第一章 -17
17
彼は両眼を剥いた。左腕を伸ばし、ピュートドリスの右手首をがっちりとつかんだ。狙い違わず、刃先は彼の首筋を差して止まっていた。ピュートドリスは唇を離した。そのまさに瞬く間だけ見せた顔。肝を冷やした、恐怖の色。これを目に収められただけでも、ピュートドリスは殺しに来た甲斐があったと思った。
だが次の瞬間には見えなくなった。世界がまわった。気づくと、ピュートドリスは愛おしい人の顔を見上げていた。信じ難さの色濃い怒り顔だ。
「いったいなんの真似だ?」
ピュートドリスを岩場に磔にし、彼は問い質した。
「答えろ! なぜ私を殺そうとする?」
そんな顔もすばらしかった。自分に向けてくれるとはたまらなかった。押さつけられる痛みも岩場の冷たさも、ピュートドリスは感じていなかった。ただうっとりと意中の人を見上げ、もう一度唇をもらうべく上体を起こそうとした。
「狂人か!」
彼は叫んだ。ピュートドリスの首をつかみ、改めてきつく岩へ押しつけた。ピュートドリスがもがいたが、逃れたいからではなかった。右手から短剣が離れていった。
「答えろ! いったいなにを考えて――」
「あなたね! あなたなのね!」
息苦しさなど感じず、ピュートドリスもまた叫んだ。自由なほうの左手を伸ばし、彼の頬に触れる。無精髭を見られるとはうれしい。
彼はその手を払いのけ、へし折らんばかりにつかみ、もう一度磔にしてきた。しかし三十万のローマ軍が震え上がるであろうその顔つきも、ピュートドリスには喜び以外のなに物でもない。
「答えろと言っている。なぜだ?」
憤激の顔が近づいてきたので、ピュートドリスはすかさず目を閉じ、唇を尖らせて迎えに出た。
はっ、と息が吐かれるのが聞こえた。
ピュートドリスが目を開けると、彼の顔はもう近くになかった。ピュートドリスの手首だけを押さえたまま、その上に乗り、世にも異様な獣でも捕らえてしまったように、しかもそれを猛烈に後悔している最中であるかのように、見下ろしてきていた。
「接吻して頂戴」
待ちかねて、ピュートドリスは求めた。彼はまだ見たくもない珍獣を見る目をしていた。
「あなたは――」
頭上のほうで、木々がざわめきはじめたのはそのときだった。彼ははっとして見上げた。まだ遠くかすかだが、人の声らしき音も交じっているように聞こえた。
彼はうめいた。そして、ピュートドリスの上から退いた。だがなにかさせる隙も与えず、引っ張り起こし、締めつけて横に抱え、さらに兜も拾い上げると、そのままずんずんと歩き出した。岩から岩へ移り、沢を越え、森の中へ入る。
時折苛立たしげなうめき声を漏らさないでもなかったが、彼はずっと無言だった。ただひたすら奥へ奥へと進んだ。ピュートドリスもまた無言だったが、それは夢の世界にいたからだった。まったく優雅ではない運ばれ方をされ、手首はほとんど捻られてさえいた。けれども心は、婚家の敷居を花婿に抱かれて越える花嫁そのもの。鼻歌を歌いたい気分だ。
聞こえていたらしい。彼はいよいよ狂気を確信する目で見下ろしてきた。だがやはり視線が合うだけで、肌が触れ合うだけで幸せなのだ。
彼は足を速めた。追手の接近を感じたからではなさそうだ。どこかに適当な捨て場所がないか探している男に見えた。
「愛しているのよ」
ピュートドリスはうっとりと甘い声で知らせたが、返事は返ってこなかった。
至福の時は一瞬だったのか、果てしなく長かったのか。実際は、人一人抱えたまま、彼はそれなりに長く歩き続けたようだった。落雷のためだろう。一本の大木が倒れ、ためにいく分開けている場所まで来た。彼はそこでまず兜を地面に落とした。それからピュートドリスを放し、手近な木へ突き飛ばした。
ピュートドリスはまだ抱擁をやめたくなかった。すぐさま両腕を広げてその胸に取って返そうとしたが、鼻先と剣先がまず接吻しそうになり、さすがに止まった。
「もう一度だけ問うぞ。なぜ私を殺そうとした?」
突きつけられた刃をたどる。そこには夢にまで見たあの精悍な容貌が、二十年の歳月を引き受けて成熟していた。少しばかりの目尻や口元の皺。至高の理想を守るためとはいえ、これほど官能をそそるものから目を背けようとしていたとは。厳しいまなざし。それがまぎれもない快楽の震えで体を痺れさす。澄んだ青の瞳。それが今再びピュートドリスのみを映し、逸れようともしない。
