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ピュートドリスとティベリウス  作者: 東道安利
第一章 初恋の人
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第一章 -16



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 食卓に飛び乗ったとき、すでに再び剣を手にしていた。食べ尽くされた銀の大皿。その真ん中に右足を乗せ、鞘から刃を抜き放つ。あえて一瞬間を取った。自覚してもらわねばならないからだ。これから殺されることを。目に焼きつけてもらわねばならないからだ。これから殺す女を。

 当の男は、両腕を広げたまま口をぽっかり開けていた。目もまんまるにしていた。ピュートドリスもまた、愛する男が最期に見せる表情を目に焼きつけたつもりだった。

 しかし思わずぎゅっと目を閉じた。自らの最期に思い浮かべたい顔は、これではなかった。あ然とされるのは想定内である。だがもっとなにか、品格ある表情を期待していた。すでにかすんで死に絶えた、あの初めての日のような。

 会わなければ、永遠だったものを。

「うわあああああっっ!」

 標的が悲鳴を上げた。そんな間まで与えるつもりもなかったし、聞きたくもなかった。ピュートドリスは飛び上がった。恐怖に引きつった顎の下を目がけ、刃を振り下ろす。

 だがやはり遅かった、刃は男の髪の一部と花冠のみを切り落とした。ピュートドリスは宙にいながら舌打ちした。そのまま臥台の背を蹴り、それを飛び越える。臥台がひっくり返る。その傍らで、標的はあわあわと這おうとしていた。惨めな背中だ。かつてあれほど気高く見えたのは幻だったのか。ピュートドリスは臥台の縁を踏み、再び飛んだ。

「っ!」

 切っ先は地面をえぐっていた。その真横には少年の真っ青な顔がある。少年の下に潜り込み、標的は全身を震わせていた。

「や、やめろおおおおおっっ!」

 叫び声とともに、少年がピュートドリスへ突き出された。ピュートドリスはただでさえ無理に狙いを逸らしたせいで体勢を崩していた。少年と臥台に挟まれ、倒れ込む。

「なんだ! なんだ! なんなんだああああっ!」

 わめき散らしながら標的が逃げていく。

「待ちなさい! 卑怯者!」

 すぐさま少年を押しのけ、ピュートドリスは起き上がった。もはや無様のひと言につきる背中へ、先に憤怒の情をぶつける。追おうとする。

 だが行く手に傭兵が立ちふさがった。見張りに立っていた小柄な用心棒だ。当然だ。でなければなんのためにいるのか。

 ピュートドリスは傭兵たちとまともにやり合うつもりはなかった。殺せればいいのだ。ただ一人を。

 その用心棒はとりあえず体を割り込ませただけで、まだ構えきれていなかった。姿勢を低くしたまま、ピュートドリスは相手の剣を自分のそれで払いのける。そのまま脇をすり抜けていく。

 背中はまだ逃げていた。ピュートドリスは上から下へ一直線に斬りつけた。だが手ごたえは軽い。皺だらけのトーガだけ、音も無く二つに裂けていく。

「ひいいいいいいいいっっっ!」

 しかし裾に足を絡めとられたのだろう。標的はつんのめった。左半身を三人用臥台にぶつけ、転倒する。ピュートドリスは終わったと思った。今度こそその背中から心臓を貫くべく、切っ先とともに体当たりする。

 だが倒れる間際、標的は別のトーガにしがみついていた。引きずられ、切っ先の前に現れたのは金髪の男だった。

 ローマ人。もう止まらなかった。なんの表情も浮かべられないまま、彼はえぐられるのを待っていた。

 どこかで悲鳴が聞こえた気がした。

 刹那、ピュートドリスは横ざまに飛ばされた。地面に転がる。なにが起こったかわからず、顔を上げると、そこに最初の用心棒の青ざめた顔があった。ピュートドリスにのしかかり、汗を一粒落としてくる。

 刺されたと思った。そのようにされるのが当然だと思った。だがなんら痛みも脱力も感じなかったので、ピュートドリスは初志に戻ることにした。

「退きなさい!」

 左手で顎を力いっぱい押しやった。だが彼はすでに退きかかっていたかのように、すんなりと上体を起こした。ピュートドリスの反撃を考慮しなかったのだろうか。彼はそのまま顎先をぐるりとまわした。そこにはまだ金髪の男が茫然自失の体のまま、無傷でいた。

