人は、少年少女とともに驢馬車の荷台に座り込んでいた。ローマ人が造った道の真ん中をゆるりと進み、キュプセラの市門をくぐろうとする。

 屋根のない車だが、荷台は広く、ほかにも若者二人と、空になった酒樽や食器が載っている。それより多くの若者たちが、車のまわりを思い思いにおしゃべりしながら歩いている。その話題のおおむねが、ティベリウスへの悪口と、ピュートドリスへの驚嘆だった。未だ興奮冷めやらぬといった様子だ。

 聞けば、彼らは今朝、突然召集されたそうだった。ティベリウスの奴隷を名乗る男数名が、キュプセラの広場に現れた。曰く、森のディオニッソスの祠の前で宴を催すので、我が主への拝謁の名誉を賜りたい者は馳せ参ずるように、と。

 今は護民官特権もないとはいえ、ローマの第一人者アウグストゥスの次席の地位にいた男である。ほとんど強制となる言葉だった。だがそのティベリウスは、街の有力者ではなく、少年少女や楽手に踊り子、さらには娼婦を求めたという。偽ティベリウスとその取り巻きの欲を満たすため、本物の評判を落とせるだけ落としてから暗殺するため、そして万が一にも本物の知り合いに出くわすことを避けるためだろう。決して大きくはないキュプセラの街に、縁故の者がいる可能性は低いにしても。

 そういうわけで、若年者を中心にした一団は出かけていった。実際、将軍ティベリウスの名声は世界じゅうに知られているので、拝謁の機会をそれこそ楽しみにした者も少なからずいたようだ。

 それが今や、格好の醜聞の種である。

 ティベリウスは沈黙と無表情を通した。ピュートドリスもそれに倣っていた。

 だが、いよいよ門をくぐる段になって、例の偽ティベリウス付きのごろつきたちが寄ってきた。後片付けをして引き上げてきたキュプセラの一団に先回りをする形になっていたわけだ。

 兜をかぶる代わりに、ティベリウスはマントの上縁を頭巾にしていたが、それだけだった。ピュートドリスはアゲートの首飾り等を腰の後ろに隠し、髪をすべて振りほどいた。髪を結わないのは娼婦の証でもある。

 それからティベリウスへ、髪をゆったりとかき上げながら笑いかけてみた。こうしたほうが男心をそそるものだと、どこかの詩人が謳っていた気がしたからだ。

 けれどもそれに反応を示したのは、ティベリウスではなくごろつきどもだった。

「なんだ、おい。一人だけ年増の娼婦がいたんだな」

 その一言だけで、あっさり一団が市内へ帰ることを許したのだった。衝撃のあまり絶句していたので、ピュートドリスも彼らの首を刎ねることもできずに、無事市門をくぐり抜けてしまった。

「笑った?」

 ようやっと出した言葉に、「いや」とだけ、ティベリウスは答えた。

「なに言ってんの、あいつら! 女王様より美しい人なんてギリシアにいないよ!」

「そうよ、そうよ! さすがに十代には見えないかもしれないけど……」

 少年と少女の熱心ななぐさめは、惨めな気持ちに輪をかけるばかりだった。

 私が暴君だったら、腹いせにこの子たちを血祭りにあげたかしら。

 自身の長い黒髪を鷲掴みにしながら、ピュートドリスは歯噛みするばかりだった。一、二本、そこに白髪が交じっていたのかもしれない。

 そうこうしているうちに、驢馬車は街中を進み、中央広場に近づいていった。一人また一人と、一団から離れ、家に帰っていく。下劣な暴君と、正義の女王の土産話を持って。

 危うくピュートドリスは、目当ての家を通りすぎてしまうところだった。

「ここでいいわよ」

 東への大通りを中ほどで、ピュートドリスは荷台のあおりに手をついて、地面に飛び下りた。袖を引っぱってあげずとも、ティベリウスも倣ってきた。車を止めて、少年と少女もまた下りた。

「よくやってくれました」

 心中複雑ながらも、ピュートドリスは二人をそうねぎらい、金貨を一枚ずつ持たせてやった。その表面を、若者二人はまじまじと見た。顔を上げたときは、さらにいちだんときらめく目をしていた。

「す、すげぇ…! やっぱり本物の女王様だったんだ!」

 言われてみればそれは、カッパドキアとポントスの共同鋳造の硬貨だった。表にアルケラオス、裏にはピュートドリスの横顔があしらわれている。

「で、でも、大丈夫なんですか? ティベリウス・ネロを殺そうとしたことが皆にばれたられたら――」

「大丈夫よ、きっと。女王様のことは、ガイウス・カエサルが守ってくださるわ。ちょうど今東方にいらっしゃるから。そうですよね?」

「さあ、どうかしらね…」

 少女の言葉に、ピュートドリスは手ずから髪を結い直しながら、おざなりにつぶやいた。

「と、とにかく、どうもありがとうございました!」

 大通りの片隅で、少年と少女はとうとう並んでひざまずいた。

「ティベリウスの魔の手から救っていただいたこと、生涯忘れません!」

 二人の顔を上げさせ、立ち上がらせるのに、ピュートドリスは独り骨を折った。すでに彼らの仲間と驢馬車は先に行ってしまった。なんとかあとを追わせることにしたものの、二人ともきらめく顔で、名残惜しげに何度も振り返っていた。

 これみよがしに、ピュートドリスは大きな大きなため息をつくしかなかった。

「お待ちなさい」

 その言葉は、少年と少女だけにかけられたものではなかったが、二人は飼い主に呼ばれた子犬さながら、嬉々として戻ってきた。ピュートドリスはもう一度、肩を上下させながらため息をついた。それから右肘で後ろをつつく。