ピュートドリスは思わず目をうるませていた。笑みも恍惚として絶やさず、もう二十年眺め続けていたいと思った。
厳しいまなざしが、だんだん途方に暮れていくようだった。
「おい…」
「あなたね」
ピュートドリスは呼んだ。
「あなたが、ティベリウス・ネロね」
「……」
ティベリウス・ネロはただじっと眉根を寄せていた。実に明確な沈黙だったが、もちろんピュートドリスに答えは必要ない。手を切るのも恐れず刃を押しのけ、唇めがけて飛び込んだ。
胸を押し返され、再び木に背中を預けることとなった。
「いい加減にしろ!」
剣先が、今度はピュートドリスの左眼球の寸前まで伸ばされた。
「正気にならないのか、痛い目を見なければ? あなたは暗殺を企てたのだ。この上なく大胆で、愚かな手筈でな。だから殺されても文句は言えない。わかるか?」
「殺されるところだったわ」
魅惑されたまま、ピュートドリスはあっさり認めた。
「でもあなたが助けてくれた。ああっ、もうっ、こんな幸せなことがあるなんて…!」
「勘違いするな」
もだえるピュートドリスへ、彼は単語を一つずつ区切るように言った。
「私があなたに加勢したのは、暗殺行為の理由を知りたかったためだ」
「ねえ、あなたも勘違いしないでね」
ピュートドリスもまた優しく知らせた。
「私が殺したかったのはあなたなのよ、ティベリウス・ネロ」
「…だから、なぜ私を殺そうとするのだ? 私は、あなたになにか恨まれるようなことでもしたのか?」
「だって、愛しているから……」
「……だから、いったいなぜ……」
「愛しているから……」
そこで、ピュートドリスは突然夢の世界から帰還した。体が破裂せんばかりの憤怒を携えていた。
「ちょっと! なんであんな下品な男があなたを名乗ってるのよ! 信じらんない! 危うくあなたと間違えて殺すところだったわ!」
「おい――」
「なんでもっと早く止めてくれなかったの! 私がティベリウス・ネロ以外の男の血で手を染めても良かったって言うの?」
「おい――」
「私はあんな男のためにわざわざカッパドキアから来たんじゃないわ! あなたの、あなただけのためだったのに…! 私…私、悲惨なんてものじゃない死に方をするところだったのよ? 思い出もなにも皆ぶち壊されて、間違った男の隣で、独りきり……」
目に涙が滲んだが、今度は喜びのためではなかった。
「私の人生ってなんだったのよ…?」
「……あのな、女王」
彼はとうとう空いている左手で頭を押さえた。そうしなければ重くて転げ落ちるとでも言うように。
「…本当に女王か?」
「本当よ」
涙目のまま、ピュートドリスはきょとんとした。ティベリウスはますます眉間の皺を深くした。
「印章は確かに本物のようだったがな…」
それは、つまりどういうことか。ピュートドリスは衝撃に打たれた。
「…あなた、まさか私のことを覚えていないの?」
答える暇も与えなかった。ピュートドリスはまたも剣を払いのけ、鎧越しに胸を叩きまくった。
「ひどいわ! 私は一目であなただとわかったのに! 二十年間、ずっと忘れずに来たのに!」
「ちょっと待て」たまらず半歩後退しながら、ティベリウスは抗議した。
「あなたは、あの男を私だと思って殺しかけたではないか。覚えていないのどうの言われる筋合いは――」
「あの状況なら、どんなに嫌でもあれをあなたと思うほかなにができたって言うのよ?」
ピュートドリスは愛おしい男をねめ上げた。
「あなたは兜をかぶっていたし、あんなところで独りでいて、ティベリウスの用心棒以外のだれだと思えばよかったの?」
「…だれなのかはわかった、途中で」
剣を横に退けながら、彼はうなずいてきた。それから首を振りだした。
「だが今も信じられない。本当にピュートドロス殿の娘か? どうしたらこのようになるんだ?」
「どういう意味よ?」
「ほかに言いようがないが」
ティベリウスはなにかをなんとか納得しようと苦労している男の目をしていた。ピュートドリスは自分の胸元から首飾りを引っ張り上げた。
「これ、あなたが贈ってくれたのよ。覚えてる?」
