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ピュートドリスとティベリウス  作者: 東道安利
第一章 初恋の人
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第一章 -15



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「長くの非礼、お詫び申し上げますわ」

 微笑みを浮かべたつもりだった。ピュートドリスはゆっくりと前進した。顔はまっすぐ正面を見据えたまま、腰の剣帯をするりと外していく。

「ですがこのピュートドリス、とうとう長年の悲願を成就させる決心をいたしました。あなたにお会いすることです、ティベリウス・クラウディウス・ネロ殿」

「悲願とな?」

食卓を挟んで向こう側で、当の男はいささか大げさに首をかしげた。その拍子に皮膚が触れ合ったのだろう。左脇の少女がびくりと跳ねた。 

「そうですとも」

 頭を動かさずにピュートドリスは言った。確かに、赤みがかった茶髪だ。今はその上に花冠をかぶっている。オリーブの冠ではないが、まるですでにオリュンピア競技祭で優勝したとでも言いたげだ。それともこの広場の本来の主であるディオニッソスにでも成り替わったつもりか。

 剣帯を外した。

「二十年、この日を夢見ておりました」

「二十年?」

 当の男は、今度は反対側に首をかしげた。それで右脇の少年が、思わずといったように上体を反らした。当の男にさらにぐいと引き寄せられたが。

「覚えていらっしゃらない?」

 ピュートドリスは眉尻を下げた。男はほかの連中と同じように赤ら顔をしていた。髭はきちんと剃っているが、肌は荒れているように見える。トーガは寝乱れたようにしわくちゃだ。だがその下から覗く腕はがっしりしている。

 否。食卓へ近づき、ピュートドリスは下げた眉尻を一瞬つり上げた。当の男はこれ以上人体に不可能なくらい大股で座し、もはや下着が見えそうだった。その両足はがっしりしているというより、太い。それでいて張りがない。ベルトの上に段を作って載っている腹肉と同じように、たるんでいる。