「…なんとか言ったらどうなの」

「家の場所は?」

 ティベリウスの低い声が返ってくる。

「そうじゃなくって!」

 彼の頭巾をピュートドリスは力任せに引き剥がした。その超然とした顔に、熱を帯びた鼻先顎先をぐいと突き出してやる。

「あなた、虚栄心というものがないの? 汚名をそそごうとかいう自尊心はないの? それとも、この子たちみたいな庶民にどう思われようが、気にも留めないってわけ?」

 ピュートドリスがぞんざいに腕を振るう前で、少年と少女はぽかんとした顔つきで突っ立っていた。

「いい? あなたたち」

 結局居ても立ってもいられずに、ピュートドリスは二人の若者を前に、胸を張った。それからティベリウスの腕を前に引っ張ったが、びくともしなかったので、仕方なく自分がその後ろにまわり込んだ。

「よく聞いて、よく見ておきなさい。なにを隠そう、この人こそが、当代最強のローマ将軍にして、カエサル・アウグストゥスと護民官特権を分かち合った男、ティベリウス・クラウディウス・ネロなのよ! ……本物よ!」

 絶句する少年少女に、ピュートドリスは有無を言わせてたまるかという剣幕を通した。

 当のティベリウスは、わずかばかり顔をしかめただけだった。

「なんとか言ってやりなさいよ!」

 せかすこちらの心配りなどおかまいなしか。

「このまま、あの下品な男と一緒くたにされてていいの?」

「…ほ、ほんとですか…?」

 少年少女はますますぽかんとするばかりだ。それは当然だろう。

「その辺に、この人の石像とかないの? よく比べてごらんなさい」

「な、ないなぁ…、この辺りには。カエサル・アウグストゥスのはあるんだけど」

「街の議員に言って、明日にでも取り寄せなさい。私の宮殿秘蔵の収集品から貸し出してもいいわ。ただし、ちゃんと返すのよ!」

「収集品……?」

 思わずのように、ティベリウスがつぶやいた。なにかを疑っているような目つきでピュートドリスを見やりながら。

 ピュートドリスはその背中を叩いてやった。気分はすっかり腰の重い夫の尻を叩く妻に近かった。

「あなたも、ほら! なにか持ってないの? 本物であることを証明するなにかを!」

「証明か…」

 ティベリウスは独り言つように唇を動かした。数回まばたきばかりして、それからおもむろに左手のひらを開けた。

 手のひらではなく、指だった。中指に、青い二筋の宝石と紋様をあしらった指輪をはめていた。

「それは印章ね。名門貴族クラウディウス・ネロ家の」

 ピュートドリスはわざわざ口に出したが、少年と少女は当惑したように顔を見合わせた。

「…ローマ貴族の印章とか、見たことないし……」

「うちのおじいちゃまはローマ騎士と取引しているけど、クラウディウスじゃなくてクラッススとかそんなだったような……」

 ピュートドリスはまたため息をついたが、今度は呆れたからではなかった。本物であることを証明するのは存外難しいものであるらしい。

 見ればわかるでしょう。どちらがローマ貴族の雄たる品格をそなえているか。

 私は一目でわかったものよ。

 そんなことを言ってもはじまらないのだ。

「なにかほかにないの?」

 ピュートドリスが眉を上げながら訊くと、ティベリウスもまた思案するような顔をしていた。それから、まったく喜び勇んでという様子ではなかったが、腰に下げていた皮袋に手を入れる。

 取り出したのは、細長い筒だった。開けて、右手のひらに中身を出す。

 手紙だった。古いものらしく、端々に黄ばみやほつれが目立つ。

 だが重要なのは、すでに真っ二つに裂かれたその封印だった。

「スフィンクスだ!」

 少年がやにわに大声を上げた。

「ぼく、知ってるよ! 『スフィンクスが謎を運んでくる!』 カエサル・アウグストゥスの印章だよね!」

 それから、ピュートドリスがついに声を大にして制するまで、少年と少女は口々に質問やら謝罪やらを、輝き極めた顔で熱烈に浴びせ続けたのだった。もうどこから応じて良いのかわからなかったのだろう。ティベリウスはただじっと、だから言わんことではないとでも言いたげな顔で、固まっていた。アウグストゥスの手紙を両手で握ったまま。

「わかったからもうお黙りなさいって!」

 ピュートドリスは両腕を振って叫んだ。

「いいこと? この真実は……そうね、オリュンピア競技祭が終わったら、ただちによ。好きなだけ、盛大に、触れまわりなさい。本物のティベリウス・ネロがどんな男だったかね。それまでは絶対に他言無用! いいわね? 女王命令よ!」

 これで気を済ませたピュートドリスは、ようやく踵を返し、件の知人の家へ向かった。ティベリウスの腕を引きながら。

 いくら愛おしい男のこととはいえ、なぜ自分がこう世話を焼かねばならないのかという憤懣がないでもなかった。けれども結局はこのとおりだった。言わずにはおれなかったのだ。

「だれにいつ殺されるにせよ、考えるべきでしょ? 死後の名誉というものも」

「なぜあなたに心配されなければならないのか、まったく理解できない」

 背後からそんなつぶやきが聞こえた。





 ソクラテスの石像の角からプラトンの石像の角へ、大通りを横切る二人の男。一方が何気ない様子で首を伸ばす。

「ティベリウスが女に殺されかけたってさ」

「女」

「その女が連れの男と一緒に逃亡中だってさ」

「しくじったわけですか、残念ながら」

「ところであっちに旦那にそっくりな人がいるんだけど」

「人違いでしょう。女子どもと一緒にきゃっきゃと騒ぐような方ではありません」





 大王アレクサンドロスの石像の台座にもたれて、アスプルゴスはつぶやいた。

「あれじゃねえか」







(第一章 終)





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