苦労の目が、今度は薔薇色のアゲートを映した。適当に片づけることもできるものを、相変わらず誠実に見つめてきた。すると、少しだけ眉間の皺が薄くなった。
それで、ピュートドリスはだいぶ平静を取り戻した。
「私はあなたを覚えていたのよ。だから出会った瞬間にあなただとわかったわ」
「出会った瞬間、な…」
「ええ、そうよ」ピュートドリスはすまして応じてみせた。「それなのにあなたときたら、私がだれなのかわかっても、知らんぷりしたのね。あなたのためにそわそわする私を見て、笑っていたのね。なんて意地悪なの」
「あなたの言っていることは滅茶苦茶に聞こえる」
「あなたがわかっていないだけよ」
そうだ。本当はわかっていたのだ。森の道で出会った瞬間から、頭が理解せずとも体が、心に張られた根が、彼がだれであるのかわかっていた。どうしてもっと早く認めなかったのだろう。よく見れば、これほど存在そのままに歩いている男はいない。
「黙っていたのは、認める」
そのままの男は白状した。
「あなたがなにか良からぬことを企んでいたのを、わかっていながら先導したのも認める。だがまさか、あんなやり方で殺しにかかるとまでは思わなかった」
彼はがくりと頭を下げ、それから目玉だけ前方へ向けてきた。
「もっとほかのやり方がなかったのか? 毒を盛るとかなにか、もっと穏やかで、女らしい殺し方が」
「女らしい殺し方ってなによ」
「刺すにしても、だ。普通、もっと人目のないところで密かにやるものだ。大勢の見張りがいる前で、単身堂々首を刎ねにかかるなどだれがやる。あれは自殺行為だ。どうかしているとしか思えない」
「どうもしてないわ」
ピュートドリスは胸を張ってみせた。
「私は考えた末にあのやり方を選んだのよ。だってああすれば、あなたの記憶に永遠に刻まれるから。あなたを殺した、世界でただ一人の女として」
「なんだと?」
「あなたにとって、最高の女とはヴィプサーニアのことよね?」
その瞬間、ティベリウスはいちだんと苦い顔になった。やはり他人に踏み込まれたくない心の領域か。
「最悪の女は、今のところユリアのことよね?」
さらに色濃くなった苦味に、ピュートドリスは内心喜んだ。どんな女であれ、かつて妻だった人を他人に悪く言われたくないのだ。それでこそ――。
ピュートドリスはティベリウスをまっすぐに見つめた。
「ねえ、ティベリウス・ネロ。二十年間、一度もあなたに会えなかった私が、その二人のどちらかに取って代わることはできると思う? 私だってあなたを愛しているのよ。ヴィプサーニアに負けないくらい」
「…なにが言いたい」
「聞いていなかったの? 私はあなたを愛しているのよ」
あらためて、ゆったりと微笑んだ。目をきらめかせ、頬を紅潮させ、求めてやまないとばかりに唇をうっとり開いた。両腕を大きく広げた。
「愛しているからなのよ」
「ではなにか!」
とたんにティベリウスはほとんどわめき声を上げた。
「あなたは、私を殺した女になりたいがために殺しに来たとでも言うのか!」
やっと伝わったようだ。ピュートドリスは満足し、にこやかにうなずいたのだった。
「父の遺志なのよ。私が、歴史に名を残す女になることが。当代一のローマ将軍を殺した異国の女王。これならもう間違いないと思わない?」
するとティベリウスは、よろめくように一歩後退した。それから踵を返し、足を引きずるように歩き出した。倒木のところまで行くと、そこに一緒に倒れ込むように体を落とした。実際は幹の上に座したのだが、そのまま石と化したように見えた。そして、相変わらず左手で頭を支えていたが、それももう限界だとでも言いたげに、のろのろとピュートドリスを見上げてきた。
「やっぱりあなたは狂人だ」
光栄だった。ピュートドリスはすっきりした。安心した。愛の告白が届いたと思った瞬間、翼が生えたように体が軽くなった。うきうきと飛ぶように駆け、ティベリウス・ネロの真ん前に来た。ティベリウスのほうは石と化したまま元に戻れず、ひどく妬ましそうな目線を向けてくるばかりだ。上体を前に傾け、腰の後ろで腕を組み、ピュートドリスはいたずら好きの少女のようににっこり笑いかけた。