 ピュートドリスはきつく目を閉じ、また開けた。ポレモンの肉体を思った。アルケラオスの肉体を思った。眼前の男は決して彼らに劣るわけではないと、自らに言い聞かせた。

 彼は大柄だ。貫録があるとも言える。四十男としてはごくありふれた肉体であるはずだ。だがひどくだらしなく見えてしまうのはなぜなのだろう。

 きっとごくありふれた肉体を期待していたのではなかったからだ。そして、肉体うんぬんよりその置き方があまりに下品に見えるのだ。

 どうして、こうなってしまったのか――。

 右手で鞘を握り、正面へ突き出した。

「二十年前、わたくしはあなたとお会いしているのですよ」

 目は。せめて目は――。

「そうなのか?」

 当の男は、少年の髪へ顎をうずめた。少年はかすかに震えているように見えた。

「…となると、アルメニアのときだな? あのときは大勢の客に会ったからな……」

 少年と少女の腰まわりをしきりにさすりながら、当の男は思いを巡らせている様子だった。

 ピュートドリスはいささか乱暴に、剣を食卓の端に置いた。その刹那、真正面に浮かぶ一対の瞳を鋭く一瞥する。

 その目玉は上に向かい、記憶を探るそぶりをしていた。青く、見えなくもない。だが沼のようだ。緑色によどみ、臭気まで漂ってきそうなほどの、沼。

 これが、四十一歳のティベリウス・ネロ。

 熱い血液が、滝と化して全身を流れ落ちていくようだった。そのまま地面に叩きつけられ、散り果て、二度と戻らない。

 剣を置いた姿勢のまま、ピュートドリスはしばし固まっていた。倒れなかったのが我ながら不思議だった。

 なにが――。いったいどうして――。

「父のピュートドロスが、わたくしと弟を紹介したはずです。あのマルクス・アントニウスの孫だと」

「そうであったかな」

 男はふっと笑みを漏らした。あっさりと、初めて笑い顔を見せた。

「再会を心待ちにしておりました」

 硬い口調でそう言い、ピュートドリスは剣を離した。

 覚えられてもいなかった。背後へ五歩ばかり下がったつもりだったが、両足が煙と化したように感覚がない。

 わかっていた。彼の頭の片隅にもない存在だということは。だが、せめて、思い出して欲しかった。

「うれしいことを言ってくれる」

 彼はまた笑った。

「そなたの悲願が、この私ということだな? ではなぜ六年も焦らしたのか、教えてくれ」

「恥ずかしかったんですのよ」

意識的に頬を赤らめられるのなら、ピュートドリスはそうしてみせたつもりだった。

「あなたがあまりにも恋しくて」

「私は六年前のそなたに会いたかった」

 愛の告白を、その男はあまりにもあっさりと聞き流した。笑みを意地悪く深めてもいた。

「さらに言えば、二十年前のそなたにこそもう一度会いたかったものだ」

 ピュートドリスもまた笑っていた。目尻を下げ、口角を上げ、精一杯笑ったのだ。

「ピュリス……」

 右を見ると、そこにセレネ叔母がいた。デュナミスと二人、並んで臥台に体を預けている。

 無事でいてはくれた。だがひどく心配そうな顔をして、全然元気に見えない。当たり前だ。こんな下品な宴に加えられているのだから。世話役が侍女一人だけなど、ありえない。ほかのお供はどこに行ったのだろう。臥台に寄りかかる赤ら顔に、今にも絡まれそうだ。背後の傭兵どもが守ってくれるのか。確かに彼らは見張っていた。主人以外の、この場にいる全員に目を光らせているように見えた。これでは宴も興醒めではないか。もともとそんなものはないにしても。

 かわいそうに、セレネ叔母は捕らわれの身に見えた。見張られていなければ、今にもピュートドリスに飛びついて、大声で泣き出しそうだった。

 泣かせてあげたかった。彼女には思いきり泣く権利があった。だが今はもうこちらがすがりつきたい。

 叔母様、この人が、私たちのあこがれた男なの? 叔母様はこの人のために怒っていたの?

 この二十年、叔母様は彼に何度も会ったはずでしょ? どうして、どうして事実を話してくださらなかったの? 私の夢を壊すまいとしていたの? それとも私の耳が、聞きたくない事実を聞いていなかっただけなの?

 これが、私たちのティベリウスなの?

「だが、今のそなたも決して悪くはないぞ」

 遅ればせながら、彼はなぐさめを入れてきた。「悪くはない」という言葉は隣にいる男からも聞いたが、「決して」と強められるとかえって傷になるとわかった。

「特に、この宴の場では。なにしろ私の友人は男ばかりで、あとは見ての通り、六十と四十の、すでに女であることを終えた二人ばかりだからな」

「まあ、ひどいわ、ティベリウス!」

 しばし呆けていたようなデュナミスが、ようやく我に返ったかのように明るく突き抜けた声を上げた。

「そんな言い方をなさらないで! 年を取っても女は女なんだから。あんまり意地悪をすると思い知らせて差し上げてよ」

 あなたもよ、デュナミス。

 ピュートドリスは胸中でうめいた。

 あなたもこんな男を思って、まるで少女に戻ったみたいにはしゃいでいたわけ?

 だれもかれも、私をだましていたみたいじゃない。

「おお、怖い」

 その男はおどけたように、ピュートドリスへ両手のひらを広げて見せた。

「軽率な冗談は慎むとしよう。女は男には想像もつかない方法で復讐してくるからな。例えばかの女王クレオパトラは、アントニウスの花冠に毒を塗りつけていたと聞く。女には優しくせねばな、女王陛下。したがって私は、そなたを寛大にも許そうと思う」

「ありがとうございます、ネロ殿」

 ピュートドリスは平淡に言った。

「そなたが許しを乞うならばな」

 にやりと口元を歪め、彼はつけ加えた。

「そばへ来い。私に接吻せよ」

 ピュートドリスが思わず震え上がったのを、ほかの者たちは見て取っただろうか。この場の注目を一身に集めていることはわかっていた。デュナミスとセレネ叔母も、その向かい側の臥台にいる男三人も、軍団兵も傭兵たちも、全員がピュートドリスの立つ場所を見ている。

 歓喜の震えだと思われただろうか。実際、そうなるはずだった。

「どうした?」 

 当の男はどの種の震えか訝っているようだった。

「私が恋しかったのではないのか?」

「そうさせていただけたらと思いますが、ネロ殿」

 ピュートドリスは笑みがひくつくのを自覚していた。

「お隣に置かれている者たちで十分ではなくて?」

「ああ、これらか」

 彼は先ほどからさんざん撫でまわしている少年少女の尻を叩いた。

「嫉妬しておるのか?」

 だれが。

「なに、それこそそなたの祖父アントニウスにあやかっているだけのことだ。孫ならば知っておろう。そなたの祖父は美しいとあらば男でも女でもかまわず我がものにした。ディオニッソスの化身にふさわしくあるためにな」