「ルキリウス!」

 その男の上に、茶髪のローマ人が覆いかぶさる。さながら亀の甲羅のように固まる。

 用心棒はうめきながら立ち上がった。

 悲鳴が聞こえた。遅ればせながら、セレネ叔母だ。

「ピュリス!」

 わかっていた。前方から、右手から、傭兵たちが迫りくる。その隙間に、標的がほうほうの体で我が身を割り込ませる。

「逃げるな! ティベリウス・ネロ!」

 喉も裂けんばかりに、ピュートドリスは怒鳴った。

「あなたは私に殺されるのよ! そのために生まれてきたの!」

 ピュートドリスの剣は傭兵のそれと交差していた。力でかなうわけもない。じりじり押され、身動きがとれなくなる。

「待って! ティベリウス!」

 この男は死ぬべきだった。どうせ流罪人だ。邪魔者だ。いずれガイウスかロリウスにでも殺されるのだ。ならばここで死ぬべきだ。これ以上恥をさらす前に。品格を下げる前に。ほかの男なら許される生き方であろう。だがティベリウス・ネロにだけは許されない。絶対に、絶対に許されない。

 死ぬべきだ。そして、このわたしが殺すのだ。

 一人を受け流し、転がしたが、すぐさま別の一人に取って代わられた。背中は遠ざかる。おたおたと、かつて愛おしいと思ったはずの後ろ姿が。

 ピュートドリスは顔を真っ赤にしていた。目を血走らせ、涙さえこぼしていた。

 右から傭兵と軍団兵たちが剣を振り上げてくるが、なす術がない。

 ここで死ぬのだ。私だけが。犬死もいいところだ。

 私の愛は、結局なに一つ叶わないまま終わるのだ。

 永遠を願っていた。なにもかもそのためだったものを――。

 だが右からはなんの攻撃も受けなかった。ピュートドリスが恐る恐る横目を流すと、そこに最初の用心棒がまたいた。グラディウスによく似た剣を抜いている。やるならさっさとやれと叫びかけ、あっけにとられた。彼が仲間たちを次から次へとなぎ倒していた。

「ちょっ――」

 ついにはピュートドリスの相手へも一撃見舞った。兜を打たれ、相手は吹っ飛び、臥台に叩きつけられた。死んではいないだろうが、気を失っただろう。

 それから用心棒は腕をピュートドリスの腰にまわした。ぐいと大きく後退し、次の瞬間にはピュートドリスごと飛び上がり、食卓に乗っていた。

「走れ!」

 肩を押された。ピュートドリスはよろめき、そのまま食卓の反対側へ下りた。わけがわからず、振り返ると、用心棒は彼女に背を向けるところだった。

「走れと言っている!」

 用心棒は声を張り上げ、同時に大皿の縁を思いきり踏んだ。大皿が浮き上がり、傭兵三人を一度に足止めする。さらに剣を薙ぐ。

 ピュートドリスはまだ固まっていた。食卓の上で、用心棒の頭が瞬時だが右に動き、左に動いたようだった。セレネ叔母とデュナミス、金髪の男と茶髪の男、そしてその前に体を割り込ますローマ軍団兵。

 用心棒はうめいたように見えた。それから振り返り、今度はピュートドリスへはっきりと苛立ちの声を漏らした。食卓から飛び、鷲の翼のように左腕を伸ばす。ピュートドリスを覆うように、肩へぶつけてくる。

「走れ! 死にたいのか!」

 その鉤爪でピュートドリスの手首をつかみ、強引に滑り出した。ひととき足をもつれさせて、ピュートドリスも駆けだした。

 仰天のアポロドロスだった。女王クレオパトラは神君カエサルを誘惑することに成功したが、失敗した場合はどうするつもりだったのだろう。このアポロドロスは、女王を敷物でくるみ直してとぼとぼと帰ろうなどとはさらさら考えないようだ。

 ピュートドリスは夢を見ている心地がした。

 階段を跳ね下りる。前方ではすでにあちこちで悲鳴が上がっていた。主に女たちだ。男たちはだいたい口を開けたまま固まっていたが、なん人かはさすがにここにいる名目を思い出したようだ。武器を手に立ち上がろうとした。