「さあ、今度はあなたが教えて頂戴。なんであんな下品な男が、あなたのふりをしているの? あなたが用意した代役ではないんでしょう? それだったらもっとましなのを選ぶはずだもの」
ティベリウスは、本当に頭痛ででも苦しんでいるかのようにピュートドリスをにらむばかりだった。うめき声も、低く長く漏れ出てきた。
「ちょっと、私に教えないつもり?」
ピュートドリスがむくれてみせても、まだ彼は視線ばかり寄越し、黙り込んでいた。
ピュートドリスは待った。話してくれるまで、いつまでも待ち続けるつもりでいた。彼に話す義務はない。特に暗殺者の狂い女には。そんな手間をかけるくらいなら、首をただちに刎ねるほうが理にかなっている。だが彼の青い瞳に冷酷な殺意は宿っていないように見える。少なくとも今は。ただ眼前の存在を大いに持て余しながら、それでもなにかを探るように、考えをめぐらすようにしている。
やがて、彼はため息をついた。それから右手の剣を、万感込めるように地面に突き立てた。
「この月の六日だった」
ティベリウスの話は次のとおりだった。十八日前の夜、ロードス市にいた彼のところへ、鞭で散々に痛めつけられた彼の奴隷が運ばれてきた。ティベリウスは市内の邸宅のほかに、島の田舎に別荘を一軒所有していたのだが、奴隷は後者の管理を任されていた男だった。彼は主人に伝えた。別荘が突然賊に襲撃された。そして主人の馬が略奪された。それらは、オリュンピア競技祭を視野に入れてティベリウスが育ててきた選り抜きの四頭だった。
だが略奪されたのは馬ばかりではなかった。馬の世話係である解放奴隷が一人連れ去られた。名はイシラコス。競技祭では御者として、四頭を駆る大役を任せる予定でいた男だという。
さらには――
「ルキリウス・ロングス」
ティベリウスが挙げた名を、ピュートドリスはくり返した。
「聞いたことがあるわ。あなたの親友ね? あなたと一緒に引退した、ただ一人の元老院議員」
六年前、ティベリウスはただ独りでロードス島へ向けて船出したのだが、なん人かの友人がそのあとを追いかけてきた。その中でルキリウス・ロングスという男だけが、国家ローマの元老院議員の身分だった。元老院議員がローマ本国を出るには、原則アウグストゥスの許可が必要である。だがもちろん三十六歳の家出継子に同行することなど、彼が許すはずもない。つまりルキリウス・ロングスは、第一人者の怒りも恐れず、元老院議員の身分も捨てて出てきたのである。
「本物の友ね」
ピュートドリスは指摘し、大きくうなずいた。
「賊どもは、あなたから彼を奪ったのね。そして、脅してきたわけね」
ティベリウスはまた眉間の皺を深くした。暗い苦みが見えたのは、心配と、後悔のためか。
彼は話した。去年の段階で、オリュンピア競技祭に出ることを躊躇するようになっていた。ガイウス・カエサルが東方に来て、アルメニア遠征に取りかかろうとしていたためである。そんなティベリウスを、ルキリウス・ロングスは鼓舞したという。君は引退中なのだから、ガイウスたちがなにをしようと関係ないだろう、と。
ピュートドリスは口を挟まなかったが、ルキリウスに反対ではなかった。のんきなものと思ったのも事実だ。だがロードスに留まっていたからといって、なにができるわけでもない。むしろ、ガイウスの取り巻き連中に命を狙われる危険が増すだけだ。彼は気づいているのだろうか。
それとも彼は、なにかできるつもりでいたのだろうか。
馬は当然、ティベリウスの所有である。けれどもルキリウスと二人、優秀な種馬を探すことからはじめ、最高と思う状態まで育て上げたと、彼は話した。解放奴隷イシラコスもまた、日々たゆまぬ世話と訓練を捧げた。つまり四頭は、三人の六年にわたるこだわりの結晶なのである。だからルキリウスは、オリュンピア競技祭出場を取りやめるなど考えたくもないと主張したという。
それでもティベリウスはなかなか腰を上げなかった。それでルキリウスは、ひとまず自分が別荘から馬たちを連れてくると言って、ロードス市から出ていった。それっきり帰ってこなかったというわけである。
『ルキリウス・ロングス及び解放奴隷と馬を預かる。もしも貴殿が事を公にすれば、ルキリウス・ロングスの命は無い。我らの要求は、ギリシアで、オリュンピア競技祭の開催までに、貴殿が我らの前にただ独り現れることである』