 ピュートドリスはつい口元をしかめてしまった。実際、その種の噂はあったし、別に祖父に品行方正を期待してもいない。

 だが、目の前で震えているか弱き者たちへの行為を正当化するために、祖父を出しにされたくはない。

「女の尻に敷かれたあの情けない男でさえ、そうして神に近づこうとしたのだ。ならば私はいっそう神に近づくにふさわしい。そう思わんか?」

 思いたかった。だがたとえ事実であっても、実の祖父をけなされてそう思えるだろうか。

「思うわ、ティベリウス」

 ピュートドリスが黙しているうちに、デュナミスが返答する。

「さしずめあなたは軍神アレスかしら。アポロンはすでにアウグストゥス様についていらっしゃいますものね」

「なぜゼウスと言わぬ」

 彼は気を悪くしたらしく、デュナミスをにらみつけた。

「我らローマ人の最高神ユピテルと言わぬ。私は、いずれその化身であることを世に知らしめるつもりであるぞ」

「ごめんなさい」

 とんでもない思い上がりに対し、デュナミスはあっけなく自分の非を認めた。

「まあ、よい」それで、男は鼻を鳴らした。

「ひとまずはアレスでかまわん。嫉妬深い妻に追いまわされるよりか、アフロディーテとの情事を取り押さえられるほうが愉快であろう。なあ、友らよ?」

 すると男三人が、臥台の上で一斉に跳ねた。それまで一様にぽかんとしてピュートドリスのほうを見ていたのだが、ようやく友人の存在に気づいたとでも言うように、はっと視線を返した。

 トーガ姿の金髪と茶髪はローマ人で、端に腰かけているのは解放奴隷か。

 ちょっと待って、とピュートドリスは目をしばたたく。茶髪のほうのローマ人は、どこかで見た覚えがある。ごく最近だ。確か、ガイウス・カエサルの側近の中にいなかったか――。

「ええ、ええ、ネロ…」

 その茶髪の男が、小さくうなずきながら答えた。

「わかっておるな、ファヴェレウス」

 友人は満足げにうなずき返し、それからもう一度ピュートドリスへねっとりとした目線を向けてきた。

「女王陛下、そなたはヘラにならずともよい。それよりも私のアフロディーテになる栄誉を授けよう。この場ではそなたがもっともふさわしかろう」

 ピュートドリスはすでにアフロディーテの気分だった。常に裸でいることは、神である証だ。茶髪の男はすでに頭の片隅に押しやっていた。眼前の男に視線だけで衣服を剥ぎ取られる、その恥辱に耐えるのに必死だった。

「見せつけてやろうではないか、この場の者たちに。そして全裸で取り押さえられたアレスこそうらやましいとの感想を、大いに吐かせてやろうではないか」

 ピュートドリスは大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。それから決然と顎を上げ、足を前方へ動かす。

 別の視線が突き刺してきた。そのうえ行く手に腕まで差し入れられた。たどると、そこに最初の用心棒がまだいた。兜の下の眼光だけで命じてきた。行くな、と。

 ピュートドリスはその腕を押しのけた。

「おそばへ参ります前に、ネロ殿」

 二歩のみ進んで、ふと思いついたように止まる。

「あなたはひょっとして、もう結婚なさっているのではありませんの?」

「なんのことだ? 私はあの淫乱妻と、二年前にめでたく離婚したのだ。知らんのか?」

「存じております」

 ピュートドリスは微笑んでうなずいた。

「ですが私のセレネ叔母が、あなたと結婚すると手紙に書いてきたものですから」

「そうであったか」

 男も微笑み返してきた。よく笑う男だ。

「安心しろ。こちらにそのつもりはない。なにしろまだユバとは離婚しておらんようだし、私としても、どうせならもっと若い女と再婚するつもりだ」

「賢明な判断ですわ」

 額に青筋を浮かべつつ、ピュートドリスはにこにこした。

「なにしろすでに噂になっておりますから。ティベリウス・ネロ殿が、かの女王クレオパトラの娘に籠絡されたと。そのままギリシアへ向かい、兵を挙げ、アウグストゥスへ反旗を翻すつもりであると。わたくしの祖父アントニウスのように」

「ほう、それは……面白いな」

「ええ、面白いですわ」

 美化とは恐ろしい。初恋の美化だ。それも二十年の長きにわたって塗り重ねられた。

 今ならば、マルクス・ロリウスの気持ちがわかる。

「愛していますわ、ティベリウス・ネロ」

 ピュートドリスは歩み出した。我が笑みが輝いていることを願いながら、その一瞬に向かう。

「二十年間、ずっと。だれよりも、真剣に、愛していますわ」

 やっと伝えられた。

 もう戻らない。でも変わりたくはない。この心だけは。

 その言葉は、当の男が恍惚とした表情を浮かべるだけの力を帯びていた。彼は傍らの少年少女を突き飛ばした。そのまま両腕を大きく広げる。

 ふくれた指。濁った瞳。

 アルケラオスは間違っていなかった。

「だから――」

 ピュートドリスは踏み込んだ。

「死んで頂戴!」








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