 だがアポロドロスにより、瞬く間に次々と寝かされていった。ピュートドリスも途中から我に返り、自らの剣の存在を思い出した。けれども利き腕はアポロドロスに捕まえられていたので、ただ柄を握り直しただけだった。

 ふいに手首を放された。そしてつんのめる間もなく、小脇に抱えられた。アポロドロスは横ざまに飛んだ。するとピュートドリスがいた場所に槍が降ってきた。

「やめろ!」

 後方でだれかが叫んだ。

 ピュートドリスの両足が地面に戻る。アポロドロスは振り向きざまに剣を振るい、次の投げ槍を逸らしたところだった。ピュートドリスの目にも追跡者たちが映った。

「行け!」

 アポロドロスに肩を押された。ピュートドリスはためらい、そのあいだに飲んだくれの一人を踏んづけた。

「ぎゃっ!」

「早く!」

 すでに次の槍が飛んできていた。アポロドロスは追跡者たち向かっていく。

 ピュートドリスは踵を返した。女王はアポロドロスの忠義を無下にはできない。忠義を受ける覚えはないにしても。

 前方では女たちが逃げ惑っていた。多くが広場周囲の茂みへ飛び込もうとしていた。賢明だ。だれもかれもがピュートドリスのために道を開けようと必死に見えた。

 目指すものはわかっていた。あとは広場の入り口に、誰何してきた大柄なほうの用心棒が残っている。

 一人だけならなんとかする自信があった。しかも相手はまだあっけにとられて立ちつくしている様子だ。ピュートドリスは利き腕に剣を持ち替えた。

 しかしそのときだった。左右から一人ずつ、武装した男たちが現れたのだ。

 赤ら顔をしていなかった。おそらくアポロドロスと同様、この祠周辺に配置されていた見張りだろう。ピュートドリスは唇を噛んだ。止まるしかなく、にらみ合う間もなく両方に剣で迫り来られた。二刃をかろうじて退ける。再度の攻撃が来る前に、ピュートドリスは手持ちの剣を投げつけた。一方の腿に刺さり、うめき声とともに動きが止まる。

 ピュートドリスは丸腰になったわけではなかった。キトンの裾をたくし上げ、短剣を取りだそうとする。

 だがもう一方がすぐに剣を突き出してきた。刺されたほうも、怒りで顔を赤らめながら剣を振りかぶる。同じ手で復讐するつもりであるのは明らかだった。

 ピュートドリスの肩をなにかがかすめた。それが剣を振りかぶる一方の顔面に突き当たる。槍だった。ただし柄が先だ。相手はひっくり返る。残る一方は剣を突き出す腕をつかまれ、宙を舞い、地面に投げ落とされた。その手から剣を蹴飛ばし、腹を踏みつけ、アポロドロスはもう一度ピュートドリスの手首を引いた。いつの間にやら剣は鞘に収まり、代わりに投げたばかりの槍を拾い上げた。

 大柄なほうの用心棒には、十分な時間が与えられたはずだった。しかし彼は槍を掲げて迫るアポロドロスを前に、もはや逃げ腰だ。剣刃が届くはずもない。その喉元を槍の柄で突かれ、胴体を薙ぎ払われるまで刹那もなかった。

 アポロドロスは足を止めた。振り返ってピュートドリスを放し、さらに離れるよう押しさえし、肩の上に槍を構えた。張り詰める胸筋。胸当ての上からでも、そのたくましさ、美しさが窺い知れる。どこの都市の出身にしろ、だれかが彼をオリュンピアへ連れていくべきであるように思われた。投げられた槍は追跡者たちの只中に落ちた。

 ピュートドリスは自分がすべきことを忘れていたわけではなかった。愛馬に駆け寄り、木に結わえられた綱を解く。

 来た道は、馬を走らせたくはないものだった。枝が茂り、乗っている人間まで危険だ。だがやむを得ない。手を貸してくれる奴隷はいなかったので、ピュートドリスは木の瘤に足をかけてその背へよじ登ろうとした。