奴隷はそう言伝てられていた。もちろん、そのとき賊どもは、すでに大陸に渡っていたに違いない。事態を確かめ、あとを追いかけたティベリウスは、ほどなくして自分を名乗る男とその取り巻きたちが、あちこちで贅沢三昧の下品な宴を開いているとの噂を聞きつけることになる。
こんな馬鹿げた手を取るか……、とティベリウスは呆れ果てていた。おそらく連中は、ユダヤ王子の偽者事件からでもひらめいたのだろう。エフェソスなどの大都市に入らなかったのは、本物との顔見知りに出くわす危険を避けるためだった。
「…それで、あなた、馬鹿正直に独りで連中の前に姿を現わす気でいたの?」
ピュートドリスは信じられずに尋ねた。頭を抱えたまま、ティベリウスは目線だけ上げてきた。あなたにだけは批判される筋合いはないと言いたげな顔だ。ピュートドリスは首を振った。
「どうかしてるんじゃないの? あなた、自分の命をなんだと思ってるのよ。たった独りで乗り込んで、ルキリウス・ロングスを救出できるとでも思ったの? 連中、全部で七十人ぐらいはいたんじゃないの?」
「見張りを含めれば、およそ百名だろう」
彼は苦々しく言った。そしてしぶしぶといった様子で弁解を加えた。
「手を考えていなかったわけではない」
「どんな?」
「…とにかく、どんな手で事に当たるにしろ、できるかぎり正確に状況を把握する必要があった、しかし私がだれかと共にいるところを見られてはならなかったし、かといってほかの者を偵察に送ることもはばかられた。適当な人間が手元に不足していたためもあるが、連中も警戒しているはずだと思ったからな。それでまずはなにか、近づく手を考えていたところへ――」
「私が現れた、と」
ピュートドリスは言葉を継ぎ、それからにやりと笑った。
「よくも私をだましたわね。そして、利用してくれたわね」
「一度も用心棒だと知らせた覚えはない」
「でも、喜んでそう思わせたんでしょう」
咄嗟の思いつきだったのだ。ピュートドリスにはティベリウスの護衛だと思わせ、偽者連中にはピュートドリスの護衛だと思わせた。幸運の女神が微笑んだのだ。ピュートドリスほどの適材はほかにどこにもいなかっただろう。本当に女王であろうとそうでなかろうと、とにかく連中に近づく機会を作ることができればと思っていた。けれどもピュートドリスは本物だったのだ。
「まさに私は天の恵みだったってわけね」
すると返ってきたのは、信じられないと書いてあるしかめ面だった。そしてぐしゃりと頭を抱え直す、彼だった。
「一瞬でもそう思ったのが愚かだった……」
後の祭りだ。ピュートドリスはすまし顔でしばし明後日の方向を見たが、やはり愛おしい人から目を少しも離していたくはなく、もう一度輝く目で見つめることにした。
「それにしても大胆不敵じゃない! あなたはもっと慎重な人だと思っていたわ」
「あなたと張り合うほどではないがな」
「それで、私があの偽者の相手をしているあいだに、素早くルキリウス・ロングスを連れて姿をくらます算段だったのね」
「そうだ」
「じゃあ、だめじゃないの。私なんかにかまっちゃ」
ピュートドリスはにやにやした。
「ねえ、なんであのとき私を止めたの?」
ティベリウスはピュートドリスを見やり、それからため息をついた。
「…だまされているあなたが気の毒だった」
「ま、お人好しだこと」
なんにせよ、ピュートドリスはうれしかった。愛おしい男に守られたのだ。うきうきと腰を左右に揺らした。
「それで、ルキリウス・ロングスは無事でいたの?」
「ああ。危うくあなたに刺し貫かれかけながらな」
おっと。とすると、あの金髪のローマ人がルキリウス・ロングスだったのだ。
「あなたも刺し貫かれかけていたのよ。それも七十の剣で」
ひとまず自分は棚に上げ、ピュートドリスは思い出させた。
「自分がなにをしたかわかっているのよね?」
ティベリウス・クラウディウス・ネロ。ローマで最も由緒ある家に生まれた、貴族中の貴族。元老院議員。第一人者アウグストゥスの継子にして元婿。護民官特権を分かち合った男。国家防衛の最前線に立ち続けた、当代ローマで最も強い将軍。いや、おそらく世界一だろう。
それほどの男が、こんな森の隅でただ独り、我が命を危険にさらしていた。
「ルキリウス・ロングスは、あなたが独りきりで命を賭けるほど大事な存在だってわけ?」
ティベリウスはピュートドリスを見返したまま、ずいぶん長く沈黙していた。
この容姿。この男盛り。ピュートドリスは改めて信じ難い思いに打たれる心地がした。彼は引退したのだ。今はただの一私人、一ローマ人だ。輝かしい功績はすべて過去のことだ。捨てたのだろうか、なにもかも。そして自分の命さえもはや惜しいとも思わなくなったのか。すべてを捨てて追いかけてきてくれた友のため、彼もまたすべてを捧げるつもりでいるのだろうか。
彼は、いささか苦しそうに口を開いた。
「連中も、まさか私があなたに同行して来るとは考えないと思った」
「なに言ってるのよ」
ピュートドリスは素っ頓狂な声を上げた。
「全員、気づいていたわよ。一目見た瞬間、あなたがだれだか」
この瞬間のティベリウスの表情は、傑作と言うほかなかった。彼はとうとう抱えていた頭を浮かせた。目を見開き、衝撃に打たれたようにのけぞった。
「そんなことがなぜわかる?」
「なぜって、あなた――」ピュートドリスは呆れ、それから笑い出した。「あなた、自分がどう見えてるかわかってる? あなたって、あなたにしか見えないのよ。演技する気、あったの?」
人にはたたずまいというものがある。が、それにしてもこの人は際立っていた。自分以外の存在になるくらいなら死ぬ。そう全身で主張しているような男だ。
なにか言おうと口だけ動かす彼へ、ピュートドリスは首飾りをかざしてみせた。
「このアゲートを賭けてもいいわ。あなたの顔見知りは全員、あなたが現れた瞬間にだれだかわかったわ。それであまりの大胆さに呆れて、だれも指摘できなかったのよ」
目と口を開いたまま、ティベリウスは固まっていた。こんな顔まで見せてくれるとは。ピュートドリスは意地悪く、さらに追い込んでみたくなった。
「ルキリウス・ロングスはもちろん、臥台に腰かけていたのが解放奴隷のイシラコスよね? 彼も、それから知り合いなら、茶髪のほうのローマ人も、それにデュナミスとセレネ叔母様も――」
そこでようやく、ピュートドリスはあるべからざる矛盾に思い至った。
「ちょっと! どうしてデュナミスもセレネ叔母様も、あの汚らわしい男をあなたにしていたのよ? 二人が教えてくれていたら、私も間違わずに済んだのに!」
ティベリウスは、まだ自分の正体が明明白白だった事実から立ち直っていないのか、目を見開いたまま無言でいた。彼にはなんの責任もなかったが、ピュートドリスはかまわず詰め寄った。
「二人ともあなたの顔を忘れてしまったの? 二十年ぶりの私でさえ覚えていたのに? セレネ叔母様とは去年、サモス島で会ったばかりなんでしょ? デュナミスだってこの六年、あなたを何度も訪ねてきたんでしょ? ほんの数日前に、本人が自分の口からそう言ってたのよ。あの婆、とうとうぼけてしまったの?」
「…そうではなかろう」
ティベリウスはやっとうめき混じりの言葉を返してきた。
「ここへ来る途中に会ったのなら、たぶん、あなたがなにか良からぬことを企んでいることを察し、私に警告するために先を急いだのだろう。ところが、私だと思って面会した相手があの男とその大勢の取り巻きであったので、退くに退かれなくなり、その場で加担することを強制されたか、あるいはいっそ耄碌してわからないふりをすることにしたのだろう」
「なによ。ずいぶんデュナミスに好意的じゃない」
「少なくともあなたよりはまともな精神の持ち主だと知っている」
この言葉に、ピュートドリスはすっかりむくれた。すねて、腕を組み、初めて愛おしい人へ爪先を向けるのをやめた。ティベリウスは気に留める様子もなく続けた。
「いっそあなたがあの男を殺してくれるのなら助かると思っていたのかもな」
「…デュナミスが、初めからあの連中の仲間だったとは思わないの?」
一呼吸置いて後、ティベリウスはおもむろに首を振った。
「ずいぶんとぶ厚い信頼ですこと」
ピュートドリスは鼻を鳴らした。
「やっぱりこの六年間、せっせとご機嫌伺いしなかった報いは大きいと言うわけね」