 ところが、アポロドロスがやってきた。彼は首を振った。馬の手綱を引き、ピュートドリスを促す。走る。

 鬱蒼とした枝のアーチをくぐって百歩ほどか。そこで彼は皮紐から鞭を抜き、馬の尻を思いきり打ったのだった。

 馬は猛然と駆けていった。アポロドロスもピュートドリスの手を引き、猛然と走った。ただしそこは道なき道だった。藪へ突っ込み、森へ入る。ずんずん進む。

 次から次へと行く手に木が現れた。ピュートドリスはそれを避けるので必死だった。少し待つようアポロドロスに言いたかったが、そんな隙はなかった。彼はピュートドリスが木にぶつかって瘤の一つや二つこしらえようと、枝葉であちこち切り傷を負おうと、かまわない様子だった。彼もまた必死で先を急いでいたのだ。歯を食いしばっているのが見えた。鼻筋を汗が伝い落ちていた。

 ふいに足の置き場が無くなった。

 ピュートドリスは短い悲鳴を漏らした。尻餅をつき、ずるずると落ちていく。

 土手の上にいたなど知らなかった。しかも相変わらず木は伸びている。ピュートドリスはアポロドロスを引きずりながら追い越した。木にぶつかる間際に引き寄せられたが、アポロドロスもまた尻をつかずとも滑り落ちていた。右肩を木にぶつけた。次は左肩だった。最後にピュートドリスを抱え込みつつ、背中を木の幹に叩きつけた。それで、止まった。

 彼の肩越しに、ピュートドリスは恐る恐る下を見た。枝葉の隙間から、沢らしきものが見えた。

 動くと良くないことはわかった。アポロドロスは幹の上でかろうじて平衡を保っていた。右足を土手に突っ張り、左膝を曲げて幹に添えている。

 それでもピュートドリスは、今度は上を見ようとした。そろそろと、極めて慎重に肩と首をまわす。

「しゃべるな」と、アポロドロスはささやいた。

 上では、多くの人間の声がした。怒鳴り声ばかりだ。踏み鳴らす音も聞こえたが、これは人間ばかりではない。何頭もの馬の蹄がそれに加わっているようだった。枝の折れる音も聞こえたが、近づいては来なかった。とりあえずは。

 声も音も、次第に遠ざかっていく。ピュートドリスの愛馬が消えた方向へ流れていく。

 やがて完全に気配が失せた。あとに残ったのは、こすれ合う木々の音と、二人の人間の呼吸音のみ。

 ピュートドリスの耳の下で、皮の胸当てが上下をくり返していた。白い首筋から汗が匂い立った。もうしばらくこうしていてもいいと思ったが、ピュートドリスはそっと頭をもたげた。無精髭の顎と唇が微動していた。

 甦りしアポロドロス。背信の用心棒。オリュンピアの槍投げ優勝候補。どこのだれであれ、とにかく言いたいことが山ほどあった。その胸に、ピュートドリスは両手をついて上体を起こした。

 だがその瞬間だった。彼の背後でめきりと音がした。彼がぎょっとしたのがわかった。折れたのは彼の背骨ではなく、木の幹のほうだった。

 二人はまたもや転げ落ちた。アポロドロスはピュートドリスを抱え込み、体じゅうをあれやこれやに打ちつけながら、ただぐるぐるまわり続けた。ピュートドリスもまたされるがままでいたが、大変心外だった。私の体が重いとでも言いたいのか、あの木は。

 落ちるところまで落ちた。沢辺の苔むした岩の上に、アポロドロスの背中が広がった。

 皮の胸当てが、ひときわ大きく上下した。腕が力なく解かれ、ピュートドリスはもう一度上体を起こした。アポロドロスはぐったりとしていた。気を失ってはいない。痛みに顔をしかめているわけでもない。ただ、もうなにもかもにうんざりしたとでも言うように、体を投げ出しているだけだ。

 胸当てを着ていて幸いだった。兜は何か所もへこみ、ずれていた。そこから一対の目が覗き、茫然と、大空を映している――。

 否、そうではない。

 ピュートドリスは兜の縁に手をかけた。呼吸を止め、永遠に思える時間を味わう。そっと兜を脱がす。

 赤みがかった茶髪。青い双眸。

「あなたね!」

 ピュートドリスはその唇を奪った。歓喜の瞬間。夢の成就。史上のだれにも優る幸福の享受。

 そしてキトンの裾をまくり、短剣を振り上げた。








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