皮肉もたっぷりに込めたつもりで、さらにむくれてやった。横目でティベリウスを見やると、彼は新しい言葉を顔に書き連ねていた。人を殺しにきておいてよくもまあ――。
彼もまた、気をつけなければだいぶ感情が顔に出てしまう性質であるようだ。
代わりに、彼は言った。
「たとえデュナミスが私へ背信するとしても、あの馬鹿げた連中に加わる利益はない。黙って静観していればよいからだ。連中にしても、この計画にデュナミスを加える必要はない」
「計画じゃなくて、陰謀でしょ。あなたへの」
つんと体を横に向けたまま、ピュートドリスは指摘した。ティベリウスはやや訝るような視線を向けてきた。
「必要なのはクレオパトラ・セレネのほうだ」
つまり、連中の企む陰謀とはこういうことになる。ルキリウス・ロングスを人質に、ティベリウスをギリシアまでおびき出す。そして当然、殺害する。しかし連中がその罪を追及されることはない。それどころか国家ローマの英雄として讃えられる見通しである。
クレオパトラ・セレネ。マルクス・アントニウスと女王クレオパトラの娘。彼女がティベリウス・ネロと二人、ギリシアにいるとはすなわちなにを意味するのか。この噂が耳に入っただけで、ローマ人は大騒ぎするだろう。まったく同じ光景を思い浮かべることだろう。引退中のティベリウス・ネロが、あのクレオパトラの娘に籠絡された。嘆かわしいマルクス・アントニウスと同様に。つまり三十年前の内戦の再来、アクティウムの海戦再びである。
すでに彼は武装した男たちを連れていた。そこへギリシア人に向かい、自由と独立を約束するとでも宣言すれば、ひとまず軍勢が出来上がるだろう。
そればかりではない。ティベリウス・ネロはローマの全軍三十万のほとんどを知っている男である。ヒスパニア駐留軍とともに初陣を果たし、シリア駐留軍を率いて将軍としての初任務をこなした。引退の直前まで、イリュリクムとゲルマニア両軍の指揮を任されていた。
このような男が武装蜂起したらどうなるか。現在、彼に優る将軍はローマにいないと思われる。アウグストゥスがだれよりも頼りにしたマルクス・アグリッパはすでに世を去った。ゲルマニアで目覚ましい戦果を上げ続けたドルースス――ティベリウスの弟――も亡き人だ。現役の将軍で最も有能であるのは、おそらくルキウス・カルプルニウス・ピソという人だろう。ティベリウスより年上で、トラキアの反乱を平定し、凱旋将軍顕章を得た。しかし彼でもティベリウスより名を上げているわけではない。
よしんばほかにティベリウスより優れた才能の持ち主が存在したとしても、戦経験でかなわないことは確かである。
そこへさらに、ローマ元老院内に息を潜めている共和政主義者への刺激が加えられる。共和政復古を口にしながらも、ただ一人抜きんでた権力を握っているアウグストゥス。その後継となる見通しの孫ガイウス。このままではローマは王政のごとき体制へ完全に変えられてしまう。だがその現実に、長く共和政体を担ってきた名門貴族の男、クラウディウス・ネロが反旗を翻すのだ。歓喜しない共和政主義者などいないわけがあろうか。
ピュートドリスは改めてその男をまじまじと見ていた。このような危険人物が、引退後、今まで無事に生きていられたことが不思議にさえ思われた。
だから連中には大義名分があるのだ。クレオパトラの娘を抱き、第二のマルクス・アントニウスとなって国家転覆を企む男、ティベリウス・ネロ。その殺害は、すなわち国家ローマを守ること、アウグストゥスとガイウスを守ることにほかならない。
もしも本物が企んだならば、だが。
「セレネ叔母様は陰謀に加担していないわ」
「わかっている」
即座に知らせると、同じく間髪も入れないうなずきが返ってきた。こちらへの信頼もぶ厚いようだ。鋭く光る目線を、ティベリウスはピュートドリスへ向けてきた。
「あなたはユバがセレネを裏切ったと話していたな。なにがあった?」
今度はピュートドリスが説明しなければならなかった。エライウッサ島に滞在したマウリタニア国王夫妻。ユバのみの出立。そして第二夫人の誕生。
「あなたと結婚すると、セレネ叔母様が手紙に書いてきたのよ。乱れていたけど、間違いなく叔母様の筆跡だったわ」
するとティベリウスはうなだれるように二度うなずいた。セレネ叔母という人物をちゃんと知っているようだ。ピュートドリスはもう一つ意地悪をしてみることにした。
「もしもセレネ叔母様が予定どおりあなたの胸に飛び込んできていたら、結婚してた?」
ティベリウスはまた頭を上げ、なんの愚問かと顔に書き出した。
「ちょっと、セレネ叔母様のなにが不満なのよ?」
「そんなことは一言も言っていない」
「じゃ、次の妻候補に入れるのね?」
「どうしてそうなる? 彼女はユバの妻だぞ」
「じゃ、ユバの妻じゃなかったら結婚するのね?」
「…そんなにセレネと私を結婚させたいのか?」
「冗談じゃないわよ。なんでまず私のことを考えないのよ?」
今再び、ティベリウスは頭を抱え込んだ。今度は両手を使っていた。
「あなたと話しているとこちらまで気がおかしくなりそうだ」
それは、ピュートドリスにとって、なかなかに悪くない知らせのように思われた。またにやつくことを思い出したが、それ以上なにかを言う前に、ティベリウスは強引に話を戻した。
「とにかくそれで、セレネは私に会うためにロードスへ向かった。ところが途中、私がアジアで宴を開いてまわっているとの噂を聞き、そちらに駆けつけてしまった。もしくは、その前に襲われたのだ」
「叔母様は本当に捕らわれの身になっていたのね」
ピュートドリスはただちに頭を切り替え、大切なセレネ叔母に思いを馳せた。
「なんてこと。ユバに裏切られたうえに、この仕打ち。踏んだり蹴ったりもいいとこじゃない」
「時宜が良すぎると思わんか?」
ティベリウスは鋭い目線を上げてきた
「連中の計画に、セレネは不可欠だ。私に謀反の罪を着せるためにな。つまり連中は、セレネが独りで私に会いにくるよう、仕向けたとしか思えん」
ピュートドリスの胸がどくんと隆起した。眼光そのまま、ティベリウスは声色も鋭くしてきた。
「ユバは本当に第二夫人を娶ったのか?」
「本当よ」
ピュートドリスはひるまずに見返した。
「では、その第二夫人とはなに者か、あなたは知っているか?」
「…知りたくもないわ」
ピュートドリスは目を逸らした。ティベリウスは数呼吸置いてから、続けた。
「あなたはセレネを連れ戻しにきたのではないのか? あなたとセレネの関係上、それが自然だろう。少なくともデュナミスには、そのように説明したのではないのか?」
もう一度、ティベリウスは剣の上に右手を置いた。頭を押さえる左腕をさらに膝で支えていたが、矢のような眼光だけは揺らがない。
「それがどうして私を殺すという話になった?」
「言ったでしょう。私があなたを愛しているからよ」
するとティベリウスは長々とため息をついた。しばしまた重い岩でも背負わされたように頭と肩を下げていた。それからふいに剣の柄を握り直した。
彼が立ちあがった一瞬、ピュートドリスは身をすくめた。斬られるのではと思ったのだ。だがティベリウスはそれに目もくれず、剣を手にしたまま、すたすたと歩き出したのだった。まるで急ぎの用でも思い出したように。
ピュートドリスはぽかんとなった。
「ちょっと、どこへ行くのよ?」
「これ以上、狂人の戯言につき合うつもりはない」
「私をここへ捨て置く気? こんな森の中へ?」
ピュートドリスは信じられなかった。もはや振り向く気配もない背中へ、両腕を広げた。
「私がどうなってもかまわないの?」
「かまう理由があるとでも?」
「薄情者! 人でなし!」
「暗殺者の言うことか」
「また殺そうとするわよ」
「丸腰でか」
「その辺の石や木の枝で殴りかかるわ」
「斬り捨てる」
「それがあなたを愛している女への仕打ち?」
「それが愛しているから殺しに来たと吐く女の言葉か」
「待って! ねえ、待ってったら!」
ピュートドリスは慌てて駆けた。木を押しのけて曲げるほどの勢いで、彼の行く手にまわり込んだ。だがティベリウスはそれをさらに押しのけた。その腕に、ピュートドリスは漂流者のようにしがみついた。
「殺さないと誓うわ。天におわすどの神々にでも、喜んで。少なくともしばらくのあいだは」
「やめろ。もうあなたからはなにも聞きたくない」
「待ってよ! 私を連れていって! せっかくこうして会えたのに! 愛しているのに!」
「やめろ」
「どこまでだってついていくから!」